2026年1月11日 顕現後第一主日

「天は開いている」

【新約聖書】マルコによる福音書1章9~11節

主イエスはベツレヘムで誕生され、ナザレという町で成長されたと聖書は記しています。ただし、主イエスがメシア(救い主)として人々の前に登場されたのは、イスラエルの北から南へと流れるヨルダン川が死海に注ぐあたりです。死海で主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになります。マルコの福音書ではこの出来事をもって主イエスの生涯を書き始めています。

主イエスが洗礼をお受けになった死海周辺は、地理的には海面下400メートルに位置し、世界でもっとも低い場所だといわれます。世界でもっとも低い場所で、いと高き神の御子である主イエスは身を低くして洗礼をお受けになりました。洗礼を受ける必要のまったくない、罪とは無縁の聖なる神の御子が、身を低くして洗礼をお受けになったのです。この出来事をとおして、主イエスは大切な真実をわたしたちに語っておられます。

主イエスがヨルダン川に身を沈めて、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時に、天が開き、聖霊が下り、開かれた天から父なる神の言葉が注がれました。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ(新改訳)」。主イエスは、ご自身が洗礼をお受けになることによって、わたしたち人間の原点を示してくださいました。わたしたちが真実の神を神としてあがめ、神の前に身を低くする時に、開かれた天から真実の神の言葉が注がれます、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。

わたしたちはひとりひとり、どのような状況に置かれようが、神さまの目にはかけがえのない、唯一無二の高価で尊い、ひとりの人間です。これが人間の原点です。しかし真実の神を知らなければ、神の愛がわからず、わたしたちは自分がどれほどかけがえのない、高価で尊い存在であるのか、わかりません。真実の神を知らなければ、自分という人間の原点はわかりようがありません。

真実の神は、御子イエス・キリストのご生涯をとおして、わたしたち人間へのご自身の愛を示されました。主イエスは真実の救い主として、言葉によらず、実際の行動をとおして、真実の神の愛をわたしたちに伝えてくださいました。主イエスが洗礼をお受けになったという出来事も、神の愛をわたしたちに伝えるための出来事でした。

天は開いています。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。真実の神の前にひれ伏し、キリストを信じる者には、開かれた天から、聖霊が下り、神の愛が注がれます。この地上で、どのような状況に置かれようが、天は開いています。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。開かれた天から、いつも注がれる主なる神の言葉を聴き、自分を生きます。開かれた天を仰ぎながら、真実の神の言葉を聴きながら、一日一日、胸をはって、新しき年も存分に歩みぬきましょう。アーメン


2026年1月4日 降誕節第二主日

「共に歩む」

【新約聖書】マタイによる福音書2章1~12節

毎年、年頭の最初の礼拝ではマタイの福音書2章の冒頭の出来事を読みます。博士たちと呼ばれる人たちはイスラエルの律法で禁じられていた星占いをする人たちでした。別の聖書では「占星術の学者たち」とも訳されています。彼らはイスラエル人ではなく、異邦人でした。当時のイスラエル社会において、神の祝福からもっとも遠い存在と思われていた異邦人が、しかも星占いをする異邦人が、キリストの誕生の場面で主役級で登場し、本家本元のイスラエルの人々を差し置いて、主なる神の祝福を受けています。

神の都エルサレムまで千キロ以上もあるバビロンという町から旅をしてきた彼らは、エルサレムに着いて言いました。《わたしたちは東の方で星を見たので、やって来ました》。彼らが見た星の光とは、もちろんふつうの星の光ではなく、主なる神の光です。神の光を見た彼らの魂はふるえ、神の光が彼らの魂に焼き付きました。彼らはバビロンではそれなりの地位も名声も財産もありました。そのままバビロンで生涯を終えてもよかったはずです。わざわざ危険を冒してまで千キロもの旅をすることはありませんでした。しかし主なる神と出会い、主の光を見た人は、そのまま放っておくことはできなくなります。主の光に導かれ、光の正体を求めて、旅を始めます。求道の旅です。もし何もしないまま、そのまま放っておいたなら、必ず、あとになって後悔することとなります。

博士たちも一度きりの生涯、悔いのない生涯を歩むために、主の光に導かれ、旅を始めました。旅の途中、肉眼では星がいつも見えていたのではありません。しかし彼らの魂の目にはいつも星が輝いていたに違いありません。東方で見た主なる神の光が彼らをいつも導き、励まし続けました。さらに彼らが旅を最後まで続けることができた理由として、もうひとつ大きな理由があります。それは《ひとり旅ではなかった》ということです。伝承によれば博士たちは三人でした。星の光が魂に共に焼き付いている三人が一緒に旅をしました。旅の途中で様々な苦労や不安があっても、お互いに励ましあうことができました。旅の苦労を分かち合える友がいる、これはじつに大きなことです。

2026年、わたしたちに与えられた神の言葉は《わたし(キリスト)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネによる福音書13章34節)》です。東方からきた博士たちには互いに愛し合い、旅の苦労を分かち合える旅の仲間がいました。互いに励まし合いながら、過酷な旅を続けることができました。あなたも、わたしも、ひとりではありません。人生という長旅を、いつもキリストが共に歩んでくださっています。そしていろいろな人と共に、助け合いながら、励まし合いながら、歩んでいます。さあ、新しき年も、互いに愛し合いつつ、互いに支え合いつつ、一日一日を歩んでまいりましょう。メメント・モリ《次はないかもしれない》を心に刻んで、主と共に、主を信じて歩んでいる人たちと共に、《よし、やってみよう!》と歩んでまいりましょう。アーメン


2025年12月28日 最終主日礼拝

「求めつづけなさい よし、やってみよう!」

【新約聖書】マタイによる福音書7章7節

家計簿を創案し、自由学園や友の会などの設立に尽力された羽仁もと子さんは17歳で洗礼を受けておられます。羽仁さんのことばです。「人間には二つの動力があります。一つは『よし、やってみよう』、もう一つは『やってもむださ』です。神によって創造された人間の本来の姿は『よし、やってみよう。今日も生きてみよう』です」。

「求めなさい」と言われたキリストの言葉は、原文を忠実に訳すならば「求めつづけなさい」です。一回や二回求めるだけでなく、ひたすら「求めつづけなさい」とキリストは言われています。ここで肝心なことはキリストは「何を」求めつづけなさい、と言われているのか、です。何でもかんでも求めつづけなさい、と言われているのではけっしてありません。

直前で、すでにキリストは言われています。《まず神の国と神の義を求めなさい》と。神の国と神の義とは、主なる神のみこころであり、キリストの愛であり、キリストの言葉です。神の国と神の義を求めつづけるとは、より具体的に言うなら、キリストの愛につつまれて、互いに愛し合いながら、何があろうとも、歩みつづけるということです。

ところが残念なことに、時代を問わず、場所を問わず、神の国と神の義ではなく、「自分の国と自分の義」を求めつづけている人たちがいます。「自分の国と自分の義」しか頭にない者たちが権力を握ると、間違いなく、混乱と争いが生まれ、多くの弱い立場の庶民が苦しむこととなります。キリストが「求めつづけなさい。そうすれば与えられるであろう」と言われた相手は、神を神とも思わない、愚かな権力者たちにではありません。キリストはそうした愚かな権力者の理不尽な行動によって、もがき、あえぎ、苦しんでいる弱い立場の人たちに「求めつづけなさい。そうすれば与えられるであろう」と言われているのです。なぜなら、苦しい状況に置かれると、わたしたち人間は弱いですから、「もう、やってもむだだ。もう、生きていてもむだだ。もう、何も変わりはしない」と、つい思ってしまい、人生をあきらめてしまうところがあるからです。

キリストは弱い立場にある人たちに、そして人生の様々ななやみや悲しみの中で苦しんでいる人たちに愛をこめて語りかけておられます。「あきらめてはならない。真実にふたをしてはいけない。神の国と神の義を求めつづけなさい。歩みつづけなさい」と。

人類を創造され、やがていつの日か、最後の審判を下される聖なる真実の神がおられます。神の御子キリストが共にいてくださいます。一度きりの人生です。御国に入れられるまで、神の国と神の義を求めつづけ、歩みつづけましょう。新しき年も、一日一日、キリストを眼前に仰ぎつつ、「よし、やってみよう。よし、生きてみよう」と存分に歩みましょう。アーメン


2025年12月21日 クリスマス礼拝

「キリストの誕生」

【新約聖書】ルカによる福音書2章1~21節

皇帝アウグストが勅令を出したゆえに、身重のマリヤはナザレという北の町からベツレヘムまで200キロもの旅をしなくてはならなくなりました。《どうして、このようなときに勅令が出るのか?》とマリヤとヨセフが思っても不思議ではありません。しかし彼らはその状況を受け入れ、《ガリラヤの町ナザレを出て、ベツレヘムというダビデの町へ上って行った》と聖書は伝えています。

ベツレヘムでは宿屋が満室で、泊まるところがありませんでした。ここでも《どうして泊まる場所がないのか?》と嘆いても不思議ではありません。しかし二人はその状況を受けとめ、ベツレヘムの町を歩きます。やがて家畜小屋をあてがわれます。《どうして家畜小屋なのか?》と不満に思っても当然ですが、二人は家畜小屋に身を置きます。そしてマリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼い葉おけの中に寝かせました。

皇帝の勅令も、ベツレヘムの宿屋が満室だったことも、そして家畜小屋でマリヤが出産しなければならなかったことも、二人にとっては大きな試練です。不安です。しかしいつも主なる神が自分たちと共におられることを彼らは知っていました。そしてなやみの中でこそ主なる神の導きを知り、なやみの中でこそ神の愛にふれ、マリヤとヨセフは歩みました。

今年2025年に豊浜キリスト教会に与えられた聖書の言葉は「求めなさい。そうすれば、与えられる。」(マタイ7章7節)です。クリスマスが伝えているメッセージとは、「人生のやみに包まれた時、やみを見るのではなく、やみの中に輝いている光を求めて、キリストという光を信じて歩む」です。真実の神、キリストは信じる者といつも共におられます。光であるキリストがいつも共におられす。何を思いわずらうことがありましょう。何を恐れることがありましょうか。マリヤとヨセフはどのようなやみに包まれたときも、彼らは神を求めつづけ、光を信じて、今、自分たちに出来ることをたんたんと果たしました。

なやみの中で、くよくよと思い悩んでも仕方がありません。「どうして?どうして?」などと問い続けても意味はありません。キリストという光であるお方は、やみの中にいつも輝いておられます。やみの中に輝いておられるキリストを信じて、開き直りましょう。「大丈夫、ニャンとかなる! キリストが共にいてくださるのだから!」。キリストが共にいてくださる自分に「私は私、これでよし!」と胸をはって、「よし! やってみよう!」と、きょうの自分を存分に歩みましょう。メリークリスマス! アーメン


2025年12月14日 待降節第三主日

「あなたはひとりではない」

【新約聖書】マタイによる福音書1章18~25節

聖霊によってマリヤは身重になります。聖霊によって身重になったと言われても、とても信じられるものではありません。ふつうに判断して、マリヤはヨセフ以外の男と関係を持ったとみなされ、当時の律法では死刑となります。ヨセフはマリヤを愛していました。なんとかマリヤの命だけは救いたい。そう思い、事を公にしないまま、ひそかにマリヤを離縁して、彼女がどこか遠くの村で生きていけるように考えました。

悩んだ末のヨセフなりの判断です。そうと決心はしたものの、なおヨセフは思いめぐらします。思いめぐらすとは、真実の神の導きを祈り求めるということです。ヨセフには、マリヤとひそかに離縁する以外に道はないと思えても、何か心にひっかかるものを感じたのでしょう。不安な気持ちと向き合い、神の導きを求めて、なお神に祈りつづけました。

 《ダビデの子ヨセフよ。心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい》。夢をとおして主なる神がヨセフに告げられました。ヨセフの判断とは正反対のことを主は言われました。マリヤの胎内に宿る子を自分の子として守り、育てるようにという主の言葉でした。《ヨセフは眠りからさめた後に主の使いが命じられたとおりにマリヤを妻として迎えた》とあります。神の導きを確信したヨセフにはもう迷いはありません。眠りからさめるとすぐに行動に移します。神の導きはわたしたちの心に確信を与え、心を平安でつつみます。

わたしたちの置かれている現実はすぐに白黒をつけることができない出来事であふれています。しばしば心は迷い、不安になります。真実の神を信じる者の救いは、不安でつつまれたとき、神に祈ることができることです。「主よ、今のわたしはどうしたらいいでしょうか? 主よ、今のわたしに出来ることは何でしょうか?」と神に祈ります。ヨセフも自分の不安と向き合い、おさなごのように主の導きを求めました。

主なる神は不安の中からわたしたちが祈り求めることを待っておられます。不安なときは、不安と真正面から向き合い、神の助けと導きを祈り求めましょう。主なる神はわたしたちの祈りに必ず、こたえてくださいます。ヨセフとマリヤがそうであったように、主なる神はこの自分を唯一無二のかけがえのない存在として愛し、導いておられることを知ることとなります。主なる神におさなごのように祈ることをとおして、不安は確信と平安に変わります。

キリストを信じる生涯とは、不安がなくなってしまう生涯ではありません。この世にある限り、わたしたちは様々な状況の中で不安をいだきます。しかしキリストを信じるとは不安と真正面から向き合い、おさなごのように不安な気持ちをそのまま主なる神に訴えることです。これが祈りです。主なる神はわたしたちの不安を確信と平安へと導かれます。不安が確信と平安へ導かれる。これがキリストを信じる者の生涯です。アーメン


2025年12月7日 待降節第二主日

「聖母マリヤ」

【新約聖書】ルカによる福音書1章26~38節

マリヤへの受胎告知の場面です。この時のマリヤはまだ十代半ばのおさない少女です。のちに聖母マリヤとして慕われるようになりますが、この時のマリヤはまだまだあどけない少女です。《恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます》と聞いて、彼女は《ひどく胸騒ぎがした》とあります。彼女は喜ぶどころか、ひどく不安を感じ、恐れます。無理もありません。いったい自分に何が起こったのか、とうてい理解できることではありません。

 《どうしてそんなことがありましょう》。どうして?とマリヤはたずねます。わたしたちも苦しみのなかで《どうして?》とつい叫んでしまいます。どうしてこんなことが? どうしてわたしに? どうして?・・・人生の荒野に投げ込まれたとき、多くの人がそう叫びます。どうして?と問いかけて、それなりに答えが得られることもあります。しかし苦しみのなかで、どうして?とばかり問いかけても、多くの場合は満足できる答えは得られません。むしろ闇につつまれてしまうことが多いものです。

やがてマリヤはある真実を知ります。その真実を知ることによってマリヤは《どうして?》と問うことをやめます。そして自分の置かれた状況を受け入れ、告白します、《わたしは主のしもべです。お言葉どおり、この身になりますように》。マリヤが悟った真実とは《主が共におられる》ということです。「自分はひとりではない。聖なる神が共にいてくださる」。そもそも天使ガブリエルは《恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます》と最初からマリヤに告げていました。

人生は荒野です。苦しみがあり、悩みがあり、悲しみがあります。病気にもなります。年齢とともに体のあちこちにガタがきます。人生の荒野で、わたしたちは《どうして?》とつい叫んでしまいます。たしかに原因追及は必要です。しかし《どうして?》と問いかけても前へは進めません。

 《どうして?》と問うことをスパッとやめましょう。その代わりに《どうする? 今、自分はどう生きる?》と徹底的に問いかけます。過去はこれからを生きるための踏み台です。過去を踏み台にして、《では、どうする? 今、自分はどう生きる?》と徹底的に問いかけます。そして主なる神の目に高価で尊い、唯一無二のかけがえのない自分を歩み続けます。何があろうとも、主なる神の目には《私は私、これでよし!》です。約束された天の御国を目指して、キリストと共に歩み続けます。きょうも自分を存分に歩みます。《よし、やってみよう!》  アーメン

2025年11月30日 待降節第一主日

「ひとあし、ひとあし」

【新約聖書】マタイによる福音書21章1~11節

キリストはろばの背に乗って神の都エルサレムに入場されました。まずキリストは弟子たちに言われました、《向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見る》。ろばはつながれていました。思えば、わたしたちもいろいろなものにつながれます。一年をふり返ると、それぞれが悩みや悲しみにつながれ、不安や思いわずらいにつながれたことを思います。そもそも生まれた時からわたしたちは死につながれています。まさにメメント・モリ、死を背負って生きているのがわたしたちです。

《ろばを解放して、わたしのところへ引いてきなさい》。ろばは解放されます。自由になります。キリストを信じるとは解放されることです。不安や思いわずらいから自由になることです。重い心が、ふっと軽くなることです。この一年も様々な思いわずらいにつながれたわたしたちですが、しかしキリストを信じ、余計な思いわずらいから解き放たれて来ました。まさにこの時のろばのように、です。

ろばはキリストを背に乗せて、神の都エルサレムまで歩きました。自分のペースで、ひとあしひとあし歩きました。サラブレッドのようにかっこよく、速く・・・ではありません。ろばである自分のペースで、ろばであることに誇りをもち、胸をはってキリストを背にしたろばは歩きました。このときのろばこそがわたしたちのお手本とすべき姿です。もしろばがウマのようにかっこうよく、せかせかと速く歩こうとしたら背に乗っておられるキリストは転げ落ちたでしょう。

人にはそれぞれ、その人にふさわしいペースがあります。同じ人であっても、年齢や体調によって、ペースは変わります。大切なことは、今の自分にふさわしいペースで歩むことです。昔の自分はもっと早く歩くことが出来たとか、もっと早く歩かないと自分はダメだ・・・などと思うのは的はずれです。今の自分に寄りそい、今の自分のペースで歩む。そしてお互いに今のペースを認め合い、今のペースに寄りそう。これがキリストが求めておられる愛です。自分を愛し、互いに愛し合うということです。まさにこの時のろばは、そのようにして神の都エルサレムまで歩きました。

わたしたちひとりひとりはキリストを背に乗せた「ろば」です。ひとあし、ひとあし、今の自分のペースでぼつぼつと歩く「ろば」です。無理して、急いだり、あせったりすると、背中のキリストが転げ落ちてしまいます。自分自身を見失い、隣人を見失ってしまいます。キリストを背に乗せて、天の御国を目指して、「わたしはわたし、これでよし!」と胸をはり、ひとあしひとあし歩きつづける「ろば」として、「よし、やってみよう!」と、きょうも自分を存分に歩みましょう。アーメン