2024年5月5日 復活節第6主日

「自分の実を結ぶ」

【新約聖書】ヨハネによる福音書15章12~17節

 「人間(自分)とは何か? 人間(自分)はどう生きるのか?」について、古来、哲学者たちや学者たちは思考をかさねてきました。しかしこれに対する答えは実に単純で明快です。福音書を記したヨハネは老境に達してからも語ることはただひとつのことでした。それは《キリストが愛しておられるように、互いに愛し合いなさい。それがキリストの言われた全てである》。

 人間(自分)とは何か。その答えは「人間(自分)とはキリストに愛されている、かけがえのない高価な存在である」です。人間(自分)はどう生きるのか。その答えは「キリストが愛しておられるように、互いに愛し合って生きる」です。愛するとは大切にするということです。キリストが大切にしてくださったように、わたしたちも互いに大切にし合う・・・ところが残念ながら、現実はこのキリストの言葉からかなり離れています。自分自身の歩みを振り返ってもそうです。キリストを前にして、正直なところ、穴があったら入りたい。皆さんはいかがですか?

 そんな弱く、愚かなわたしたちですが、キリストはそのようなわたしたちであることを最初からご承知です。《わたしがあなたがたを選び、立てた。それは、あなたがたが行って、実をむすぶためである》と言われます。立てたとは、倒れている者を立てるということです。わたしたちの歩みは、そもそも倒れているところから始まります。倒れているところから、キリストに抱き起こされ、わたしたちは立ち上がり、そして歩み出します。

 「自分は何がしたいのか、自分は何を願うのか」と考えるだけでは人生の実はむすべません。したいことや願うことがあっても、そのために何もしないのであれば意味はありません。重要なことは、自分がしたいことや願うことのために「きょうの自分に何が出来るのか?」を考え、実際に一歩踏み出すことです。行動することです。きょうの自分に出来ることを、それがどれほど小さなことに思えようとも、とにかく一歩踏み出してみます。一歩踏み出してみて、初めて見えてくる世界があります。踏み出さないかぎり、ぜったいに見えて来ない世界があるのです。

 もちろんわたしたちは失敗もします。倒れてしまうこともあります。何度もあります。でも大丈夫です。キリストは何度でも抱き起こしてくださいます。失敗は踏み台となり、かけがえのない人生の知恵となります。一度きりの人生です。ためらい、思いわずらい、何もしないままに貴重な時間を無駄にしている暇などありません。キリストを信じて、一歩踏み出します。御国をめざして、きょうの自分を存分に歩みましょう。アーメン


2024年4月28日 復活節第五主日

「ガリラヤからの旅立ち」 説教 土屋清司牧師

【新約聖書】ヨハネによる福音書21章3~17節

 マタイ28章復活の朝、み使いとイエス様は二人のマリヤに、弟子たちにガリラヤに行くように伝えるようにと言われました。一体ガリラヤに何があるのでしょうか? ガリラヤの何がそれほどに大切なのでしょうか? ガリラヤは、イエス様と弟子たちとの出会いの場でした。ガリラヤで出会い、ガリラヤからイエス様と弟子たちとの伝道の旅は始まりました。イエス様は、様々な奇跡を行われご自分が神の子である事を証明されました。しかし弟子たちにはそのイエス様の力は、ローマと戦って勝利を得るための強い武器としか見えず、戦争勝利の夢ばかり思い描きながらイエス様に従っていました。が、イエス様の思いはそういう事ではなく、やがてご自分は人間の罪の身代わりとして十字架に付けられるという目的の為に、エルサレムへと向かっておられたのです。

 さて、十字架の前の晩、イエス様を捕えようとする兵士たちに取り囲まれ、弟子たちはもろくも打ち負かされ、ほうほうの体でイエス様を見捨てて逃げてしまいました。また弟子の筆頭のペテロは3度もイエス様を知らないと否定してしまいました。3日目にイエス様は復活され、その裏切りの思いを引きずっているペテロと弟子たちの前にお姿を顕されたのです。しかし、弟子たちにはその思いがありますから、復活を喜びながらも、心にある後ろめたさをどうする事も出来ず、心の傷を引きずったままだったのです。

 さて、ヨハネ21章ガリラヤ湖のほとりでのイエス様との3度目の出会い。イエス様はペテロに3度、「私を愛するか」と尋ねました。それは、ペテロの三度の裏切りへのイエス様の赦しと癒やしの意味での3度の問いかけだったのです。すぐさまそれを理解したペテロと弟子たちは、その時初めて、自分たちの裏切りを赦しておられるイエス様の愛を知ったのです。弟子たちは、このイエス様と初めて出会ったガリラヤで癒され、やがて精霊の力を受け、新しい福音宣教の働き人として旅立ちます。ガリラヤで出会い、ガリラヤで癒され、御霊と共に世界中へと彼らは力強く旅立って行ったのです。

 すなわち、ガリラヤとは、彼らの信仰の故郷であり、傷つき弱った時、いつでも立ち返るべき心の故郷なのです。私たちも同じです。困難や試練の中で傷つき弱った時はいつでも、何度でも、私たちの信仰の故郷、私たちの心のガリラヤ・・・すなわち十字架のみもとに立ち返るのです。そして新しい力を受けて、もう一度、新しい旅へと出て行こうではないですか。(土屋)


2024年4月21日 復活節第四主日

「農夫としての神の神」

【新約聖書】ヨハネによる福音書15章1~5節

 浅井導(とおる)牧師は自著《神のかたちに》(キリスト新聞社 1993年)で次のように語っておられます。「神の前に自分がどんなに大切な存在であるのかを知ること、それが信仰です。(中略)あなたが、神の前にどんなに価値ある者、どんなに権威ある者であるのかを知っていくことは、そのままあなたの信仰の成長につながっているのです。」

 《わたし(キリスト)につながっている枝で、実を結ばないものは、父なる神がすべて取り除く》とキリストは言われました。実を結んでいない者はすぐに切り捨てられてしまう・・・20代の頃、わたしはそのように理解し、とてもキリストの言葉とは思えず、納得がいかなかったことをよくおぼえています。

 「取り除く」と訳されている言葉は原典ギリシャ語では「アイロー」という言葉です。新約聖書では何度も登場する言葉です。場面に応じて日本語では「引き受ける。背負う。支える。集める。持ち上げる。運ぶ。」などと訳されています。日本語で「取り除く」と訳されていますが、これは「切り捨てる」という意味ではありません。農夫が責任をもって「引き受ける、持ち上げる、支える」という意味です。雨風で泥だらけになってしまったぶどうの枝は、そのまま放っておくと、枯れてしまいます。ぶどう園の農夫は、そのような傷ついた泥だらけのぶどうの枝を「引き受け、持ち上げ」、汚れをきれいに洗い流し、ぶどう棚にしっかりと結び、「支え」ます。そのように手入れされた枝は、再び元気を取り戻し、実を結ぶようになります。

 キリストを信じ、キリストにつながっている人は、ぶどうの枝のようだとキリストは言われました。この世の様々な雨風にあたり、疲れ、倒れ、自分を見失い、生きる意欲すら失ってしまうことがあります。農夫である神さまは、そのような傷つきやすく弱いわたしたちを「引き受け」、「持ち上げて」、「支え」てくださいます。けっして見放したり、切り離したりはされません。わたしたちにとって重要なこと、それはキリストにつながり、キリストの言葉を聴き続けて歩むことです。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」といつもわたしたちに語りかけておられるキリストは、わたしたちひとりひとりがそれぞれにふさわしい実を結べるように「引き受け」、「持ち上げて」、「支えて」くださるお方です。

 キリストにつながってさえいたら、自分という人間の価値を見失うことはありません。どのような状況にあっても、キリストに愛されている唯一無二の自分の人間としての価値を見失うことはありません。アーメン


2024年4月14日 復活節第三主日

「いつもここから始まる」

【新約聖書】ヨハネによる福音書21章15~19節

 死からよみがえられたキリストは、弟子たちを以前と変わらず愛しておられます。弟子たちへのキリストの愛はすこしも変わっていません。だからこそ、弟子たちは、このような愛に満ちあふれたキリストを土壇場で裏切り、見捨ててしまった自分自身を赦すことができません。復活の主と出会った弟子たちでしたが、土壇場でキリストを裏切り、見捨ててしまったという自分の過去に縛られて、なかなか前へと歩み出すことが出来なかったのです。

 キリストは弟子の代表格であるペテロにひとつの問いかけをなさいました。「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ヨハネの子シモンとはペテロの本名です。キリストは三度、同じ問いかけをペテロにされます。「わたしを愛するか」とは、より厳密に言えば「今、この時、わたしを愛しているか」ということです。昨日でも、おとといでもなく、まさに今のこの時、あなたはわたしを愛しているか、という問いかけです。

 もしキリストが「あなたはわたしを愛したか」とペテロの過去を問われたら、キリストを土壇場で裏切ってしまったペテロには返す言葉はありません。過去を変えることは出来ないからです。しかしキリストがご覧になっているのは、過去のペテロではなく、今この時のペテロでした。キリストに三度もたずねられ、ペテロもようやく悟ります。キリストがご覧になっているのは、今この時の自分なのだと。もしそうなら、ペテロも、そして他の弟子たちも、心の底からキリストに答えることができます、「主よ、わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です」。

 過去をうやむやにすることでも、過去をなかったことにすることでもありません。自分の過去の失敗や愚かさを踏まえて、「今、この時、自分はどう生きるのか」が問われています。キリストは、わたしたちのすべてをご存知の上で、わたしたちひとりひとりに、いつも問われます。「今、この時、あなたはわたしを愛するか」と。キリストを信じる信仰の歩みとは、日々、このキリストからの問いかけに対して、「主よ、わたしはあなたを愛します」と答え、今を生きることです。これからを生きて行くことです。

 これより後、いよいよ弟子たちは全世界へ福音宣教へ歩み出すこととなります。アーメン


2024年4月7日 復活節第二主日

「見ないで信じる」

【新約聖書】ヨハネによる福音書20章24~31節

 理由はわかりません。イースターの当日、トマスだけが復活の主と会うことができませんでした。食料を買いだしに行っていたのか、あるいは町の様子を調べていたのか。よりによって自分だけが外出していた間に、復活されたキリストは弟子たちが隠れていた部屋へ姿を現されたのです。トマスが帰宅すると、「わたしたちは主にお目にかかった」と誰もが目を輝かせています。でも誰がなんと言おうとトマスには納得できません。信じることができません。「わたしはこの目で見るまでは決して信じない」と言い放ちます。

 わたしはトマスがとても好きです。疑い深いトマスなどと言われますが、トマスはとても正直で、信じたふりなどできない人物だったと思います。次の日曜日、復活の主はふたたび弟子たちのいる部屋へ入ってこられました。トマスに会うために入ってこられたといってもいいと思います。

 「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい・・・信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とキリストはトマスにやさしく、愛のまなざしを注ぎ、そう言われました。そしてトマスの口からあの有名な信仰告白が生まれます。「わが主よ、わが神よ」。短くも、すばらしい信仰告白です。

 さらにキリストは言われます。そしてヨハネの福音書はこのキリストの言葉をもって本論をまとめています。つまりそれほど大切な真理が込められているキリストの言葉であるということです。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は、さいわいである」。このキリストの言葉はトマスにだけ語られたものではありません。その後、弟子たちをとおしてキリストを信じるようになるすべての者たちへ、そして現代のわたしたちひとりひとりへ告げられている言葉です。

 肉眼で見えるものがすべてではありません。墓は見えても、御国は見えません。死は見えても、死をつらぬく永遠のいのちは肉眼では見えません。愚かな自分は見えても、神の目に映る高価で尊い自分は見えません。そうです。大切なもの、肝心なことはすべて肉眼では見えません。御国も、永遠のいのちも、希望も、光も、高価で尊い自分も、そしてキリストも、肉眼では見えません。肉眼では見えなくとも、心の目には、そして魂の目には見えます。静まって、目を閉じてみてください。キリストを信じる者には、キリストの愛が、キリストの言葉が、いつも迫ってきます。

 トマスはこの後、東へと福音宣教へ旅立ちます。インドまで福音宣教のために訪れ、殉教したと伝えられています。


2024年3月31日 復活祭 《イースター》

「キリストの復活」

【新約聖書】ヨハネによる福音書20章1~18節

 キリストが復活された日曜日の早朝、マグダラのマリヤと呼ばれるひとりの女性がキリストが葬られた墓にやってきます。もちろん彼女はキリストが死から復活されたことなど思いもしません。ただ墓参りにやってきただけです。当時は小さな洞窟の中に遺体を安置しました。キリストの遺体も洞窟の中に安置され、洞窟の出入り口は大きな石でふさがれていました。

 マリヤが墓にやってくると、墓の石はとりのけられ、キリストの遺体がなくなっていました。知らせを受けたペテロたちも墓にやって来ますが、彼らはすぐに家へ帰ってしまいます。しかしマリヤは帰らず、墓の外で泣きながら墓を見つめていました。するとマリヤの背後からキリストが近づかれました。気配を感じてマリヤは後ろを振り返るのですが、目の前に立っておられる方がキリストであるとは彼女にはわかりません。無理もありません。十字架上で息を引き取られたキリストが、自分の目の前に立っておられるはずがないからです。

 「マリヤよ」。聞きおぼえのあるキリストの声を聞いて、やっとそこに立っておられる方がキリストであるとマリヤは知ります。「マリヤよ、あなたはどこを見ているのか。墓の中ではなく、わたしを見なさい。わたしはここにいる。あなたの目の前にいる」。キリストはそのような思いをこめて、「マリヤよ」と、声をおかけになったのです。墓を見て、ただ泣くばかりであったマリヤは、もう墓を見てはいません。彼女はふり返り復活の主を仰ぎ見て、ふたたび歩み始めます。聖書が語る「回心」とは、心を回すことです。改心とは違います。墓ではなく、心を回して、キリストを見ることです。復活されたキリストを見て、再び、歩み始めることです。

 今のわたしたちひとりひとりにも、キリストはやさしく、はっきりと語りかけておられます。「○○よ。あなたはどこを見ているのか。暗い墓の中ではなく、このわたしを見なさい。わたしはここにいる。あなたと共にいる」。

 誰の人生にも、悲しみ、恐怖、不安、絶望、後悔につつまれ、まるで暗い墓の中を見るほかにない時があります。誰にもあります。しかし、死からよみがえられたキリストは、いつもわたしたちに神の愛をもって迫り、そして語ってくださいます。「ふり返って、このわたしを見なさい。暗い墓の中を見るのではなく、このわたしを見なさい。わたしはここにいる。わたしはいつもあなたと共にいる。大丈夫。恐れることはない。」

 まずキリストを仰ぎましょう。そして、まずキリストの言葉に耳を傾けましょう。さあ、イースターから、イイ・スタートを! アーメン


2024年3月24日 受難主日

「見よ、このお方を」

【新約聖書】ヨハネによる福音書19章1~9節

 キリストが十字架につけられる直前の様子です。ユダヤ人たちは騒ぎ立ち、総督ピラトはおろおろしています。キリストを取り巻く人間の身勝手さ、愚かさ、騒々しさを聖書は伝えています。対照的にキリストは沈黙しておられます。むち打たれるままに、いばらの冠をかぶらされるままに、紫の衣を着せられるままに、平手でぶたれるままに、そしてあざけられるままに・・・キリストはそれらのすべてを受けとめておられます。これがまさにキリストが歩まれた十字架への道でした。

 ピラトは、むち打たれて全身血だらけのキリストをユダヤ人たちの前に引き出しました。頭にはいばらの冠をかぶせ、痛々しいとしか言いようのない姿のキリストでした。ピラトはなんとかキリストを釈放しようとします。なんの罪も見いだせなかったからです。ユダヤ人たちに向かって「あなたがたが、この人を引き取って、十字架につけるがよい」とも叫びました。ピラトとしても罪のない人を処刑になどしたくなかったでしょう。少なくとも自分の手を汚したくはなかったと思われます。

 「見よ、この人だ」、ピラトはユダヤ人たちの前にキリストを引き出して、そう叫びました。「このみすぼらしく、痛々しい男を見よ。この男が王に見えるか? この男が神の御子に見えるか? どこにでもいるような、ふつうの弱々しい男に過ぎないではないか。どうして処刑までする必要があるのだ? こんな男など、どうでもいいではないか。釈放してやったらどうか?」その時のピラトの思いはそんなところであったと推測します。

 「見よ、この人を」ラテン語でエッケ・ホモといいます。当時ピラトが尋問したといわれる場所には現在、エッケ・ホモ教会という教会が建てられています。さて、ここで聖書はこのピラトの言葉をもって今のわたしたちに問いかけています。「ではあなたは、このお方になにを見るのか?」全身が血だらけで、頭にはいばらの冠、そして無理やり紫の衣を着させられたキリストになにを見るのか。なにを見なければならないのか。

 みすぼらしく、弱々しいキリストの姿にわたしたちが見るべきものは、すべてを承知の上でまさに命をかけて、なにもかもありのままに引き受けておられるキリストの姿です。何一つ弁解もされず、ただひたすらご自身の目の前に起こる出来事をそのままのみ込んでおられるキリストの姿です。つまりキリストはご自身の歩まれるべき十字架の道から一歩も退かれることはなかったということです。

 肉眼で見えるのはキリストのみすぼらしく、痛々しく、弱々しい姿です。しかしその内側には人間の愚かさを一心に背負い、ゴルゴダの丘へと歩まれるキリストの激しい愛が結晶しています。そうです。十字架におかかりになった神の御子キリストのお姿にこそ、真実の神の愛が結晶しています。聖書は問いかけてきます、「この激しいキリストの愛があなたには見えているか? これほどまでに神に愛されている自分が見えているか? これほどまでに神の前に高価で尊い、自分という人間が見えているか?」と。アーメン


2024年3月17日 受難節第五主日

「キリストの沈黙」

【新約聖書】マタイによる福音書27章11~14節

 祭司長、民の長老たち、そして群衆も弟子たちも、さらにはポンテオ・ピラトも、誰もがキリストは真実なお方であると知りつつ、自分の身を守るために真実を抹殺しようとしました。わたしたちは権力や地位を握ってしまうと、他人の命を食い物にしてまで、真実をねじ曲げ、自分の権力や地位を守ろうとするところがあります。権力や地位、財産や肩書きなどはあまり持たないほうが、人間らしく自由に生きることができます。

 自分の地位を守るため保身に走ったピラトによって、キリストは十字架刑に処せられることとなります。むち打たれ、いばらの冠をかぶせられ、つばきをかけられ、棒で頭をたたかれ、ののしられ、あざけられ、ついにキリストは十字架にはりつけにされます。ところがキリストはずっと沈黙されたまま、なされるがままでした。ここで福音書はわたしたちに問いかけています。このときのキリストをしっかりと見よ、と。ラテン語でこれを「エッケ・ホモ(見よ、このお方を)」といいます。

 愚かな人間たちによる、ありとあらゆる侮辱を黙って受けるばかりのキリストのお姿に、いったいわたしたちは何を見るのでしょうか。それを解く鍵はキリストの《沈黙》です。キリストは神の御子として、わたしたちには想像すら出来ないことを今まさに果たそうとしておられます。それは何か。それは人間の愚かさ、身勝手さ、暗闇、すなわち人間の罪を、救い主として受けとめ尽くそうとされているのです。もし、キリストが受けとめ尽くされたら、それはキリストの勝利、神の愛の勝利です。同時にそれはわたしたちのために新たな救いの道が開かれることでもあります。

 ここでわたしたちはひとつの真実を忘れてはなりません。そもそもキリストにはわたしたちを救う義理はなかったということです。これほどの侮辱と苦しみをお受けになったキリストが「もうやめた!もう知らん!勝手にするがよい!」と愚かなわたしたちを見捨ててしまわれてもよかったのです。父なる神にも、御子キリストにも、こうまでしてわたしたちを救う義理も道理もまったくありませんでした。にもかかわらず、わたしたちを救うために、キリストはこれほど苦しまれ、十字架上で命をささげられました。これはわたしたちの理屈や道理をはるかに超えたことです。

 人の命とはキリストがご自身の命を注がれたほど、それほどまでに高価で、かけがえのないものです。福音書は全時代の全世界の人々へ、キリストの受難をとおして、この真実を伝えています。人の愚かさ、人の罪のすべてを引き受け尽くそうと沈黙されている受難のキリストを見ることによって、わたしたちは神の目には高価で尊く、かけがえのない唯一無二の存在であることを知るのです。アーメン


2024年3月10日 受難節第四主日

「あなたはひとりではない」

【新約聖書】マタイによる福音書27章1~10節

 孤独と孤立、似たような言葉ですが、意味はまったく違います。そもそもわたしたち人間は皆、孤独です。主なる神さまの前には、皆、違う存在だからです。この真実がもっとも端的にわかる時、それは死を迎える時です。誰であろうが例外なく、自分の死を自分が引き受ける他にありません。誰かに代わってもらうことはできません。ひとりひとりが、神さまからひとつの命をいただいて、生きている。皆、違う存在であるゆえに、人は孤独です。

 ひとりひとりがかけがえのない存在として、ひとりひとりが違う存在として、ゆえに孤独な存在として、わたしたちはあります。ここで重要なことは、ではわたしたちはどう生きるのか、です。創世記の冒頭で記される天地創造の時、アダムを創造された主なる神は言われました、「人がひとりでいるのは良くない。ふさわしい助け手を造ろう」。そしてキリストはただひとつのいましめとして、「互いに愛し合いなさい」と言われました。つまり、孤独なわたしたちは、孤独であるがゆえに、共に生きていく存在であるということです。互いに愛し合うとは、互いに支え合い、互いに助け合い、共に生きていくということです。孤立してはいけないということです

 イスカリオテのユダがキリストを裏切り、祭司長たちの手引きをしたことは事実です。しかしキリストを裏切り、見捨ててしまったという意味ではペテロも他の弟子たちも同罪です。ペテロは三度も神に誓ってキリストを知らないと叫びました。キリストとの関係が絶たれ、ペテロも他の弟子たちも絶望状態に陥ります。絶望したのはイスカリオテのユダだけではなかったのです。しかしペテロとユダには決定的に違うところがあります。ペテロには絶望を分かち合える仲間がいましたが、ユダには仲間がひとりもいませんでした。ユダは孤立してしまったのです。

 もしユダが、仲間のところへ戻り、自分の罪を、主なる神と他の弟子たちの前で悔い改め、謝罪を求めていたら、どうなっていたでしょうか。もちろんユダが謝罪したからといって、ペテロたちがユダを以前のように主にある仲間として受けいれたかどうかはわかりません。でも、もしユダが、そのように悔いあらため、仲間と共にいたなら、ユダもまた三日後の日曜日の朝を迎え、復活されたキリストに出会うことができました。もしそうなら、ペテロたちと同様、ユダも聖霊降臨を体験し、使徒行伝に《使徒イスカリオテのユダ》と名前が刻まれ、全世界へキリストの福音を宣べ伝えたキリストの使徒のひとりになったに違いありません。

 わたしたちひとりひとり、人生では様々な状況に置かれます。苦しい時、悲しい時、絶望してしまう時があります。しかし神さまはその状況、その状況にふさわしい助け手を与えてくださいます。いじめに遭い、自分だけのけ者にされて孤立した時も、あるいは職場や地域、家庭で虐待を受けて孤立した時も、どれほど苦しい状況に置かれても、自分に寄り添ってくれる人がたったひとりでもいたら、自分の話に耳を傾けて聴いてくれる人がたったひとりでもいたら、わたしたちは生きて行くことができます。マザーテレサは言いました、「わたしたち人間にとって、もっとも恐ろしい絶望感、それは誰ひとり自分に寄り添ってくれる人がいないこと、完全に孤立してしまうことです」。

 天地創造の時から真実の神さまは約束されています、「人はひとりでいるのはよくない。わたしはふさわしい助け手を造ろう」と。もし自分が窮地に置かれた時、しかし自分に寄り添ってくれる人が誰もいないと思う時、悩みをひとりでかかえこんではいけません。助けを求めます。誰かに相談します。話を聴いてもらいます。

 しかし、誰も自分の話を聴いてくれる人がいない、そう思った時はまず神さまに祈ります、「真実の神さま、今のわたしの話に耳を傾けて、聴いてくれる人を示してください」と。ひたすら、自分の助け手を求めます。あきらめずに求めつづけます。必ず、ふさわしい助け手を神さまは示してくださいます。必ず、与えてくださいます。思ってもみないところから、助け手が来ることもあります。日頃は何の気なしに付き合っている人が、じっと話に耳を傾けてくれるかもしれません。とにかく、あきらめてはいけません。自分ひとりで抱え込んではいけません。人はひとりでは生きていくことはできません。共に助け合い、共に支え合い、共に愛し合いながら、生きていくものです。それが人間です。アーメン


2024年3月3日 受難節第三主日

「号 泣」

【新約聖書】マタイによる福音書26章69~75節

 「あなたもイエスの仲間だ」とペテロは三度それぞれ別の人たちから指摘されます。いつもキリストと一緒にいたペテロです。人々に顔が知られていて当然です。しかしペテロはそれを打ち消し、「何も知らない」と誓って言います。「誓って」とは「神に誓って」という意味です。この瞬間、ペテロはキリストを失い、同時に自分自身を失ってしまいます。この時、ペテロは激しく泣いた、と聖書は伝えています。わたしたちは自分にとって大切なものを失った時、しかもそれが大切なものであればあるほど、しかも突然であればあるほど、激しい悲しみに襲われます。

 ほんの数時間前に「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとはけっして申しません」とペテロはキリストに叫びました。その時、そう叫んだペテロの気持ちにウソはありません。ほんとうにそう思っていたはずです。しかしペテロがそう叫んだ時、ペテロ自身、まだ知らなかったことがありました。ペテロはじめ弟子たちの誰もがまだ知らなかったこと・・・それは自分の弱さです。

 ペテロは十二弟子たちの中でも筆頭格の弟子でした。すべてを捨ててキリストに従ってきました。自分こそ弟子の中の弟子であるという傲慢な思いがあったのかもしれません。そのようなペテロが、キリストが捕らえられ、自分の身にも危険が及ぶことを知って、保身ゆえにキリストを見捨ててしまいました。自分がそのような弱く、薄情な人間であったことを当のペテロ自身もそれまで知らなかったでしょう。

 わたしたちは誰もがそうです。実際につらい、悲しい体験をとおして、人生を知り、それまで知らなかった自分を知り、そして主なる神の愛を知ります。いくら知識では知っていても、実際に自分が体験してみて、はじめてわかる世界があります。自分がどんな人間なのか、身近な人がどんな人間なのか、そして真実の神がどのようなお方なのか、実際のなやみや悲しみをとおして見えてきます。号泣したペテロでしたが、じつはここから、やがて初代キリスト教会を担っていく大使徒ペテロが誕生することとなります。キリストのように、人々の悲しみや苦しみに寄りそうことのできるペテロへと生まれ代わるのです。

 「日々の生活上でのなやみや苦しみなどのマイナスは、人生の上ではすべてプラスに置き換えられる」。これは遠藤周作の言葉ですが、このような人生の真実は、実際に自分を歩んでみて、わかることです。神はその人の力を超える試練は与えない。この聖書の言葉も、実際に自分が歩んでみて、わかることです。号泣するほどの悲しみも、自分を見失うほどの悩みも、すべてに神の愛と恵みが秘められています。しかし、それは実際に体験した者でしかわからない神の愛であり、神の恵みです。アーメン


2024年2月25日 受難節第二主日

「わたしの愛する友よ」

【新約聖書】マタイによる福音書26章47~56節

 先週より受難節に入りました。受難節は別名「四旬節」とも言われ、キリストの復活前の40日間を指します。キリストの受難をとおして、わたしたち人間の弱さ、身勝手さが露わになり、同時に神の御子キリストの大いなる愛が結晶しました。

 キリストはエルサレムの一室で十二弟子とともに最後の晩餐を持たれ、その後オリーブ山のゲッセマネの園という場所へ移動されます。これから起こるすべてのことをキリストはご承知でした。イスカリオテのユダを先導に、武器を持った大勢の群衆がやってきます。群衆は、キリストを捕らえるために祭司長や長老たちが送り込んだ者たちでした。ユダはキリストに近づき、口づけをします。それを合図として群衆はいっせいにキリストに襲いかかりました。弟子たちは応戦しようとしますが、キリストに止められ、そして全員が主を見捨てて逃げ去ってしまいます。

 注目すべきは、キリストを裏切り、見捨てたのはイスカリオテのユダだけではなかったということです。ペテロもヨハネも、すべての弟子たちがキリストを裏切り、見捨て、逃げ去ってしまいました。この事実をわたしたちは深く心に刻んでおかねばなりません。受難のキリストを通して映し出される人間の姿は、弱く、身勝手で、結局のところは自分のことしか考えない愚かな姿です。そしてわたしたちの誰もがそうした弱さ、身勝手さ、愚かさをかかえています。

 ユダがキリストに裏切りの口づけをしたとき、キリストの口からは驚くべき言葉が発せられました。「友よ、なんのために来たのか」。ユダに裏切られ、とらわれの身となってもなお、キリストはユダに対して「友よ」と呼びかけておられます。このときのキリストの姿を思い浮かべるたびに、わたしはいつも心と魂がふるえます。ユダはキリストを裏切り、キリストを権力者の手に渡してしまいました。しかしキリストはそのようなユダを最後の最後まで見捨てず、見放さず、「友よ」と呼びかけておられます。自分を見失ってしまったユダに、この時に注がれたキリストのまなざしは、神の愛に満ちあふれていたに違いないと思います。

 弱く、愚かなわたしたちが、自分の弱さや愚かさを開き直るのでもなく、また自分を偽るのでもなく、ありのままの自分を引き受けてなお生きていく道があるとすれば、このキリストの愛とゆるしに生きるほかありません。受難のキリストのお姿に映し出されている、永遠の神さまの愛に生きるほかにありません。アーメン


2024年2月18日 受難節第一主日

「メメント・モリ きょうの自分を存分に生きる」

【新約聖書】マタイによる福音書6章33~34節

 キリストはなんども《思いわずらうな》と語っておられます。それはわたしたちがそれほど思いわずらいやすい存在だからです。ある小説家の言葉です、「自分のこれまでの生涯をふり返り、思いわずらったことのうち、98%は取り越し苦労に過ぎなかった」。

 思いわずらいの正体は「恐怖心」です。恐怖心は、そもそもわたしたち人間が危険から身を守るために与えられている、いわば本能です。しかし、わたしたち人間はとかく余計なものを恐れてしまいます。恐れても仕方のないものを恐れたり、恐れる必要のないものを恐れたり、自分にはどうすることも出来ないことを恐れたり・・・それが思いわずらうということです。

 キリストは言われました、《まず神の国と神の義とを求めなさい》。これは「まず聖なる神を恐れなさい」と言い換えることができます。わたしたちが、真実の神さまを見失い、あるいは主なる神にさからい、神に背を向けてしまうと、当然のことですが、主なる神を恐れなくなります。結果として、まったく恐れる必要のない、この世のいろいろなものを恐れるようになり、思いわずらうようになります。いろいろな思いわずらいに振りまわされるようになってしまいます。

 《まず神の国と神の義とを求めなさい》。このキリストの言葉は、主なる神の前に生きる、ひとりのかけがえのない人間としての歩み方を示したものです。ここでキリストはけっして難しいことを語っておられるのではありません。《まず神の国と神の義とを求めなさい》とは、まず主なる神を恐れ、まず主なる神を仰ぎなさい、ということです。どんな時も、自分の意識を主なる神にまず向ける。そして主なる神の前に、自分が正しいと思うところを、胸をはって生きていきます。失敗もするし、間違えもします。その時には、まず主なる神を仰ぎ、おさなごのように悔い改め、何度でも立ち上がり、やり直したらいいだけのことです。。

 つい、思いわずらいそうになったら、すぐに主なる神を仰ぎ、キリストからのこの語りかけを聴きます、「思いわずらうな。大丈夫だ」。そして主なる神に問いかけます、「主よ、今、自分に出来ることは何でしょうか」。ぐだぐだ、だらだらと、思いわずらってはいけません。時間と労力の無駄です。繰り返します。思いわずらいそうになったら、すぐに、ただちに、主なる神を仰ぎ、「思いわずらうな。大丈夫だ」と語られる主の声を聴きます。そして主に祈り、問いかけます、「主よ、今、自分に出来ることは何でしょうか」と。あとは自分に出来ることを果たすだけです。《きょうの自分を存分に生きる》だけです。アーメン


2024年2月11日 主の変容主日

「主よ、どうぞよろしく」

【新約聖書】マタイによる福音書17章1~8節

 《六日の後イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた》とあります。三人の弟子たちはキリストに連れられて高い山を登りました。じつはここに、心軽やかに人生を歩むための秘訣があります。あれやこれやと自分の意識が先行すると、不安になったり、余計な思い悩みが増すだけです。わたしたちは、いつもキリストのあとからついて行きます。「主よ、わたしを連れて行ってください。このひと山、わたしを導いてください」。一日の始まりも、まず静まり、主に祈ります。「主よ、今日も一日、どうぞよろしくお願いします!」。

 「わたしがこれまで思い悩んだことのうち、98%は取り越し苦労であった」。マークトウェインの言葉ですが、あとでふり返ってみると、たしかにそうです。あれやこれやと余計なことで取り越し苦労してしまうのが、わたしたちです。つい余計なことを考えてしまって、思い悩んでしまった時は、すぐに意識を主イエスにそそぎ、祈ります。《主よ、わたしを連れて行ってください。このひと山、導いてください。よろしくお願いします》。先のことは主におまかせしましょう。先のことを思い悩んでも、しかたがありません。今、自分に出来ることを果たしつつ、主に連れて行ってもらうだけです。きょうの自分を存分に歩むだけです。大丈夫です。そのように歩む者を、主は最善に導いてくださいますから。

 何か大きなひと山を迎えた時、《どうしてですか?》と問いかけても一歩も前へは進めません。《どうして?》と問うかぎり、わたしたちの思い悩みは深まるだけです。《どうして?》をきっぱりと返上します。その代わりに《どうする? 今、自分はどう歩む?》と問います。そして眼前に主を仰ぎ、祈ります。《主よ、わたしを連れて行ってください。よろしくお願いします》と。あとは主イエスを信じて歩むだけです。きょうの自分を存分に生きるだけです。

 《主よ、どうぞよろしくお願いします》。生涯この祈りとともに歩みをかさねます。どこかへ訪れるときも、仕事を始めるときも、病気で伏せっているときも、老いを実感するときも、そして死がせまり、いよいよ御国が近づいてきたと思うときも、まず主を眼前に仰ぎ見て、祈ります。《主よ、わたしを連れて行ってください。主よ、どうぞ、よろしくお願いします》。アーメン


2024年2月4日 顕現後第五主日

「キリストはあなたを見捨てない」

【新約聖書】ヨハネによる福音書14章18~24節

 今年はメメント・モリの六番目の意訳を掲げました。《きょうの自分を存分に生きる》です。明日はどうなるのか、確かなところは誰にも断言は出来ません。能登半島地震をとおしても、あらためてメメント・モリを強く思い知らされました。能登半島地震によって、つい昨日まで共に笑い、共にご飯を食べ、共に生きていたという、多くの方々の現実が一瞬で変わってしまいました。わたし自身も29年前の阪神淡路大震災の被災者のひとりとして、まさにメメント・モリ・・・死を背負って生きている、次はないかもしれないという、この世の現実を痛感しております。そのような現実社会に生きているわたしたちにとって、過去ではなく、未来でもなく、まさに《きょうの自分を存分に生きる》ことが求められています。過去にしばられたり、未来を思いわずらったりしている暇などありません。もし、余計なことに振りまわされて、きょうという日をおろそかに生きてしまったら、必ず、後悔します。

 真実の神キリストは、結局のところ、わたしたち人間に何を伝えておられるのか。それは何があろうともゆるがない、わたしたち人間に注がれている主なる神の愛です。キリストは、わたしたちを縛りつけている罪から解放してくださいました。そして永遠なる天の御国を約束してくださいました。わたしたちを過去の縛りから解放し、未来を約束してくださったのです。もう過去に縛られることはなくなり、もう未来のことを思いわずらう必要はなくなりました。キリストによって、まさにわたしたちは《きょうの自分を存分に生きる》ことが出来るようになったのです。

 《わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない》。わたしたち人間はどのような存在なのか、すべてをご承知の上で、キリストは言われました。わたしたちはこの世のいろいろな状況の中で、孤立してしまうことが少なからずあります。マザーテレサはわたしたち人間のもっとも大いなる貧困は「誰からも相手にされなくなること」と語っておられます。誰からも相手にされなくなり、孤立してしまうと、わたしたち人間は絶望感につつまれ、自分を見失い、生きる意欲を失います。そうしたわたしたちの弱さを知り尽くしておられる神の御子キリストは言っておられます。《わたしはあなたをひとりにはしない。わたしはあなたを見捨てない。わたしはいつもあなたと共にいる》と。

 わたしたちにとっての究極の孤立、それは死です。しかしキリストは、わたしたちが死を迎えた時も、共にいてくださることが出来る唯一のお方です。死をつらぬいておられる真実の神だからです。キリストを信じることによってわたしたち人間は過去の罪の縛りからも、死の恐怖からも、解放されます。まさしく《きょうの自分を存分に生きる》ことが出来るようになります。さあ今週も、神の目には高価で尊い、かけがえのない唯一無二の自分を存分に生きてまいりましょう。アーメン


2024年1月28日 顕現後第四主日

「新しい出会い」 説教 土屋清司牧師

【旧約聖書】ホセア書6章1~3節

 ホセアは、冒頭、《さあ、主に立ち返ろう》」と背信の民イスラエルに語りかけています。この当時、イスラエルは南ユダと北イスラエルに分かれており、双方によって罪の様相は異なってはいましたが、大雑把に言わせて頂いて、イスラエルは神様から特別に選ばれた祝福の民でありながら、背信を重ね、警告を受け、悔い改め、回復されるという歩みを繰り返してきました。だから、その主にもう一度立ち返ろうと、ホセアは勧めるのです。すなわち

《主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ》。すなわち、もし主に立ち返るならば、きっと主は回復させて下さるだろうと、神様への揺るぐ事のない信頼を示し、《私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される》。もし主に立ち返るならば、速やかに主は恵みに満たして下さるであろうという、神様への期待を込めて彼は言うのです。 が、4節以下を読みますと、人々の悔い改めへの、神様の厳しい反応が記されています。《エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの誠実は朝もやのようだ。朝早く消え去る露のようだ。それゆえ、わたしは預言者たちによって、彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。わたしのさばきは光のように現れる。わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。だから彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。わたしのさばきは光のように現れる》。すなわち、あなた方の誠実は朝早く消え去る靄や霧のよう頼りない。だから、そんなあなた方への神の裁きは、光のように早く来るだろうと言うのです。そして、《わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ》。すなわち、心のこもらない悔い改めよりも、神を知ろうとする信仰こそ、私は喜ぶと神は言われるのです。翻って、私達もまた罪に鈍感。悔い改めには頑なでしぶとい者。今度こそと悔い改めを誓いながら罪に逆戻りしていくその早さ。すなわち、数千年前のホセアの言葉は、今の時代に生きるこの私達にもそのまま当てはまるのです。が、救いの時代に生きる私達には、彼の言葉は別の響きを伝えて来ます。すなわち、旧約の民はそれを聞いて、献げ物を携え祭司の前に立つ事しか出来なかった。

 しかし、私達には、立ち帰るべき救い主キリストがおられるのです。そのキリストを《私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される》と、時代を超えてホセアの言葉は私達に語りかけます。それゆえどうぞ、贖い主であり救い主であり、助け主、癒やし主であられる、主キリストをもっと深くもっと確かに知る事を求めようではないですか。すなわち聖書を通し、祈りを通し、日々主に出会うとき、私たちの心と魂はいつも喜びに満たされ、その出会いの積み重ねは必ず、私達の信仰の骨格を造り、信仰の筋肉を鍛え、信仰の力となるのです。それゆえこの方を知る以上の知識はないし、この方との出会い以上に、人の人生に影響を与える出会いはないと言えるのです。改めて、この方と出会わせて下さった神様への感謝と共に、この出会いの中に生涯を歩ませて頂きましょう。(土屋)


2024年1月21日 顕現後第三主日

「あなたもわたしも、かけがえのない唯一無二の人間である」

【新約聖書】ヨハネによる福音書13章31~35節

 福音書を書いたヨハネの晩年の様子を伝えるひとつのエピソードがあります。エペソという町の教会で、いつも彼は「主が愛しておられるように、互いに愛し合いなさい」とだけ語っていたそうです。たまりかねたある若者がヨハネに「先生、それはもうわかりました。もっと別のお話を聴きたいのですが・・・」と詰めよったそうです。それに対してヨハネは次のように答えました、「主が愛しておられるように、幼子たちよ、互いに愛し合いなさい。それがキリストの言われたすべてである」。

 旧約聖書には「神を愛し、自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」といういましめがすでにあり、互いに愛し合うことの尊さは遠い昔から語られていました。しかしここで注目すべきは「わたし(キリスト)があなたがたを愛したように」とキリストが言われたことですイスカリオテのユダをも、また土壇場でキリストを見捨てたペテロもヨハネも、キリストは最後までお見捨てにはならず、愛し抜かれました。キリストと出会い、キリストを信じるとは、キリストがご自身のいのちを注がれたほどまでに、わたしたちひとりひとりが神の目にはかけがえのない唯一無二の高価で尊い存在であると信じることです。お互いが、神の目にはそれほどまでに愛されている人間であると知ってこそ、互いに愛し合う世界が実現します。自然と、互いに認め合い、共に生きるようになります。

 わたしたちの誰であろうと、真実の神キリストを知らないと、あるいはキリストを見失ってしまうと、かけがえのない唯一無二の自分を見失ってしまいます。同時に自分以外の人々を、キリストが愛しておられるかけがえのない人間としてではなく、たんなるモノのように見てしまいます。結果として、傲慢になったり、あるいは自分の人間としての価値を見失い、自分を傷つけたり、他人を傷つけてしまいます。人間の歴史はそのような混乱と争いで満ちています。

 まず真実の神であるキリストの愛を知ることが、わたしたちが幸せに生きるための原点です。神の御子キリストにとって、わたしたち人間は、キリストがいのちを注がれたほどに、ひとりひとりが唯一無二の高価で尊い存在です。そのようなわたしたち人間が、互いに争い合い、傷つけ合ったら、まさにそれはキリストにとって大いなる悲しみであることは間違いありません。

 《わたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》。あなたもわたしも、あの人も、この人も、真実の神キリストにとってはかけがえのない存在ですキリストを信じて生きるとは、わたしたちひとりひとりに注がれているキリストの愛につつまれて、共に生きていくことです。自分を含め、人をけっして粗末にしたり、傷つけたりしないで、一度きりの人生を、共に、キリストの愛につつまれて存分に生きていくことです。アーメン


2024年1月14日 顕現後第二主日

「キリストの愛」

【新約聖書】ヨハネによる福音書13章1~11節

 【イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知り・・・】とあります。行くとは「突き抜ける・つらぬく」などとも意訳できる言葉です。この世を去るとは死ぬことですが、しかしキリストにとってそれは「死を突き抜ける・死をつらぬく」ことです。いよいよ死をつらぬく時が来たとキリストはここで語っておられます。キリストを信じる者たちにとっても、死ぬとは死を突き抜けることです。死は、天の御国への通過駅に過ぎません。いつ死んでも天国です。

 死を間近に、キリストは残された時間をどのようにお過ごしになったのか。聖書は伝えています、「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」。「世にいる自分の者たち」が意味しているのは、当時の弟子たちのことだけでなく、キリストを信じるすべての者たちのことです。現代に生きるわたしたちひとりひとりも「世にいる自分の者たち」です。キリストはわたしたちを愛し通してくださるお方です。徹底して最後の最後まで愛し尽くしてくださるお方です。そして聖書は伝えています、「このキリストこそ、愚かなわたしたち人間が生きていくことの出来る唯一の希望である」と。

 キリストは言葉ではなく、実際に弟子たちの足を洗うという具体的な行為を通して、神の愛を弟子たちにお伝えになりました。愛は口先ではいくらでも語れます。しかし愛は具体的な行為となってはじめて本物となります。当時、足を洗うとは、いわば召使いが自分の主人のために行う行為です。主人が召使いの足を洗うことなど断じてありません。ペテロが「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と驚いたのも無理はありません。弟子たちの誰もが驚いたことでしょう。神の御子キリストが、人のよごれた足を洗われました。自らひざまずき、弟子たちひとりひとりの足をていねいに洗い流されました。このときの体験を彼らは生涯、忘れることはなかったでしょう。

 想像してみてください。二千年前の最後の晩餐にあなたもいます。そしてキリストはあなたの前にひざまづいて、あなたの足を洗われます。あなたの足を洗われるキリストの手のぬくもりを感じてください。足を洗うというキリストの行為をとおして伝わってくる絶大なる神の愛を感じとってください。そうです。あなた自身も、これほどまでにキリストに愛されている高価で尊い、唯一無二のかけがえのないひとりの人間であることを全身で感じ取ってください。

 キリストと出会うとは、これほどまでに愛されている自分と出会うことです。キリストを信じるとは、これほどまでに愛されている自分を信じることです。なにも恐れることはありません。真実の神キリストがあなたと共にいてくださいます。さあ、きょうもキリストと共に、きょうの自分を存分に歩みましょう。アーメン


2024年1月 7日 顕現後第一主日

「共に歩む」 

【新約聖書】マタイによる福音書2章1~12節

 2024年が始まりました。年の初めにはマタイの福音書2章の冒頭を開きます。博士たちと呼ばれる人たちはイスラエルの律法で禁じられていた星占いをする人たちでした。別の聖書では「占星術の学者たち」と訳されています。彼らはイスラエル人ではなく、異邦人でした。当時のイスラエル社会において、神の祝福からもっとも遠い存在と思われていた異邦人が、しかも星占いをする異邦人が、キリストの誕生の場面で主役級で登場し、本家本元のイスラエルの人々を差し置いて、神の祝福を受けています。

 神の都エルサレムまで千キロ以上もあるバビロンという町から旅をしてきた彼らは、エルサレムに着いて言いました、《わたしたちは東の方で星を見たので、やって来ました》。彼らが見た星の光は、もちろんふつうの星の光ではありません。神の光です。神の光を見た彼らの魂はふるえ、神の光が彼らの魂に焼き付きました。彼らはバビロンではそれなりの地位も名声も財産もありました。そのままバビロンで生涯を終えてもよかったはずです。わざわざ危険を冒してまで千キロもの旅をすることはありませんでした。

 しかし主なる神と出会い、主の光を見た人は、そのままにしておくことはできなくなります。主の光に導かれ、主の光と共に旅を始めるようになります。もしそうしないなら、一生後悔するという気持ちに包まれるからです。博士たちも一度きりの生涯、悔いのない生涯を歩むために、主の光に導かれ、旅を始めました。旅の途中、肉眼では星がいつも見えていたのではありません。しかし彼らの魂の目にはいつも星が輝いていたに違いありません。東方で見た主なる神の光が彼らをいつも導き、励まし続けました。さらに彼らが旅を最後まで続けることができた理由として、もうひとつ大きな理由があります。それは《ひとり旅ではなかった》ということです。伝承によれば博士たちは三人でした。星の光が魂に共に焼き付いている三人が一緒に旅をしました。旅の途中で様々な苦労や不安があっても、お互いに励ましあうことができました。旅の苦労を分かち合える友がいる、これはじつに大きなことです。

 2024年、わたしたちに与えられた神の言葉は《恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもってあなたをささえる(イザヤ書41章10節)》です。じつに力強い聖なる神の言葉です。この神の言葉を心に刻み、キリストを信じて、一日一日、きょうの自分を存分に歩みましょう。アーメン


2024年

毎年、豊浜キリスト教会では、その年の聖書の言葉漢字一文字、そして教会のテーマを掲げています。

従来、メメント・モリ(死をおぼえよ)について五つの意訳を掲げていましたが、今年は六つ目のメメント・モリの意訳として「きょうの自分を存分に生きる」を掲げました。メメント・モリについては、別途、掲載したいと思います。

《聖書の言葉  イザヤ書41章10節》

恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。
驚いてはならない、わたしはあなたの神である。
わたしはあなたを強くし、あなたを助け
わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。

《漢字一文字》

《教会のテーマ》

メメント・モリ きょうの自分を存分に生きる


2023年12月31日 今年の最終日曜日の礼拝

「キープ・オン・ゴーイング」

【新約聖書】マタイによる福音書14章22~33節

 2023年もいよいよ終わります。今年一年を振りかえり、皆さんそれぞれにいろいろな事を思い返しておられることと思います。先のクリスマス礼拝でも共に確認しましたが、今年一年の自分への頑張りをおぼえて、自分自身がサンタクロースになって、自分自身が喜び、笑顔になれるプレゼントを自分に差し上げてください。キリストを愛し、キリストと共に生きるとは、キリストがいのちを注がれたほどに愛してくださっている、かけがえのない自分を愛し、大切にすることです。それが出来てはじめて自分の身近な人を愛することが出来るようになります。この世のいろいろな欲望・・・地位や肩書き、財産などに目がくらむと、まるでそのような欲望を追い求めることが自分を愛することであるかのように勘違いしてしまいます。ロシアのプーチン、北朝鮮のバカボン、少なからずの日本の政治家たちがそうです。彼らはこの世の欲望にのみ込まれてしまっています。そして本当の自分を見失ってしまっています。けっしてひとごとではありません。わたしたちの誰もが神の目に高価で尊い、本来の自分を見失ってしまうことがあります。

 嵐のなかで、主イエスが海の上を歩いて近づいて来られるのを見た弟子たちは恐怖のあまり叫び声をあげました。「主イエスを見て、彼らは幽霊だと思った」とあります。なんともこっけいではありませんか。もしこの場面が舞台の上で演じられていて、観客席でわたしたちが見ていたとしたら、弟子たちのこっけいさに笑ってしまうと思います。きっと弟子たちもあとになってこの出来事を思い起こした時、「あんなこともあったなあ」と笑顔になったと思います。しかしわたしたちもそうですが、なやみの渦中に置かれている時は、なやみに翻弄されて、余計な思いわずらいばかりして、自分を見失い、自信を失ってしまうことがあります。

 主イエスはわたしたちにいつも語りかけておられます、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」。このキリストの言葉は今年の豊浜キリスト教会に与えられたキリストの言葉でした。自分になやみの風が吹いてきたら、まずまっ先に、キリストを見上げ、このキリストの言葉を聴きます。「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」。聖なる神キリストがそう語っておられるのですから大丈夫です。大丈夫だから大丈夫です。そして30分間、自分の気持ちを落ち着かせるために、楽しいことに集中します。お茶を飲むとか、散歩するとか、空の鳥や野の花を見るとか、好きな音楽を聴くとか・・・何でもいいのです。なやみから距離を置き、なやみにつつまれている自分の意識を解放し、心を落ち着かせます。そうすると、なやみを乗り越えるために今の自分に出来ることが見えてきます。なやみの風が吹いてきたら、「まずキリストの言葉を聴く。そして30分間、何か楽しいことに集中する」、ぜひこれを会得してください。

 新しい年もキリストと共に自分に胸をはって笑顔で歩みましょう。笑顔で《キープ・オン・ゴーイング》歩みつづけましょう。アーメン


2023年12月24日 クリスマス礼拝

「キリストの誕生」

【新約聖書】ルカによる福音書2章1~20節

 皇帝アウグストが勅令を出したゆえに、身重のマリヤはナザレという北の町からベツレヘムまで200キロもの旅をしなくてはならなくなりました。《どうして、このようなときに勅令が出るのか?》とマリヤとヨセフが思っても不思議ではありません。しかし彼らはその状況を受け入れ、《ガリラヤの町ナザレを出て、ベツレヘムというダビデの町へ上って行った》と聖書は伝えています。

 ベツレヘムでは宿屋が満室で、泊まるところがありませんでした。ここでも《どうして泊まる場所がないのか?》と嘆いても不思議ではありません。しかし二人はその状況を受けとめ、ベツレヘムの町を歩きます。やがて家畜小屋をあてがわれます。《どうして家畜小屋なのか?》と不満に思っても当然ですが、二人は家畜小屋に身を置きます。そしてマリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼い葉おけの中に寝かせました。

 皇帝の勅令も、ベツレヘムの宿屋が満室だったことも、そして家畜小屋でマリヤが出産しなければならなかったことも、二人にとっては大きな試練です。不安です。しかしいつも主なる神が自分たちと共におられることを彼らは知っていました。そしてなやみの中でこそ主なる神の導きを知り、なやみの中でこそ神の愛にふれ、マリヤとヨセフは歩みました。

 今年2023年に豊浜キリスト教会に与えられた聖書の言葉は「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない。」(マタイの福音書14章27節)とわたしたちに語っておられるキリストの言葉でした。クリスマスが伝えているメッセージとは、人生のやみに包まれた時、やみを見るのではなく、やみの中に輝いている光を見よ、キリストを見よ、キリストを信じて歩め、です。真実の神、キリストは信じる者といつも共におられます。このお方が共におられるのだから、何を思いわずらうことがありましょう。何を恐れることがありましょうか。マリヤとヨセフはどのようなやみに包まれても、彼らは光を信じて、何も心配することなく、今、自分たちに出来ることをたんたんと果たしました。

 なやみの中で、くよくよと思い悩んでも仕方がありません。「どうして? どうして?」などと問い続けても意味はありません。やみの中に輝いておられるキリストを信じて、開き直ります。「大丈夫、ニャンとかなる! キリストが共にいてくださる! 心配ない!」。キリストの誕生を大いに喜びましょう。アーメン


2023年12月17日 待降節第三主日

「あなたはひとりではない」

【新約聖書】マタイによる福音書1章18~25節

 聖霊によってマリヤは身重になります。聖霊によって身重になったと言われても、とても信じられるものではありません。ふつうに判断して、マリヤはヨセフ以外の男と関係を持ったとみなされ、当時の律法では死刑となります。ヨセフはマリヤを愛していました。なんとかマリヤの命だけは救いたい。そう思い、事を公にしないまま、ひそかにマリヤを離縁して、彼女がどこか遠くの村で生きていけるように考えました。

 悩んだ末のヨセフなりの判断です。そうと決心はしたものの、なおヨセフは思いめぐらします。思いめぐらすとは、真実の神の導きを祈り求めるということです。ヨセフには、マリヤとひそかに離縁する以外に道はないと思えても、何か心にひっかかるものを感じたのでしょう。不安な気持ちと向き合い、神の導きを求めて、なお神に祈りつづけました。

 《ダビデの子ヨセフよ。心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい》。夢をとおして主なる神がヨセフに告げられました。ヨセフの判断とは正反対のことを主は言われました。マリヤの胎内に宿る子を自分の子として守り、育てるようにという主の言葉でした。《ヨセフは眠りからさめた後に主の使いが命じられたとおりにマリヤを妻として迎えた》とあります。神の導きを確信したヨセフにはもう迷いはありません。眠りからさめるとすぐに行動に移します。神の導きはわたしたちの心に確信を与え、心を平安でつつみます。

 わたしたちの置かれている現実はすぐに白黒をつけることができない出来事であふれています。しばしば心は迷い、不安になります。真実の神を信じる者の救いは、不安でつつまれたとき、神に祈ることができることです。「主よ、今のわたしはどうしたらいいでしょうか? 主よ、今のわたしに出来ることは何でしょうか?」と。ヨセフも自分の判断を最終判断とはしないで、自分の不安と向き合い、主の導きを求めました。

 主なる神は、わたしたちの不安が生み出す祈りを待っておられます。だから不安なときは、不安と真正面から向き合い、神の導きと平安を祈り求めます。主なる神はわたしたちの祈りにこたえてくださいます。必ず、こたえてくださいます。そしてヨセフとマリヤがそうであったように、主なる神はこの自分を唯一無二のかけがえのない存在として愛し、導いておられることを知ることとなります。主なる神におさなごのように祈ることをとおして、やがて不安は確信と平安に変わります。キリストを信じる生涯とは、不安がなくなってしまう生涯ではありません。この世にある限り、わたしたちは様々な状況の中で、様々な不安をいだきます。しかしキリストを信じる生涯では、そうした人生の様々な不安は主なる神への祈りを生み出し、主なる神はわたしたちのいだく不安を、確信と平安に変えてくださいます。不安が、確信と平安に変えられる。これがキリストを信じる者の生涯です。アーメン



2023年12月10日 待降節第二主日

「聖母マリヤ」

【新約聖書】ルカによる福音書1章26~38節

 マリヤへの受胎告知の場面です。この時のマリヤはまだ十代半ばのおさない少女です。のちに聖母マリヤとして慕われるようになりますが、この時のマリヤはまだまだあどけない少女です。《恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます》と聞いて、彼女は《ひどく胸騒ぎがした》とあります。彼女は喜ぶどころか、ひどく不安を感じ、恐れます。無理もありません。いったい自分に何が起こったのか、とうてい理解できることではありません。

 《どうしてそんなことがありましょう》。どうして?とマリヤはたずねます。わたしたちも苦しみのなかで《どうして?》とつい叫んでしまいます。どうしてこんなことが? どうしてわたしに? どうして?・・・人生の荒野に投げ込まれたとき、多くの人がそう叫びます。どうして?と問いかけて、それなりに答えが得られることもあります。しかし苦しみのなかで、どうして?とばかり問いかけても、多くの場合は満足できる答えは得られません。むしろ闇につつまれてしまうことが多いものです。

 やがてマリヤはある真実を知ります。その真実を知ることによってマリヤは《どうして?》と問うことをやめます。そして自分の置かれた状況を受け入れ、告白します、《わたしは主のしもべです。お言葉どおり、この身になりますように》。マリヤが悟った真実とは《主が共におられる》ということです。「自分はひとりではない。聖なる神が共にいてくださる」。そもそも天使ガブリエルは《恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます》と最初からマリヤに告げていました。

 人生は荒野です。苦しみがあり、悩みがあり、悲しみがあります。病気にもなります。年齢とともに体のあちこちにガタがきます。人生の荒野で、わたしたちは《どうして?》とつい叫んでしまいます。たしかに原因追及は必要です。しかし《どうして?》と問いかけても前へは進めません。

 《どうして?》と問うことをスパッとやめましょう。その代わりに《どうする? 今、自分はどう生きる?》と徹底的に問いかけます。過去はこれからを生きるための踏み台です。過去を踏み台にして、《では、どうする? 今、自分はどう生きる?》と徹底的に問いかけます。そして主なる神の目に高価で尊い、唯一無二のかけがえのない自分を歩み続けます。約束された天の御国を目指して、キリストと共に歩み続けます。アーメン


2023年12月3日 待降節第一主日

「ひとあし、ひとあし」

【新約聖書】マタイによる福音書21章1~11節

 キリストはろばの背に乗って神の都エルサレムに入城されました。まずキリストは弟子たちに言われました、《向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見る》。ろばはつながれていました。思えば、わたしたちもいろいろなものにつながれます。一年をふり返ると、それぞれが悩みや悲しみにつながれ、不安や思いわずらいにつながれたことを思います。そもそも生まれた時からわたしたちは死につながれています。まさにメメント・モリ、死を背負って生きているのがわたしたちです。

 《ろばを解放して、わたしのところへ引いてきなさい》。ろばは解放されます。自由になります。キリストを信じるとは解放されることです。不安や思いわずらいから自由になることです。重い心が、ふっと軽くなることです。この一年も様々な思いわずらいにつながれたわたしたちですが、しかしキリストを信じる信仰によって、余計な思いわずらいから解き放たれて来ました。まさにこの時のろばのように、です。

 ろばはキリストを背に乗せて、神の都エルサレムまで歩きました。自分のペースで、ひとあしひとあし歩きました。サラブレッドのようにかっこよく、速く・・・ではありません。ろばである自分のペースで、ろばであることに誇りをもち、胸をはってキリストを背にしたろばは歩きました。このときのろばこそがわたしたちのお手本とすべき姿です。もしろばがウマのようにかっこうよく、せかせかと速く歩こうとしたら背に乗っておられるキリストは転げ落ちたでしょう。

 人にはそれぞれ、その人にふさわしいペースがあります。同じ人であっても、年齢によって、体調によって、ペースは変わります。いまの自分にふさわしいペースで歩む。昔の自分はもっと早く歩くことが出来たとか、もっと早く歩かないと自分はダメだ・・・などと思うのは的はずれです。今の自分に寄りそい、今の自分のペースで歩む。そしてお互いに今のペースを認め合い、今のペースに寄りそう。これがキリストが求めておられる愛です。自分を愛し、互いに愛し合うということです。まさにこの時のろばは、そのようにして神の都エルサレムまで歩きました。

 わたしたちひとりひとりは、いわば「ろば」です。ひとあし、ひとあし、今の自分のペースでぼつぼつと歩く「ろば」です。無理して、急いだり、あせったりすると、背中のキリストが転げ落ちてしまいます。自分自身を見失い、隣人を見失ってしまいます。キリストを背に、ひとあしひとあし歩きつづける「ろば」こそが、わたしたちのお手本です。アーメン


2023年11月26日 聖霊降臨後最終主日 土屋清司牧師

「すべては信仰の有無による」

【新約聖書】マタイによる福音書25章31~46節

 今日のお話が語られたのは、十字架の3日前の火曜日の事です。その十字架の時を知っておられたイエス様は、もうまもなく自分は弟子達を残して死ななければならない、その前に、どうしてもこれだけは伝えておきたいと考え、話された事。それが24章から始まるイエス様の最後のお言葉です。その中でも、これだけはしっかりと伝えておかねばと最後に語られたのが、25章の花婿を待つ10人の娘、タラントの例え、山羊と羊の例え話です。ただ、この頃のイエス様のお話は、盗み聞いているパリサイ人達を強く意識しておられましたから、わざと分かりにくい例えを用いて話されたのです。ですから、うわべを読めばまるで行いの勧めのように感じるかも知れません。それで、多くの人々が間違った解釈をしたり、信仰のあり方そのものを勘違いをしている事があります。しかし、この3つのたとえ話はきちんと読めば、紛れもなく「救いは信仰のみ」の原則が貫かれているのです。

 さて、羊は右、山羊は左に置かれます。右の羊達に言われている事は、イエス様にした善い事だけが語られています。一方、左の山羊達に言われているのは、イエス様に対してしなかった事、悪だけが語られています。つまり右の羊達にもきっと善くない事もあった筈なのに、その悪については何も言われないのです。また、左の山羊たちにもきっと善い行いもあった筈なのに、それは無視されているのです。どういう事でしょうか? すなわち、右の羊たちはイエス様を信じる信仰を持っていた者たちなのです。だから、すべての罪は赦されていますから、もはや罪はなかった事になっているのです。一方、左の山羊たちは、いくら善い行いをしても、イエス様を信じなければ罪は残っていますから、それによって裁かれるという事なのです。

 この前の花婿を迎える10人の娘も、タラントの例えも同じです。非常に誤解されやすい話し方ですが、きちんと読めば「救いは信仰のみ」という信仰の真髄がはっきりと示されています。すなわち、この後、イエス様亡き後、教会には、様々な教えが入ってきたり、律法を持ち込まれたりして信徒達は惑わされるようになります。それでイエス様は、これだけはしっかりと覚えておくようにとの思いを込めて、「救いは信仰のみ」を弟子達に伝えられたのです。アーメン


2023年11月19日 聖霊降臨後第25主日

「キリストの家族として生きよう」

【新約聖書】マタイによる福音書12章46~50節

 「イエスの母と兄弟たちがイエスに話そうと思って外に立っていた」とあります。ここで注目したいのは「外に立っていた」ということです。わたしたちの誰もが最初はキリスト教会の外に、聖書の外に、信仰の外に立っていました。知識として、聖書のことやキリストのことは聞いたことはあったとしても、あくまでも部外者として聞いていたに過ぎません。何でもそうですが、部外者として外に立ったままでは本当のところは何もわかりません。でも中へ入るには最初はとても勇気がいります。その勇気がなかなか出ない。きっと誰もがそのようなところを経験しているのではないでしょうか。わたし自身もそうでした。

 わたしたちが生きていくためには家族や友人そして身近な人たちとの人間関係は欠かせません。こうした人間関係を通して、力や励まし、生きる意欲を得ます。ところが同時に、この世の人間関係を通して、苦しみ、迷い、本来の自分を見失ってしまうことすらあります。自分はどこの生まれで、父はどんな人で、母はどんな人で、兄弟はどうの、親戚はどうの、会社の人間関係はどうの、友人はどうの・・・この世の人間関係はじつに多岐にわたり、複雑です。たとえば、こうした自分とこの世の人々との人間関係を「横の人間関係」とします。「横の人間関係」は励ましや力をもたらすこともあり、また悩みや苦しみをもたらす場合もあります。いろいろとあります。

 キリストは言われます。人の歩みを健全に導き、その人らしく生涯を歩むためには、こうした「横の人間関係」よりも先に、まず真実なる天の神さまと自分との、いわば「縦の関係」が大切である、と。いったん、この世の様々な「横の人間関係」から身を引きます。そして自分の身を天の神さまの前に置きます。すると見えてくる真実があります。神の目には、いつも、つねに、この自分はかけがえのない、唯一無二の高価で尊い人間である、という真実です。神さまにとって、自分がどんなに大切な存在であるのかを知ること、この神と自分との「縦の関係」がはっきりと定まってこそ、この世の様々な「横の人間関係」にも惑わされることなく、自分をしっかりと生きていくことが出来ます。

 人種を問わず、年齢を問わず、性別を問わず、生まれや肩書き、地位や名誉などいっさい関係なく、すべての人が神の前にはかけがえのない唯一無二のひとりの人間です。この真実を知ること、それこそがキリストを信じる信仰です。弱く、愚かで、失敗だらけでも、あなたもわたしも、誰もが等しく神の前にはひとりのかけがえのない人間です。まず、神の前にひとりの人間としての尊厳を持つ。日々、神の愛に包まれて、キリストの言葉を聴きながら、キリストの家族のひとりとして歩みます。キリストの家族として、一度きりの生涯をいのちひたすらに生きていきます。アーメン


2023年11月12日 聖霊降臨後第24主日

「木は、その実でわかる」

【新約聖書】マタイによる福音書12章33~37節

 キリストとパリサイ人との問答が続きます。「木が良ければ、その実も良い。木が悪ければ、その実も悪い。木は、その実でわかる」。わたしたちひとりひとりは、いわばそれぞれが一本の木です。大きな木もあれば、小さな木もある。太い木もあれば、細い木もある。たくさんの葉が茂っている木もあれば、ほとんど葉が茂っていない木もある。白い木もあれば、黒い木もある。しかしその木がどんな木なのか、見かけだけで判断してはいけません。

 パリサイ人たちは聖書に精通し、規則を厳格に守り、献金や祈りも忠実に行っていました。見かけは、とても立派な木に見えます。ところがキリストは彼らに言われました、「まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか」。きびしい言葉です。見かけでは、パリサイ人たちの言動は信仰深く、良い実を結んでいるように思われます。しかしキリストは彼らの偽善を見抜いておられました。パリサイ人たちには肝心なものがなかったからです。それがなければ、彼らがどんなに雄弁であろうが、規則に従って立派な行動をしていようが、しょせんは自己満足であり、偽善でしかありません。

 パリサイ人たちになかったもの、それはキリストの愛です。神の愛です。良い木か悪い木か、それは何で決まるのかというと、その木にキリストの愛が流れているか、いないか、です。見かけは関係ありません。見かけはどれほどみすぼらしい木であろうとも、あるいは弱々しく、目立たない小さな木であろうと、そぼくにキリストを信じて歩むとき、そのような木にはキリストの愛がいつも注がれます。かけがえのない良い木として、キリストが守られます。

 キリストの愛が注がれている良い木であっても、悩み、苦しみ、たくさんの失敗もします。でも良い木は、悩みや苦しみ、失敗のすべてが、キリストの愛に導かれ、やがて実を結ぶこととなります。キリストの愛によって、悩みや苦しみ、失敗のすべてが踏み台となり、木は成長し、良い実を結びます。

 良い木として歩むために大切なことは何でしょうか。おさなごのように素朴にキリストの愛に触れつつ、自分と他人とを比べないことです。他人と比べて「どうせ自分なんて・・・」などと卑屈になってはいけません。逆に、他人と比べて「自分の方が大きい木だ。立派な木だ」などと高慢になってはいけません。「自分はキリストの愛に支えられ、導かれている一本のかけがえのない木だ、今の自分を精一杯、存分に歩もう」と思って生きることです。

 天の御国に入れられるまで、キリストの愛につつまれて、自分の置かれた場所で、自分の枝を伸ばし、自分の花を咲かせましょう。どんなときも胸をはって、天を見上げ、かけがえのない一本の木としての誇りをもって歩みましょう。アーメン


2023年11月5日 召天者記念礼拝

「かけがえのない自分を生きるために 聖書が伝えていること」

【新約聖書】ピリピ人への手紙3章13~14節

 真実の神さまにとって、わたしたちひとりひとりは、かけがえのない、高価で尊い存在です。神さまが天地を創造され、人間を創造された時から、神さまの目にはわたしたち人間はひとりとして例外なく、高価で尊い存在であるという真実に変わりはありません。神の御子キリストというお方は、この神の真実を身をもって示してくださいました。

 真実の神さまを知らないと、自分という人間がどれほどかけがえのない高価で尊い存在であるか、わかりません。真実の神さまを知ってはじめて、本来の自分を知ることができます。今のありのままの自分が神さまに愛されている、自分は唯一無二のかけがえのないひとりの人間であると知ることができます。真実の神さまを知らないと、自分という人間をこの世の尺度で判断してしまいます。たとえば、仕事や業績、肩書きや家柄、地位や名誉などによって、他人と比べて、自分はどのような人間なのか判断してしまいます。結果、優越感にひたったり、劣等感につつまれたりします。この世は否定的な言葉や対応にあふれていますから、否定的な言葉や対応によって、自信を失い、生きる意欲すら失ってしまうこともあります。

 真実の神さまと出会うことによって、本来の自分を知ることとなります。これまでどれほど失敗をしていようが、あるいは他人と比べてどれほど自分が貧弱に見えようが、そんなことはまったく関係ありません。真実の神さまの前に今のあるがままの自分の身を置くと、いつも神さまはやさしく語りかけてくださいます、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」キリストを信じて歩むとは、神さまからのこの語りかけをいつも聴きながら、唯一無二の自分を歩むことです。かけがえのない一度きりの人生を自分に自信をもって生きぬくことです。

 キリスト教は道徳ではありません。多くの日本人はキリスト教を誤解しています。聖書が伝えているのは、わたしたちひとりひとりが神さまの目にはかけがえのない存在であり、神さまはわたしたちひとりひとりを、唯一無二のかけがえのない存在として、愛し導いておられるということです。毎週日曜日に開催されるキリスト教会での礼拝は、とかくこの世の様々な出来事によって自分を見失いがちなわたしたちが、神さまの前に自分の身を置いて、かけがえのない本来の自分を取り戻し、自信を取り戻し、再び歩み始めるためにあります。

 キリストを信じて洗礼を受けるだけで、永遠なる天の御国へのパスポートが無料で与えられます。死の恐怖から解放されます。これはわたしたち人間への神さまの愛の証しです。神の愛につつまれて、一度きりの生涯を、胸をはって自分を生きることが出来るようになります。これを福音といいます。福音とは、神さまからのグッドニュース(良い知らせ)という意味です。アーメン


2023年10月29日 

「真実の神は聖なるお方である」

【新約聖書】マタイによる福音書12章31~32節

「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」。どきっとするキリストの言葉です。神さまに文句ばかり言っている自分は大丈夫だろうか、などと心配する人もいるかもしれません。結論から言いますと、心配はいりません。そのように心配する人は、聖霊に言い逆らう罪とは無縁です。安心してください。父なる神に逆らっても、またキリストご自身に逆らっても、悔い改めて、赦しを求めるなら、赦していただけます。しかし聖霊に逆らう罪だけはゆるされることはない。ここで誰もがそぼくに思います。「聖霊に逆らうとは、どういうことなのだろうか?」。


 ある安息日での出来事です。盲人で口もきけない人がキリストのもとへ連れてこられました。当時の安息日はあらゆる医療行為が禁じられていました。しかしキリストは連れてこられたこの男を癒やされます。彼は目が見え、話すことも出来るようになりました。この出来事を見た群衆は「この方こそが救い主ではないか」と叫びます。ところがそこにいたパリサイ人たちは言い放ちます、「これは悪魔の力だ」。

 パリサイ人たちもキリストの驚くべきわざを目撃しました。しかし律法の規則を守ることこそが神を信じて歩む者の姿であると信じて疑わない彼らは、安息日の規則をやぶってしまうような者(キリスト)をとうてい認めることは出来ませんでした。キリストの驚くべきわざを見て、パリサイ人は「これは悪魔の力だ」と言い放ったわけです。

 パリサイ人たちは律法を守るということを第一に考えていました。人の命よりも、律法を守ることを重んじていました。そして自分たちこそ、律法を完全に守っているゆえに、神の前に正しいと認められていると信じて疑いませんでした。自分たちは神の前にはつねに正しく歩んでいると思っていましたから、神に罪の赦しを求めることなどありませんでした。そもそも罪のゆるしなど、まったく自分たちには必要ないことだと思っていたからです。聖霊に逆らう罪とは、自分には神のゆるしなどまったく必要ないと思っている人たちのことです。自分は神の前に完全に正しく生きている、自分は罪とは無縁だと思っていることです。ある牧師は言いました、「これはふつうにはあり得ない罪だ」と。そのとおりです。しかし当時のパリサイ人はまさにそのような者たちでした。

 誰であろうと聖なる神の前には人はしょせんは罪人です。しかし、おさなごのように主なる神に罪のゆるしを求めるなら、主なる神はその罪をゆるし、救いへと導いてくださいます。ところが自分の罪を罪として認めないなら、もはや神もそのような人をゆるしようがありません。パリサイ人のような人たちは昔も今もあちこちにいます。自分の正しさばかりを主張し、平気で人を傷つけ、人の命すら奪ってしまう者たちがいます。しかし真実の神は聖なるお方です。けっして罪をうやむやにされるお方ではありません。アーメン


2023年10月22日 東鳴尾ルーテル教会 特別聖書月間での説教

「希望」

【旧約聖書】創世記1章1~5節 新約聖書 ヨハネによる福音書14章1~6節

 メメント・モリとは「死をおぼえよ」という意味のラテン語です。豊浜キリスト教会ではメメント・モリを教会の標語としています。この世に生まれた瞬間から、じつはわたしたちの誰もが死を背負って生きています。いつ眼前に死が迫ってきても不思議ではありません。死を見失い、生きていることを当たり前のことと思ってしまうと、大切なものが見えなくなり、欲望に振りまわされたり、本来の自分を見失ってしまいます。もし自分の余命があと一年だとしたら、自分は何を思い、どう生きるか、考えてみてください。

 死の前にはすべては無力です。死を前にして、わたしたちはどうすることもできません。そして明日、自分が生きているという確証はありません。ゆえに、死を背負って生きているわたしたち人間にとって、希望とは「まだ先がある」とは断言出来ません。戦時下にあるウクライナで、死が眼前に迫っている人々にとって、「明日がある。まだ先がある」などと悠長なことは言えません。

 では、希望とは何か。希望とは、死をつらぬいておられる永遠の神であるキリストがおられるということで。もっと端的に言うなら「希望とはキリスト」です。キリストは言われました、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもと(永遠の御国)に行くことはできない。」と。キリストは、死の向こうにある永遠の御国へ、わたしたちを導くことのできる唯一の「道」であり、うそ偽りのない「真理」のお方であり、そしてご自身を信じる者に死をつらぬく永遠の「命」を与えることのできる唯一のお方です。わたしたちがキリストを信じる時、死は天の御国への入り口となります。いつ死んでも天国です。キリストを信じることによって、はじめて死の恐怖から解放されます。まさにキリストこそが希望です。アーメン


2023年10月15日

「大切なのは規則か、人の命か」

【新約聖書】マタイによる福音書12章9~14節

 ある安息日に神さまを礼拝するために会堂に集まった人々の中に片手が動かなくなった男がいました。原因はわかりません。キリストが彼に目を止められたほどですから、彼は相当の痛みをおぼえていたと思います。しかし当時、安息日にはいっさいの医療行為は禁じられていましたから、どれほど痛みがあろうとも医療行為を受けることはできませんでした。

 キリストに反感をおぼえているパリサイ人たちは「安息日に人を癒やしてもいいですか?」などと、痛みで苦しんでいる目の前の男のことはまるで眼中にないかのように、キリストに質問します。キリストはパリサイ人たちの思いをすべてご存知の上で、「安息日に良いことをするのは、正しいことである」と言われ、片手が動かないで苦しんでいる男に向かって言われました、「手を伸ばしなさい」。言われた男は何のためらいもなく、動かない手を伸ばしました。「手を伸ばすと、もう片方の手のように良くなった」と聖書は記しています。

 人がどれほど苦しみ悩んでいても、人よりも規則を重んじるパリサイ人たちでした。規則を重んじるあまり、人の命の尊さがまったく見えなくなり、人の痛みや苦しみがまったくわからなくなってしまったパリサイ人たちを可哀想にも思います。人の命の尊さも人の痛みもわからないにも関わらず、当時のイスラエルの社会では彼らが指導者でした。人間をほとんど知らない者が人間社会の指導者になるという、この悲しい現実は現代のわたしたちの社会でも見られます。

 人の命よりも、自分の名声や名誉を、あるいは財産や家柄、立場や経歴などを大切だと考えている人はじつに多い。当時のパリサイ人のような人たちは、いつの時代にも、そして現代にも、じつにたくさんいます。そしてそのような人たちによって、命がおびやかされて、安心して生きていけない弱い立場の人たちがたくさんいます。ひとごとではありません。人は誰でも、この世の様々な権威や権力を手にしてしまうと、人の命そのものの尊さを見失ってしまう危険性があります。当時のパリサイ人のように、人の命そのものの尊さを見失ってしまうことは誰にでもあります。 

 神の御子キリストは、そもそも何がもっとも大切なのか、身をもって伝えてくださいました。本日の出来事もまさに人の命の尊さをキリストは身をもって伝えておられます。当時の律法も、現代の憲法や法律、様々な規則のすべては、わたしたちが安心して生きていくために備えられたものです。規則ではなく、人の命こそがもっとも高価で、何ものにも代えられない大切なものです。アーメン


2023年10月8日

「あなたはあなた、それでよし!」

【新約聖書】マタイによる福音書11章28~30節

 「リファレントパーソン」という臨床心理学の考え方があります。リファレントパーソンとは「あなたが慕い、尊敬する人」という意味です。たとえば、いろいろときびしい状況に置かれ、不安になったり、途方に暮れた時、「あの人なら、どうするだろうか?」と、自分が慕い、尊敬する特定の人を思い浮かべて、自分を見つめ直すことです。キリストを信じる者にとって、リファレントパーソンはキリストです。いつもキリストに問いかけてみます。「主よ、あなたは今のわたしになんとおっしゃいますか?」。

 いつもキリストは「すべて重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と言われます。まっさきに人のいのちを大事にされるお方です。つい、人の言葉や世間体、仕事や名声、学歴、財産、あるいは過去の失敗などの、この世の物事に心がしばられ、不安に包まれてしまいがちなわたしたちです。キリストは、そのようなわたしたちを不安から解放し、安心感を与えてくださるお方です。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」「大丈夫、何も恐れることはない」「まずはゆっくり、休みなさい」「もっと自分を大事にしなさい」「神はあなたに乗り越えることの出来ない試練は与えない」「自信を持ちなさい」「あなたはあなた、それでよし!」。

 この世の様々な状況の中で、まずキリストからの語りかけに耳を傾け、「安心感」を得ましょう。じつはわたしたちが自分らしく生きていく上で、最も根本的かつ重要なもの、それが「安心感」です。平安ともいいます。この世にあっては、ほんとうに様々なことがあります。思ってもみない事があります。明日のことすら、はっきりと断言できないのがわたしたち人間です。思いわずらったら、それこそキリがありません。キリストは、弱く、思いわずらいやすいわたしたちに安心感を与え、安心感でつつんでくださいます。「わたしのもとへ来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」。

 キリストを信じて生きるとは、この世の物事を突き抜けて生きることでもあります。わたしたちを惑わせ、不安にしがちなこの世の物事・・・人の言葉、仕事、名声、名誉、財産、肩書き、学歴などなど・・・これらはすべてが、所詮はこの世の物事でしかありません。もっとも大事なもの、それは人の命そのものです。キリストはわたしたちひとりひとりの命をこそ、第一に考えておられます。わたしたちひとりひとりが、かけがえのない、一度きりの人生を生きぬくために、生きる上でもっとも大切な安心感を与えてくださるお方です。死を突き抜けておられる、永遠なる真実の神、キリストであるからこそ、わたしたちに与えることのできる安心感です。この安心感があってこそ、自分に自信を持てます。唯一無二の自分の人生を、楽しく、笑顔で生きていくことができます。さあ、きょうもキリストから安心感をいただき、精一杯、歩みましょう。アーメン


2023年10月1日

「神はあなたを愛しておられる ~おさなごのように~」

【新約聖書】マタイによる福音書11章25~27節

 「これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、おさなごにあらわしてくださいました」とキリストは祈られました。別の箇所では「よく聞きなさい。心をいれかえて、おさなごのようにならなければ、天国にはいることはできない」(18章3節)と語っておられます。おさなごは無邪気で純真、まさに今の自分を生きているといってもいいでしょう。親に抱かれて、笑い、泣き、明日のことを思いわずらうことなどいっさいありません。そしてもうひとつ、生まれたばかりのおさなごを通してわかること、それはおさなごは無力であるということです。もし親が手を放したら、おさなごは生きていけません。もし親が食べるもの、飲むものを与えなければ、おさなごは生きていけません。親の愛に守られて、おさなごは笑い、泣き、食べることや飲むことができます。自分を生きることができます。

 キリストが「おさなごのようにならなければ」と言われたのは、そもそもわたしたち人間は誰もが神の前にはおさなごであるという意味です。明日のことすら、はっきりしたことはわかりません。とてもわたしたちは無力です。だからこそ、真実の神は、わたしたちの父なる神として、わたしたちひとりひとりを養い、導き、神の愛で包んでおられます。キリストは、そのような父なる神の愛を身をもってわたしたちに伝えてくださり、そのような神さまの愛につつまれて、いつも神の腕に抱かれているおさなごとして、生涯を歩みなさいと言われたのです。

 ところがわたしたち人間は、年齢を重ね、この世のいろいろな物事に惑わされ、あるいはこの世の権威や権力にしいたげられてしまい、神のおさなごであることを見失ってしまいます。本来、明日のことすらわからない身であるのに、明日のことをあれやこれやと思い悩んでみたり、何でもかんでも自分の力でやろうとしてみたり・・・結果、おさなごのような純真さや自分らしさ、素朴さを失ってしまいます。ペテロも、ヨハネも、パウロも、そしてマルチン・ルターも、マザーテレサも、神のおさなごとして生涯を全うした人たちは、どこかおさなごのような素朴さ、純真さを感じます。このような人たちは世の権威や権力には屈しなかったのですが、同時におさなごに見られる素朴さ、純真さを感じます。

 神の前におさなごのように生きるとは、より具体的に言うなら、すべて最終判断は父なる神さまにおまかせするということです。あのこと、このこと、これから先のこと、それらの最終判断を父なる神にいっさいおまかせします。「父なる神さま、あなたのご判断におまかせします。どうぞ、よろしくお願いします」と。そして父なる神の愛につつまれ、神の腕に抱かれて、きょうの自分を精一杯に歩みます。最終判断を神さまにおまかせするだけで、余計な思いわずらいや束縛から解放されて、心は軽くなります。本来の自分をおさなごのように素朴に生きられるようになります。アーメン


2023年9月24日 説教 土屋清司牧師

「主は今も待っておられる」

【新約聖書】マタイによる福音書20章1~16節

 ブドウの収穫期、ぶどう園は人手が足りなくなる為、主人は人を求めて出かけました。朝6 時、9時、12時、15 時。17時。それは、それほどまで農園で働く人が不足していたという事です。だから、主人は、職を求めてそこにいた人は全部雇った筈です。でも足りなくて、何度も何度も人を求めて出かけて行ったのです。だから、17 時に雇われた人は、「誰も雇ってくれなかった」と、言ってはいますが、そこにいれば雇われた筈なのです。だから本当は、朝からずっと待っていたのではないのです。

 つまり彼には働く気はなかったのかも知れません。でも、主人は嘘をついた彼をも雇い入れました。そして皆と同じ賃金を払いました。つまり主人の人を雇う条件とは、罪の有無でもなく、働けるかどうかでもなく、主人に従う事にあったのです。もちろん皆様お分かりですが、これは人の救いに関わるイエス様のたとえ話です。だから、主人に従いさえすれば、罪人でも誰でも皆、救いという報酬を等しく受ける事が出来たのです。

 そこで一つ考えます。では神様は、なぜ、先の人、後の人の区別をされたのか? どうせ救うのであれば、少しでも早く救ってあげた方が良かったのではないか? でも、それは人間の側の都合良い考えであって、神様のご計画は別の所にあった。すなわち、早い人にも遅い人にも、すべての人の人生を通して神様のご栄光が顕される為。早い人には、早くから神様の為に働くという人生を通して。遅い人には、救われるまでの人生のあれこれを通して、救いへと導いて下さる神様の素晴らしさを顕す為に。そういう事ではないでしょうか? 

 だから、早い人も遅い人も、誰もが始めからずっと神様に覚えられていたのです。そして、そのすべての人の時を神様は導いていて下さったのです。そして6時、9時、12時。15時、17時、みんなそれぞれの時に、神様に救って頂いたのです。だからみんな同じ。同じ救いという賃金で良いのですね。そして神様は今も、次に救われる人の時を計りながら、今も待っておられるのです。アーメン


2023年9月17日

「その日は必ず訪れる」

【新約聖書】マタイによる福音書11章20~24節

 日本の平均寿命は世界トップレベルです。最近の政府発表によると65歳以上の高齢者人口は全体の29%です。10人に3人が65歳以上となる社会になりました。65歳以上を高齢者と呼ぶのはもう時代遅れのように思えます。人生は「何歳まで生きたか?」ではなく、「どのように生きたか?」が問われます。量ではなく、質が問われます。これは今も昔も変わらないことですが、平均寿命が延びることで、あらためてわたしたちが意識することとなりました。

 コラジン、ベッサイダ、そしてカペナウムとは、いずれもガリラヤ湖の北の町々です。キリストは福音宣教をこれらの町々からお始めになりました。これらの町々で、数々の力あるわざもなされ、山上の説教をはじめとして、神の愛と恵みを懸命に語ってこられました。ところが多くの人々は、結局のところ、キリストを信じようとせず、キリストから離れていきました。そのような心がかたくなで、悔い改めようとしない人々の姿をご覧になって、キリストは「わざわいだ」と叫ばれたのです。

 「わざわいだ」と訳されている言葉は、「おまえたちのことはもう知らん! 滅びてしまえ!」ではありません。誤解してはいけません。この言葉は壁に頭をぶつけたときなどに発する「痛い!」という意味です。別の聖書では「ああ、コラジンよ ああ、ベッサイダよ」と、「ああ!」と訳しています。なかなか信じようとしない人々をご覧になって、キリストは深く嘆き、悲しんでおられるのです。

 キリストは深い嘆きのなかで「聖なる神のさばきの日は必ず訪れる。その日が訪れたら、もはやどうしようもなくなる」と人々に警告しておられます。ヘブル書9章には「人間には一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきに会うことが定まっている」とはっきりと記されています。イザヤ書55章では「あなたがたは主にお会いすることができるうちに、主をたずねよ。近くにおられるうちに呼び求めよ」とあります。いずれも神の愛ゆえの警告です。

 今ならまだ間に合います。魂の救いにあずかることもそうですが、それ以外のことでも、だらだらと先延ばしにしていること、うやむやにしていること、ずっとほったらかしにしていることはありませんか。あるいは一歩踏み出すことをためらっていることはありませんか。終わりの日が来たら、もはやどうしようもなくなります。でも、今ならまだ間に合います。まだ大丈夫です。しかし次はもうないかもしれない。生きる上で、こうした聖なる緊張感をわたしたちは忘れてはなりません。きょうをどう生きるのか、それはきょうの自分がすべての鍵を握っています。まず神の言葉を聴き、そしてきょうの自分を精一杯に生きる。神があなたを愛しておられるように、自分を愛する。身近な人を愛する。互いに愛しあう。そのためにきょう、自分はどう生きるのか。この地球上の全ての人々に聖なる神が問いかけておられることです。アーメン


2023年9月10日

「わかった気になってはいけない」

【新約聖書】マタイによる福音書11章15~19節

 「わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった・・・」。これは当時の子供たちの歌です。笛を吹いたら、一緒に踊る人もいれば、踊らない人もいる。たわいもない子どもの歌です。この子どもの歌を引用して、キリストは「世の中のことを知らない小さな子どもならまだしも、大人たちも神の真実がわかっていない」と指摘されました。人々はバプテスマのヨハネを見て「あれは悪霊につかれている」などと言ってみたり、キリストを見て「あれは食をむさぼる者、大酒飲みだ」などと言いました。ヨハネやキリストのほんのうわべだけを見て、わかった気になってしまっている。そのような大人たちの愚かさをキリストは痛烈に批判しておられます。

 現代のわたしたちも、何もわかっていないのに、わかった気になっていることがあります。「人生とはこんなもんだ! 会社経営とはこんなものだ! 大事なのは名誉だ、名声だ、お金だ!」などと、わかった気になっている人のなんと多いことでしょうか。あるいは「なんて自分はダメなんだ、なんて自分はつまらない人間なんだ」などと勝手に自分のことを判断して、分かった気になってしまうことも多いものです。

 わかった気になってはいけません。たとえば主なる神さまがどれほど自分を愛しておられるか、自分はどれほどかけがえのない高価で尊い存在なのか、知り尽くすことはできません。実際に自分を生きてみて、いろいろと体験していく中で、少しずつ、知っていくことです。自分自身のことも、自分の身近な人のことも、まだまだ知らないことがある。ましてや、主なる神の導きなど、とうてい計り知れるものではありません。神を信じて、実際に自分を生きていく中で、すこしずつ、身に染みて、わかるものです。

 生きるとは、実際に神を信じて、日々、踏み出すことであり、どのような状況に置かれても、何があろうとも、最後の最後まで、天の御国へ入れられる瞬間まで、踏み出し続けることです。挑戦し続けることです。今、自分に出来ることにチャレンジし続けることです。自分をあきらめないことです。

 まだまだ自分の知らない世界がたくさんあります。悩みにおそわれても、苦しみにつつまれても、一歩踏み出します。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」。この神の言葉が、いかに真実であるのか、他の誰でもなく自分自身が身に染みて味わうために、一歩踏み出します。踏み出し続けます。生きつづけます。チャレンジし続けます。神の言葉がいかに真実であるのか、頭だけではぜったいにわかりません。繰り返します。神の言葉を信じて、一歩踏み出します。そして踏み出し続けます。そうであってはじめて、神の大いなる恵みと導きが肌でわかります。アーメン


2023年9月3日

「心の免疫力《自己肯定感》」

【新約聖書】マタイによる福音書11章7~14節

 キリストを自分の師と仰ぎ、キリストの言葉を食べながら、かみしめながら、自分を生きる。これこそが、この世の余計な物事に振りまわされず、自分を見失うことなく、自分に自信をもって生きるための唯一の道です。バプテスマのヨハネも、まさにそのように生涯を歩みぬいたひとりです。彼は、主なる神のいわば「前座」であることに徹したひとりです。ヨハネはいつも人々に語っていました。「自分は救い主ではない。自分の後から正真正銘の救い主がお越しになる。真打ちである救い主キリストを指し示す、わたしは前座に過ぎない」。とかく人は権力を持つと、自分こそが師匠だ、真打ちだ、神だ、などと傲慢になります。バプテスマのヨハネは人々から「あなたこそ本物の救い主では?」と思われるほどでした。しかし彼は主なる神を神とし、神の言葉を人々へ伝える預言者のひとりとして、前座としての生涯をまっとうしました。

 すこし話は変わります。戦後、日本人の寿命が延びた最大の理由、それは食生活の豊かさにあります。もちろん衛生環境も整い、薬や医療技術の進歩したことも影響しています。しかし平均寿命が延びた最大の理由は、日本人の食生活が豊かになり、「体の免疫力」が向上したからです。体の免疫力が向上し、病気にかかりにくくなり、治癒力も高まりました。

 体の免疫力に食べ物が深く関わっているように、人の「心の免疫力」も食べ物が深く関わっています。ただし、ここで言う食べ物とは「言葉」のことです。人が、どのような「言葉」を食べてきたのかによって、その人の心の免疫力(自己肯定感とも呼ばれます)は上下します。たとえば否定的、破壊的な言葉をたくさん食べると、心の免疫力(自己肯定感)は下がります。心の免疫力(自己肯定感)が下がると、自信を失い、他人のちょっとした言葉に振りまわされ、自分を見失ってしまいます。最悪、生きる力を失ってしまうことさえあります。肯定的な、愛に満ちた言葉を食べると、心の免疫力(自己肯定感)は高まり、自分であることに自信を持って、他人の言葉に振りまわされることなく、自分を歩むようになります。

 ヨハネはつねに神の言葉を聴き、神の言葉を食べて生きていました。当時、ヨハネのように預言者と呼ばれる人たちは、神の言葉をかみしめ、心にたくわえ、そして神の言葉を人々に語り伝えていた人たちです。神の言葉に生かされていたからこそ、世の権力者を恐れることも、自分を見失うこともありませんでした。

 キリストを信じて生きるとは、キリストの弟子であることに徹して、つねにキリストの言葉を食べながら、キリストの言葉をかみしめながら、生きることです。礼拝とは、神の言葉を食べることから、新しい週を始めるためにあります。さあ、真実の神の言葉をきょうも食べて、かみしめてください。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。」アーメン


2023年8月27日

「誰を待ち望むのか」

【新約聖書】マタイによる福音書11章1~6節

 洗礼者ヨハネはヘロデ王に捕らえられて獄中に入れられています。いつ首をはねられてもおかしくない状況です。まさにメメント・モリ、明日はないかもしれない状況に、この時のヨハネは置かれています。こうした極限状態の中で、洗礼者ヨハネは何を願ったのか、この時のヨハネを通して、聖書は大いなるメッセージをわたしたちに伝えています。

 ヨハネは獄中から、自分の弟子たちをキリストのもとへ送り、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。」とキリストに問いかけました。これは「あなたこそが待ち望んでいた正真正銘の救い主ですか。」という意味です。これこそ死を前にしたヨハネの魂からの叫びでした。ヨハネの魂からの叫びに対して、キリストはお答えになります。「わたしにつまずかない者はさいわいである」。これは「わたしこそ正真正銘の救い主である」という意味です。理不尽にも、ほどなくヨハネは首をはねられてしまいます。しかし彼の魂は正真正銘の救い主を知り、キリストを信じ、神の平安でつつまれていたに違いありません。

 ヨハネのこの世での最後の姿を通して、あらためて思います。わたしたち人間にとってキリストに代わるものはない、ということです。この世にあって、誰もが死を迎えます。ひとりとして例外はありません。あるいはこの世には死に匹敵するほどの大いなる試練があります。戦争しかり、大病しかり、あるいは裏切りにあったり、まさに死に匹敵するほどの試練があります。牢獄に入れられたような痛み、恐怖、不安をおぼえます。そのようた時、もはやこの世の教え、文化、財産、地位、名誉などは無力です。力あるのはキリストだけです。キリストだけが、わたしたちに平安を注ぐことの出来る、唯一のお方です。キリストに代わるものはない。洗礼者ヨハネの最後を通して、聖書はその真実をわたしたちに伝えています。

 牢獄で、不安でつつまれていたヨハネが、キリストを求めます。そしてやがて同じ牢獄で、キリストの平安につつまれます。キリストに祈るとはこのようなことです。最初は不安や恐怖の中からキリストに不安や恐怖、悲しみをぶつけます。キリストに訴え続けます。やがて必ず、キリストは答えてくださいます。キリストの力ある言葉が注がれます。そして再び歩み出します。人生はこの繰り返しです。

 キリストを信じる生涯は、祈りの生涯です。自分の全存在をキリストにぶつける、それが祈りです。牢獄のヨハネがキリストに自分の思いをぶつけたように、です。どのような思いであろうと、遠慮なく、ありのままにキリストにぶつけます。必ず、キリストは答えてくださいます。あなたの祈りに答えてくださいます。キリストこそ、まさに生ける神、正真正銘の救い主です。アーメン


2023年8月20日

「責任転嫁」

【旧約聖書】創世記3章8~13節

 科学技術の進歩によって、わたしたち人間の社会環境はずいぶんと変化しています。しかし人間そのものはまったく変わっていないことを創世記を通してつくづくと思います。

 《あなたはどこにいるのか》。食べてはならないと言われていた木の実を食べてしまったアダムとエバは神さまから身を隠しました。神の愛につつまれて、エデンの園で天真爛漫に自由に生きていた二人の姿は、もうありません。もしアダムが「食べてはならないといわれていた木の実をわたしは食べてしまいました」とすなおに神さまの前に告白していたなら、その後の展開は変わっていたと思います。ところがアダムは最初から自分の失敗をごまかそうとします。《わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです》と言って、悪いのはエバだ、そしてエバのような女と一緒にされた神さまのせいだ、などと言い訳します。エバも《へびがわたしをだましたのです》と言い、自分の非を認めません。

 「神さまがおられるのに、なぜ戦争があるのか。どうして人間社会に争いが絶えないのか。」などと息巻く人たちがいます。まったく自分のことを棚に上げた物言いです。そもそも戦争を起こしているのは人間です。しかしそれを神さまのせいにしています。責任転嫁です。的がはずれています。自分の非を他人や状況のせいにする。こうした人間の姿は太古からすこしも変わっていません。

 そもそも失敗のない人生などありません。主なる神が人間に願っておられることは「失敗しないこと」ではありません。真実の神が願っておられることは、わたしたち人間が失敗した時、真実の神を見上げ、自分の失敗と向き合い、おさなごのように悔い改め、失敗を踏み台にして、起き上がり、歩み出すことです。晩年に洗礼を受けた広岡浅子さんの言葉「九転十起」のごとく、まさにわたしたちの人生は失敗の連続であり、何度も倒れてしまいますが、しかしそのたびに神を見上げ、悔い改めて、起き上がる。そして、かけがえのない神の作品である自分を歩み出す。人生はこの連続です。人形や機械なら失敗はないでしょう。しかし神はわたしたちを人間として創造されました。失敗もするであろうことをご承知の上で、人間に自由意志を与え、神と対話する生きる存在として創造されました。

 わたしたちは失敗もし、傲慢にもなり、また自信を失い、卑屈にもなります。神を見失い、人間社会の比較の世界にのみこまれ、優越感と劣等感に翻弄されることもあります。弱い人間ですから。しかし問題はここからです。自分の愚かさ、間違いに気づいた時、神の前に身を置き、自分と向き合い、悔い改めつつ、自分の人生を歩み抜くのか。それとも神から身を隠したまま、自分と向き合うこともなく、周囲の人々や状況に翻弄されながら、人生を終わるのか。自分の人生の鍵は、他の誰でもなく、自分自身が握っています。アーメン


2023年8月13日

「詐欺の手口」

【旧約聖書】創世記3章1~7節

 神さまの祝福でつつまれ、エデンの園で天真爛漫に、しあわせに毎日を過ごしていたアダムとエバが、どうして神さまにそむいたのか。アダムとエバのそむきは、けっして他人事でも架空の物語でもありません。時代を問わず、民族を問わず、年齢、性別を問わず、およそ人間である以上、すべての人に共通する人間の姿です。

 「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神は言われたのですか」。エバを誘惑しようとしてヘビが発した言葉です。ヘビのねらいは、表面上は神さまを敬っているそぶりを見せながら、なんとかして神さまの言葉をねじ曲げるところにあります。現代でも多くの人が詐欺に遇うのは、ひとつには詐欺の手口が巧妙だからでしょう。相手を安心させて、すこしずつ言葉巧みに引き込んで行きます。ヘビとエバの会話のやり取りをじっくりと見て行くと、ヘビがじつに巧妙に神さまの言葉をねじ曲げて、エバをだまそうとしているかがわかります。

 人間が分をわきまえ、傲慢にならないために植えられた一本の木、それが園の中央の善悪を知る木でした。食べてはならないのはこの木だけです。エデンの園にはきっと何百本もの美味しい実をつける木が植えられていました。善悪を知る木は「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」とあります。くどいようですが、別にこの善悪を知る木だけが、とりわけ美味しそうな特別の実をつけていたのではありません。どの木も食べるに良く、目には美しかったのです。アダムとエバはべつに善悪の木の実を食べることができなくても、十分に満足していたはずです。食べてはならないがゆえに、余計に食べたいと思ったのでしょうか。あるいは神のようになれるなどというヘビの言葉を信じて食べてしまったのでしょうか。

 すでに満たされているのに、なお欲する。神の領域を侵してまで、人々を傷つけてまで、自分の欲望を満たそうとする。神さまが与えてくださった自由意志をはき違えて、自分勝手に的外れのことに用いてしまう人間のこうした傾向を、聖書では罪(的はずれ)と指摘しています。 

 一人として例外なく、聖なる神に背を向けてしまい、人を傷つけ、自分の利益を求めてしまいます。ただし、自分の的はずれの行動に気づいた時、聖なる神にきちんと悔いあらため、ゆるしを請い、再び、自分の人生を胸をはって歩み出す人もいます。ところが、まったく悔いあらためることをしないで、そのまま神に背を向けつづけ、自分の欲望と保身のために走り続ける人もいます。

 人生において、何度失敗しようが、何度だまされようが、その都度、真実の神を見上げ、悔い改めて、神のゆるしをいただき、永遠の天の御国、すなわち永遠のエデンの園を目指して、歩みつづけるのか。それとも神に背を向けて、本当の自分を見失ったままに歩むのか。一度きりの生涯です。どちらを選ぶのか、その人自身が自分の人生の鍵を握っています。アーメン


2023年8月6日

「人がひとりでいるのは良くない」

【旧約聖書】創世記2章18~25節

 【人がひとりでいるのは良くない】。誤解してはいけないのは、これは独身であってはいけないとか、一人暮らしは良くない、などという意味ではありません。そもそも、わたしたち人間の生きがいや喜びは、地位や肩書き、財産などの「モノ」によって得られるのではなく、自分以外の人間を通して、そして人間だけでなく、命ある動物を通して、与えられるものであるという真実を告げています。
 最初、神さまは野のすべての動物、空のすべての鳥をアダムのところに連れて来られました。しかし【アダムにはふさわしい助け手は見つからなかった】とあります。「人間にとってふさわしい助け手となり得るのは人間のみであって、人間以外の動物は論外だ」などと、もし主なる神さまが最初から思っておられたのなら、このような回りくどいことはなさらなかったはずです。すぐにエバを創造されたはずです。この時のアダムには鳥や動物にはふさわしい助け手は見つかりませんでしたが、この出来事は、人間にとってのふさわしい助け手に、人間だけでなく、動物もなり得ることを暗示しています。


 続けて神さまは言われます。【あなたのために、ふさわしい助け手を造ろう】。ふさわしい助け手とは、結婚相手のことだけを意味するのではありません。そもそもひとりでは生きて行けないわたしたち人間です。人生の様々な状況の中で、その都度、ふさわしい助け手が与えられ、そうした助け手を通して、励ましを受け、慰めを受け、力を受けています。主なる神さまがその都度、置かれた状況にふさわしい助け手をわたしたちのもとへ送ってくださるということです。それはちょうど、アダムが深い眠りの中で、つまり彼のまったく知らないところで、エバが創造され、彼のもとへ送られたように、です。

 【人がひとりでいるのは良くない。ふさわしい助け手を造ろう】という神さまの言葉は、アダムの時から現代に至るまでまったく変わらない神のみ心であることがわかります。神さまは、この言葉通りに、今もなお、わたしたち一人一人を導いておられます。思えば、自分以外の誰かをとおして、あるいはワンちゃんやネコちゃんなどの自分以外の生ける存在をとおして、わたしたち人間は幸せや喜び、癒しを得ています。あらためてひとりひとり考えてみましょう。今、自分は誰を通して、そしてワンちゃんやねこちゃんに代表される命ある存在を通して、どれほどの幸せや喜び、癒やしを受けているか。真実の神さまが、ふさわしい助け手としてあなたに備えてくださっている、あなたに幸せと喜び、癒しを注いでくれる命ある存在に思いを深めてみましょう。さらに、これまでの生涯をふり返って、いろいろな状況の中で、神さまが導いてくださった、かけがえのない助け手について、思いをはせてみましょう。アーメン


2023年7月30日

「神からの報い」

【新約聖書】マタイによる福音書10章40~42節

 「わたしね、石にかじりついても、ひねくれまいと生きてきたのよ」。2014年に90歳で召された三浦光世さん(三浦綾子さんの夫)の一歳違いの妹さんの言葉です。三浦綾子さんは生前、この言葉に深く感動し、しばらくこの言葉が胸の中で響き渡っていたとのことです。光世さんも、妹さんも、とても貧しい中、必死に生きてこられました。


 「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである」。いよいよ弟子たちはキリストにつかわされて、宣教の旅へ出かけます。いろいろと大切な心構えを弟子たちに語ってこられたキリストですが、最後に告げられたのが、この言葉です。このキリストの言葉を表現をかえるなら、「わたし(キリスト)は、あなたがたの後ろ盾として、いつも共にいる。」ということです。だからこそ、弟子たちを受け入れた人々は、同時にキリストを受け入れたことになるのです。弟子たちにとって、何があろうとも、いつもキリストが自分たちの後ろ盾として、自分たちと共にいてくださることは、ほんとうに力強いことであったに違いありません。

 日常生活でいろいろと問題が起こったときに、後ろ盾とまでは言えなくても、相談できる頼れる人がいると安心です。しかし、死が迫ってきた時、自分の魂の後ろ盾になり得る方は、キリスト以外にはいません。たしかに死の手前までの事柄・・・病気や治療、介護や葬儀についてなら、相談できる人はいます。でも死を前にしてふるえる人間の魂に寄り添えるのは、神の御子キリストだけです。死が迫ってもなお、平安と希望を与えることの出来るお方は、キリストだけです。その意味で、わたしたち人間の後ろ盾になり得るお方は、キリストだけです。

 自分の死を真正面から見すえたとき、キリストがわたしの後ろ盾として、生きるにおいても、死ぬるにおいても、天の御国に至るまで、何があろうとも、寄り添ってくださっていることを思うと、この上ない安心感と喜びでつつまれます。福音宣教に旅立つ弟子たちに、キリストが最後に伝えられたのは、キリストを信じることによってのみ、神からの報いとして、わたしたち人間に与えられる安心感と喜びでした。福音とは、まさに主なる神から与えられる、この安心感と喜びのことです。

 この魂の安心感と喜びは、おさなごのようにキリストを信じるだけで、すべての人にもれなく与えられるものです。キリストを信じて歩むとは、キリストが後ろ盾としていつも共にいてくださるゆえの、安心感と喜びにつつまれて、歩むことです。キリストの存在感を日々、自分の背に感じてください。アーメン


2023年7月23日

「神が成長させてくださる」 土屋清司牧師

【新約聖書】コリント人への第二の手紙13章11~13節

 コリント人への手紙は、以前に何度か申しあげた事ですが、設立直後から様々な試練に見舞われ、他の教えに惑わされたり、信仰を持つ以前の価値観を教会に持ち込んだりという事で、最早教会の体をなさぬほどに堕落した教会となっていた、コリント教会になんとか立ち直って欲しいという願いをもって、パウロが切々としたためた手紙です。パウロは、知られているだけで3通の手紙を書きました。しかし、コリントの人達は悔い改める事なく、パウロはもう一度、信徒達と話し合う為にコリントを訪れようとしている、その頃に書いたのが、この第二の手紙です。そういう趣旨の手紙ですから、どの手紙にも、かなり厳しく、時には叱り飛ばすような事も書いています。しかし、その厳しさは決して憎いからではない。そうではなくて、この一連のパウロの手紙を読むときに、そこには厳しさの裏にパウロの愛が満ちあふれている事に私たちは気付かされます。

《13:11 終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます》。確認しますが、この手紙は、徹底的に堕落してしまったコリントの教会員にあてた手紙なのです。にも関わらず、この言葉からは、失望や諦めはみじんも感じられません。むしろ、そのような信徒達に、なおどこまでも期待し希望を持っているという、パウロの熱い思いが溢れているのを感じさせられるのです。これが、どこかの教会だったら即座に、破門だ、除名だと言う話しになってしまうのではないでしょうか?しかしパウロは決して諦めてはいないのです。諦めるどころか、ますます期待を強くしているようにさえ感じます。どうしてそこまで強く、思いを持ち続ける事が出来るのだろうか?これは、パウロは見ているものが違うのだと、私は感じています。すなわち、コリントの人達を人間の目で見てしまえば、箸にも棒にもかからぬ、クズ同然の人達に見えてしまうかも知れない。しかし、神様にあってはそうではないという事なのです。神様は、例え人がどれほど堕落しようとも、どこまで逸れようとも、決して諦める事はない。やがての時に、必ず、引き戻し、回復させ、立ち直らせる事がお出来になるのだ。いや、あえてそのような回り道をさせておられるという事さえあるのだ。やがて必ず引き上げ、立ち上がらせて下さるのだ。すなわちパウロは、いつもその神様を見ていたのです。迫害者だった自分をダマスコ郊外で捉え、恵みによって見事に造り替えて下さった神様への信頼。ここに彼の信仰の原点があり、その神様への信頼は、堕落したコリントの人達においても揺るぐことはなかったのです。それゆえ、その神への信頼を持ってこのように書き送る事ができたのです。

 《13:11 終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように》。アーメン (記:土屋清司牧師)


2023年7月16日

「神の剣(つるぎ)」

【新約聖書】マタイによる福音書10章34~39節

 この世は否定的、破壊的な言動で満ちています。そのような否定的、破壊的な言動によって、深く傷つき、命すら亡くしてしまう悲惨な事態にあふれています。けっしてひとごとではありません。誠実に生きていればこそ、そのような否定的、破壊的な人々の言動に振りまわされることも多々あります。ほんとに悲しい人間社会の現実です。

 「わたし(キリスト)が来たのは剣(つるぎ)を投げ込むためである」。剣とは切り離すものです。人々の言動に影響を受けやすい、わたしたち人間です。ときに否定的、破壊的な人々の愚かな言動によって、自分を見失ってしまうこともあります。そのような時、本来の自分を取り戻すためには、そのような人々の言動から自分自身を切り離します。人々の言動だけでなく、この世の利権、地位、名誉、財産、肩書きなど、この世の事柄から自分を切り離し、まるで生まれたばかりのおさなごのようになって、主なる神の前に身を置き、神の言葉に耳を傾けます。キリストの投げ込まれる聖なる剣とは、この世のものからわたしたちを引き離し、神の前にひとりのおさなごとして立たせるための剣なのです。

 「主なる神はこう仰せられる、『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』」。おさなごのように、神の御前に身を置き、この聖なる神の言葉を聴き届けます。わたしたちにとって、ここが原点であり、出発点です。人々の言動や自分の思いではなく、主なる神の御前こそが、そして神の言葉こそが、わたしたちの原点であり、出発点です。

 とは言うものの、なかなかわたしたちは生まれたばかりのおさなごのようになれません。この世の様々な事柄にしばられ、のみ込まれてしまっているからです。牧師や宣教師も例外ではありません。

 しかし、じつは誰であっても、あることを通して、この世の事柄から自分の身を引き離し、真実の神の御前におさなごのように身を置くことができるようになります。そのあることとは、死です。メメント・モリ、死をおぼえよ、です。自分の死を意識することで、この世の事柄は遠ざかり、魂がふるえ始めます。同時に、自分にとって本当に大事なこと、大切なことが見えてきます。おさなごのように主なる神の前に自分の身を置くために、「明日、自分の命が取られるとしたら、今日、自分はどう生きるか?」と、キリストを仰ぎつつ、真剣に自分の死と向き合い、考えてみることです。日々、メメント・モリを心に刻んで、歩むことです。

 死を思うことで、自分にとって本当に大切なことが見えてきます。その大切なことのために、今日という日を歩みます。どうでもいいこと、余計なことは、キリストの剣をもって、切り離してしまいましょう。わたしたちには余計なことをしている暇などないからです。キリストの剣とは、一度きりのわたしたちの生涯が、出来るだけ悔いの少なくなるような生涯となるための、まさに神の愛の剣です。アーメン


2023年7月9日

「神は今のあなたを愛しておられる」

【新約聖書】マタイによる福音書10章28~33節

 「わたしが求めていたのは『大丈夫だよ』と言ってくれる人。そのことに気づくのにたくさんの時が流れた。そして今、いつもほほえんで『大丈夫だよ』と言ってくれるキリストがわたしのそばにおられる」。年老いてからキリスト教会に集うようになり、神さまと出会い、洗礼を受けたある男性の証しです。

 キリストはきょうのわたしたちひとりひとりに、繰り返し、繰り返し、《しっかりするのだ。恐れることはない。大丈夫だ。》と語りかけておられます。一羽のすずめにさえ、天の神さまは目をかけておられます。すずめよりもはるかにまさるわたしたちひとりひとりには、どれほど深い神の愛とあわれみを注いでおられることでしょうか。

 主なる神を恐れず、人を恐れてしまうと、わたしたちは簡単に自分を見失ってしまいます。人を恐れると、真実が見えなくなり、まともな判断が出来なくなってしまいます。《からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のある方を恐れなさい》。わたしたちが本当に恐るべきお方は唯一、主なる神さまだけです。

 《わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを、今のあなたを、愛している。》とキリストはいつも語りかけてくださっています。キリストは今のあなたを愛し、導いておられます。神を恐れて歩むとは、まさにこのキリストからの語りかけに耳を傾け、このキリストの愛の語りかけに生きることです。このキリストの言葉にこそ自分をゆだね、歩むことです。人に恐れをいだいたら、すぐにこのキリストの言葉に耳を傾け、このキリストの言葉を聴き届けて、そして自分であることに胸をはって、一歩を踏み出します。

 人を恐れたり、人と自分を比べてはいけません。昔の自分と今の自分を比べてもいけません。自分を見失うだけです。そもそも、自分を生きることが出来るのは、この自分だけです。人生は一度きり、真実の神を恐れ、神の愛につつまれて、軽やかに、楽しく自分を生きるのも一生です。あるいは人を恐れ、人と比べながら、人に惑わされ、一喜一憂しながら生きるのも一生です。どのように歩もうが、人生は一度きりです。

 真実の神を恐れ、この自分という人間を最後の最後まで生き抜いてみせようではありませんか。そしてキリストに導かれて、胸をはって天の御国へ、がい旋しようではありませんか。アーメン


2023年7月2日

「ただで受けたのだから」

【新約聖書】マタイによる福音書10章5~15節

 本日はキリストによって特別に選ばれた十二人の弟子たちが宣教につかわされる場面です。10章の冒頭でキリストは彼らに「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった」とあります。十二人の弟子たちはキリストから特別の力を受けて宣教につかわされることとなります。今までキリストは人々の病を癒やし、悩みから人々を救い出されました。弟子たちはそれを間近で見て驚くばかりでした。これからは彼ら自身も人々の病を癒やし、人々を悩みから解放することとなります。キリストのあとをついて行くだけだった彼らが、これからは自分たちがまるでキリストのように働くこととなるわけです。

 もし自分にそのような大いなる力が与えられたらどうなるでしょうか。毎日のように病気や悩みをかかえる人々が行列をなして自分のところへやってくるでしょう。この力を用いたら、すぐにでも大きな富と名声を得ることも可能です。ですから弟子たちが受けた力は、いわば諸刃の剣です。この力を人々を救うためにではなく、もし間違った用い方をしたら、富や名声に心が奪われ、自分を見失ってしまうことにもなりかねません。「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」。弟子たちに告げられたキリストのこの言葉はじつに深い意味をもっています。ともすれば自分を見失ってしまいかねないほどの大きな力を弟子たちは受けました。彼らの弱さをよくご存知のキリストは「ただで受けたのだから、ただで与えよ」と彼らに告げ、「身ひとつで宣教の旅へ赴き、身ひとつで帰ってこい」といわれたのです。余計なことのために力を用いるな、という意味です。

 命も、体も、主なる神さまから「ただ」で受けたものです。「ただ」で受けたこの命と体を資本にして、わたしたちの人生は始まり、やがて誰もが生涯を終えます。たしかにそれぞれなりに精一杯の努力をして名声や財産を得ます。しかしそもそもはすべては「ただ」で与えられたところから始まっています。今の自分の地位や名声はすべて自分の努力による、などと思っている人も多いですが、けっしてそうではありません。神から「ただ」で受けていることを見失うと、わたしたち人間は傲慢になり、混乱します。

 この世にあって、わたしたちがけっして忘れてはならない真実、それはこの世で生きる上での肝心なことの全ては、主なる神から「ただ」で受けているということです。「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」。神から「ただ」で受けているものを総称して、神の恵みといいます。主なる神から「ただ」で受けているものに、あらためて思いを向けてみましょう。「ただ」で与えられている神の恵みを、わたしたちは意識しないままに、あるいは当たり前のこととして、通り過ぎてしまっていることが多いものです。アーメン


2023年6月25日

「幸せはあなたの心が決める」

【新約聖書】マタイによる福音書10章1~4節

 「日本人の皆さん、あなたは今、幸せですか?」 世界でいちばん貧しい大統領と言われるウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカ氏の、わたしたち日本人への問いかけです。現役の大統領のときは給与の9割を寄付として献げて自らはとても質素な生活を奥様と一緒にしておられました。若い頃は貧困からなんとか人々を救おうとして反政府ゲリラ活動をし、十年以上も牢獄されましたが、武力では何も解決にはならないと悟られたそうです。ムヒカ氏は問いかけておられます、「私たちは多くの富、科学、技術が発展した時代にいるが、『では、私たちは幸せか?』という問いかけをしなければならない」。

 十二使徒のひとりに取税人であったマタイがいます。他の福音書では「マタイ」とだけ記されていますが、この「マタイによる福音書」には、キリストの弟子になる前の肩書きをつけて、「取税人マタイ」と記されています。取税人とはローマ帝国に身を売ったいわば売国奴であり、同胞のイスラエル人からは罪人あつかいされていました。かつて取税人であったマタイが、あえて「取税人マタイ」と福音書に記したことには、彼なりの思いが込められています。

 取税人だったころ、マタイは多くの財産を持っていました。ところが彼は幸せではなかったのでしょう。「自分は今、何のために生きているのか?」と、日々、自問自答しながら、生きていたと想像します。ある日、収税所で人々から税金を取り立てていたマタイに、キリストは神の愛のまなざしを注がれます。そしてキリストは「わたしに従ってきなさい」と、マタイを招かれました。キリストと出会うことで、マタイは自分も、神の目にはかけがえのない、高価で尊い、ひとりの人間であることを知ったのです。すぐにマタイは取税人としての肩書きを捨て、キリストと共に歩み出します。キリストの使徒として、その後は波瀾万丈の生涯を送ることとなります。マタイは間違いなく、キリストをとおして、自分が自分であることに生きがいと自信を見いだし、自分を生きているという充実感と幸せにつつまれ、天の御国へ凱旋したと思います。

 自分に問いかけてみてください。「今、自分は、神の前にかけがえのないひとりの人間として、思う存分に生きているだろうか?」人生はつかの間です。富や物ばかりを求めるあまり、肝心の自分を生きることなく人生を終わってしまっては元も子もありません。人は財産や物を手に入れると、それを失うことをとても恐れるようになります。失うことを恐れるあまり、もっと物や富を得ようとあくせくします。ここに大きな落とし穴があります。物や富に心が奪われ、自分を見失い、自由も幸せも見失ってしまいます。

 マタイは取税人から足を洗うことで、ほんとうの意味で自由となり、神の前における本来の自分が輝き始め、自分を生きることの幸せを知りました。幸せは他人や状況、この世のモノが決めるものではなく、幸せはいつも、今のあなたの心が決めるものです。アーメン


2023年6月18日

「聖なる神の領域」

【旧約聖書】創世記2章15~17節

 主なる神の愛を一心に受け、アダムはエデンの園と呼ばれる場所に住むこととなります。エデンの園には数多くの果樹が植えられていて、アダムは自由に心のままに好きなだけ食べてもいいと言われます。いろいろな果実が何十種類も、いや何百種類もエデンの園には生えていたことでしょう。主なる神の愛につつまれて人間は自由に毎日を過ごしていました。

 神はエデンの園の中央に、けっして取って食べてはならない一本の木を置かれました。どうしてそのような木を置かれたのか。神はいじわるではないかとか、過酷だ、などと思う人もいるかもしれません。しかしそれは誤解です。そもそも何十種類も、何百種類もある果実のなかで、たった一本の食べてはならない木の実です。その一本が特別においしい実をならせる木であったのでもありません。すべての木々が「見て美しかった」(9節)と聖書は語っています。ではいったい、なんのために神はそのような一本の食べてはならない木を置かれたのでしょうか。

 それは人間が主なる神の言葉に生きるためにです。神が「自由に食べてもいい」と言われたものは、その神の言葉どおりに食べる。神が「この木の実は食べてはならない」と言われたのであれば、その神の言葉どおりに食べない。主なる神の言葉をまず聴き、神の言葉に生きるために、あえて一本だけ、食べてはならない木の実を置かれたのです。食べてはならないのは、たった一本だけです。それ以外のものはすべて自由に食べてよかったのです。園の中央という、目立つ場所に食べてはならない木を置かれたのも、人間が他の木と間違えて食べてしまわないためにです。神が「食べてはならない」と言われた木を見るたびに、「この木の実だけは食べてはならない。神がそう言われたのだから」とアダムは思ったことでしょう。

 人間には自由が与えられています。ところが人間はとかく、自由をはき違えてしまいます。自由をはき違えて、自分の思うがまま、好き放題をするようになった途端、わたしたち人間は主なる神を見失い、自分を神にしてしまいます。神の領域に入り込み、他人を傷つけ、ときには他人の命を奪ってでも、自分の欲しいものを手に入れようとします。聖なる神の言葉を忘れ、食べてはならない木の実を自分の欲と保身のために食べてしまいます。

 主なる神の言葉を聴き届け、神の言葉に生きる時、わたしたち人間ははじめて自分のいのちの尊さ、存在価値、自分という人間がいかに高価で尊い存在であるのか、知るところとなります。神の言葉に背を向け、神の言葉ではない、いわば悪魔のささやく否定的、破壊的な言葉を聴いてしまうと、自分の存在価値を見失ってしまうこととなります。幸せを見失ってしまうこととなります。

 人間が自分の存在価値を見失ってしまわないために、そして人間は人間であることをわきまえるために神はエデンの園の中央に一本の「食べてはならない木」を置かれました。アーメン


2023年6月11日

「神の祝福につつまれる」

【旧約聖書】創世記2章1~3節

 体は疲れているにもかかわらず、それに気づかないで、無理をしてしまうことがあります。体はちゃんと疲労のサインを出していても、本人はそのサインを見過ごしたり、軽く見てしまっていることも意外とあります。自分の体と心をきちんと休ませ、ふさわしくケアをすることは、じつは簡単なことではありません。たとえば、お風呂が好きな人なら、お風呂にゆっくり入ったら疲れがとれるでしょう。でもお風呂嫌いの人なら、お風呂では疲れは取れません。その人その人にふさわしい疲れの取り方というものがあります。仕事の仕方は誰かに教えてもらえますが、自分にふさわしい休み方については自分自身で学ばなければなりません。

 主なる神さまは天地創造の作業を六日間で終えられました。そして第七日には《神はすべての作業を終わって休まれた》と聖書は語っています。別の聖書では《神はご自分の仕事を離れ、安息された》と訳しています。「主なる神は天地創造を終えられてのち、休むことなく、すぐに別の作業を始められた・・・」のではけっしてありません。森羅万象を創造された神は、仕事を離れ、休まれました。わたしたちと違って、疲労回復のために休まれたのではありません。では、なんのために休まれたのでしょうか。それはわたしたち人間に休むことの尊さを告げるためにです。週の働きを終えたら、神ご自身がそうされたように、わたしたちも仕事を離れ、休みます。神の前に静まり、神からの癒やし、恵みを受けます。日曜日のキリスト教会の礼拝は、仕事を離れ、神の前に静まり、安息し、神からの癒やし、祝福、恵みを受けるものです。

 礼拝をささげるとよく言われますが、じつはそうではありません。礼拝をささげると言うと、まるで神さまへのわたしたちの仕事のように思われがちです。礼拝とは、日頃の仕事や働きを離れて、神の前に静まり、安息することです。この意味で、礼拝はささげるものではなく、礼拝は一方的に注がれる、神の恵みにあずかるものです。神ご自身が、仕事や働きで疲れたわたしたちの体と心を、癒やしてくださるのが礼拝です。

 礼拝はクリスチャンの義務だとか、仕事ではけっしてありません。天地創造のおりに神さまが休まれたように、わたしたちも休みます。仕事やこの世のいろいろな事から体と心を引き離して、神の前に静まり、おさなごのように神の恵み、神の祝福にあずかります。キリスト教会の礼拝とは、神の前に共に静まり、神の祝福に共にあずかり、神の癒やしを共に受け、お互いに励まし合い、神の与えてくださる安息を共に楽しみ、味わうひとときです。神の前に共にほっとする時です。アーメン



2023年6月4日

「かけがえのない存在」

【旧約聖書】創世記1章26~31節

 自己肯定感とは自分のことをありのままに受け入れ、自分を大事にし、自分を尊重することです。自己肯定感の健全な人は、自分の長所や短所をすなおに認めて、自分であることに自信をもっています。失敗してもあまり落ち込むことはなく、失敗から学び、前向きに歩みます。ここで重要なことは自己肯定感は生まれつきのものではない、ということです。生まれたのち、人から受ける愛情によって、わたしたちの自己肯定感は育ちます。自己肯定感が高まれば、自然と、自分以外の人にもやさしく接するようになります。

 ところが残念ながら、生まれたのち、わたしたちが受けるのは愛情だけではありません。否定的な言葉や仕打ちを受けることも多々あります。そのような現実において、では自分は愛されているのか、かけがえのない存在であるのか、どうしたら確認できるのでしょうか。じつはこれは人生を左右する、もっとも根本的かつ重要な課題です。結論から言えば、わたしたち人間は、聖書をとおして、真実の神を知り、キリストというお方と出会うことによって、自分がどれほど神に愛され、かけがえのない存在であるかをはっきりと確信することができます。

 天地創造を伝えている創世記の冒頭は光の創造に始まり、水、植物、星々、魚や鳥、陸の動物と続き、最後に人が創造されたことを伝えています。神は人が生きていくために必要な環境をきちんと整えられた上で、最後に人を創造されました。たとえばこれは子供の出産に備えて、子育てのための環境や用具をあらかじめ整えるようなものです。さらに注目すべきは「神のかたちに」人は造られたということです。「神のかたちに」とは、他の動植物とは異なり、主なる神にとって人間は、かけがえのない、特別の存在として創造されたということです。人間だけが自分の意志で、神に祈り、神を崇め、神を賛美し、神を信じて歩むことのできる存在です。人間は誰であろうと等しく、神の前には、かけがえのない存在なのです。

 真実の神を知り、神の大いなる愛を知り、十字架におかかりになることによって神の愛を実証されたキリストをとおして、わたしたち人間はこれほどまでに神に愛されている、かけがえのない存在であることを知ります。ここに人としてのゆるぎない自己肯定感が確立します。そして互いに違いを認め合いつつ、共に歩むようになります。ところが真実の神を知らないままだと、あるいは神を信じないで、神に背を向けてしまうと、人としての価値や尊厳が見えなくなります。結果として、この世の権力や名声、学歴、財産などで人の価値や尊厳をはかるようになってしまい、自分の意に反する人たちを、見下してしまうようになってしまいます。けっしてひとごとではありません。誰にもそれはあり得ます。

 人生は一度きりです。神を信じ、ゆるがない神の愛に包まれて、自分であることに自信を持ち、互いに愛し合いつつ、歩みましょう。天の御国に入れられた時、キリストに「主よ、ありがとうございます」と心から告白できるような生涯を歩みましょう。アーメン


2023年5月28日

「神様のご計画のなる時」 土屋清司牧師 

【新約聖書】使徒の働き2章1~21節

 紀元前17世紀頃から紀元前13世紀頃までエジプトで奴隷のような生活を強いられていたイスラエルの民はモーセに導かれエジプトを脱出しました。その際、主の仰せ通り鴨居と入り口の柱に子羊の血を塗り、それにより神がエジプトのすべての初子を打たれるという災いはその家を通り過ぎていきました。これが過越の祭りの始まりです。その後イスラエルの民は紅海を渡り45日目にシナイの荒野にやって来てその6日目、エジプトを出てから50日目にモーセはシナイ山に登り、神様から石の板に書かれた律法を授与されました。ここに神とイスラエルの間に「聞き従うなら祝福する」という律法による契約が交わされました。

 時は下り、神の子イエスキリスト地上に人となって来られ、やがて過越の祭りの時に十字架に掛かり、死んで後3日目に復活され、40日後に天に登って行かれました。その後、過越の十字架から50日目、人々の集まっている所に聖霊が下され、信仰による救いの時代が始まったのです。お解りでしょうか?すなわち出エジプトの際の子羊の血による贖いと、イエスキリストの血による罪の贖いは千数百年の時を隔てた同じ時に起きたのです。そしてシナイ山での律法による契約と、十字架のイエスキリストの血による新しい契約の完成、すなわち聖霊降臨は、同じく過越から50日後に起きたのです。いかがでしょうか?

 私はこの不思議な一致を考える時に、神様のご計画の深さ、緻密さという事に深く考え込んでしまいます。すなわち神様は人間の歴史に深く関わっておられ、歴史をも支配される方なのだという事実をまざまざと示され、深い感動を覚えるのです。すなわち、遙か出エジプトの時、すでに十字架の日は定められていたのだ。いや、天地創造の際にすでに定められていたのだと、そこまで私は考えてしまうのです。

 本当に神様は素晴らしい。聖書って素晴らしいと思いませんか? 私たちの信じる神様はこれほどまでに真実で確かなお方なのです。時を定め時を守られる方。それは同時に約束を必ず守られる方であるとも言るでしょう。では、そのような神様を信じている私たちは、その神様の真実にどのように応答すべきでしょうか? それはただ一つ。その神様の確かさという事をすっぽりと受け容れて歩む事ではないでしょうか? すなわち観念的に確かな方だと感じているだけで、本当に信じて従っているかと言われるとどうなのか? でももしその点で曖昧だとすれば、それは非常にもったいない事です。なぜならイエス様を信じて救われたという事は聖書に約束されているすべての良き賜物が与えられているという事なのです。また私たちの地上での歩みにあって、困難や試練や悩みの折々に、聖霊は私たちを守り導き、道を示し、必要を与え、助けを与えて下さるのです。でも、その導きに疑いを感じたり、従う事に躊躇ったりして時を失い、みすみす恵みの時を取り逃がしてしまう事の多いお互いではないでしょうか? 神様の確かさをすっぽりと受け容れ、信じて従う者でありたいと願います。アーメン



2023年5月21日

「誰かがあなたを待っている」

【新約聖書】マタイによる福音書9章35~38節

 《群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて倒れているのをご覧になって、キリストは彼らを深くあわれまれた》とあります。「あわれむ」とは内臓がちぎれるほど心を痛めるという意味です。そして《群衆が・・・弱り果てて》とありますが、弱り果てるの元々の意味は、権力者の横暴によって犠牲を強いられ、弱り果てているという意味です。当時の民衆はローマ帝国やヘロデ王家、そして律法学者・パリサイ人などの権力者たちの横暴によって弱り果てていました。キリストはそのような群衆の弱り果てた姿をご覧になり、内蔵がちぎれるほどの痛みをおぼえられたのです。

 たとえばウクライナの難民の人たちを見て、わたしたち日本人もたしかに胸が痛みます。しかし内蔵がちぎれるほどの痛みをどれほどの日本人が感じるでしょうか。しかしもし自分にとって大切な人が、権力者によって虐待されたり、理不尽な仕打ちを受けて、深く傷つき、倒れたら、きっと内蔵がちぎれるほどの痛みをおぼえるはずです。そして自分に出来ることを何かしないではおれなくなります。

 わたしたち人間は、自分にとって大切な人をあわれむことは出来ても、見ず知らずの人をあわれむことには限界があります。ところがキリストは見ず知らずの群衆を見て、内蔵がちぎれるほどの痛みをおぼえられました。あなたが何かの事情で、弱り果てて倒れてしまったとき、キリストは内臓がちぎれるほどにあなたのことを心配されます。神の御子キリストはそのようなお方なのです。そしてキリストはあなたをなぐさめるために、ふさわしい助け手を送ってくださいます。自分が疲れ果てて倒れた時に、誰かが寄り添ってくれて、その人の心遣いに、大きな力となぐさめを受けた経験は誰にもあるはずです。

 わたしたち人間はひとりでは生きることはできません。互いに愛し合い、互いに助け合い、互いに励まし合いながら、生きています。疲れ果てている誰かが、あなたの助けを待っているかもしれません。誰かの救いのために、キリストは助けが必要な人のもとへ、あなたを送ろうとされることもあります。でも、ここでけっして誤解してはいけません。助けが必要な誰かのために、何か特別のことや、大それたことをするのではけっしてありません。そうではなくて、今の自分に出来ることでいいのです。もっと言うなら、きょう一日、自分の精一杯をもって生きる。日々、あなたが自分の精一杯を生きている姿こそが、誰かの力となり、誰かの励ましとなり、誰かの慰めとなります。キリストを信じて、きょう、自分の精一杯を生きる。それがキリストの働き人としての生き方です。それだけです。アーメン


2023年5月14日

「死からの問いかけ」

【新約聖書】マタイによる福音書7章7~8節

 当時、村や町の人々は会堂という建物に集まり、主なる神を礼拝していました。律法学者でもある会堂司と呼ばれる人たちが礼拝の責任者として、民衆に対して、絶大な力をふるっていました。本日登場する会堂司もそうした律法学者のひとりです。律法学者としての立場上、表立ってキリストと話したり、キリストになにかを願うことなどは出来なかったはずです。そんなことをしたら仲間の律法学者たちから反感を買い、最悪の場合には会堂司としての身分を失うことになります。この会堂司は律法学者という立場や肩書き、名声などよりも、もっとずっと大切なもの、すなわち自分の娘の救いのためにキリストのもとにやって来たました。

 十二年間、出血性の病気をわずらっていた女性が続いて登場します。他の福音書では彼女は十二年間多くの医者にかかったものの、ただ苦しめられただけで、財産も使い果たし、病状はますます悪くなる一方であったと記されています。十二年とはじつに長い年月です。間違いなく、彼女は自分の死を意識していたと思います。自分に残されていた最後の力を振り絞って、彼女はキリストのところへやって来ます。もうこの機会を逃したら、キリストに会うことはできないと思ったからです。

 キリストは会堂司の娘を蘇生させ、十二年間病気をわずらっていた女性を癒やされました。ここで注目すべきことは、会堂司も病気の女も、恥も外聞も自分の肩書きや立場も捨て、今の自分の力をふりしぼり、キリストに会いにきたということです。会堂司そして長い間病気で苦しんできた女が置かれていた状況を思うと、「いまさら、どうしようもない。いまさら、キリストに会っても無駄だ」と思っても当然です。しかしこの二人は人生をあきらめず、「キリストのもとへ行ってみよう」と思い、実際に行動しました。

 わたしたちはこの世に誕生した瞬間から、メメント・モリ、死を背負って生きています。しかし日常はあまり死を意識しないままに歩んでいる現実もあります。ところが様々な出来事をとおして死を意識することがあります。死を意識することで、当たり前と思っていた現実が、けっして当たり前ではないことに気づき、自分にとって本当に大切なものは何なのかが、見えてきます。偶像などではなく、真実なる主なる神の救いを求めるようになります。会堂司ならびに長年病気で苦しんできた女が、キリストこそが真実の救い主であることがわかり、自分に残された全精力をもってキリストの救いを求めたようにです。

 キリストを信じる信仰とは、生涯最後の最後まで、天の御国に導き入れられるまで、人生をあきらめず、「主よ、どうぞよろしくお願いします」と祈りつつ、「よし、やってみよう! よし、生きてみよう!」と歩むことです。歩みつづけることです。アーメン



2023年5月7日

「よし、やってみよう」

【新約聖書】マタイによる福音書7章7~8節

 家計簿を創案し、自由学園や友の会などの設立に尽力された羽仁もと子さんは17歳で洗礼を受けておられます。羽仁さんのことばです。「人間には二つの動力があります。一つは『よし、やってみよう』、もう一つは『やってもむださ』です。神によって創造された人間の本来の姿は『よし、やってみよう。今日も生きてみよう』です」。

 「求めなさい」と言われたキリストの言葉は、原文を忠実に訳すならば「求めつづけなさい」です。一回や二回求めるだけでなく、ひたすら「求めつづけなさい」とキリストは言われています。ここで肝心なことはキリストは「何を」求めつづけなさい、と言われているのか、です。何でもかんでも求めつづけなさい、と言われているのではけっしてありません。

 直前で、すでにキリストは言われています。《まず神の国と神の義を求めなさい》と。神の国と神の義とは、主なる神のみこころであり、キリストの愛であり、キリストの言葉です。神の国と神の義を求めつづけるとは、より具体的に言うなら、キリストの愛につつまれて、互いに愛し合いながら、何があろうとも、歩みつづけるということです。

 ところが残念なことに、時代を問わず、場所を問わず、神の国と神の義ではなく、「自分の国と自分の義」を求めつづけている人たちがいます。「自分の国と自分の義」しか頭にない者たちが権力を握ると、間違いなく、混乱と争いが生まれ、多くの弱い立場の庶民が苦しむこととなります。キリストが「求めつづけなさい。そうすれば与えられるであろう」と言われたのは、言うまでもないことですが、神を神とも思わない、愚かな権力者たちにではありません。キリストはそうした愚かな権力者の理不尽な行動によって、もがき、あえぎ、苦しんでいる弱い立場の人たちに「求めつづけなさい。そうすれば与えられるであろう」と言われているのです。なぜなら、苦しい状況に置かれると、わたしたち人間は弱いですから、「もう、やってもむだだ。もう、生きていてもむだだ。もう、何も変わりはしない」と、つい思ってしまい、真実にふたをして、人生をあきらめてしまうところがあるからです。

 キリストはそうした弱い立場にある人たちに、そして人生の様々ななやみや悲しみの中で苦しんでいる人たちに愛をこめて語りかけておられます。「あきらめてはならない。真実にふたをしてはいけない。神の国と神の義を求めつづけなさい。歩みつづけなさい」と。

 人類を創造され、やがていつの日か、最後の審判を下される聖なる真実の神がおられます。神の御子キリストが共にいてくださいます。一度きりの人生です。御国に入れられるまで、神の国と神の義を求めつづけ、捜しつづけ、歩みつづけましょう。きょうもキリストを眼前に仰ぎ、「よし、やってみよう。よし、生きてみよう」です。アーメン



2023年4月30日

「キリストのあわれみにつつまれて」

【新約聖書】マタイによる福音書12章1~8節

 「弁当に寿司を持ってきてはいけない」「服装違反した者は、半年間教頭と交換日記をする」。「便所の紙を使った者は、クラス・名前と何センチ使ったかを記入すること」。とある学校の校則です。どんな事情でこのような校則が出来たのか、想像するだけでも笑えます。

 規則とはお互いに気持ちよく生きていくための取り決めであり、お互いを思い合う愛がその根底にあります。国家でも地域でも学校でも会社でも家庭でも、お互いに迷惑をかけることなく、気持ちよく生きていくためには規則は必要です。規則がなければ社会は混乱するだけです。しかしこうした規則はどうかするとわたしたちの日常をしばり、人を支配するようにもなります。当時のイスラエルの社会がまさにそうでした。そして民衆に律法という規則の遵守を求めていたのがパリサイ人・律法学者と呼ばれる人たちでした。

 ある安息日にキリストの弟子たちは空腹のため、麦の穂をつんで食べ始めました。それを見たパリサイ人たちは弟子たちを強く非難しました。他人の畑の麦の穂を勝手に摘んで食べたから・・・ではありません。当時、他人の畑の麦の穂を手でいくら摘んで食べてもゆるされていました。貧しい人たちへの愛の配慮からです。パリサイ人たちが非難した理由はその日が安息日だったからです。安息日にはあらゆる労働が禁じられていました。キリストの弟子たちが麦の穂を摘んで食べた行為を労働であるとパリサイ人は判断し、それゆえに強く非難したのです。安息日以外の平日であったら、なんの問題もありませんでした。

 そもそも安息日とは、週日の労働による疲れを癒やすために、神さまご自身がイスラエルの民のために備えられた日です。神さまの前に、かけがえのない一人の人間として、神さまの前に静まり、休息し、力を養うための日が安息日です。ところが次第に安息日の本当の意味が忘れられ、規則だけが独り歩きするようになり、やがて安息日にはいかなる労働もしてはならないことになりました。パリサイ人たちは239もの安息日にしてはならない禁止項目を作成し、目を光らせていたのです。当時の安息日はもはや神さまの前に憩うどころか、とても息のつまる一日になっていました。キリストは言われました、「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」。パリサイ人たちは規則を重んじるあまり、神のあわれみが見えなくなり、人の痛みや悲しみが見えなくなっていました。

 人間社会においては規則は欠かせません。規則のない、無秩序な社会では安心して生きて行くことは出来ません。しかし規則はあくまでもわたしたちがお互いに愛し合い、助け合って、共に生きていくためにあります。規則は人が幸せに生きるためにあるのであって、規則のために人があるのではありません。アーメン


2023年4月23日

「いつもここから始まる」

【新約聖書】ヨハネによる福音書21章15~19節

 死からよみがえられたキリストは、弟子たちを以前と変わらず愛しておられます。弟子たちへのキリストの愛はすこしも変わっていません。だからこそ、弟子たちは、このような愛に満ちあふれたキリストを土壇場で裏切り、見捨ててしまった自分自身を赦すことができません。復活の主と出会った弟子たちでしたが、土壇場でキリストを裏切り、見捨ててしまったという自分の過去に縛られて、なかなか前へと歩み出すことが出来なかったのです。

 キリストは弟子の代表格であるペテロにひとつの問いかけをなさいました。「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ヨハネの子シモンとはペテロの本名です。キリストは三度、同じ問いかけをペテロにされます。「わたしを愛するか」とは、より厳密に言えば「今、この時、わたしを愛しているか」ということです。昨日でも、おとといでもなく、まさに今のこの時、あなたはわたしを愛しているか、という問いかけです。

 もしキリストが「あなたはわたしを愛したか」とペテロの過去を問われたら、キリストを土壇場で裏切ってしまったペテロには返す言葉はありません。過去を変えることは出来ないからです。しかしキリストがご覧になっているのは、過去のペテロではなく、今この時のペテロでした。キリストに三度もたずねられ、ペテロもようやく悟ります。キリストがご覧になっているのは、今この時の自分なのだと。もしそうなら、ペテロも、そして他の弟子たちも、心の底からキリストに答えることができます、「主よ、わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です」。

 過去をうやむやにすることでも、過去をなかったことにすることでもありません。自分の過去の失敗や愚かさを踏まえて、「今、この時、自分はどう生きるのか」が問われています。キリストは、わたしたちのすべてをご存知の上で、わたしたちひとりひとりに、いつも問われます。「今、この時、あなたはわたしを愛するか」と。キリストを信じる信仰の歩みとは、日々、このキリストからの問いかけに対して、「主よ、わたしはあなたを愛します」と答え、きょうを生きることです。これからを生きて行くことです。

 これより後、いよいよ弟子たちは全世界へ福音宣教へ歩み出すこととなります。アーメン


2023年4月16日

「見ないで信じる」

【新約聖書】ヨハネによる福音書20章29節

 理由はわかりません。イースターの当日、トマスだけが復活の主キリストに会うことができませんでした。食料を買いだしに行っていたのか、あるいは町の様子を調べていたのか。よりによって自分だけが外出していた間に復活されたキリストは弟子たちが隠れていた部屋へ姿を現されたのです。トマスが帰宅すると「わたしたちは主にお目にかかった」と誰もが目を輝かせています。でも誰がなんと言おうとトマスには納得できません。信じることができません。「わたしはこの目で見るまでは決して信じない」と言い放ちます。

 わたしはトマスがとても好きです。疑い深いトマスなどと言われますが、トマスはとても正直で、信じたふりなどできない人物だったと思います。次の日曜日、復活の主はふたたび弟子たちのいる部屋へ入ってこられました。トマスに会うために入ってこられたといってもいいと思います。

 「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい・・・信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とキリストはトマスにやさしく、愛のまなざしを注ぎ、そう言われました。そしてトマスの口からあの有名な信仰告白が生まれます。「わが主よ、わが神よ」。短くも、すばらしい信仰告白です。

 さらにキリストは言われます。そしてヨハネの福音書はこのキリストの言葉をもって本論をまとめています。それほど大切な真理が込められているキリストの言葉であるということです。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は、さいわいである」。このキリストの言葉はトマスにだけ語られたものではありません。その後、弟子たちをとおしてキリストを信じるようになるすべての者たちへ、そして現代のわたしたちひとりひとりへ告げられている言葉です。

 肉眼で見えるものがすべてではありません。墓は見えても、御国は見えません。死は見えても、死をつらぬく永遠のいのちは肉眼では見えません。愚かな自分は見えても、神の目に映る高価で尊い自分は見えません。そうです。大切なもの、肝心なことはすべて肉眼では見えません。御国も、永遠のいのちも、希望も、光も、高価で尊い自分も、そしてキリストも、肉眼では見えません。肉眼では見えなくとも、心の目には、そして魂の目には見えます。静まって、目を閉じてみてください。キリストを信じる者には、キリストの愛が、キリストの言葉が、いつも迫ってきます。

 トマスはこの後、東へと福音宣教へ旅立ちます。インドまで福音宣教のために訪れ、殉教したと伝えられています。



2023年4月9日

「キリストの復活」

【新約聖書】ヨハネによる福音書20章1~18節

 キリストが復活された日曜日の早朝、マグダラのマリヤと呼ばれるひとりの女性がキリストが葬られた墓にやってきます。もちろん彼女はキリストが死から復活されたことなど思いもしません。ただ墓参りにやってきただけです。当時は小さな洞窟の中に遺体を安置しました。キリストの遺体も洞窟の中に安置され、洞窟の出入り口は大きな石でふさがれていました。

 マリヤが墓にやってくると、墓の石はとりのけられ、キリストの遺体がなくなっていました。知らせを受けたペテロたちも墓にやって来ますが、彼らはすぐに家へ帰ってしまいます。しかしマリヤは帰らず、墓の外で泣きながら墓を見つめていました。するとマリヤの背後からキリストが近づかれました。気配を感じてマリヤは後ろを振り返るのですが、目の前に立っておられる方がキリストであるとは彼女にはわかりません。無理もありません。十字架上で息を引き取られたキリストが、自分の目の前に立っておられるはずがないからです。

 「マリヤよ」。聞きおぼえのあるキリストの声を聞いて、やっとそこに立っておられる方がキリストであるとマリヤは知ります。「マリヤよ、あなたはどこを見ているのか。墓の中ではなく、わたしを見なさい。わたしはここにいる。あなたの目の前にいる」。キリストはそのような思いをこめて、「マリヤよ」と、声をおかけになったのです。墓を見て、ただ泣くばかりであったマリヤは、もう墓を見てはいません。彼女はふり返り復活の主を仰ぎ見て、ふたたび歩み始めます。聖書が語る「回心」とは、心を回すことです。改心とは違います。墓ではなく、心を回して、キリストを見ることです。復活されたキリストを見て、再び、歩み始めることです。

 今のわたしたちひとりひとりにも、キリストはやさしく、はっきりと語りかけておられます。「○○よ。あなたはどこを見ているのか。暗い墓の中ではなく、このわたしを見なさい。わたしはここにいる。あなたと共にいる」。

 誰の人生にも、悲しみ、恐怖、不安、絶望、後悔につつまれ、まるで暗い墓の中を見るほかにない時があります。誰にもあります。しかし、死からよみがえられたキリストは、いつもわたしたちに神の愛をもって迫り、そして語ってくださいます。「ふり返って、このわたしを見なさい。暗い墓の中を見るのではなく、このわたしを見なさい。わたしはここにいる。わたしはいつもあなたと共にいる。大丈夫。恐れることはない。」

 まずキリストを仰ぎましょう。そして、まずキリストの言葉に耳を傾けましょう。さあ、イースターから、イイ・スタートを! アーメン


 

2018年12月30日

「老いることの恵み」

【新約聖書】ルカによる福音書2章36~38節

 本日登場する老女アンナは《宮を離れず、夜も昼も断食と祈りをもって、神に仕えていた》とあります。彼女は10代の半ばで結婚し、20歳過ぎには独り身になってしまいます。夫は病死か、あるいは戦死したのかもしれません。アンナと夫との間に子供がいたことも十分にあり得ます。もしそうならアンナは夫を失った後、女手ひとつで子供を育て、しかしその子供にも先立たれたのかもしれません。アンナという名は「恵まれた女」という意味ですが、その名前とは裏腹の悲しみに満ちた生涯であったと思われます。

 アンナは宮を離れず神とともに歩んできました。彼女もひとりの弱い人間です。なげき、悲しみ、怒り、また途方に暮れることもなんどもあったでしょう。でもアンナはいつも神の前に自分の身を置いて生きてきました。その彼女がおさなごのイエスさまと出会います。見た目はふつうの赤ちゃんです。でもアンナにはそのおさなごに希望の光が見えました。救いがはっきりと見えたのです。大勢の人たちが行きかうなかで、アンナにだけ見えた世界でした。

 キリストと共にある生涯のさいわいとはなんでしょうか。キリストを信じて歩んでいても悩みはあります。悲しみもあります。失敗もします。事故にも遭うかもしれません。しかしキリストと共に歩んでいる者たちは、今年一年をふり返って、あるいは今までの信仰の生涯をふり返って、必ず見えてくる真実があります。それは自分が悩みの中に置かれた時、必ず、キリストが迫ってくださったということです。病気の中に置かれた時、悲しみの中に置かれた時、不安の中に置かれた時、いつもキリストは迫ってくださいます。失敗して絶望の淵に置かれた時も、キリストは迫ってくださいます。キリストの言葉はいつも迫ってきます。わたしたちを慰め、励まし、いやし、平安でつつむために、キリストはいつも迫ってくださいます。

 アンナもそうでした。悩みの中に置かれるたびに、主なる神の愛が彼女に迫ってきました。悲しみにつつまれるたびに、大いなる主の愛と慰めがアンナに迫り、アンナを包んだのです。だからこそ、アンナは宮を離れなかったのです。どのような悩みが迫ろうとも、大いなる主の愛と恵みが自分に迫り、自分をつつみ、自分を導くことを身をもって知っていたからです。

 高齢になったアンナにおさなごのキリストが誰よりも身近に迫って来られました。アンナは大いなる喜びに包まれたに違いありません。アンナの生涯をとおして聖書はわたしたちに告げています。老いるとは、ひと言でいえば死が迫ることです。しかしキリストを信じる者たちにとって、老いるとはキリストが迫ってくださることです。キリストの愛と恵みが迫ってくることです。約束された天の御国が迫ってくることです。アーメン


 

2018年12月23日

「キリストの誕生」

【新約聖書】ルカによる福音書2章1~20節

 皇帝アウグストが勅令を出したゆえに、身重のマリヤはナザレという北の町からベツレヘムまで150キロもの旅をしなくてはならなくなりました。《どうして、このようなときに勅令が出るのか?》とマリヤとヨセフが思っても不思議ではありません。しかし彼らは《どうして?》とは問わず、《ガリラヤの町ナザレを出て、ベツレヘムというダビデの町へ上って行った》と聖書は伝えています。すべてを神のみこころと受けとめ、彼らは行動します。

 ベツレヘムでは宿屋が満室で、泊まるところがありませんでした。ここでも《どうして泊まる場所がないのか?》と嘆いても不思議ではありません。しかし二人はその状況を受けとめ、ベツレヘムの町を歩きます。やがて家畜小屋をあてがわれます。《どうして家畜小屋なのか?》と不満に思っても当然ですが、二人は家畜小屋に身を置きます。そしてマリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼い葉おけの中に寝かせました。

 皇帝の勅令も、ベツレヘムの宿屋が満室だったことも、そして家畜小屋でマリヤが出産しなければならなかったことも、二人にとっては苦しみです。しかしいつも主なる神が自分たちと共におられることを彼らは知っていました。そして苦しみの中でこそ主なる神の導きを知り、悩みの中でこそ神の愛にふれ、マリヤとヨセフは歩みました。

 マリヤとヨセフがそうであったように、わたしたちひとりひとりも今年一年をふり返り、それぞれが体験してきた様々な苦しみの中で、わたしたちを慰め、励まし、導いてくださったキリストに気づいているはずです。誰もが自分の置かれた苦しみの中でこそ、キリストの光を見、キリストの慰めを受け、キリストの愛にふれたはずです。だからこそ、きょうの自分がある。いかがですか。

 飼い葉おけの中にキリストが誕生された出来事、それがクリスマスです。そしてクリスマスが伝えているメッセージとは、この世にあって経験する様々な苦しみの中にこそ、光が輝き、救いがあるという神の真実です。《光は闇の中に輝いている》(ヨハネ福音書1章5節)。これから先、どのような苦しみ、悩み、荒野に投げ込まれようと大丈夫です。苦しみ、悩み、荒野の真っ只中にこそ、キリストはいつも共におられるのですから。


 

2018年12月16日

「聖母マリヤ」

【新約聖書】ルカによる福音書1章26~38

 御使いガブリエルによるマリヤへの受胎告知の場面です。この時のマリヤはまだ十代半ばのおさない少女です。のちに聖母マリヤとして慕われるようになりますが、この時のマリヤはまだまだあどけない少女です。《恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます》と聞いて、彼女は《ひどく胸騒ぎがした》とあります。彼女は喜ぶどころか、ひどく不安を感じ、恐れます。無理もありません。いったい自分に何が起こったのか、とうてい理解できることではありません。

 《どうしてそんなことがありましょう》。どうして?とマリヤはたずねます。わたしたちも苦しみのなかで《どうして?》とつい叫んでしまいます。どうしてこんなことが? どうしてわたしに? どうして?・・・人生の荒野に投げ込まれたとき、多くの人がそう叫びます。どうして?と問いかけて、答えが得られることもあります。しかし人生の苦しみや悲しみについて、どうして?と問いかけても大半は満足できる答えは得られません。

 マリヤは天使をとおして、ある真実を知ります。その真実を知ることによって、マリヤは《どうして?》と問うことをやめてしまいます。その真実を知ることで、自分が置かれた状況を受け入れ、そして彼女は告白しました、《わたしは主のしもべです。お言葉どおり、この身になりますように》。マリヤが知った真実とは・・・それは主が共におられるという神の真実です。そもそも天使ガブリエルは《恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます》と最初からマリヤに告げていました。ただマリヤは混乱したためにこの神の真実が見えなかったのです。

 人生は荒野です。苦しみがあり、悩みがあり、悲しみがあります。病気にもなります。老います。様々な出来事のなかで《どうして?》と問いかけるのも無理はありません。しかしいつまでも《どうして?》とばかり問いかけていても前には進めません。暗闇に吸い込まれるだけです。

 《どうして?》と問う代わりに、まず眼前の主をしっかりと仰ぎます。マリヤが眼前の天使ガブリエルを、そしてガブリエルをつかわされた主なる神を仰いだようにです。主はマリヤに語られたとまったく同じ言葉を語りかけてくださいます、《わたしはあなたと共にいる》。そして言われます、《しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない》。

 主が共におられます。主が最善に導かれます。何も恐れることはありません。思いわずらうことはありません。主の言葉に生きるとは、余計な事は考えないことであり、開き直ることです。《わたしは主のしもべです。お言葉どおりこの身になりますように》。主が共におられることを知ったマリヤは開き直ることができました。これを聖なる開き直りといいます。このマリヤの告白こそ、主を信じる者の告白です。主を信じるゆえの聖なる開き直りの告白です。


 

2018年12月9日

「ひとあし、ひとあし」

【新約聖書】マタイによる福音書21章1~11

 待降節第二週となりました。近くのスーパーではクリスマスソングが流れています。その一方でお正月用品が所せましと並べられています。日本全体がそうかもしれません。なんといいますか、つねにせかせか、いそいそ、かけ足状態です。クリスマスの意味も知らないままに、過ぎ行こうとする一年をきちんとふり返ることもなく、間もなく訪れる新しい年を見定めることもなく、あわただしく生きている。とくにクリスマスシーズンになるとそのように感じます。

 毎年の待降節ではろばの背に乗って、神の都エルサレムに入城されたキリストの場面を開きます。この場面はわたしたちにとても大切なメッセージを伝えています。《向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見る》。キリストは弟子たちに言われました。ろばはつながれていました。思えば、わたしたちもいろいろなものにつながれます。一年をふり返ってもそうです。悩みにつながれ、悲しみにつながれ、憎しみにつながれ、不安や思いわずらいにつながれ・・・誰もがきっとそのようなところを生きてきました。そもそも生まれた時からわたしたちは死につながれています。まさにメメント・モリ、死を背負って生きているのがわたしたちです。

 《ろばを解放して、わたしのところへ引いてきなさい》。ろばは解放されます。自由になります。キリストを信じるとは解放されることです。不安や思いわずらいから自由になることです。重い心が、ふっと軽くなることです。ろばはキリストを背に乗せて、神の都エルサレムまで歩きました。自分のペースで、ひとあしひとあし、歩きました。サラブレッドのようにかっこよく、速く・・・ではありません。ろばである自分のペースで、ろばであることに誇りをもち、胸をはって、キリストを背にしたろばは歩きました。このときのろばこそが、わたしたちのお手本とすべき姿です。

 もしろばがウマのようにせかせかと速く歩こうとしたら、背に乗っておられるキリストは転げ落ちたでしょう。ライオンやトラのように、かっこつけて歩いたら、やはりキリストは背から落っこちてしまわれたでしょう。ろばは自分のペースで、ひとあしひとあし、神の都まで歩きました。ろばとしてのその歩みこそが、キリストがろばに期待しておられたものです。

 人にはそれぞれ、その人にふさわしいペースがあります。人はみな違うのですから、賜物も違うし、置かれた場所も違う。同じ人であっても、年齢によって、体調によって、ペースは変わります。いまの自分にふさわしいペースで歩む。身近な人もそれぞれのペースで歩んでいます。ここで重要なことは、お互いに違う、それぞれのペースをお互いに理解し、認め合うことです。自分のペースを相手に押しつけるのは争いのもとです。お互いのペースを認め合い、互いに寄りそう。それこそがまさに愛です。

 キリストはろばに寄りそわれました。ろばを愛しておられるキリストの姿がここにあります。今の自分にきちんと寄りそい、そして身近な人にきちんと寄りそう。愛するとは寄りそうことです。


 

2018年12月2日

「しっかりするのだ」

【新約聖書】マタイによる福音書14章22~36

 キリストは弟子たちを舟に乗り込ませ、ガリラヤ湖の向こう岸へおやりになります。ところが弟子たちは逆風に悩まされてしまいます。この場面はわたしたちの生涯そのものです。人生には逆風が吹きます。舟が転覆してしまうほどの大きな逆風もあります。元漁師の弟子たちが悩むほどですから、この時の逆風は大きな逆風だったと思われます。

 《しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない》。海の上を歩いて来られたキリストを見て、弟子たちはびっくり仰天します。ペテロは図に乗って、自分も水の上を歩きたいとキリストに願います。キリストはペテロの願いを聞き入れ、ペテロを導かれます。ところがペテロは《風を見て恐ろしくなり》、おぼれかけてしまいます。ここで重要なことは、ペテロはたしかにおぼれかけますが、おぼれてしまったのではありません。なぜなら《イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえ》られたからです。《信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか》。キリストがペテロに言われたこの言葉は、わたしたちにも言われています。人生の逆風のなかで、わたしたちも目の前で吹き荒れる逆風にあたふたしてしまって、キリストが共にいてくださることを見失ってしまうからです。人生には逆風がつきものです。あるいは調子が良くなると、すぐに図に乗って、失敗してしまいます。でも大丈夫です。ペテロがおぼれなかったように、わたしたちもおぼれることはありません。キリストがおられますから。

 わたしたちにとってほんとうに恐ろしいのは人生の逆風でも失敗でもありません。人生でもっとも恐ろしいこと、それはキリストを知らないということです。たとえキリストを知っていても、キリストに背を向け、自分の力だけで人生を歩んでいるかのように思っている傲慢さ、この傲慢こそが人生でもっとも恐ろしいものです。神の言葉にも、また周りの人々の言葉にもまったく耳をかさない、そのような傲慢な人はやがてほんとうにおぼれてしまいます。

 人生の逆風が吹いてきた時、あるいは失敗をして落ち込んだ時は、すぐに神の前に静まりましょう。あなたに語りかけておられるキリストの言葉が聞こえてくるはずです。《しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない》。 まず静まり、目の前にキリストを仰ぎ、キリストの言葉を聴く。これがキリストを信じる信仰です。この信仰さえあれば、どのような逆風が来ても大丈夫です。失敗しても、きちんと悔いあらためて、また歩み出すことができます。


 

2018年11月25日

「聖なる開き直り」

【旧約聖書】ヨブ記1章20~22、イザヤ書43章1~4

 誰もが自分の生涯をふり返ると、まさにヨブが告白しているように《主は与え、主は取られる》だと思います。苦しみや悲しみが与えられることもあるし、幸せや喜びが取られてしまうこともあります。どうして主はこのような苦しみや悲しみをお与えになるのか、どうして主は幸せや喜びを取られるのか、その時はわかりません。義人と呼ばれたヨブもそうでした。

 《人生は近くで見たら悲劇だが、遠くから見たら喜劇である》。さまざまな苦しみの中を歩んできた喜劇王チャップリンならではの言葉です。遠くから人生を見るとは、あとになってから自分の人生を見返すということです。神の真実は、すぐにはわからなくとも、あとになって見えてくる場合が多い。きっと多くの人がこのことを体験しておられると思います。生涯の終わり、死を前にして見えてくる真実もあります。あるいは天の御国に入れられて、はじめてわかる真実もあるでしょう。

 わたしたちはすべての真実をすぐに知ることなど、とうてい出来ません。また知る必要もありません。なぜならひとつの真実さえ知っておけば、そしてそのひとつの真実を受けいれ生きていれば、やがてこのひとつの真実がわたしたちをすべての真実へと導いてくれるからです。

 このひとつの真実とは、それは主なる神を信じる信仰です。主なる神を信じる信仰によって、わたしたちは神のみこころのうちに、あらゆる真実へと導かれます。主は与え、主は取られます。ヨブもそうでしたが、苦しみが与えられ、喜びが取られた時は、どうして主がそのようなことをされたのか、神の真実はわかりません。しかし神は、信じるわたしたちを意味もなく、苦しめたり、悲しませたりするお方ではありません。苦しみや悲しみをとおして、やがて必ず、朝へと導かれます。神の真実へと導かれます。神を信じる信仰さえあれば、それだけで十分です。安心です。大丈夫です。
 神の真実がすぐにはわからなくても、主なる神は導いておられます。主は、深いみこころのうちに、わたしたちを導き、また朝を迎えさせてくださいます。主が、そのように導いておられるのですから、開き直りましょう。《恐れるな》と神が言われているのですから恐れるのはやめましょう。《思いわずらうな》と言われているのですから、もう思いわずらうのをやめてしまいましょう。貴重な人生の時間を無駄にするだけです。

 信仰とは、神の言葉を信じて、開き直ることです。《わたしの目にはあなたは高価で尊い》と主なる神が言われているのですから、あなたは高価で尊いのです。《わたしはあなたを愛している》と言われているのですから、あなたは神に愛され、導かれているのです。つべこべ言わず、開き直って、神の言葉に生きる。これが信仰の生涯です。聖なる開き直りの生涯です。


 

2018年11月18日

「あなたは今、幸せですか」

【新約聖書】使徒行伝4章13~22

 モノを通して得られる幸せには限界があります。仕事、業績、名声、地位、財産、そして食べ物や飲み物もすべてモノと考えると、手に入れた時にはたしかに幸せを感じます。あるいは手に入れた途端、むなしくなることもあるでしょう。モノであふれた現代の日本社会を見て、元ウルグアイ大統領のホセ・ムヒカ氏が「日本人の皆さん、あなたは今、幸せですか?」と問いかけました。モノばかりをひたすら追求するあまり、人としての本来の幸せを見失ってしまっている多くの日本人の姿をムヒカ氏は見たのかもしれません。

 モノを通して得られる幸せに対して、人を通して得られる幸せがあります。わたしたちの悩みや苦しみの大半は人間関係のなかで引き起こされます。人を通して悩みや苦しみが引き起こされることは事実です。しかしながら、そうした悩みや苦しみの中で、わたしたちが生きる力や慰めを得るのもまた、人を通してです。

 権力者たちの前でペテロは言いました、《神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい》。ペテロもかつてはキリストの一番弟子という肩書きにプライドを持ち、いわば肩書きというモノに幸せを感じていました。しかし復活のキリストに出会って後、ペテロは生まれ変わります。彼にとっての幸せは神に聞き従うことであり、キリストによる救いを人々に伝えることになりました。そして自分を通して、キリストによる救いを受け、喜びに満たされた人々の笑顔を見たとき、ペテロは大いなる幸せに包まれたに違いありません。

 神の前に自分が置かれた場所で一生懸命に歩んでいる。そのようなあなたの姿を通して悩みをかかえている誰かが力を受け、幸せを感じています。それが誰なのか、あなたには分からない場合も多い。これは立場を逆にして考えてみたらわかります。あなたが悩みや苦しみの中にいる時、自分の話に耳を傾けてくれる人を通して、あるいは誰かの笑顔や声がけを通して、あなたは大きな力をもらうと思います。でもあなたがどれほどの力をもらっているのか、おそらく相手は知りません。

 申しあげたいことは、自分の置かれた場所で自分ながら懸命に生きている、ただそれだけで誰かの力になっているということです。そこにあなたがいるだけで、あなたを通して、誰かが幸せを感じているということです。神に聞き従い、キリストと共に歩む生涯とは、人と人とのそのようなつながりのなかで、お互いに幸せを感じながら、生きていくことです。

 繰り返します。悩みや苦しみや不安の中でも懸命に毎日を生きているあなたを通して、誰かが力を得、励ましを受けています。神の前をひたすら歩んでいるあなたが、そこにいるだけで、誰かが生きる力をもらっています。それが誰なのか、あなたが知ったとき、間違いなく、あなたは大きな幸せに包まれます。


 

2018年11月11日

「ここにこそ救いがある」

【新約聖書】使徒行伝4章1~12

 権力者たちに捕らえられたペテロとヨハネはじつに落ち着き払っています。尋問を受け、おどされますが、ペテロたちはまったく動じません。ペテロは言います、《キリストによる以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、キリスト以外に天下に与えられていない》。彼らが落ち着いていられたのは、彼らがすでにキリストによる救いを得ていたからです。自分たちの身に何が起ころうとも、すでに永遠の御国が約束されていることを確信していたからです。

 わたしは大学に入り、間違いのない、いわば百パーセントの救いの道を探し求めました。不完全な人間が百パーセント救われる道などあるのか、もしあるとしたらそれはどのような道なのか。わたしなりに哲学を学び、仏教をはじめとする諸宗教にふれてみました。その中には意味不明の教えもありました。すばらしい人格者もいました。しかしわたしが求めていた百パーセントの救いはありませんでした。むしろ突きつめれば突きつめるほど《はたして自分は救われるのか》という不安につつまれました。ルターも修道院に入った当初、誰よりも熱心に修行に励みますが、修行を突きつめれば突きつめるほど、彼の心は不安になります。修行に励むほどに不完全な自分の姿を目の当たりにするようになったからです。

 キリストによる福音をわたしは当初はバカにしていました。「おさなごのようにキリストを信じるだけで救われる? そんなことはあり得ない。それはあまりにも甘ったれた思想だ」などと、周りの宣教師やクリスチャンたちにかみついたものです。しかし一年の月日を経て、わたしは思い知ることとなります。自分が求めているような絶対に間違いのない百パーセントの救いなど、この世の哲学や宗教にはない。自分がバカにしていたキリストによる救いこそ、一方的な神の恵みのみによって人が救われる道であり、まさに百パーセントの救いの道である。じつは最初から気づいていたのですが、自分の愚かなプライドやうぬぼれもあり、「ただキリストを信じるだけで救われる」という福音を認めたくなかったというのが正直なところです。

 《キリストによる以外に救いはない》。キリストを信じる者は救われます。ただ信じるだけで天の御国が約束されます。キリストから一方的に注がれる恵みをわたしたちはおさなごのように受けるだけです。キリストによる救いは百パーセントの救いです。人を救いうる名はキリストの他にはありません。ペテロもヨハネもキリストによる百パーセントの救いを得ていたからこそ、いつも平安でつつまれ、何があっても落ち着き払っていることができました。わたしたちも同じです。世ではなやみがたしかにあります。しかしすでにキリストによる百パーセントの救いを得ているなら安心です。平安です。ドンと構えて、天の御国を目指して、かけがえのない一度きりの人生を味わい、歩んでいけばいいのです。


 

2018年11月4日 召天者記念礼拝

「夕となり、また朝となった」

【旧約聖書】創世記1章1~5

 アダムとエバ、ノアの箱舟、バベルの塔などについて皆さんもお聞きになったことがあるかもしれません。これらはすべて聖書の最初の書巻である創世記に描かれています。この創世記第一章の第一節には《はじめに神は天と地とを創造された》と記されています。この短い一節に聖書の告げる世界観ならびに人生観の根本が高らかに宣言されています。

 はじめに神、です。あとから神によってこの世界ならびにこの世界の生きとし生けるものが創造されました。わたしたち人間も神によって造られたものです。わたしたちひとりひとりの命は神が創造され、お与えになったものです。

 はじめに神であり、あとから人間、この順番こそが重要です。なぜなら「造られたものには意味がある」からです。たとえば身近な品々について考えてみましょう。時計もテーブルもカメラも造られたものです。自然に発生したのではありません。何かのために目的をもって造られたものです。造られたものには意味があります。存在価値があります。

 わたしたちも全く同じです。わたしたちはけっして自然発生的に生まれたのではありません。偶然の産物ではありません。主なる神によって造られた存在です。ですからわたしたちひとりひとりには意味があります。存在価値があります。意味のない人などひとりもいません。

 創世記1章の5節に《夕となり、また朝となった》という言葉が登場します。ここでも順番が重要です。多くの人は「朝となり、また夕となった」という時間の感覚で生きています。一日の始まりは朝であり、夕になると一日が終わる。この感覚を人生に置き換えると若い頃は朝であり、勢いがあり、年を重ねて高齢になるにつれて夕となり、たそがれていく・・・そのような人生観で生きている人が大半だと思います。人生の前半は上り坂、後半は下り坂という感覚です。しかし聖書の人生観は正反対です。

 人生の前半は夕です。先の見えない暗闇であり混沌であり迷いもし絶望もします。年を重ねるとは夕から朝へと近づくことです。もちろん加齢と共に体力や精神力はたしかに衰えます。しかし主なる神の前における人間としての存在の有り様は加齢とともに朝へと、光へと近づきます。年を取るとは朝へと近づくことです。

 人生には様々な悩みがあります。失敗、悲しみ、裏切り・・・これらはすべて夕です。しかし夕となれば、必ず、また朝が訪れます。それが神の前に生きるわたしたち人間のそもそもの人生観です。人生の最後にして最大の夕は死です。しかし聖書は告げます。キリストを信じる者にとって、死は御国の入り口となっている、と。誰もが迎える死も夕にすぎません。死という夕の後に、また朝となります。天の御国という、永遠の朝が約束されています。キリストと共にこの世をまっとうされた方々は、いまは天の御国で永遠のやすらぎに包まれています。もはや、夕のない、永遠の光に包まれています。


 

2018年10月14日

「わたしにあるもの」

【新約聖書】使徒行伝3章1~10

 使徒行伝を読んでいて、つくづくと思います。それはペテロはじめキリストの使徒たちの変わり様です。福音書に描かれている彼らの姿は、お世辞にもかっこいいとは言えません。福音書のペテロはプライドが高く、ギラギラしているところがあります。ヨハネにしても、彼はキリストから「雷の子」というニックネームをつけられたほど熱しやすい人物でした。しかし使徒行伝では、ペテロもヨハネも、まるで別人かと思えるほど落ち着いています。彼らの姿にキリストのお姿を見るような思いすらします。

 使徒たちがこのように変わったのは、彼らが死からよみがえられたキリストと出会ったからです。では復活のキリストと出会って、彼らの何が変わったのでしょうか。それは彼らが生きる上での《主語》が変わったのです。復活されたキリストと出会う前の彼らにとって、主語は自分です。「わたしが、わたしこそが・・・」という意識です。ところが復活のキリストと出会ってからは、主語はキリストとなります。「キリストが、キリストこそが・・・」という意識に変わります。

 かつては「わたしがキリストに従っている。わたしこそがキリストの弟子である」という意識でした。しかし使徒行伝での使徒たちは「キリストがわたしを導いておられる。キリストがわたしを用いておられる。キリストがわたしを支えておられる」という意識に変わります。

 本日の箇所でもそれがわかります。ペテロは言います、《金銀はわたしにはない。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい》。「わたしにあるもの」とは使徒たちに注がれているキリストの愛です。キリストの愛が足の不自由な男を癒やします。けっしてペテロが癒やしたのではありません。使徒たちはキリストの愛をその男に注ぐための、いわばパイプに過ぎません。

 自分が、自分こそが・・・という意識で生きるのはしんどいものです。他人を蹴落としてでも自分の業績や名声を得ようとします。自分が主語になっている人生は、思い煩いや不安も多い。ところが、悔いあらためて、キリストが主語になる生涯は平安でつつまれます。キリストがわたしを導いておられる、キリストがわたしを支えてくださる・・・キリストが主語となる生涯は、自分の置かれた場所で、ゆったりと生きる人生です。たとえ死が迫ってきても、キリストが御国へ導いてくださいます。安心です。

 「自分はこう思う、自分ならこうする」よりも先に、「キリストはどう思われるだろうか? キリストならどうされるだろうか?」と問いかけてみます。それがキリストを自分の人生の主語とする歩みです。そしてキリストの思いがすぐにわからない場合には、あせらず、時間をかけて、祈ることです。祈りのうちにキリストに問い続けることです。必ず答えは与えられます。必ず、キリストは導いてくださいます。


 

2018年10月7日

「おさなごのように」

【新約聖書】使徒行伝2章37~47

 洗礼を受けるとは神さまの前におさなごのように自分の身を置くということです。わたし自身、自分が洗礼を受けたときを思い起こすと、まだほとんど聖書のことがわからないまま、おさなごのように洗礼の恵みにあずかったことを思います。主なる神さまからの愛の迫りのようなものをおぼえ、おさなごのように主の愛を受けいれた洗礼の出来事は、わたしの原点となり、人生の出発点となり、その時から自分の目の前にキリストを見ながら歩むようになりました。

 これから先、神さまの前にもっともおさなごのようになれる時は、自分の死が迫ってきた時だと確信しています。人は死が迫ると、誰もが神さまの前におさなごのようになり、神さまの言葉に耳を傾け、この世の事柄から離れて、永遠の御国へと思いをはせるようになります。今まで、そのような方々をたくさん見てきました。

 《兄弟たちよ。わたしたちはどうしたらよいのでしょうか》。使徒ペテロの説教を聴いて、人々はおさなごのようにペテロにそうたずねました。ペテロは答えます、《悔い改めなさい。そしてキリストの名によって洗礼を受けなさい》。その日キリストを信じた人たちは三千人ほどであったと聖書は伝えています。多くの人たちがペテロの説教を聴き、おさなごのように悔い改め、救いにあずかりました。

 キリストを信じる生涯は、この世の繁栄とか名誉とかが得られる生涯であるわけではありません。キリストを信じる生涯は、死を前にしても、なお平安と安らぎが与えられる生涯です。襲い来る悩みや苦しみの中でも、なお平安と安らぎが与えられる生涯です。主なる神さまの前に、おさなごのように身を置き、おさなごのように神の言葉に耳を傾けるなら、誰にでもこの平安と安らぎは与えられます。今までどのように歩んできた人であろうと、神さまの御前におさなごのように身を置くとき、神の平安と安らぎが注がれます。

 キリストを信じる生涯とは余計なことを恐れず、心安らかに歩んでいく生涯です。もちろんキリスト者といえども、余計なことを目の前に見てしまうと、余計な恐れをいだき、思い煩ってしまいます。しかし目の前のキリストはその都度、語りかけてくださいます、「恐れるな。わたしがあなたを救った。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」。おさなごのように自分の目の前にキリストを見つめ、おさなごのようにキリストの言葉に耳を傾けるとき、心は平安につつまれます。たとい死が迫ってきても、神の平安でつつまれます。キリストを信じる生涯とはそのような生涯です。


 

2018年9月30日

「死をつらぬく」

【新約聖書】使徒行伝2章22~32

 《わたしは常に目の前に主を見た》。旧約聖書に登場するダビデの言葉です。常に自分の目の前にキリストを見る、これほど心強いことはありません。

「君たちも どう生きるかと 子に聞かれ」。シルバー川柳です。どう生きるのか、これは若い世代の人たちだけへの問いかけではありません。シルバー世代の人たちも問われています。シルバー世代にとって「どう生きるのか」は、「どう老いるのか。どう生涯を全うするのか」に置き換えてもいいでしょう。そして若い世代であれ、シルバー世代であれ、わたしたちの歩みを決めるのは、《自分の目の前に何を見るか》です。

 時々思います。安倍首相やトランプ大統領は自分の目の前に何を見て、自分の職務を進めているのか。某大学の理事長や某協会の理事たちは、自分の眼前に何を見ているのか。口先ではなんとでも言えるものです。でも彼らが実際に自分の眼前に見ているのは、しょせんは自分の名声であり、自分の業績ではないのか。皆さんはどう思われますか。

 もちろん、ひとごとではありません。たとえば自分が不安や恐れにつつまれている時、目の前にキリストを見てはいません。自分を不安と恐怖にさせるような状況ばかりを眼前に見ています。いつまでも後悔ばかりにつつまれている人は、眼前に見ているのは自分が過去に犯した失敗や罪ばかりです。傲慢になっている時、目の前に見ているのは自分の私利私欲です。目の前に何を見るかによって、その人の心も行動も決まってしまいます。

 キリストは問いかけておられます。《あなたはいま、何を見ているのか? あなたはいま、どこを見ているのか?》。空の鳥を見よ、野の花を見よ、とキリストが言われたのは、そこに主なる神の御手が見えるからです。神の愛が見えるからです。そして何よりも、わたしたちが自分の死を真正面から見すえる時、死をつらぬいておられる永遠の神、キリストが眼前に見えます。ダビデがなぜ、常に目の前に主を見ることができたのか。それは彼がいつも自分の死を見すえて生きていたからです。

 《このイエスを神はよみがえらせた。そしてわたしたちは皆、その証人である》。キリストのみが死をつらぬいておられる救い主であるとペテロは力強く説教しま
した。人の生涯は一度きりです。心安く歩み、心おだやかに老い、平安につつまれて生涯を全うし、喜びとともに永遠の御国へ旅立つためには、常に自分の目の前にキリストを見て歩むほかにありません。

 心が動揺している時、目の前にキリストを見てはいません。キリストではなく、自分の心を動揺させるような事ばかりを見ています。間違いありません。そのような時は、まず死を思うことです。真正面から死を見すえてみてください。それによって、死をつらぬいておられるキリストを再び、眼前に仰げるようになります。


 

2018年9月23日

「また朝となった」

【新約聖書】使徒行伝2章1~21

 三年越しのハイビスカスが花を咲かせています。先日ひっそりと花を咲かせているハイビスカスにたずねました。「誰も自分のことを見てくれないのはさみしくないか?」 集会のない平日だったので、誰の目にも止まらないまま、ひっそりと花を開いているハイビスカスを見て、ふとわたしはそう思ったのです。

 ところがハイビスカスは笑顔?で答えました。「わたしはさみしくなどありませんよ。いつも天の神さまがわたしのことをご覧になっていてくださいますから」。またもやハイビスカスに人生の真実を教えられました。空の鳥や野の花は、何も思い煩うことなく、天の神さまに見守られて毎日を生きています。生まれてから死ぬまで、ゆったりと生きています。人間の目にふれないところでひっそりと花を咲かせている草木はたくさんあります。でも彼らはみな、天の神さまに見守られていることを知っています。そのような世界を忘れてしまうのはわたしたち人間だけです。

 天に昇られる直前、キリストは使徒たちに聖霊がくだるのを待っているようにと言われました。使徒たちは祈りつつ、神さまに見守られて、その時を待ち望んでいました。やがて五旬節という祭りの日にその時が訪れました。キリストが約束された通り、聖霊がくだり、使徒たちは力を受けます。そしていよいよこれから先、彼らは地の果てまでキリストのこころざしを受け継いで、復活の証人として出て行くこととなります。

 キリストが十字架にかけられ息を引き取られた時、弟子たちは大いなる闇につつまれました。絶望しました。ところがキリストは死から復活され、彼らにふたたび朝が訪れました。ところがそれもつかの間、キリストは昇天され、弟子たちはふたたび闇につつまれてしまいます。闇につつまれながらも、祈りつつ、待ち望む彼らに、聖霊がくだりました。ふたたび彼らは朝を迎えることとなったのです。

 天地創造の折からの《夕となり、また朝となった》という神の真実を使徒たちは身をもって悟りました。これからのち彼らは全世界へ出かけ、福音を宣べ伝えます。しかし彼らを待っているのは大いなる迫害です。事実、ほとんどの使徒たちは殉教します。ところが使徒たちは最後の最後まで福音のためにいのちを注ぎました。それは《夕となり、また朝となった》という主なる神の真実を知っていたからです。殉教しようともキリストの救いにあずかっている者には、死をつらぬく先に御国という永遠の朝が約束されていることを知っていたからです。

 とにもかくにも《夕となり、また朝となった》を心と魂に焼き付けて歩むことです。しょせんは一度きりの人生です。私利私欲にしがみついて生涯を終えるも一生、あるいは天の御国をあおぎつつ、軽やかに、美しく老いて、御国へ凱旋するのも一生です。状況や人のせいにしないで、自分の置かれた場所で自分はどう生きて、どう生涯をまっとうしたいのか、その鍵を握るのはつねに自分自身です。


 

2018年9月16日

「あとを継ぐ者」

【新約聖書】使徒行伝1章15~26

 童謡ふるさとに「こころざしをはたして、いつの日にか帰らん」という歌詞があります。歌うたびに「さて、どんなこころざしを持ってふるさとを離れたのだろう?」などと思います。

 こころざしを持って自分は歩んでいる、などと言う人が多いですが、実際のところは野望を持って歩んでいると言ったほうがふさわしいと思ってしまう人も少なくありません。こころざしをもって政治家をしている、こころざしをもって大学で教えている、こころざしをもって会社経営をしている、こころざしを持って後輩を指導している・・・そのように高らかに言う人にかぎって、しょせんは自分の地位や名誉のために野望をいだいて歩んでいるとしか思えない人も多いものです。

 野望は人を傲慢にしますが、こころざしは人を謙虚にします。ほんとうにこころざしを持って、何かのために、あるいは誰かのために懸命に生きている人は目立とうとはしません。自分の置かれた場所で一生懸命に生きています。

 本日の場面ではイスカリオテのユダに代わって、新たな使徒が選ばれます。使徒とは「遣(つか)わされた者」という意味で、かつてキリストによって選ばれた11人の弟子たちが、このように呼ばれることとなりました。初代キリスト教会において、彼らはリーダー的な存在となります。のちにパウロも使徒となります。

 くじによってマッテヤが選ばれます。彼はキリストが福音宣教をお始めになった最初の頃からキリストの弟子として歩んできました。いろいろな場面でキリストが何を話され、キリストがどう行動されたのか、実際に自分の目で見、自分の耳で聴いてきたひとりです。死から復活されたキリストを知っているだけでなく、そもそもキリストが救い主としてどのようなこころざしを持って地上を歩まれたのか、マッテヤは十分に知っていた人物であったということです。この後、マッテヤを加えた12人の使徒たちはキリストのこころざしを受け継ぎ、世界宣教へおもむくこととなります。

 本日の聖書の箇所は、わたしたちに問いかけています。「あなたはいま、どのようなこころざしを持って歩んでいるか?」。キリストを信じる信仰者とは、キリストのこころざしを受け継いで、自分の人生を歩んで行く者のことです。ご安心ください。もちろんキリストのようには歩めません。失敗もしますし、なんども人生の迷い道に足を取られてしまいます。でもなんども悔い改めながら、キリストのこころざしをわがこころざしとして、一度きりの生涯を最後まで歩みぬこうとする者、それがキリストを信じる信仰者です。

 キリストのこころざしを受け継いで歩むとは具体的にはどのように歩むことでしょうか。それはいろいろな場面や状況のなかで「主よ、あなたなら、今、どう思われますか?」「主よ、あなたなら、今、何と言われますか?」「主よ、あなたなら、今、どうなさいますか?」と、主と対話しながら歩むことです。

 キリストと対話しながら歩む、これこそがキリストのこころざしに生きる者の姿です。


 

2018年9月9日

「祈ることができる」

【新約聖書】使徒行伝1章12~14

 大半の日本人は、祈りとは家内安全、商売繁盛、無病息災、合格祈願など、神仏に対して一方的に願い事をすることだと思っています。わたしも真実の神と出会うまでは、そう思っていました。

 祈りとは、主なる神との対話です。対話とは、どちらかが一方的に相手に語りかけることではありません。お互いに語り合うことです。ですから祈りとは、主なる神にいろいろと語ることであり、そして主なる神からの語りかけを聴くことです。

 願い事ばかりを一方的に語りかけるのは祈りではありません。祈りとは、繰り返しますが、生きておられる主なる神との対話です。人と人との対話でも、お互いにほめ合ったり、感謝したり、あるいはあやまることもあり、相手に何か願い事をすることもあります。相手に文句を言うこともあるでしょう。主なる神との対話もまったく同じです。主なる神をほめたたえたり、感謝したり、あるいは主なる神にあやまることも、願い事をすることも、文句を言うこともあります。すべてが祈りです。

 主なる神には遠慮なく、おさなごのように、何でも語ります。それが主を信じて歩んでいる信仰者の姿です。人には言えない思い、うらみや怒り、悲しみ、不安や恐怖など、何でもあるがままに、まず主なる神に打ち明けます。主なる神はそのようなわたしたちを受けとめ、見守り、愛をもって語りかけて、いつも慰めてくださいます。これが主との対話であり、祈りです。

 《彼らはみな、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた》とあります。弟子たちは誰もが聖霊がくだるのを待っていました。ひとりひとりが神さまと対話しながら、つまり祈りながら、その時を待っていました。きっと誰もが不安をいだいていたと思います。しかし誰もが主なる神に祈りながら、その時を待っていたのです。

 どのような時も祈ることができます。主なる神と対話することができます。孤独なわたしたちにとって、それは大いなる慰めであり、力です。途方に暮れることの多い人生において、いつでも主なる神に祈ることができます。たとえ死を目前に控えている時でさえも、目や耳がもはや機能しなくなっても、主なる神と対話することができます。祈ることができます。なんというさいわい、なんという慰めでしょうか。

 目を閉じてみてください。あなたの魂は主なる神に語りかけています。そして主なる神もあなたの魂に語りかけておられます。主の声が聞こえるはずです。《わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している》。主と対話しながら、主の愛を感じつつ、ろばをお手本にして、御国を目指して歩んでまいりましょう。


 

2018年9月2日

「待て」

【新約聖書】使徒行伝1章~11

 使徒行伝はキリストの昇天から始まります。弟子たちは死からよみがえられたキリストと出会い、たしかにキリストは救い主、まことの神であることを確信します。いよいよキリストを王と仰ぎ、ローマ帝国を亡ぼし、イスラエルを復興する時が来た・・・と彼らは興奮したに違いありません。ところが弟子たちがそう思ったのもつかの間、キリストは天に昇られ、人間の目には見えない本来のお姿になられます。弟子たちはただ途方に暮れる他にありませんでした。

 わたしたちの人生にもなんどとなく、途方に暮れてしまうことがあります。よし、これで行こう!と思った矢先、思ってもみないことが起こる。病気になる。事故にあう。予想外のことで計画どおりに行かなくなる。ある人はこのような状況を「矢先症候群」と名づけました。なかなかうまい表現です。

 天に昇られる直前、キリストは弟子たちにひとつのことを言い残されました。「時期や場合は、あなたがたの知るかぎりではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受け、地のはてまでわたしの証人となる」。昇天される前にキリストは、間もなく世界宣教へ出て行くこととなる弟子たちにひとつの試練をお与えになりました。この試練を通して、弟子たちはとても大切なことを学ぶこととなります。それは現代のわたしたちにとっても、とても重要なことであり、いわば信仰のかなめとも言えるものです。

 キリストが弟子たちにお与えになった試練、それは《待つ》ということです。キリストは弟子たちに《あわてるな。聖霊がくだる時まで待て。すべてはそこから新たに始まる》、そう言われたのです。わたしたちが途方に暮れた時もキリストはいつも言われます、《待て》と。わたしたちは待てないから、あせります。待てないから、あわてます。待てないから、思い煩います。

 福音書に描かれている弟子たちは、なにかあったらすぐにあたふたしています。しかしこの先、使徒行伝に描かれている彼らは、なにがあろうとあたふたしません。落ち着いています。彼らは身をもって知ったからです。キリストを信じるとは、何があろうとも、おさなごのようにキリストを信じて《待つ》ことであり、神の時をひたすら《待つ》ことである、と。

 わたしたちが途方に暮れて、あせったり、思い煩っている時、キリストは言われます、《大丈夫。あせることも、思い煩うこともない》。そして言われます、神の時を《待て》と。


 

2018年7月8日

「インマヌエルの神」

【新約聖書】マタイによる福音書28章1~20

 キリストは十字架上で息を引き取られました。ローマ兵たちもキリストの死を確認しました。アリマタヤのヨセフはキリストの遺体を引き取り、墓に納めました。とにかく、キリストはもうおられない、いつも共にいてくださったキリストは、もう共にはおられない・・・それは誰の目にも疑いようのない事実でした。

 ところが三日後の日曜日の朝、とんでもないことが起きます。あり得ないこと、人知をはるかに超えた出来事・・・キリストの復活とはじつにそのような出来事です。そしてキリスト教会は、キリストの復活という、このひとつの事実の上に建て上げられました。復活のキリストと出会い、弟子たちはキリストの復活を全世界の人々へ伝えるべく、まさに命をかけて残りの生涯を歩むこととなります。

 わたしたちにとって希望とは何でしょう。希望とはキリストです。死からよみがえり、天においても地においてもいっさいの権威を持っておられるお方、永遠にいますお方、しかもそのお方がわたしたち人間に敵対するお方ではなく、わたしたちを愛してくださっている。わたしたちと共にいてくださる。希望とはキリストがおられること、しかもわれらと共におられることです。

 この世にあっては誰もが死にます。いつ死が自分にやって来るのか、確かなところはわかりません。ある人はここで問いかけます、「死で終わる人生にそもそも何の意味があるのか?」と。かつてわたし自身もキリストを知る前に、そのような思いをいだき、答えを探し求めたことがあります。しかしどう考えても死で終わる人生はむなしく、希望を見いだせませんでした。

 キリストと出会い、わたしは知りました。じつは、この問いかけ自体が間違っていたのです。人生は死で終わらないからです。死は通過点でしかない。キリストは死から復活されたことによって、身をもって、この真実を示されました。たしかに、この世にあっては誰もが必ず死を迎えます。しかしこの世で迎える死はすべての終わりではありません。わたしたちは死ではなく、死をつらぬかれたキリストを見なくてはなりません。徹頭徹尾、わたしたちが見るべきは復活の主、わたしたちの救い主、永遠の神であるキリストです。

 キリストがおられる、キリストが共におられる、これが希望です。キリストと出会い、キリストを信じて、人間の魂はやっと落ち着きます。平安につつまれ、安心します。かつてのわたしがそうでした。キリストを信じたからといって、自分の人生がすべて思いどおりになるのではありません。この世にあるかぎり、悩みは尽きません。失敗もします。裏切りにも遭います。病気にもなり、理不尽な目にも遭います。災害や事故や事件に巻き込まれて命すら奪われてしまうかもしれません。しかしそれでもなおキリストを仰ぎます。キリストは共におられます。死をつらぬき、永遠の御国にいたるまで、キリストはインマヌエルの神として信じる者と共におられます。希望とはキリストです。キリストが共におられることです。


 

2018年7月1日

「神の愛の結晶」

【新約聖書】マタイによる福音書27章45~66

 どうしてキリスト教会は十字架をかかげているのでしょうか。十字架の形や色合いは様々ですが、全世界のキリスト教会は十字架をかかげています。十字架とは二千年前のエルサレムにいた人々がキリストをはりつけにした場所です。真実を抹殺しようとして、罪のないキリストを殺害した場所です。

 たしかに十字架は人々がキリストを殺害した場所です。しかし同時に十字架はキリストが人間の身勝手さ、すなわち人間の罪のいっさいを担いつくされた場所でもあります。キリストはなされるがままに人間の暗闇である罪のいっさいを引き受けるためいのちを注がれました。愚かな人間のためにキリストがいのちを注がれた場所、そこが十字架です。

 十字架にはキリストの愛が結晶しています。キリストは十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ わが神 わが神 どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれます。この叫びは本来はわたしたちが聖なる神の前で叫ぶものです。もしわたしたちが神にそのように叫ぶなら、神はすぐにお答えになります、「胸に手を当てて考えてみよ。おまえは身勝手で、悔いあらためず、わたしに背を向けて、歩んできたではないか」。たしかにその通りです。聖なる神の前に胸をはって立てる者などひとりもいませんから。

 わたしたちを救う一心で、キリストは十字架でいのちを注がれました。まさに十字架にはキリストの愛が結晶しています。十字架は人間の罪ゆえにキリストが殺害された場所です。しかし同時にキリストの愛が結晶している場所でもあります。人間の罪とキリストの愛、この二つの真実を忘れないためにキリスト教会は十字架をかかげています。

 さらに十字架についておぼえたいことがあります。十字架にはたて棒とよこ棒があります。よこ棒は自分です。キリストと出会う前は、自分は一本の棒でしかありません。しかしキリストと出会ってからは、自分という一本の棒は十字架のよこ棒になります。もちろん、たて棒はキリストです。キリストの愛です。何があろうとも、たて棒であるキリストは倒れることなく、そしてよこ棒であるあなたを見放すことはありません。たて棒とよこ棒はいつも一緒です。それが十字架です。十字架を見るたびに
わたしたちはキリストに支えられている自分の姿を見ます。アーメン


 

2018年6月24日

「まことの王」

【新約聖書】マタイによる福音書27章27~44

 先週は人間の保身について考えてみました。祭司長、民の長老たち、そして群衆も弟子たちも、さらにはポンテオ・ピラトも、誰もがキリストは真実なお方であると知りつつ、自分の保身のために、真実を抹殺しようとしました。わたしたちは権力や地位を握ってしまうと、他人の命を食い物にしてまで、真実をねじ曲げ、自分の権力や地位を守ろうとするところがあります。あまり権力や地位、財産や肩書きなどは持たないほうが、より人間らしく、自由に生きることができるのかもしれません。

 自分の地位を守るため保身に走ったピラトによってキリストは十字架刑に処せられることとなります。むち打たれ、いばらの冠をかぶせられ、つばきをかけられ、棒で頭をたたかれ、ののしられ、あざけられ、ついにキリストは十字架にはりつけにされます。ところがキリストは最初から最後まで、沈黙されたまま、なされるがままでした。福音書はここでわたしたちに問いかけています。このときの受難のキリストをしっかりと見よ、と。ラテン語でこれを「エッケ・ホモ(このお方を見よ)」といいます。

 愚かな人間たちによる、ありとあらゆる侮辱を黙って受けるばかりのキリストの姿に、いったいわたしたちは何を見たらいいのでしょうか。それを解く鍵は沈黙のキリストです。キリストは神の御子として、わたしたちには想像すら出来ないことを今まさに果たそうとしておられるのです。それは何か。それは人間の愚かさ、身勝手さ、つまり人間の暗闇である罪を、神の救い主として受けとめ尽くすということです。最後の最後までこの受難をキリストが受けとめ尽くされたら、それはキリストの勝利、神の愛の勝利です。そして同時にそれはわたしたちのために新たな救いの道が開かれることでもあります。

 ここでわたしたちはひとつの真実を忘れてはなりません。それはそもそもキリストにはわたしたちを救う義理はなかったということです。ですから人々からこれほどの侮辱を受け、「もうやめた!もう知らん!勝手にするがよい!」とキリストがさじを投げられても不思議ではありませんでした。父なる神にも、御子キリストにも、こうまでしてわたしたちを救う義理も道理もまったくなかったということです。にもかかわらず、わたしたちを救うために、キリストはこれほど苦しまれ、十字架上で命をささげられました。これは理屈や道理をはるかに超えたことです。

 人の命とはキリストがご自身の命を注がれたほど、それほどまでに高価で、かけがえのないものです。福音書は全時代の全世界の人々へ、キリストの受難をとおして、そのことを伝えています。エッケ・ホモ・・・受難のキリストを見ることによって、わたしたちの命は神の目には高価で尊く、かけがえのないものであることを知らねばなりません。


 

2018年6月17日

「保身」

【新約聖書】マタイによる福音書27章11~26

 夜が明けてキリストはローマ帝国から派遣されていた総督ピラトに引き渡されました。ピラトはエルサレムを治めるためにローマ帝国から派遣された代官です。イスラエルの律法や昔からの言い伝えなどとも無縁で、イスラエル社会とは何のしがらみも持たない人物です。このピラトがどのような判決を下したのか、注目すべきところです。

 わたしはここで確信していることがあります。それは祭司長や長老たち、いわゆる当時の指導者たちも、そしてイスラエルの群衆も、もちろんキリストの弟子たちも、キリストが真実のお方であると、わかっていたということです。総督ピラトも《イエスが引き渡されたのは人々のねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていた》とありますから、彼自身もキリストは何の罪もなく、真実なお方であるとわかっていました。

 しかしキリストが真実のお方であるからこそ、民の指導者たちにとってはキリストは自分たちの立場をおびやかす存在でした。キリストから痛烈な批判を受けてきた彼らは、自分たちの立場や地位を守るためにはキリストを抹殺しなければなりません。保身のためにキリストという真実を抹殺しようとしたわけです。

 残念ながら、人は必ずしも真実と共に歩んでいるのはありません。この実社会では真実を抹殺してでも保身のために生きることなど、めずらしいことではありません。政治の世界でも会社でもキリスト教会でも、しばしば見られることです。もちろんひとごとではありません。誰であっても、ひたすら自分の肩書きや評判などを守るために、ウソをついて、真実を抹殺してしまう危険性はあります。立場上、上に立っている人が自分の保身のために真実をねじ曲げ、そのせいで立場の低い人たちが傷つくことなど日常茶飯事です。

 聖書は問いかけています、《真実を前に、あなたはどう生きるのか?》と。
人生には時に《真実に生きるのか》それとも《保身に生きるのか》、問われることがあります。まさにキリストを前にしたこの時のピラトのようにです。何が真実で正しいのか、自分にはわかっていても、自分の肩書きや出世や名誉のために、あえて真実を殺したほうがいいと思える場合、《真実に生きるのか》それとも《保身に生きるのか》、ピラトがそうであったように、とてもきびしい選択を迫られます。

 そのような時、忘れてはならない神の真実があります。十字架上で処刑されたキリストは三日後に死からよみがえられました。キリストの復活によって闇に葬られた真実が再び明るみに出ました。人がどれほど真実を抹殺しようとしても、聖なる神は必ず真実を明らかにされます。まさに歴史がそれを物語っています。この神の真実をけっして忘れてはなりません。


 

2018年6月10日

「ペテロとイスカリオテのユダ」

【新約聖書】マタイによる福音書27章1~10

 《イエスを裏切ったユダはイエスが罪に定められたのを見て後悔した》と福音書は伝えています。ユダがどのような動機からキリストを裏切ったのか、たしかなところはわかりません。しかし捕らえられたキリストの姿を見て、ユダが自らのいのちを絶つほど後悔したことから考えると、ユダはたんなるお金目当てでキリストを裏切ったのではないと思われます。

 ユダはたしかにキリストを裏切り、祭司長たちの手引きをしたことは事実です。しかしキリストを裏切り、見捨ててしまったという意味ではペテロも他の弟子たちも同罪です。ペテロは三度も神に誓ってキリストを知らないと叫びました。キリストとの関係が絶たれ、ペテロも他の弟子たちも絶望状態に陥ります。絶望したのはイスカリオテのユダだけありません。ユダもペテロも絶望状態に陥りますが、しかしこの二人には決定的に違うところがあります。ペテロには絶望を分かち合える仲間がいましたが、ユダには仲間がひとりもいなかったということです。

 ユダは自分をお金でやとった祭司長たちのところへ行き、《わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました》と謝罪します。ユダが深く後悔していることを伝える言葉です。しかしユダはここで、ある重大な過ちを犯しています。そしてそれは現代のわたしたちの誰もが犯してしまう過ちでもあります。その過ちとは・・・謝罪する相手を間違えたということです。ユダがまず謝罪すべきは主なる神さまに対してであり、そして同時にそれまで苦楽を共にしてきたペテロたち、主の弟子たちであったはずです。ユダは、主の前にひれ伏し、自分の過ちを言い表し、同時にペテロたちの前で自分の罪を謝罪すべきでした。

 もちろんユダがそうしたからと言ってペテロたちがユダを以前のように主にある仲間として受けいれたかどうかはわかりません。しかし、もしユダが神と主の弟子たちのところへ立ち帰り、悔いあらためていたなら、ユダもまた日曜日を迎え、復活の主に出会っていたのかもしれません。もしそうなら、その後のユダの人生は大きく違っていたはずです。

 失敗のない人生などありません。大切なことは、自分の失敗に気づいた時、主なる神の前に悔いあらためること、同時にほんとうに謝罪すべき相手に謝罪し、ゆるしを求めることです。ユダのように謝罪する相手を間違えてはいけません。わたしたちは失敗から多くのことを学びます。人間の真実を、そして人生の真実を、自分の失敗を通して学ぶことができます。


 

2018年5月27日

「ペテロの涙」

【新約聖書】マタイによる福音書26章57~75

 「あなたもイエスの仲間だ」とペテロは三度それぞれ別の人たちから指摘されます。いつもキリストと一緒にいたペテロですから人々に顔が知られていて当然です。しかしペテロはそれを打ち消し、「何も知らない」と誓って言います。誓ってとは「神の名に誓って」という意味です。三度目にペテロが否定した瞬間、鶏が鳴きます。キリストが言われたとおりです。キリストの言葉を思い起こし、ペテロは激しく泣いたと福音書は伝えています。

 ほんの数時間前には「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどはけっして申しません」とペテロは叫びました。その時、そう叫んだペテロの気持ちにウソはありません。ほんとうにそう思っていたはずです。しかしペテロがそう叫んだ時、ペテロ自身、まだ知らなかったことがありました。ペテロはじめ弟子たちの誰もがまだ知らなかったこと・・・それは自分の弱さです。

 ペテロは十二弟子たちの中でも筆頭格の弟子でした。すべてを捨ててキリストに従ってきました。自分は弟子の中の弟子である・・・きっとペテロは高慢になっていたのでしょう。人は高慢になると、自分の姿が見えなくなります。自分の弱さ、自分の限界が見えなくなってしまいます。そのようなペテロが、保身のため、キリストを否定してしまいます。この瞬間、ペテロはキリストを失い、希望を失い、生きがいを失い、自分もひとりの弱い人間に過ぎないことを思い知ります。

 泣くことは限りなくあります。しかし激しく泣くことはめったにありません。よほどの事情があるときです。激しく泣くことのないまま、人生を終える人もいると思います。 わたしたちが何かの事情で激しく泣くとき、このときのペテロのように激しく泣くより他にしようがありません。もし身近にそのような人がいたとしたら、ただ黙って静かに寄りそい、見守るほかにありません。

 しかしここでけっして忘れてはならない神の真実があります。神はその人の力を超えた試練は与えません。激しく泣くより他にしようとない出来事に遭遇しても、やがて必ず、朝がおとづれます。キリストが復活されたように、ペテロもまた復活することとなります。ペテロにとって生涯最初で最後とも言えるこの一大事をとおして、人の悲しみに寄り添える、新しいペテロが誕生することとなります。


 

2018年5月20日

「友よ」

【新約聖書】マタイによる福音書26章47~56

 ついにその時が来ました。剣や棒を持った群衆とともにイスカリオテのユダがやってきました。ユダはキリストに近づき、「先生、いかがですか」と挨拶をかわし、裏切りの口づけをします。それを合図に群衆たちはキリストを手にかけて捕らえます。

 キリストはすでにユダのたくらみをご存じでした。最後の晩餐の時、ユダ自身に「裏切るのはあなただ」と言っておられます。最後の晩餐を終え、弟子たちとともにゲツセマネの園へ向かわれた時、ユダが一緒にいなかったこともキリストは知っておられたはずです。そして間もなくユダが群衆たちを引き連れ、キリストを捕らえるためにゲツセマネにやって来ることは承知しておられたはずです。

 「友よ、なんのためにきたのか」。ユダがなんのために来たのか、明らか過ぎるほど明らかです。ところがキリストはユダに言われたのです、「友よ、なんのためにきたのか」。キリストは最後の最後までユダのことを「友よ」と呼ばれました。このような状況でもなお、キリストはユダを見捨てず、彼に悔いあらためを促しておられるのです。

 主なる神さまの愛は何があろうとも愛です。かりに、わたしたちが主を裏切り、見捨て、主に背を向けてしまっても、主はわたしたちをお見捨てになることはない。悔いあらためて、キリストを仰ぐとき、いつもやさしく呼びかけてくださいます、「友よ、わたしの愛する友よ。わたしはあなたを愛している」。

 イスカリオテのユダにも最後の最後まで悔いあらためるチャンスが与えられていました。キリストは最後の瞬間まで、ユダが悔いあらためて、ふたたび十二弟子のひとりとして、戻って来ることを願っておられました。じつにキリストというお方は、そのようなお方です。わたしたちも弱く、愚かで、しょうこりも無く、なんどもキリストに背を向けてしまいます。しかしキリストは、いつも、いつまでも、神の愛の手をひろげて待っておられます。わたしたちが悔いあらためて、帰って来るのを待っておられるお方です。


 

2018年5月13日

「悲しみのキリスト」

【新約聖書】マタイの福音書26章36~46節

 弟子たちとの最後の晩餐を終えられたキリストはオリブ山へむかわれます。オリブ山にはゲツセマネと呼ばれる場所があり、以前からキリストはそこを祈りの場所としておられました。ゲツセマネとは「オリーブの油しぼり」という意味です。

 《わたしは悲しみのあまり死ぬほどである》。悲しみとは大切な人との関係が絶たれたときにいだく気持ちです。事故や事件あるいは病気などによって、かけがえのない大切な人との関係が引き裂かれてしまったとき、人は深い悲しみにつつまれます。ときに死ぬほどの悲しみにつつまれてしまいます。

 キリストはなんども《わが父よ・・・》と祈っておられます。神の御子キリストはいつも父なる神と共に歩んでおられました。父なる神と御子キリストは一体でした。ところが今やキリストは、人の罪を背負い、罪人としての死を迎えようとされています。罪人としての死とは、父なる神から引き離され、父なる神との関係が絶たれてしまうことを意味しています。《わたしは悲しみのあまり死ぬほどである》とは、間違いなく、父なる神から引き離されてしまうゆえの悲しみです。そしてこのキリストの悲しみは、わたしたちにはとうてい理解できるようなものではありません。まさに神の御子キリストとしての悲しみです。

 キリストは救い主としてのお姿を人々の前に現された当初から、このような死を見すえて歩んでおられました。神の御子であるキリストにとって、父なる神との関係が引き裂かれるなど、本来あり得ないことです。このあり得ないことが、間もなく、起ころうとしているのです。

 マタイによる福音書をとおして、わたしたちはこれから起こるキリストの死を見届けねばなりません。人の罪を背負われ、罪人としてのキリストの死は、父なる神に見放される、いわば《神無き死》です。この死は、もしキリストがこの世にお越しにならなかったとしたら、わたしたちの誰もが受けねばならなかった絶望の死です。

 死そのものが恐ろしいのではありません。恐ろしいのは《神無き死》です。キリストはわたしたちに代わって《神無き死》がどれほど悲惨で、絶望であるのか、身をもって示されます。天の父なる神も、わたしたちに救いの道を開くために、愛する御子キリストの悲しみと痛みを静かに見守っていかれます。

 キリストを信じる者にとって、もはや《神無き死》はありません。死は御国の入り口となっています。しかし、そのような救いの道を開くために、父なる神と御子キリストがどれほど悲しまれ、どれほど苦しまれたのか、わたしたちは知らねばなりません。


 

2018年5月6日

「弱さをつつむ神の愛」

【新約聖書】マタイの福音書26章26~35節

 最後の晩餐を終えて、キリストは弟子たちと共にオリブ山へ行かれます。イスカリオテのユダだけは、ひそかに祭司長たちのところに行き、キリストを捕らえるための手助けをしたと思われます。キリストはすべてをご承知の上でオリブ山へ出かけられました。

 オリブ山でキリストは弟子たちに言われました、《今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう》。キリストの真意は弟子たちにはわかりません。ただ彼らは不安と絶望につつまれます。《たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません》。ペテロは声を荒げて、そう叫ぶほかにありませんでした。

 わたしたちが声を荒げるとき、口から出る言葉とは違って、心の中には別の気持ちを抱いていることが多いものです。このときの弟子たちの心の中は不安や絶望が渦巻いていたと思います。そうした不安や絶望を打ち消すために、ペテロは声を荒げるほかなかったのです。キリストの身がこれから先、どうなろうとも、ペテロがほんとうに覚悟していたなら、そしてキリストと一緒にほんとうに死ぬことも覚悟していたのであれば、ペテロや弟子たちはは声を荒げたりすることはなかったでしょう。そもそもキリストが《あなたがたはつまずくであろう》などと弟子たちには言われなかったはずです。

 《たとい、あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません》とかさねてペテロは叫びます。よほど心が動揺していたのでしょう。他の弟子たちも同じです。弟子たちには自分たちの弱さや愚かさがまったく見えていません。それほどまで弱く、愚かであったともいえます。キリストは弟子たちのこのような言葉をどのような思いで、お聞きになったでしょうか。

 キリストはすべてご承知でした。しかしイスカリオテのユダのときもそうでしたがキリストは今までと変わらず、弟子たちを愛しておられます。自分の弱さや愚かさが見えていない、空回りばかりしている弟子たちを今までと変わらず、キリストは暖かく見守っておられます。彼らを愛しておられます。

 わたしたちがキリストを見捨てても、キリストはわたしたちをお見捨てにはなりません。わたしたちが自分自身を愛せないときも、キリストは変わらず、わたしたちひとりひとりを愛し、かけがえのない存在として見守っておられます。キリストの十字架の出来事をとおして、二つの真実が明らかになります。まず明らかになるのは、わたしたち人間の愚かさ、弱さ、罪深さです。そしてもうひとつは、キリストにある神の愛がどのような愛であるのか、明らかになります。徹底した人間の愚かさと徹底した神の愛、このふたつがキリストの受難によって明らかになります。


 

2018年4月29日

「愛は勝つ」

【新約聖書】マタイによる福音書26章14節~25節

  キリストを殺そうとたくらんでいる祭司長たちから、イスカリオテのユダは銀貨三十枚をすでに受け取り、キリストを彼らに引き渡す機会をうかがっています。ユダがなぜキリストを裏切ったのか、諸説ありますが、たしかなところはわかりません。ただしここで注目したいのは、ユダがどうしたかではなく、ユダに対してキリストはどうされたか、です。

 ユダは自分のたくらみはキリストにはまったく知られていないと思っています。しかしキリストはすべてご承知でした。最後の晩餐で、一同が食事をしているとき、「先生、(あなたを裏切るのは)まさかわたしではないでしょう」とユダが臆面もなく言ったとき、キリストは「いや、あなただ」と言われました。すでにキリストはユダがなにをしようとしているのか、ご存じだったのです。

 ユダが裏切ることをご存じでしたが、キリストはそれまでと変わらずユダを十二弟子のひとりとして最後の晩餐に招いておられます。他の福音書を見ますと、最後の晩餐の時にキリストは弟子たちの足を洗われましたが、ユダの足も洗われたのです。聖餐式の始まりとされるパンとぶどう酒も、キリストは他の弟子たちと同様、ユダにも与えておられます。ここで注目すべきは、ユダがどうあろうが、最後までユダを十二弟子のひとりとして愛し、見放すことなどなさらなかったキリストの愛の姿です。

 キリストを見捨てたのはユダだけではありません。このあとすぐに残りの弟子たちもキリストを見捨てて逃げてしまいます。わたしたちも弱い人間です。キリストを見失うこと、キリストに失望してしまうこと、キリストを見捨ててしまうこと・・・きっとだれもが経験するところです。しかしぜったいに忘れてはならない真実があります。それはわたしたちがキリストを見失い、わたしたちがキリストを見捨てるようなことがあっても、キリストはわたしたちをお見捨てにはなりません。キリストは何があろうとも、最後の最後まで、神の愛の御手を拡げて待っておられます。悔いあらためて、ご自分のもとへ帰ってくるのをいつまでも待っておられるお方です。


 

2018年4月22日

「羊飼いのいない羊」 土屋清司兄

【新約聖書】マタイによる福音書9章35節~38節

 尾(び)籠(ろう)な話なのですが、とてもいいお話しですから、お許し下さい。聞き覚えの詩なのですが、うろ覚えなので、詩にはなりませんが、聞いて下さい。

 ある介護施設の職員の方の書かれたものです。介護施設の入所者は、あまり動かないから、便秘になりやすいのです。それもかなりの重症になりやすい。で、何日も出ないと、なんとかして出そうとして、ご本人も介護の方も一緒になって、お手伝いして、一生懸命頑張るのだそうです。どういうお手伝いをされるのか、そこまでは分かりません。それで、頑張って頑張ってようやく、すごく大きなうんちが出た時、介護の方は、思わず「おめでとうございます!!」と言ってしまうそうです。すると「その瞬間、そこは天国になるのです。」と、おっしゃるのですが、いかがでしょうか? 

 お分かり頂けるでしょうか。私は、「その瞬間、そこは天国になる」という最後のフレーズだけが、とても心に残ってしまいました。何か、その部屋に天使が飛んでいるような、そんな気分にさせられてしまったのです。つまりですね、うんちのお世話をする。一緒になって一生懸命頑張る。そして、おめでとうございますと言ってあげる。そこにはまさしく、愛があると思う。愛がなくて、義務的に介助するだけなら、絶対に「おめでとうございます」は出ないですから。それで、その愛の満ち溢れる所、そこは常に天国なのだと思ったのです。

 愛のない世界を覚えます。愛のまったく足らない自分を覚えます。しかし、私達には希望があります。《私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。》と、おっしゃって下さる神の子イエスキリストが地上に来て下さり、愛の灯火を灯して下さったからです。その灯火にあずかった私達がいるからです。そして、その灯火を地上に充ち満たせる為、私たちを助けて下さる、聖霊なる神がおられるからです。  


 

2018年4月15日

「愛の香り」

【新約聖書】ヨハネによる福音書26章1節~13節

  2015年2月から礼拝でマタイの福音書を開き始めて三年となりますが、26章に入り、マタイの福音書はキリストの受難と復活という、クライマックスを迎えることとなります。

 「全世界どこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。キリストの頭に高価な香油を注いだ女の行為に対してキリストはそのように言われました。新約聖書のどこにも、これ以上のキリストによるほめ言葉はありません。なぜキリストは女の行為をそれほどまで評価されたのでしょうか。

 別の福音書ではこの女は香油を入れていた石膏のつぼを壊して、すべての香油を注いだとあります。一滴や二滴ではありません。香油のすべてをキリストを注ぎ尽くしたのです。値段にして三百デナリ、現代の価格で言えば三百万円にも相当します。それを惜しげもなく、この女はキリストに注いでしまいました。

 弟子たちには香油を無駄にしたとしか見えない行為でした。しかしキリストはこのような無謀とも思える女の行為は、この女のキリストへの愛ゆえのものであると見抜いておられます。たしかにこの女の行為は無謀といえば無謀、非常識といえば非常識です。しかし、それほどまでにこの女のキリストへの愛が深いことを物語っています。言葉だけなら何とでも言えます。しかし、その人のほんとうの気持ちは必ずその人の行為に表れます。

 この女の行為は、じつはこれから先のキリストの受難を解き明かす鍵ともなる行為でした。キリストは、わたしたち人間の身勝手さ、愚かさをすべて引き受け、捕らえられ、十字架に手足をくぎ付けにされ、最後はわき腹をやりで突き刺され、息を引き取られます。あえてキリストがそのような理不尽きわまりない死を受けられたのは、愚かなわたしたちを救うため、まさにわたしたち人間への愛ゆえのことでした。

 香油を注ぐという女の行為の背後にキリストへの深い愛があったように、十字架上の壮絶かつ悲惨なキリストの姿の背後には、愚かなわたしたち人間への人知をはるかに超えた壮大な神の愛がありました。これから始まるキリストの受難をとおして、それが次第に明らかになります。キリストの受難という、目には悲惨としか見えないキリストの姿の背後に、キリストのわたしたちへの真実の愛を見なければなりません。同時にキリストにそれほどまで愛されている自分という人間の尊さ、自分という存在のかけがえのなさを見届けなければなりません。


 

2018年4月8日

「きょうの自分が鍵を握る」

【新約聖書】ヨハネによる福音書21章15節~19節

  死から復活されたキリストと出会って、弟子たちは福音宣教のために立ち上がりました・・・と言いたいところですが、21章の冒頭に登場する弟子たちはどうも元気がありません。福音宣教のために立ち上がるどころか、以前の漁師に戻っています。土壇場でキリストを裏切り、見捨ててしまった事実が、どうしても彼らの心から離れなかったからです。キリストは以前と変わらず、弟子たちを祝福され、神の愛で彼らをつつまれました。しかしキリストを見捨てて逃げてしまったという過去の事実が、弟子たちを苦しめ、身動きできない状態にしていました。

 そのような弟子たちの心境をすべてご承知のキリストは、弟子の代表格であるペテロにひとつの問いかけをされます。「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか」。三度、同じ問いかけをされました。「あなたはわたしを愛するか」とは「今、この時、あなたはわたしを愛しているか」という意味です。昨日でもおとといでもなく、また明日でもなく、まさに今のこの瞬間、わたしを愛しているか、というキリストの問いかけです。

 「あなたはわたしを愛したか」と過去形でキリストは問われたのではありません。もし過去を問われたら、弟子たちにはキリストに返す言葉はありません。キリストを裏切り、キリストを見捨てたという過去の事実はぜったいに変えることはできませんから。しかしキリストが問われたのは過去のペテロではなく、今この時のペテロの気持ちをおたずねになったのです。ペテロは悟りました。キリストが求めておられるのは過去の自分ではなく、今のこの時の自分であることを。そうであるなら、ペテロは全身全霊をこめてキリストに答えることができました。「主よ、わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です」。

 いつもキリストは、過去のあなたではなく、将来のあなたでもなく、きょうのあなたを求めておられます。きょうのあなたに神の愛のまなざしを注いでおられます。そして問われています、「今、あなたはわたしを愛するか」。キリストを信じる者の過去にはキリストの十字架が立てられています。過去はキリストが引き受けてくださっています。キリストを信じて歩むとは、きょうという一日をせいいっぱいに歩むことです。きょうの自分がつねに鍵を握っています。 


 

2018年4月1日

「キリストの勝利」

【新約聖書】ヨハネによる福音書20章1節~18節

  キリストが十字架にかけられた出来事、それはキリストという光と、人の愚かさという闇が真っ向から激突した出来事でした。キリストの愛と人間の罪の激突とも言えます。キリストが十字架上で息を引き取られたのを見て、だれもが人がキリストの敗北を確信しました。それは光の敗北であり、愛の敗北でもありました。すべてが終わったと弟子たちは思い、絶望し、エルサレムの一室に閉じこもり、ふるえるほかにありませんでした。

 ところがまだ先があったのです。三日後の日曜日の朝、キリストは死からよみがえり、身をもって勝利を宣言されました。それは光の勝利であり、愛の勝利でもあります。またキリストの復活は、創世記冒頭で宣言されている「夕となり、また朝となった」という天地創造以来、この世界をつらぬく神の真実を証しする出来事でもありました。キリストが十字架上で息を引き取られたとき、誰もが闇につつまれ、光を失い、もう朝が来ることはないと思いましたが、ふたたび光り輝く朝がおとづれたのです。

 日曜日の早朝、マグダラのマリヤはキリストがほうむられた墓にやってきます。ところがすでにキリストの遺体はなく、彼女は墓を見て、ただ泣くばかりでした。遺体がなくなっていることを弟子たちにも伝えますが、彼らは遺体がないことを確認して、すぐに帰ってしまいます。しかしマリヤは墓の前にとどまりました。

 墓という闇を見つめて泣くばかりのマリヤに背後から復活の主が声をおかけになります。「女よ、なぜ泣いているのか」。マリヤはふり返り、キリストを見ます。しかしそれがキリストであるとはわかりません。園の番人だと思ってしまいます。かさねてキリストは言われます、「マリヤよ」。ここでやっとマリヤは目の前のお方がキリストであるとわかります。

 キリストが「マリヤよ」と彼女の背後から言われたとき、墓という闇を見つめて泣くばかりであった彼女に、「マリヤよ。闇ではなく、光を見よ。このわたしを見よ」とキリストは言われたのだとわたしは思います。わたしたちひとりひとりにもキリストはいつも語りかけておられます。「わたしを見よ。光を見よ。わたしはあなたを愛している」。この世という荒野にあって、わたしたちもいろいろな闇につつまれます。不安におそわれ、ときに絶望し、もう先がない、もう希望はないと思ってしまうこともあります。誰でもあります。それはマリヤが墓の中を見つめて、泣いている姿とかさなります。しかしキリストは言われます、「あなたはどこを見ているのだ。ふりかえってわたしを見よ。光を見よ。」。悔いあらためるとは、ふりかえって、光を見ることです。復活の主を仰ぎ、ふたたび歩み始めることです。

 神はその人の力の及ばない試練を与えることはありません。どのような闇が訪れようとも、必ず、また朝となります。すでにキリストは勝利しておられるのですから。


 

2018年3月25日

「あなたは愛されている」

【新約聖書】ルカによる福音書23章32節~49節

  受難主日をむかえました。受難主日に始まる一週間を受難週と呼びます。全世界のキリスト教会がキリストの十字架の出来事を深く思いつつ歩みます。
 キリストは捕らわれる直前に十二人の弟子たちとともに最後の晩餐をもたれます。この最後の晩餐でキリストはパンとぶどう酒を弟子たちにお与えになりました。これが聖餐式の始まりです。

 のちに弟子たちは死からよみがえられたキリストと出会い、全世界へキリストの復活を告げ知らせるために旅立つこととなります。そして彼らは宣教に訪れた場所で聖餐式を行います。弟子たちは聖餐式の恵みにあずかるたびに最後の晩餐の夜を思い起こしたに違いありません。あの時は何もわかっていなかった自分たちの愚かさを思い起こし、しかしすべてをご承知の上で自分たちを愛してくださったキリストの姿を思い起こしたに違いありません。

 キリストが十字架にかけられた出来事、それはひと言で言えば、二つの本物が真正面から激突した出来事といえます。ひとつの本物、それはもちろんキリストです。キリストのうちにはどのような時でも愛とゆるしという光が見えます。どのような仕打ちを受けても、キリストの愛という光は消えることはありませんでした。そしてもう一つの本物、それはわたしたち人間のかかえる闇です。愚かさ、弱さ、身勝手さという闇です。正しいお方を、十字架にはりつけ殺してしまうほどの深い闇です。キリストの十字架の出来事とは、まさに光と闇が真正面から激突した出来事に他なりません。

 十字架上で息を引き取られたキリストの姿を見て、すべての人が、キリストの弟子たちでさえも、確信しました。「キリストは敗北された。光は輝きを失い、人間の闇が勝利したのだ」と。ところがそうではありませんでした。それから三日後の日曜日の朝、驚くべき真実が明らかになります。

 わたしたち人間は弱い。失敗もするし、にくしみに簡単に取りつかれてしまいます。わたしたちが身を置いているこの世は荒野という闇です。生きることはきびしく、悲しく、つらい。そのようなわたしたちにキリストはいつの時代にあっても問われています、「あなたは光を信じるか? 光であるわたしを信じるか?」 

 光は闇の中にすでに輝いています。闇は光に打ち勝てません。この光を信じて歩むのか、あるいは光を信じないまま歩むのか。その鍵は、あなた自身が握っています。


 

2018年3月18日

「ここに光がある」

【新約聖書】ヨハネによる福音書12章44節~50節

  《あなたがたはこの世ではなやみがある》、キリストのことばです。なやみのない人などひとりもいません。一見、なやみなどまったくなさそうな人に「あなたにはなやみなんて、まったくないのでしょうね?」とたずねたら、「そんなことはありません。こう見えて、いろいろとなやみがあるんですよ」という答えがたいへい返ってきます。

 なやみは闇(やみ)です。光が見えなくなり先が見通せなくなります。政治の世界にも闇が拡がっています。世界のあちらこちらで紛争という闇も拡がっています。力を持っている権力者が、無造作に力をふるうと、その先に闇が拡がり、かならず力のない人たちが傷つき、たおれます。こうした人間社会のありさまは、いつの時代でも変わることはありません。

 会社でも、家庭でも、学校でも、もちろん国際情勢においても、より力をもっている人が、無造作に力をふるうとき、その先にはかならず闇が拡がり、力のない人たちがなやみをかかえることとなります。人が集まるところ、つねにその危険性があります。キリスト教会もけっして例外ではありません。

 キリストは大声で言われました、《わたしは光として世にきた。それはわたしを信じる者がやみのうちにとどまらないようになるためである》。キリストが大声で言われたのは福音書ではここを含めて三回だけです。ここで誤解してはならないのは、キリストを信じたら、闇がなくなってしまう・・・のではありません。キリストを信じても、なお闇はあり、なやみは尽きません。しかし闇の中にいつまでもとどまることがなくなります。なやみに襲われたとしても、やがて必ず、朝をむかえます。

 光とはどのような時もまず信じるものです。深いなやみのなかにあって、光がまったく見えなくなっても、おさなごのように、光があると信じることです。この闇の中にもインマヌエルの主がおられる、このなやみの中にも光がある・・・まずは信じることです。

 第二次大戦中の闇の中の闇といわれたアウシュビッツ強制収容所にあって、フランクルは光を信じました。「どんな時にも人生には意味がある」。ここで「意味」を「光」に置き換えてもいい。すなわち「どんな時にも人生には光がある」。ガス室に送られ、いつ殺されてもおかしくない闇の状況にあって、多くの人たちがフランクルをとおして、収容所のなかで光を見いだし、生きる希望を見いだしました。

 キリストは、わたしたちひとりひとりに問われます、《あなたは光を信じるか?》。キリストを信じるとは、光を信じることです。信じる者は、必ず、光を見いだします。救いを見いだします。希望を見いだします。


 

2018年3月11日

「羊とやぎ」

【新約聖書】マタイによる福音書25章31節~46節

  困っている人の前をそのまま通り過ぎたことは正直なところ誰にもあると思います。わたしにも、そのようなことは今までに何度もあります。まさにそれは本日のたとえ話に登場する《やぎ》のようです。《やぎ》とされた人々は永遠の刑罰を受け、永遠の火に入れられてしまいます。とても恐ろしい結末が待っています。ただし本日のキリストのたとえ話の真意はわたしたちを恐怖させるものではなく、むしろその逆、わたしたちへの救いのメッセージです。

 聖なる神の前に胸をはって立てるようなまっ白な《羊》のような人間などいません。ひとりもいません。あのようなすばらしい働きをされたマザーテレサであっても、神の前にはやはりひとりの人間です。灰色のやぎです。わたしたちもそうです。どれほど善行を積もうが、しょせんは人間です。灰色のやぎであることに変わりはありません。

 しかしそうした灰色のやぎでしかないわたしたちが、まるでまっ白な羊であるかのように聖なる神の前に立ち、神から大いなる祝福をいただけるとしたら、それは奇跡です。あり得ないことです。ところが本日のキリストのたとえ話には、現実の人間社会には存在しない羊のような人間が登場しています。

 キリストはこのたとえ話をわたしたちへの救いのメッセージとして語っておられます。どんなにしても灰色のやぎでしかないわたしたちがまっ白な羊として終わりの日に神の前に立つことができる、そのような救いの道があることをこのたとえ話は語っています。そのような救いの道を、キリストは文字どおり、いのちをかけて開かれました。キリストにとって、滅びてもいい人間などひとりもいないからです。このキリストが開かれた道をすでに歩んで人たちには、終わりの日には大いなる神の祝福が待つばかりです。終わりの日の大いなる神の祝福を待ち望みつつ、地上での残された歩みを一日一日精一杯に歩んでまいりましょう。

 マタイの福音書では、いよいよこれからキリストの受難というクライマックスをむかえます。灰色のやぎが、まっ白な羊として祝福を受けるために、キリストがいのちをかけて歩まれます。ゴルゴダの丘の十字架をめざして歩まれます。すべてはわたしたちの救いのために・・・。


 

2018年3月4日

「生きよ 生きてみよ」

【新約聖書】マタイによる福音書25章14節~30節

  アメリカで80歳以上の人たちを対象にしたアンケート調査が行われました。質問は「人生をふり返り、あなたが後悔していることはなんですか?」です。この質問に70%の人たちが同じことに後悔していることがわかりました。それは「チャレンジしなかったこと」です。失敗を恐れるあまり、チャレンジすることをためらってしまったということです。本能的に人は変化を避け、新しいことにチャレンジすることをためらってしまうところがあります。

 たとえ話には三人のしもべが登場します。主人はそれぞれのしもべに自分の財産を預けて長い旅に出かけます。5タラントおよび2タラントを渡されたしもべは、それを元手に商売をします。しかし1タラントを渡されたしもべは、主人のお金を使うのが恐く、地の中に埋めてしまいます。旅から帰った主人は先の二人のしもべを称賛しますが、最後のしもべをきつくしかり、追い出してしまいます。

 誤解してはならないのは、主人に称賛されたしもべは、商売が成功し、主人の財産を増やしたから称賛されたのではありません。彼らが称賛を受けた理由は主人からあずかったものを精一杯に活用しようとしたからです。財産が増えたのは結果に過ぎません。かりに商売がうまくいかず、主人の財産を失ったとしても、主人の財産を精一杯に活用しようとした事実に違いはありません。主人はそのような忠実なしもべを称賛したはずです。

 多くの人が死を前にして後悔することは《やらなかった》ということです。やってみて、結果として失敗したとしても、それは自分の人生を精一杯に生きた証しとなります。神さまはそのように生きた者を大いに祝福されます。しかし《やらなかった》という後悔は死を前にした時、じつに大きな魂の痛みとして、その人に迫ってきます。財産を地に埋めてしまったしもべは外へ追い出され泣き叫んだり歯がみをしたりする、とありますが、この時のしもべの姿は人が深く後悔するときの姿そのものです。

 人生の終わりが近づいたとき、「失敗だらけの人生ではありましたが、わたしはわたしなりに精一杯に生きてきました」と、どれほどの人が言えるでしょうか。今のあなたはいかがですか。失敗のない人生などあり得ません。失敗してもなお、神さまから与えられた自分といういのちを精一杯に生きることを神さまは期待しておられます。

 まだ間に合います。残された生涯、自分に出来ることは限られていても、今日が人生最後の日だと思って、とにかく精一杯に生きることです。生きてみることです。自分に出来そうなことにどんどんとチャレンジすることです。年齢など気にすることはありません。失敗してもいいではありませんか。後悔しないために、やってみることです。やがて導き入れられる御国で《よくやった。良い忠実なしもべよ》と主に祝福していただきましょう。


 

2018年2月25日

「思慮深さ」

【新約聖書】マタイによる福音書25章1節~13節

  十人のおとめが結婚式の接待がかりとして雇われました。たとえ話では五人は思慮深く、五人は思慮が浅かったとあります。しかし思慮深さにおいて両者にそれほど差があるとは思えません。思慮深いとされるおとめたちは、たしかに自分の油は準備していましたが、「ひょっとしたら、油を買い忘れている人もいるかもしれない。そのような人たちのために余分に油を買っておこう・・・」とまでは思慮は及びませんでした。さらに言うなら、夜中に花婿が到着したとき、余分の油を準備していなかった思慮の浅いおとめたちに対して、思慮深いといわれるおとめたちは「店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう」などといとも簡単に言い放っています。夜中ですから店は閉まってます。寝ている店の主人に事情を話し、油を買っている間に、間違いなく花婿は到着するでしょう。それにもかかわらず思慮深いおとめたちは店に油を買いに行くようにすすめました。とても思慮深いとは思えません。

 花婿が到着するのが予定どおり昼間であったら、なにも問題はありませんでした。しかしたとえ話の最後に《だから目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである》とキリストが話しておられるように、その日その時がいつ来るのか、またどのようにやって来るのか、実際のところはわたしたちにはわかりません。

 このたとえ話で、そもそも思慮深いおとめたちと思慮の浅いおとめたちの決定的な違いは何でしょうか。思慮深さにおいて両者にそれほどの違いはありません。両者の違い、それは《油》を用意していたか、いなかったか、この一点だけです。そしてこの《油》が意味するところは、キリストを信じる《信仰》であることは明らかです。思慮深さにおいては、わたしたちは五十歩百歩です。それほど違いはありません。でもキリストを信じる信仰という《油》は、小さなおさなごでも準備しておくことができます。老若男女を問わず、誰でも準備しておくことができる《油》です。いつ、何があろうとも、この《油》さえ準備しておけば、それで十分です。安心です。

 このたとえ話が語っている、もうひとつの真実があります。それはキリストを信じる信仰という《油》は他人に分け与えることは出来ないということです。また他人からもらうことも出来ません。その日その時のために自分でしか準備できないもの、それがキリストを信じる信仰という《油》です。


 

2018年2月18日

「メメント・モリ」

【新約聖書】マタイによる福音書24章32節~51節

  《天地は滅びる。しかしわたしの言葉は滅びることはない》。世の終末についてのキリストの言葉が続きます。ここでけっして誤解してはならないのは、キリストはわたしたちをおどしておられるのでも、不安や恐怖をあおっておられるのでもありません。むしろその逆です。《天地は滅びる》とキリストが言われるとき、それはこの世にあっては終わりがあることをきちんとわきまえて、かけがえのない一度きりの生涯を歩みなさい、というメッセージに他なりません。

 死という終わり、そして世の終末という終わり、それは必ず訪れます。終わりがいつなのか、わたしたちにはわかりません。思いがけないときにやって来る、とキリストは語っておられます。しかし終わりを意識するからこそ、きょうという日が輝きます。つい当たり前だと思いがちな日常のひとつひとつの出来事について、次はないかもしれないと思うからこそ、大切なものが見えてきます。しあわせが身にしみるようになります。

 死も世の終末も、いずれも聖なる神が導かれる出来事です。避けることはできません。でも終わりがあるからこそ、そして終わりをきちんと意識するからこそ、くどいようですが、きょうという日が輝いてきます。終わりを意識しない歩みでは、とかく余計なことにばかりに貴重な時間と労力を注いでしまいます。名声や保身だけのために家族や友人らを犠牲にしてしまうのも終わりをまったく意識していないからです。貪欲に取りつかれて自分を見失うのも、自分の命に限りがあることを忘れてしまっているからです。終わりを意識するとは本来の自分を取り戻すことでもあります。

 終わりにそなえるために具体的にどうしたらいいのでしょうか。とにもかくにもキリストを信じて魂の救いにあずかり、いつ終わりが来てもいいように天の御国の確約を得ておくことです。これがすべてとも言えます。死にそなえることについて言えば、自分の葬儀のことや遺品や財産について、あるいは延命治療はどうするのか、最期はどこで迎えたいのか、そのようなことも前もってまとめておくのも、残される自分の家族のためにはとてもいいことです。でもわたしの経験上、そのようなことはなんとかなるものです。もちろん、残された身内がたいへんな思いをするかしないかの違いはありますが・・・。残される身内に余計な苦労をかけたくないのであれば、生前にきちんとまとめておくのがいいでしょう。

 すでに天の御国の確約を得ているなら、終わりがいつ来ても何も心配はいりません。いつ訪れても、その先に御国が待っているのですから。あとは、きょうという一日をせいいっぱいに楽しみ、喜び、生きていけばいい。一度きりの人生です。楽しみ、喜ばなくては損です。神さまが与えてくださったかけがえのない命です。自分らしく、一度きりの人生を存分に楽しみ、存分に笑い、存分に喜び、ひたすら天の御国を目指して歩みます。 


 

2018年2月11日

「世の終末に起こること」

【新約聖書】マタイによる福音書24章15節~31節

  陶芸家が茶碗を造る作業を想像しましょう。土を選び、土をこね、茶碗の形にととのえ、乾燥させ、うわぐすりを塗り、焼きを入れます。焼きが終われば茶碗造りは終わります。同時にそれは茶碗の完成でもあります。終わりとは完成でもあるということです。ここで注目すべきは陶芸家は焼き入れが終わった茶碗を選別します。陶芸家の目にかなった茶碗と、そうでない茶碗とを選別します。世の終末もこれと同様です。世の終末は聖なる神による救いの完成です。そして聖なる神は人々を選別されます。最後の審判とも言われます。救われる人もいれば、救われない人もいる・・・それが厳粛なる神の真実です。

 マタイの福音書24章でキリストが語っておられる世の終末のありさまは、もはやわたしたち人間の知恵や知識の及ぶところではありません。ただキリストが語っておられることを信じるか、信じないか、そのどちらかです。数学者であり、キリスト教神学者でもあったパスカルは「もはや人知を越えた出来事ゆえ、キリストの言葉を信じるか、信じないか、そのどちらかである。しかしわたしは思う。キリストを信じて、けっして損にはならない」。パスカルならではの信仰告白です。

 世の終末について科学では検証できません。人知をはるかに越えた信仰の領域です。死がいつ訪れるのか秘められているように、世の終末もいつ訪れるのか、聖なる神のみがご存じです。わたしたちにできることは、ただひとつ、それがいつ訪れてもいいように、キリストを信じて魂の救いにあずかっておくことです。それ以外にわたしたちになすべきことはありません。

 日本の歴史上、福音を信じる人々の数がとりわけ拡大した時代が三度あります。ひとつは戦国時代、次に江戸幕府が倒れ明治時代になったとき、そして第二次大戦直後です。この三つの時代に共通しているのはまさに死と隣り合わせの時代であったということです。死が迫ると人間はおさなごのようになり、福音が魂に響くようになります。死と隣り合わせのきびしい時代にあって、多くの日本人は死の向こうに光り輝く天の御国を仰ぎつつ歩んだのです。現実がどれほどきびしくとも、いつも御国を仰ぎ、神の平安を得ていたのです。

 人の死も、世の終末も、必ず訪れます。どうすることもできません。しかしキリストを信じて魂の救いにあずかっている者にとっては、死は御国の入り口であり、終末は聖なる神による救いの完成です。もはや死も終末もひとつのとびらに過ぎません。とびらの向こうにはキリストが約束された永遠の御国が輝いています。キリストの救いを得ている者にとって、生きるとは死が近づくことではなく、天の御国が近づくことです。聖なる神による壮大な救いの完成が近づくことです。信仰とはこの意識で歩むことです。いつも御国を仰ぎながら歩むことです。 


 

2018年2月4日

「恐れることはない」

【新約聖書】マタイによる福音書24章1節~14節

  死の前にして、わたしたちは無力です。現代医学も無力です。平均寿命が世界のトップレベルであることを誇示している日本ですが、だからといって死が遠ざかったのではけっしてありません。遅かれ早かれ、人はみな最期を迎えます。今の日本は平均寿命が延び、健康志向があまりに強くなったために、自分の死と真正面から向き合わなくなってしまいました。残念ながら、多くのキリスト教会も死から目をそむけています。死から目をそむけた途端、聖書は道徳の書となり、福音はもはや福音ではなくなり、この世のご利益宗教となにも変わらなくなってしまいます。

 24章でキリストが語っておられるのは、この世の終末についてです。わたしたちの生涯にも誕生という始まりがあり、死という終わりがあるように、この世そのものにも始まりがあり、終わりがあります。ここで誤解してはならないのは、世の終末と聞くと多くの人はこの世の破滅を連想します。核兵器や生物兵器などによって、貪欲に取りつかれた愚かな人間がもたらすのは、たしかに破滅であり破壊です。しかしそれはキリストが告げておられる世の終末などではありません。

 聖書が告げる世の終末とは、主なる神ご自身の手によってなされるものです。それは世の破滅ではなく、いわば壮大な神の救いの完成であり、成就です。ここでまずおぼえるべきことは、死も世の終末も、いずれであろうとも、キリストを信じて洗礼を受け、魂の救いにあずかっている者にとっては、救いの完成であり、永遠のいのちの世界である御国の訪れです。なにも恐れることはありません。キリストと共にある者たちにとって、自分の死であろうが、この世の終末であろうが、いつそれが訪れようとも、何も心配はいりません。安心して、平安のうちに、これからの一日一日を歩んで行けばいいのです。

 《御国の福音は、すべての民に対して、あかしをするために、全世界へ宣べ伝えられる》とキリストは語っておられます。死を前にして、そして世の終末を前にして、わたしたち人間はまったく無力です。医学も科学も経験も地位も名誉も無力です。無力であることをまず知るべきです。御国の福音とは、死と終末を前にしても、まったくゆらぐことのない神の救いです。死と終末をもつらぬく、永遠の神の救いです。

 自分の死と真正面から向き合い、大いなるお方によってもたらされる世の終末を思い描くとき、御国の福音が輝き始め、魂に迫ってきます。そして、おさなごのようにキリストを信じるだけで救いが約束されます。魂に平安が訪れます。キリストは言われました、《この御国の福音をすべての人へ宣べ伝えよ》と。聖書は道徳や倫理の書ではけっしてありません。聖書はこの御国を福音を伝える書です。救いの書です。 


 

2018年1月28日

「豊かさの落とし穴」

【新約聖書】マタイによる福音書23章25節~39節

  欲望そのものはわたしたちが生きるために神さまが与えておられるものです。欲望があるとは、生きている証しであり、生きるための原動力でもあります。ところがこの欲望がふくれ上がり、いとも簡単に貪欲になってしまいます。欲に目がくらんで・・・などという話はわたしたちの日常あちこちで聞かれることです。

 貪欲に取りつかれてしまうことは誰にもあり得ることです。年齢もあまり関係ありません。そして貪欲に取りつかれても、おそらく本人はそのことに気づいていないでしょう。パリサイ人や律法学者たちもそうでした。「自分は神さまを信じているから大丈夫。貪欲などとは無縁だ!」などと傲慢な思いをいだいているクリスチャンもいるかもしれませんが、事態はそれほど甘くはありません。

 およそ人間であるかぎり、いわゆる魔が差して、欲に目がくらみ、貪欲に支配されてしまうことは十分にあります。モノにあふれ、豊かな社会になったと言われる日本は、モノにあふれているだけに、わたしたち人間の欲望がふくれあがり、貪欲になりやすい環境にあるともいえます。神を信じ、キリストと共に歩んでいる人であろうと、「自分は大丈夫!」などとはけっしていえません。むしろ、神を信じているからこそ、「自分にも何かの事情で貪欲に取りつかれてしまう弱さ、愚かさがつねにある」と謙虚に思って、この世のわざわいから遠ざけてくださるようにとキリストに祈りつつ、歩むことが何よりも大切なことです。

 人が貪欲に取りつかれると、共通して、ひとつのサインが出ます。このサインはわたしは神からの愛の警告と思っています。そのサインとは、人間関係がおかしくなるということです。貪欲に取りつかれると、無理にでも自分の思いばかりを押し通そうとしますから、必ず人間関係に摩擦が生まれ、人間関係がおかしくなります。これがサインであり、神からの警告です。

 キリストは言われました、「めんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしは幾たびおまえたちを集めようとしたことか」。そもそもわたしたちは神の前には弱い、小さなひな鳥に過ぎません。ひな鳥として、この大いなるお方の翼に守られ、他のひな鳥たちと一緒にぴーちくぱーちく言いながら、助け合いつつ、生きていくものです。貪欲に取りつかれたパリサイ人、律法学者たちは、神の前には自分たちもひな鳥に過ぎないことがまったく見えなくなっていました。やがて彼らは、キリストを捕らえ、十字架にかけてしまいます。人間の貪欲は、人間関係を破綻させ、神の御子さえも殺してしまうほど恐ろしいものだということです。罪とは、この貪欲のことです。人間の貪欲を甘くみてはなりません。


 

2018年1月21日

「私は私、これでよし」

【新約聖書】マタイによる福音書23章13節~24節

  「あなたは誰ですか?」 そうたずねられて、どう答えますか。名前を告げ、仕事をしている人なら名刺を差し出し、肩書きや経歴などを伝え・・・いろいろと答えようがあります。しかしそうした肩書きや経歴などは移りゆくものであり、変化もし、なくなりもします。もしそうなったら、自分は自分ではなくなるのでしょうか。いいえ。そんなことはありません。肩書きや経歴がどうあれ、つねに自分は自分です。

 このように考えると「あなたは誰ですか?」という問いかけに、結局のところ「私は、私です」と言うのが、いつも変わらぬ答えかもしれません。少なくとも主なる神の前にはこの世でどのような肩書きや経歴を持っていようが、しょせんはひとりの人間に過ぎません。「私は、私です」としか答えようがありません。

 律法学者とパリサイ人たちはキリストから痛烈に批判されています。「あなたがたはわざわいである」とさえ言われています。注目すべきは「律法学者」とか「パリサイ人」とは肩書きに過ぎないということです。その肩書きを取り去れば、彼らもまた神の前にはひとりの人間です。ところが彼らはいつもこの肩書きを身にまとい、この肩書きに生きています。人間としての彼らの素顔はまったく見えません。

 肩書きや経歴をかたく身にまとい生きている人は現代でも、いや現代であるがゆえに、じつに多いでしょう。これはひとごとではありません。ひとりの人間であるよりも前に牧師であるとか、部長であるとか、誰々の子であるとか、誰それの親であるとか、会社の役員であるとか・・・そうした肩書きや経歴をかたく身にまとい、生きてしまう危険性は人間は弱いですから誰にもあり得ることです。

 肩書きや経歴には意味はない、などと言っているのではありません。パリサイ人や律法学者のように肩書きや経歴をつよく身にまとい、生きていると、生身の人間が見えなくなってしまう危険性があるということです。あるいは肩書きや経歴に傷をつけないように保身のためばかりに歩むようになってしまいます。

 イザヤ書43章1節に「わたしはあなたの名を呼んだ」という主なる神の言葉があります。主なる神はこの世の肩書きや経歴にではなく、ひとりの人間として生きている生身のあなたにいつも語りかけておられます。たとえるなら、生まれたばかりのおさなごのように、肩書きも経歴も、ましてや地位や名誉もいっさい持たない、ひとりの人間としての生身のあなたに語りかけておられます。「わたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と。

 このキリストからの永遠に変わらない語りかけを受けて、わたしたちは胸をはって次のように宣言できます。「私は私、これでよし」。これはけっして自己満足でも、うぬぼれでもありません。キリストの語りかけをおさなごのように聴き、信じ、キリストと共に歩む者の、まさに信仰告白です。


 

2018年1月14日

「人は背中で語る」

【新約聖書】マタイによる福音書23章1節~12節

 23章ではパリサイ人、律法学者たちへのキリストによる痛烈な批判が続きます。《彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから》。彼らが口で語っていることは間違ってはいないが、彼らの背中はまったく別の、違うことを語っている、ということです。

 パリサイ人や律法学者たちにとって、人々に良く見られるために行動し、人々から称賛を受けることが生きがいとなっていました。彼らにとっては、神の前に生きるひとりの人間としてではなく、人の目に見栄え良く生きることがまず第一のこととなってしまいました。キリストはそのように生きていた当時のパリサイ人、律法学者たちの本質を見抜いておられます。パリサイ人や律法学者たちにとって、人々から称賛を受けることがすべてであり、人々の称賛こそが自分という人間の価値を決める尺度になっていたわけです。

 キリストはここで問いかけておられます。《今、ここに生きている、あるがままのあなたを見守り、どのような時も、ひとりの人間として重んじ、かけがえのない存在として評価しているのはいったい誰なのか? あなたというひとりの人間の価値を定めるのは、人なのか、それとも主なる神なのか》。

 主なる神は、わたしたちの背中をいつもご覧になっています。わたしたちのあるがままの素顔をすべてご存じです。そして、この大いなるお方は、わたしたちひとりひとりに神のまなざしを注ぎ、どんなに弱く、失敗だらけであっても、《恐れるな。わたしがあなたをあがなったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの・・・わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している》といつも語りかけてくださっています。きのうも、きょうも、そしてあすも、永遠にいたるまで、そうです。

 人がどう思おうが、この大いなるお方が、あなたをひとりの人間として愛し、かけがえのない存在として評価しておられます。主なる神さまこそが、本当の意味で、わたしたちを導く先生であり、父であり、教師です。このような方は他にはいません。人々があなたをどう評価し、どう称賛しようが、しょせんは人の評価であり、人の称賛です。中途半端で、かたよりがあります。わたしたちを正しく評価し、正しく称賛し、かけがえのない人間としての尊厳を与えうるのは、主なるキリストだけです。ですから、わたしたちにとって、まず第一に恐れるべきはキリストであり、キリストの言葉にこそ耳を傾けなければなりません。まず第一に人を恐れ、必要以上に人の言葉に耳を傾けてしまうと、ほんとうの自分が見えなくなります。自分という人間の尊厳が見えなくなってしまいます。


 

2018年1月7日

「共に歩む」

【新約聖書】マタイによる福音書2章1節~12節

 《恐れるな。わたしがあなたをあがなったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの》(イザヤ書43章1節)。主なる神からのこの語りかけを聴きつつ、2018年の歩みをかさねてまいります。ぜひ、ひとりひとり、自分の置かれた状況の中で、この主の言葉と取り組み、主からの導きを求めてください。わたしの場合、この主の語りかけを聴くたびに心が軽くなります。ですから2018年の旅路をみすえて、わたしが選んだ今年の漢字一文字は「軽」です。とかく荒野の現実の中で気持ちが重くなりがちですが、この神の言葉を思い起こすとき、余計な重荷から解放されて、「軽」くなります。この軽さは、いわば主が与えてくださる「聖なる軽さ」とでも言えるでしょうか。この新しい一年を軽やかに主と共に歩みたい、その願いをこめて選びました。

 東からやってきた博士たちの足どりもじつに軽やかです。彼らは千キロ以上も離れたバビロンという街から神の都エルサレムまではるばるやってきました。山あり谷あり、山賊や野獣もいたであろう、まさに当時としては決死の旅、重い旅だったと思います。しかしエルサレムに到着した彼らは《自分たちは東の方で星を見たからやってきました》と軽やかに言い放っています。

 彼らがこのような重い旅を始めた動機は《星を見たから》でした。なんとシンプルな動機でしょうか。彼らは千キロもの旅を軽やかに始めたのです。旅の途中では、いろいろとつらい思いもしたはずです。《旅をあきらめて、帰ろうか?》と思ったこともあったと思います。しかしそのたびに彼らは原点に戻ったのではないでしょうか。彼らにとって、旅を始める動機となった原点、それは《星を見た》という体験です。不思議な星の輝きを見て、彼らは旅を始めました。祖国バビロンで見た星の輝きをなんども思い起こし、初心を思い出し、旅を続けてきたのだと思います。

 2018年の旅が始まりました。今年、いろいろな場面で、わたしたちも力を失い、途方に暮れ、思いわずらい、倒れてしまうかもしれません。そのような時はおさなごのように原点に戻りましょう。《恐れるな。わたしがあなたをあがったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの》。この神の言葉こそ、2018年という旅を歩み続けるための原点であり、出発点です。何かの時は、いつもここに帰りましょう。

 今年も主と共に歩みます。いや、まずこの大いなるお方が共に歩んでくださいます。このお方と共に、ひとあしひとあし、歩んでまいりましょう。急ぐこともあせることもありません。主がいつも共におられるのですから。自分のペースで、軽やかに歩んでまいりましょう。


 

2017年12月24日

「キリストの誕生」

【新約聖書】ルカによる福音書2章1節~20節

  皇帝アウグストが勅令を出したゆえに、身重のマリヤはナザレという北の町からベツレヘムまで150キロもの旅をしなくてはならなくなりました。《どうして、このようなときに勅令が出るのか?》とマリヤとヨセフが思っても不思議ではありません。しかし彼らは《どうして?》とは問わず、《ガリラヤの町ナザレを出て、ベツレヘムというダビデの町へ上って行った》と聖書は伝えています。すべてを神のみこころと受けとめ、彼らは行動します。

 ベツレヘムでは宿屋が満室で、泊まるところがありませんでした。ここでも《どうして泊まる場所がないのか?》と嘆いても不思議ではありません。しかし二人はその状況を受けとめ、ベツレヘムの町を歩きます。やがて家畜小屋をあてがわれます。《どうして家畜小屋なのか?》と不満に思っても当然ですが、二人は家畜小屋に身を置きます。そしてマリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼い葉おけの中に寝かせました。

 皇帝の勅令も、ベツレヘムの宿屋が満室だったことも、そして家畜小屋でマリヤが出産しなければならなかったことも、二人にとっては苦しみです。しかしいつも主なる神が自分たちと共におられることを彼らは知っていました。そして苦しみの中でこそ主なる神の導きを知り、悩みの中でこそ神の愛にふれ、マリヤとヨセフは歩みました。

 マリヤとヨセフがそうであったように、わたしたちひとりひとりも今年一年をふり返り、それぞれが体験してきた様々な苦しみの中で、わたしたちを慰め、励まし、導いてくださったキリストに気づいているはずです。誰もが自分の置かれた苦しみの中でこそ、キリストの光を見、キリストの慰めを受け、キリストの愛にふれたはずです。だからこそ、きょうの自分がある。いかがですか。

 飼い葉おけの中にキリストが誕生された出来事、それがクリスマスです。そしてクリスマスが伝えているメッセージとは、この世にあって経験する様々な苦しみの中にこそ、光が輝き、救いがあるという神の真実です。《光は闇の中に輝いている》(ヨハネ福音書1章5節)。これから先、どのような苦しみ、悩み、荒野に投げ込まれようと大丈夫です。苦しみ、悩み、荒野の真っ只中にこそ、キリストはいつも共におられるのですから。


 

2017年12月17日

「みこころのままに」

【新約聖書】ルカによる福音書1章26節~38節

  御使いガブリエルによるマリヤへの受胎告知の場面です。毎年申し上げますが、この時のマリヤはまだ十代半ばのおさない少女です。後に聖母マリヤとして慕われるようになりますが、この時のマリヤはまだまだあどけない少女です。《恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます》と聞いて、彼女は《ひどく胸騒ぎがした》とあります。彼女は喜ぶどころか、ひどく不安を感じ、恐れます。無理もありません。いったい自分に何が起こったのか、とうてい頭で理解できることではありません。

 《どうしてそんなことがありましょう》。どうして?とマリヤはたずねます。わたしたちも苦しみのなかで《どうして?》と叫びます。どうしてこんなことが? どうしてわたしに? どうして?・・・人生の荒野に投げ込まれたとき、多くの人がそう叫びます。どうして?と問いかけて、答えが得られることもあります。しかしわたしたちの人生の苦しみや悲しみについて、どうして?と問いかけても、満足できる答えが得られないことのほうが多いものです。

 マリヤも最初のうちは《どうして?》と御使いに問いかけました。しかし彼女のすごいところは《どうして?》と問うことをやめてしまったところです。最後に彼女は言いました、《わたしは主のしもべです。お言葉どおり、この身になりますように》。《どうして?》をやめて、その代わりに《どうする?》とマリヤは考えたのです。いま、自分が置かれた状況で、自分は《どうする?》と問いかけたのです。そして与えられた答えが《主なる神さまのみこころのままに》でした。

 人生は荒野です。苦しみがあり、悩みがあり、悲しみがあります。病気にもなります。老います。どうして?と問わざるを得ないほど、きびしい荒野に投げ込まれてしまうこともあります。最初は《どうして?》と問いかけるのも無理はありません。しかしいつまでも《どうして?》とばかり問いかけていてはダメです。荒野の暗闇に吸い込まれるだけです。荒野の苦しみにあっては、どうして?ではなく、《どうする?》と問いかけなければなりません。荒野の苦しみから何を学び、自分はどうするのか。これが信仰の姿勢です。

 キリストはいつもわたしたちひとりひとりに問いかけておられます、《わたしはいつもあなたと共にいる。あなたはどうするのか? あなたはどう生きるのか?》と。

《わたしは主のしもべです。お言葉どおりこの身になりますように》。このマリヤの告白こそキリストと共に生きている者の信仰告白です。


 

2017年12月10日

「待ち望む」

【新約聖書】マルコによる福音書1章1節~8節

  わたしたちが置かれている人間社会、それは間違いなく荒野です。苦しみ、悩み、悲しみ、病気、失敗、あるいは途方に暮れてしまうことであふれています。一年をふりかえり、ひとりひとりが自分の通ってきた荒野を思い浮かべることができます。こうした荒野は、この地上で生涯を閉じるまで続きます。

 荒野を生きる上で大切な姿勢は、苦しみから何を学ぶか、です。自分が実際に体験した荒野の苦しみから学んだことは、生きる知恵となります。わたしたちひとりひとりに問われるのは、荒野の苦しみの中で、自分にしかわからない神からのメッセージをきちんと聴き届けることができるかどうか、です。

 《荒野で呼ばわる者の声がする》。マルコの福音書は荒野から始まります。荒野はまさに人間社会の真っただ中を象徴しているからです。洗礼者ヨハネと呼ばれる人物は荒野に身を置き、この荒野にキリストが来られることを人々に伝えました。最後は権力者によって理不尽にもヨハネは首をはねられてしまいます。彼の生涯はまさに荒野の生涯でした。ヨハネは自分の身をもって救い主キリストを証ししました。証しとはそのようなものです。口先の言葉だけでなく、自分の背中でキリストを指し示す。それが証しであることをヨハネの生涯が物語っています。

 荒野には乗り越えることの出来る荒野と、生涯つき合わねばならない荒野があります。いずれにせよ、荒野で、わたしたちが知るのは自分の無力さです。人生最後にして最大の荒野である死に際して、わたしたちは自分の無力さを思い知らされます。でもわたしは思います。自分という人間の無力さを知ってこそ、そこからほんとうの人生が始まるのではないか。自分の無力さを知らないうちは、まだまだ本物の人生は始まってはいない。なぜなら、自分の無力さを知ってこそ、自分は支えられている、守られている、生かされている、そしてゆるされている・・・そのような人生の真実に目が開かれるからです。自分の無力さを思い知ってこそ、この無力で愚かな自分を支えうるのは救い主キリストの他にはおられない。この神の真実に目が開かれるからです。 

 ヨハネが荒野で、いのちをかけて叫んだこと、それは《この荒野にキリストが来られる》でした。荒野でこそ、わたしたちはキリストと出会います。荒野の苦しみのなかで、わたしたちの心と魂の目が開かれ、わたしたちはおさなごのようにキリストの前にひれ伏し、キリストの恵みを受け入れ、救いへと導かれます。


 

2017年12月3日

「安かれ 愛する子よ」 金田和子姉

【新約聖書】ヨハネによる福音書20章19節~29節

  《その日》とは人類が始まって以来、一度しかなかったこと、すなわち人となられたキリストが墓を破ってよみがえられた日のことです。弟子たちはキリストが十字架にかけられた時、キリストを見捨てて逃げ去りました。そして絶望の淵に追いやられ、彼らはユダヤ人をおそれて自分たちのいる部屋の戸をみな閉めて、うちふるえていました。戸を閉めきっていた部屋の中に、死から復活されたキリストが入ってこられ、彼らの中に立ち、《安かれ》といって、十字架のみ傷の手とわきをお見せになりました。弟子たちは主をみて喜びました。しかしトマスはその時、一緒にいませんでした。弟子たちはトマスに自分たちは主にお目にかかったと言うと、トマスは《わたしは手の釘あとを見、手とわきに指をさし入れてみなければけっして信じない》と言い放ちます。

 それから八日の後、弟子たちは戸を閉ざし、家の内にいました。この時はトマスも一緒にいました。そこへキリストが入ってこられ、中に立ち、《安かれ》と言われます。それからトマスに《あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。わきにもさし入れてみなさい。信じない者にならないで信じる者になりなさい》と言われました。この時キリストとトマスの目と目が合ったと思います。トマスはよみがえられたキリストがそこにおられることを見て、《わが主よ、わが神よ》と叫びます。

 わたしたちはこの世では悩みがあり、行き詰まり、どうしてよいかわからない、どうしようもなく、うちふるえることがあります。《あなたがたはこの世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている》と、よみがえりの主は希望のない墓にわたしたちを閉じ込めることなく、絶望のどん底で、罪以外なにもない、生きていていいのかと思える時も、《安かれ 愛する子よ。わたしはあなたを愛している》と御手をひろげ、ゆるしと愛をもって共にいてくださり、絶望の淵から希望の世界へ生きることが出来るように導いてくださいます。何度でも、立ち帰らせてくださいます。

 苦しみ、悩み、行き詰まることには、大切な大切な意味があります。その意味をキリストは教えてくださいます。信じないことはたやすいことです。しかし力をふりしぼって、信じる者にならせていただきましょう。まことの光であるキリストに共に歩んでいただき、勝利の道を歩ませていただきましょう。


 

2017年11月26日

「一年を振り返る」

【新約聖書】ヨハネによる福音書5章1節~9節

  《38年の間病気に悩んでいる人があった》。聖書はさらりと書いていますが、38年もの間、病気をかかえて生きてきたこの男の心境を理解できる人は少ないと思います。わたし自身にもわかりません。当時の劣悪な環境の中で、罪人扱いされながらも、38年という長い年月を生きてきたこの男に、ただそれだけですごいものを感じます。

 キリストは彼の病を癒やされました。ただここで考えてみたいのは、この男が38年もの間、どのように生きてきたのかということです。もし誰からも見捨てられ、見放され、話し相手もいなかったとしたら、とても38年間も生きてくることはできなかったでしょう。間違いなく、彼に寄りそい、彼と共に生きてきた友人か、家族か、誰かがいたはずです。あるいは彼自身は寝たきりではなく、歩くことはできたようですから、彼よりももっと重いハンディを負っている人に彼自身は寄りそいつつ、歩んできたのかもしれません。

 むしろ彼にハンディがあったからこそ、人としての心を忘れることなく、仲間と共に生きてくることができたのかもしれません。ある身体的なハンディをかかえていた牧師は次のように語っています、「あらゆる病気と悲しみは、わたしたちに語りかける神の愛の語りかけである。特別の神の愛のメッセージがそこにはある」。

 わたしたちの誰もが悩み、悲しみ、痛みを体験しながら、歩んでいます。悩みのない人生などありません。ただし落ち着いてから自分の歩みをふり返ってみると、自分自身が体験した苦しみのなかに、自分にしかわからない神からのメッセージがあることもまた真実です。悩みや悲しみをとおしてなければ伝えることのできない真実を、自分が味わってきた苦しみのなかで神さまが語ってくださっている。わたしにも、わたしにしかわからない、そのような主からのメッセージがあります。

 苦しみは悪ではない。人は苦しみから多くのことを学び、そして目が開かれます。自分が通ってきた苦しみの中から、主なる神のメッセージを聴こうとする人はさいわいです。苦しみから逃れようとばかり思わず、むしろ苦しみから何を学ぶのか、苦しみからどのような神のメッセージを聴くのか。その姿勢は、かけがえのない一度きりの人生を歩んでいるわたしたちにとって、とても大切な信仰の姿勢です。主はそのように生きる者に語りかけておられます、「恐れるな。わたしはいつもあなたと共にいる」。


 

2017年11月19日

「いのちは天から」

【新約聖書】マタイによる福音書22章41節~46節

 キリストはパリサイ人たちに問われました、《あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか》。この問いかけに対し、ふた通りの答えがあります。ひとつは当時のパリサイ人たちのように《ダビデの子です》と答えるもの、そしてもうひとつは《生ける神の子、救い主》と答えるものです。

 ダビデとはイスラエルの偉大なる英雄ダビデ王のことです。ダビデの子とはこの英雄ダビデ王の子孫であること、つまりダビデ王のようにキリストも偉大なる人物のひとりであるということです。しかしキリストご自身は言われました、《(キリストは)神の御子であり、ダビデ王も含めて、世の人々が主と仰ぐところの救い主である》と。キリストは地上からではなく、天から下られたことをはっきりとここで言われたのです。

 パリサイ人のようにキリストはダビデの子であると告白する人にとっては、キリストは歴史上登場する偉人と呼ばれる人々のひとりでしかありません。ところがキリストこそ神の御子、救い主であると告白する人にとっては、そのように告白した瞬間から、キリストを神の御子、救い主として仰ぎつつ、他の誰の言葉よりも先に、まずキリストの言葉にこそ耳を傾け、キリストを思いつつ、歩むようになります。《わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している》、いつもそのように語りかけてくださるキリストの言葉を聴きつつ、神の前に生きるひとりの人間として、歩むようになります。

 わたしたちはたしかに親や先祖の遺伝子を引き継いでいます。両親をとおしてこの世に誕生したことは間違いありません。しかし、いのちそのものは天の父なる神が創造され、神から与えられたものです。キリストは神の御子、救い主ですと告白するとは、自分のいのちは天から与えられたかけがえのない高価ないのちであると受けとめて生きることでもあります。

 自分の親がどうあれ、先祖がどうあれ、あるいは子供や孫や、子孫がどうあれ、そのような地上の家系や人間関係とは関係なく、わたしたちひとりひとりは皆、まずひとりの尊厳ある人間としてキリストの前に立っています。かけがえのないひとりの人間としての尊厳を忘れてはなりません。人はみな違う。でも人はみな、ひとりひとりが神の前には、ひとりのかけがえのない存在です。 


 

2017年11月12日

「もっとも大切なこと」

【新約聖書】マタイによる福音書22章34節~40節

  「紙おむつ 地位も名誉も 吸い取られ」。シルバー川柳の一句です。自分なりに懸命に生きてきて、それなりに手に入れた地位も名誉も、結局のところ、紙おむつに吸い取られてしまう。シルバー川柳は老いにともなう悲哀を笑いで吹き飛ばしているところもありますが、同時に現役世代の人たちにするどい警告を発している面もあります。

 死を前にして、わたしたちは無力です。現代医学も、地位も名誉も、死の前には無力です。死を前にしたわたしたちを支えるものは何なのか。若いうちから、そのことをきちんと考えておかなくてはいけない・・・この川柳をそのような問いかけを現役世代の人たちに発していると思います。

 《律法の中で、どのいましめが一番大切ですか》。これは言い換えると《人はどう生きるのが一番ですか》となります。これに対してキリストは《心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ》とお答えになりました。生きる上で大切なことは、神を大切にし、自分を大切にし、そして身近な人を大切にして生きることであるとキリストは言われました。

 しかしここで勘違いしてはならないことがあります。「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」ことは間違いなく大切なことです。でも、それ以前に、まず何よりも先に知っておくべき人生の真実があります。この真実を知らないと、わたしたちの歩みは空回りしてしまい、ときに自分を見失い、身動きつけなくなることもあります。

 まず知っておくべき真実とは何か。たとえばおさなごを見ているとよくわかります。親はおさなごに愛情を注いでいます。おさなごが苦しめば、親はそれ以上に苦しみます。おさなごが喜ぶと、親も喜びます。おさなごが泣こうがわめこうが親は寄りそいます。なぜなら親にとって自分の子はかけがえのない、大切な存在だからです。

 まず何よりも先に知っておくべき真実とは、わたしたちひとりひとりはそのあるがままに、かけがえのない大切な存在として、父なる神に愛されているということです。この真実こそがわたしたち人間の原点であり、出発点でもあります。寝たきりになろうが、老いや病気で体の自由がきかなくなろうが、主なる神の前では、わたしたち人間の尊厳と価値はゆらぐことはありません。わたしたちを愛しておられる神の愛はゆらがないからです。

 まず自分が神を愛するのではありません。まず神が、この自分を愛してくださっている。神に愛されている自分であることをほんとうに知ってこそ、神を愛し、自分を大切に生きてゆくことができます。身近な人と助け合って、生きてゆくことができます。

 人生に迷い、悩みや悲しみのうちに自分を見失ったときは、キリストのもとへ戻ってゆけばいい。それまでどのような歩みをしていようとキリストはいつも、今のあるがままのあなたを抱きしめ、やさしく語りかけてくださいます。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と。

 キリストにある神の愛にふれ、わたしたちはひとりの人間としての尊厳を取り戻し、ふたたび歩み始めることとなります。神に愛されている自分を知って、そのような自分を大切に、そして身近な人を大切にしつつ、生きてゆくこととなります。もちろん人生には幾度も自分を見失ってしまうことがあります。でもそのたびにキリストのもとへ、神の愛へ、戻ってゆけばいい。人生とはじつにその繰り返しです。


 

2017年11月5日

「希望」(召天者記念礼拝&教会創立50周年記念礼拝)

【新約聖書】ヨハネによる福音書14章1節~6節

  いまの日本はとても健康志向が強く、《健康のためなら死んでもいい!》などという笑い話もあるほどです。日本の平均寿命は現在84歳くらいで世界トップですが、心身ともに健康で自立して活動できる「健康寿命」は平均で73歳くらいです。つまり介護を必要とする期間がいまの日本では平均10年以上あり、これもまた世界でトップクラスです。

 自分が死ぬなどということは考えたくないのは人情でしょう。死は恐怖でもあり、死を前にしたら、現代医療も、肩書きや名誉や財産も無力です。ただし、ここで大切なことは人は死の前に無力であること、この真実に気づくことです。死を前にした自分がまったく無力であることに気づいてこそ、では死を前にした自分をほんとうの意味で支えるのは何なのか、死を前にした自分が少しでも穏やかでいられるために、自分を支えるのは何であるのか、見えてくるからです。

 豊浜キリスト教会は今年(2017年)で創立50周年を迎えます。教会創立以来、本当のところで、この教会の歩みを支えてきたのは何であるのか、考えています。さらに自分の誕生以来、この自分という人間を支えてきたものは何なのか。死を思うことによって、人は大切なことに気づきます。自分という人間は見守られてきた、支えられてきた、そしていまも、これからも、見守られ、支えられて歩みをかさねていくという人生の真実です。何よりも、誰よりも、主なる神に見守られ、支えられてきたという神の真実です。死が迫ってくると、人は真実の神と出会い、そしていままで自分を支えてきた愛に気づくようになります。神は愛だからです。死に際して無力な自分を支えるのは、つまるところ、真実の神の愛であり、そして身近な人たちの愛に他なりません。自分がいままで手にした肩書きや名誉や、ましてや財産などではけっしてありません。

 希望とはまだ先がある、まだ次のチャンスがある、などということではありません。死を背負って生きているわたしたちにとって、いつ死を迎えるかわかりません。今晩かもしれませんし、明日かもしれません。まだ次があるという保証はどこにもありません。キリストは言われました、《わたしは道であり、真理であり、命である》と。希望とは、信じる者に永遠の命を与えてくださる、まことの救い主、永遠の神であるキリストがおられるということです。

 キリストに見守られ、支えられて、また多くの人の愛と祈りに支えられて、豊浜キリスト教会の今までの50年の歩みがあり、またこれからの歩みもあります。わたしたちの歩みもそうです。人はけっしてひとりで生きているのではなく、生きられるものでもありません。目には見えなくとも、たしかにおられる主なる神の愛に支えられ、多くの人々の愛と祈りに支えられて、いままでの自分があり、きょうの自分があり、そしてこれからの自分があります。


 

2017年10月29日

「宗教改革者マルチン・ルター」

【新約聖書】ヨハネによる福音書3章16節

  「主なる神さまは、わたしたち人間をお見捨てになってもよかった。わたしたちを滅ぼすこともできた。かりにそうされても、わたしたちには文句は言えなかった」。ある牧師の説教のなかの一節ですが、たしかにその通りだと思いました。神さまは愛である、キリストはわたしたちの身代わりとなってくださった・・・わたしたちにはそれがいつの間にか当たり前だと思ってしまっているところがあるかもしれません。愚かで、自分勝手で、何か問題が起こるとキリストに助けを求めるが、そうでない時にはキリストの愛も恵みも忘れてしまう。人間社会には争いも絶えたことはなく、天の神さまがわたしたち人間に愛想を尽かされても不思議ではありません。「主なる神さまは、わたしたち人間を見捨てることもできた》とは、その通りだと思います。

 《神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである》。宗教改革者マルチン・ルターが生涯をとおし、とりわけ愛し続けた神の言葉です。ルターはこの言葉を聖書の中の聖書、黄金の聖書と呼び、この言葉を魂に刻み、生涯に渡って、毎日自分に向かって語りかけなければならないと言いました。その通りです。旧約聖書ならイザヤ書43章冒頭、新約聖書ならヨハネ3章16節を心に刻み、機会あるたびに毎日自分に向かって語りかけます。

 《この世》とは、いま、この瞬間、この神の言葉を聴いている人のことです。つまり、あなたであり、わたしのことです。《ひとり子》とは主イエス・キリストのことです。《愛してくださった》のであり、愛してくださるであろう、ではありません。愛してくださるかもしれない、でもありません。あるがままに《愛してくださった》、それもひとり子を賜ったほどに、です。ひとり子を賜ったほどの主なる神の愛とは、どれほどの愛なのか。わたしたちはそれぞれに自分の生涯をかけて、すこしずつ気づいて行かねばなりません。ひとり子を賜ったほどの神の愛を、けっしてわかった気になってはいけません。そもそも自分の最愛の人を身代わりにするなど、わたしたちには到底考えられないことです。文字通り、人知をはるかに超えています。

 《キリストを信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである》とは、キリストを信じるだけで、ただ洗礼の恵みにおさなごのようにあずかるだけで、救われるということです。ひとりも滅びないとは、もれなく、例外なく、永遠の命が与えられるということです。永遠の命とは、何があろうと、いつも、いつまでも、どんな時も、主なる神さまが共にいてくださるということです。大丈夫だということです。

 キリストを信じて、すでに救われている者たちが歩む生涯は、救っていただいたキリストへの、いわばお返しの生涯です。お返しの生涯とは、具体的には、自分が置かれている場所で、きょうの自分を引き受けて、キリストに自分の笑顔をお返しすることです。たしかに気にくわない人もいます。しかし、そのような人にも笑顔で接する・・・というよりも、キリストに自分の笑顔をお返しするのです。気にくわない人に笑顔をそそぐのは並大抵のことではありません。顔が引きつるだけでしょう。しかし、どんなときもキリストを思い浮かべて、キリストに笑顔をお返しすることはできます。キリストもあなたの笑顔をいつも喜んでご覧になっています。キリストに笑顔をお返ししながら、心も軽やかに歩んでまいりましょう。あのマザーテレサも、キリストに笑顔をお返ししながら、歩んでおられたそうです。 


 

2017年10月22日

「生きている者の神」

【新約聖書】マタイによる福音書22章23節~33節

  あるジャーナリストは現代の日本の医療は病気や検査値は見るが、肝心の患者を見ていないというようなことを語っていました。不安をいだいている人々のことを考えず、原発の再稼働を推し進める政治家もそうです。生きている生身の人間を見ないで、自分たちの主義や主張だけを推し進めるばかりです。

 サドカイ人と呼ばれる貴族階級の人たちがキリストをおとしいれるために近づいてきました。彼らがキリストに吹っかけた質問は、まさに机の上の空論です。キリストはこのような愚かな質問にうんざりされたのではないでしょうか。サドカイ人に対して《あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている・・・神は生きている者の神である》と言われました。主なる神は生きている者の主なる神です。生きている者とは、きょうという日を生きているわたしたちのことです。悩みや悲しみ、喜びや不安、あるいは病気をかかえながらも、きょうも生きている、わたしたち人間のことです。主なる神さまがいつも愛し、ご覧になっているのは、そのように生きている生身のわたしたち人間です。ところが当時の指導者たちが見ていたのは、生きている人間ではなく、律法であり、神殿の儀式であり、昔からの言い伝えであり、自分たちの主義・主張でした。さらに言うなら、彼らが大切に信じていたのは、わたしたち人間を愛し、導き、支えておられる生きておられる神さまではなく、自分たちの主義・主張であったということです。これは、たいへんな思い違いです。

 けっしてひとごとではありません。わたしたちだって、きょうという日を生きている生身の人間そのものではなく、世間体や仕事、肩書きなどを見てしまいます。あるいは「昔の自分はこうだった・・・」とか「これからもっと年を取ったらどうなるのだろう・・・」などと、過去や未来の自分にこだわったり、思いわずらったりします。身近な人に対しても、同じように見てしまいがちです。

 《神は生きている者の神である》とは、過去でも、未来でもなく、まさにきょうを生きている、あるがままの自分を、そして隣り人を、主なる神は愛し、支え、導いておられるということです。思い違いをしてはいけません。主が《わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している》と語っておられるのは、きょうの、今のあなたに、そしてあなたの隣り人に語っておられます。真実の神さまは、きょう、この瞬間、あなたを愛しておられます。過去でも、未来でもなく、きょうのわたしたちひとりひとりを、そのあるがままに、神さまは愛しておられます。これが神の真実です。


 

2017年10月15日

「神のものは神へ」

【新約聖書】マタイによる福音書22章15節~22節

  敵の敵は味方といったところでしょうか、ヘロデ党とパリサイ人が手を組んでキリストをわなにかけようとします。これはいわば自民党と共産党が手を組むようなものです。ヘロデ党とは「ローマ皇帝 バンザイ!」のグループであり、パリサイ人は「打倒 ローマ帝国!」の立場です。犬猿の仲ともいえる両者がキリスト打倒のために手を組みました。

 彼らがキリストにぶつけた質問は「カイザル(皇帝)に税金を納めるのはよいことか 」でした。当時は人頭税といって大人ひとり1デナリを税金としてローマ帝国に納めることとなっていました。じつはこの質問は「よい」と答えても「悪い」と答えても、ややこしい結果になる質問でした。「よい」と答えたら「しょせんはおまえもローマ帝国の言いなりだ!」と言い返せますし、「悪い」と答えたら「おまえはローマ帝国に反逆している!」と言い返せます。明らかにキリストをわなにかける悪意に満ちた質問でした。

 キリストは彼らの悪意をご承知の上で、この質問を用いて大切な真実を告げられます。デナリ硬貨には皇帝の顔が刻印されていたので、それを踏まえて「カイザルのものはカイザルに」と言われました。しかしキリストがおっしゃりたいことはそれに続く次の言葉です。「神のものは神に返しなさい」。これはただの語呂合わせではありません。深い意味がこめられています。

 創世記には「神は人をご自身のかたちにかたどって創造された」とあります。デナリ硬貨に皇帝の顔が刻印されているように、わたしたちひとりひとりには主なる神のかたちが刻印されています。キリストが言われた「神のもの」とは、神のかたちが刻印されているわたしたち人間のことです。

 どれほど主なる神に逆らい、自分勝手に歩んできたとしても、そして今の自分がどれほどくたびれていても、罪深き者であろうとも、主なる神はご自分のもとへ帰ってくる者を引き受けてくださいます。「神のものは神に返しなさい」というキリストの言葉について、まず忘れてはならない真実は、どのような人であろうとも引き受けてくださる主なる神がおられるということです。どんな自分であろうと、この自分を主に返すことができます。主のもとへ帰ることができます。主の前にひざまずき、「主よ、あなたのもとへ帰ります。主よ、このわたしを引き受けてください」と祈るだけです。

 そして主はいつもこう言われます、「恐れるな。わたしはあなたを引き受けた。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」。信仰とは、主がこの自分を引き受けてくださったことを信じることです。そして主に引き受けてもらったら、あれこれと悩むのはやめましょう。もう思いわずらうのはやめましょう。あとは主が万事を益へと導いてくださいますから。


 

2017年10月8日

「神に招かれたとき」

【新約聖書】マタイによる福音書22章1節~14節

  たとえ話が続きます。ある王が王子のために結婚披露宴を開き、ある人々を招待しました。ところが招待されていた人々の誰もが出席を拒否します。この招待されていた客とは明らかに祭司長やパリサイ人たちのことです。たとえ話では、立腹した王は軍隊を送り、その人々を町ごと滅ぼしてしまうという、とても悲惨な結果となっています。

 たとえ話の後半で王はしもべたちに町の大通りで出会う人々をもれなく披露宴に招くようにいいます。「悪人でも善人でも連れてきなさい」とありますが、悪人とは王(神)のことを知らない人々、いわゆる異邦人のことです。善人とはイスラエルの人のことです。

 王は式場に招かれた人々の中に、礼服を着ていない男をみつけます。当時の上流階級の結婚式では招待客ひとりひとりに礼服が渡されました。招待された人は礼服を受け取り、式場に入ります。ところがあまりにたくさんの人が式場にやってきたので、この男に合うサイズの礼服がなくなってしまったと王は思ったのでしょう。そのような気持ちが「友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、式場に入ってきたのか」という王のやさしい語りかけにあらわれています。王の問いかけに、「しかし、彼は黙っていた」とあります。もし礼服がなくなってしまっていたのであれば、彼はそのことを王に言ったはずです。しかし彼は黙っていました。つまり王が用意していた礼服を軽んじ、礼服を着ることを拒否し、勝手に式場に入ってきたわけです。残念ながら彼は追い出されてしまいます。

 さて、このたとえ話でキリストは何を伝えておられるのでしょうか。じつはこのたとえ話で忘れてはならないのは王子の存在です。そもそも王子の披露宴の話です。たとえ話の中では最初に招待されていた人々は王(神)によって滅ぼされますが、現実の世界ではパリサイ人たちは滅ぼされません。たとえ話の結末と実際の結末が異なっているのです。なぜなら王子である神の御子キリストは、人の暗闇を断罪する道ではなく、人の暗闇をご自分が代わりに引き受ける道を選ばれたからです。ふつうなら、たとえ話のような結末になるところを、キリストゆえに、当時のパリサイ人たちも、そして現代のわたしたちも、主なる神に断罪されることなく、ゆるされ、生きることとなったのです。

 きょうの自分があるのも、ゆるされているからです。神の前に、なんの申し開きも出来ない、ただ黙るしかないわたしたちを、父なる神はキリストゆえにゆるしておられます。

 ゆるされている者として、御国を目指して、わたしたちは精一杯に生きて行きます。精一杯に生きることこそ、キリストへの、せめてもの恩返しなのですから。


 

2017年10月1日

「大いなる誤解」

【新約聖書】マタイによる福音書21章33節~46節

  たとえ話に登場する主人はぶどう園を造り、万全の準備をほどこし、その上で農夫たちにぶどう園の管理をまかせて旅に出かけます。農夫たちも最初はまじめに働いていたと思います。ところが農夫たちは主人の信頼を裏切り、ぶどう園から得られた収益を自分たちのものにしようとたくらみ、殺人まで犯してしまいました。

 愚かな農夫たちを信頼して、彼らにぶどう園のすべての管理をまかせてしまった主人にも責任があるのではないか、などと思う人もいるかもしれません。しかしそれはまったく的はずれです。この家の主人には落ち度は何もありません。悪いのはすべて農夫たちです。わたしたちの日常にも、どちらかが一方的に悪く、片方だけに全責任があるというケースはしばしばあります。北朝鮮による拉致問題などは典型的なケースです。拉致被害を受けた家族にはまったく非はありません。

 農夫たちも当初はぶどう園でまじめに働いていたと思います。財産に目がくらんだのか、いつの間にか、欲望にとらわれてしまいます。キリストはこの農夫の姿こそが、祭司長やパリサイ人と呼ばれる当時の指導者たちの姿であると指摘されました。じつはパリサイ人たちにも、時代はさかのぼりますが、かつてイスラエルが外国からの攻撃を受けて苦しんでいたとき、希望を失っていた民衆に寄りそい、主なる神を信じる信仰を語り、民衆を励まし続けていた時代もあったのです。ところが時代がくだり、いつの間にか、最初の頃の信仰を失い、権力の上にあぐらをかくようになり、まるで自分たちが神であるかのように民衆をさばき、断罪するようになりました。パリサイ人たちは、いわば原点を見失い、自分たちこそが聖なる神の代理人であるなどという、大いなる誤解をいだいてしまいました。原点を見失った人間は、どこまでも傲慢になるものです。

 旧約聖書に登場するヨブは、とても恵まれた状況から、一転して文字通りの裸一貫となります。そのときヨブは次のように叫びます、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸で帰ろう。主が与え、主が取られる。主の御名はほむべきかな」。わたしたちの誰もが、裸で、この世に誕生しました。やがて裸で生涯を終えます。誕生から死にいたるまで、主なる神はひとりひとりに必要なものを与え、あるいは主の深いみこころのうちに、いろいろなものを取り去られます。肩書きや財産なども、状況に応じて、すべて主が与え、主が取られます。わたしたちのしあわせのために、状況に応じて主はお与えになり、状況に応じて主は取られます。この神の真実こそが、わたしたちの原点です。この真実を忘れてしまうと、わたしたちは平安を失い、思いわずらいが増し、農夫たちのように欲望に振りまわされたり、パリサイ人たちのように権力や地位にしがみつくようになり、生きることがとても重くなってしまいます。


 

2017年9月24日

「そのまま主のもとへ」 土屋清司兄

【新約聖書】マタイによる福音書9章18節~31節

  ここの所では、悩める三組の人々を通して、イエス様が行われた三つの奇跡が記されています。はじめはユダヤ教の会堂管理者です。彼は死んでしまった娘の蘇りを願って、イエス様の所へ来ました。会堂管理者には、会堂管理と共に大切な役割がありました。それは、会堂に紛れ込んだ異端者を追放するという事です。が、ここでは、そういう役割の人が、ユダヤ教に反する行動を取ったり律法に違反する行為を行っているイエス様の所へ、願って来たというのです。かなり来にくかったと思いますが、彼はどういう思いでイエス様の所へやって来たのか?

 それは、彼は、娘を生き返らせる事は、ユダヤ教には出来なくて、イエス様には出来ると信じたという事なのです。だからこそ、会堂管理者という体面もかなぐり捨てて、娘の為という思いだけで、彼はイエス様の所へやって来たのだと思います。だから、イエス様は救い主などとは、思ってもいない。ただ娘の為にという思い。それだけでした。しかし、イエス様はその願いを聞き届け、娘を生き返らました。

 次は、長血を患っている女です。彼女は、着物のふさに霊的な力を求めるという、正しい信仰からは否定されてしまう行動を取りました。しかし、主イエスは、そんな事に関わりなく、病を癒やしました。

 次は二人の盲人。「ダビデの子イエス」とイエス様を呼びました。この呼び方は、イエス様がこの地上に人として来られた目的からは、大きく外れた言い方です。だから、人々の誤解を避けるため、イエス様は、家の中に入った後、初めて彼らにお答えになり、彼らの目を開きました。すなわちイエス様は、その人自身が、どのような人でも、イエス様にどのような思いを抱いていても、それを理由に恵みを差し止める事はなさらないのです。イエス様はそうする事が出来ると信じ、イエス様の所へ来る者を決して拒まれないのです。なぜでしょうか?

 それは、イエス様は愛と真実の方だからです。だから、その愛と真実をもって、求める者には、常に最善を尽くして下さり、そこに神の栄光が顕されていく。そして、その為に必要な事は、私達の今の状況や思いに関わりなく、今、イエス様を信じていますと告白するかどうかなのです。

 飛躍しますが、私達の信仰のより所も、そのイエス様の愛と真実にあります。私達自身は、いとも頼りないお互いです。しかし、救って下さった方は愛と真実の方である。だから、私達がどうであっても、主は、その愛と真実をもって絶対に見捨てない、見放さないのです。とかく信仰に不安を感じてしまうお互いですが、このような私をどこまでも救いの中に守って下さる確かな方を見上げつつ、地上の歩みを歩ませて頂きましょう。


 

2017年9月17日

「まだ間に合う」

【新約聖書】マタイによる福音書21章28節~32節

  《子よ、きょう、ぶどう園に行って働いてくれ》。父親はふたりの息子に同じように頼みます。命令ではありません。ぶどう園での仕事を手伝ってほしいと頼みます。兄は「行きます」と答えますが、実際は行きませんでした。弟は「いやです」と拒否しますが、思いなおして、ぶどう園に行きました。弟息子の姿をぶどう園で見た父親は心から喜んだことでしょう。弟息子に近寄り、こう言ったに違いありません、「よく来てくれた。ほんとうにありがとう」。兄息子について、父親は彼をとがめてはいません。弟息子が思いなおしてくれたように兄息子も思いなおしてくれることを父親は願い、兄息子をあたたかく見守ったと思います。

 このたとえ話をふまえて後半の話が続きます。このとき、キリストの前には社会的に両極端の人たちが登場しています。一方は社会の底辺を生きている取税人や遊女たちです。もう一方は社会の頂点に君臨する祭司長や指導者たちです。指導者たちは取税人や遊女たちを人として認めず、神の救いとはまったく無縁の者たちであると断罪していました。

 社会からのけ者にされていた取税人や遊女たちは、ある人物と出会います。そしてその人物を通し、救い主キリストと出会うこととなります。その人物とは洗礼者ヨハネと呼ばれる人物です。ヨハネはこう語りました、「神の救いは地位や肩書き、生まれなどで得られるものではない。わたしのあとからおいでになる救い主であるキリストを信じることによって与えられるものである」。取税人や遊女たちはヨハネと出会い、彼の言葉を信じ、そしてキリストと出会い、キリストの言葉を信じました。キリストは言われました、「取税人や遊女は、あなたがた(指導者たち)より先に神の国にはいる」。取税人や遊女たちが洗礼者ヨハネの言葉を信じ、そしてキリストを信じたからです。

 人生は出会いで決まる。ほんとうにそうです。誰と出会い、誰の言葉を聴くかで人生は決まります。こと魂の救いについては、キリストと出会い、キリストの言葉を聴き、キリストを信じるかどうかで決まります。過去がどうあれ、肩書きや地位がどうあれ、関係ありません。《わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している》と語りかけておられるキリストの言葉を聴き、おさなごのように信じるかどうかです。聴いて信じる者には、魂の救い、永遠のいのちが与えられます。

 この世にあって人は死にます。必ず最期を迎えます。そしてキリストを信じる者にとって、死の間際こそ、キリストの言葉がもっとも響いてくる瞬間だと思っています。《恐れることはない。わたしはあなたと共にいる》。キリストに支えられ、キリストの言葉につつまれて死を迎え、キリストと共に天の御国へ旅立ちます。キリストの言葉を聴いて、信じるだけで、ただそれだけで、そうなります。


 

2017年9月10日

「キリストからの問いかけ」

【新約聖書】マタイによる福音書21章23節~27節

  《何の権威によって、これらのことをするのか》。神殿の中でのキリストの振る舞いを見て、祭司長や指導者たちがキリストに詰め寄り、このようにたずねました。権威と似たようなことばに権力ということばがあります。しかしこのふたつは似て非なるものです。権威とは相手が納得した上で、相手の意志で従うものです。他方、権力とは相手に有無を言わせず、力づくで相手を従わせるものです。

 部下をあごで使う上司、自分にすこしでも口答えをした者を抹殺してしまう独裁者、残業代を一切出さない会社社長、身内の不祥事を力にまかせてもみ消そうとする首相・・・これらは皆、権威ではなく、権力によるものです。権力者に共通しているのは他人の言うことに耳を貸さない、自分の主張ばかりを言うことです。これに対して、権威ある人は立場の弱い人の言い分に耳を傾け、相手の話を聴こうとします。

 キリストに詰め寄った祭司長や指導者たちは、自分たちのことを権威ある者と思っていたのでしょうが、彼らにあったのは権威ではなく、権力です。民衆にきびしい律法や昔からの言い伝えを守るように強要し、守れない者を容赦なく断罪する。そうすることで自分たちの立場や地位を守っていた彼らは、まさに権力者でした。

 人間は弱いもので、庶民であるわたしたちも、それなりの地位や財産、肩書きを手にすると、愚かな権力者になってしまう危険性があります。さらに言うなら、自分よりも力の弱い人を前にしたとき、誰もが権力者のようにふるまってしまう危険性があります。たとえば親なら子を前にしたとき、上司なら部下を前にしたとき、牧師なら信徒を前にしたとき、先輩なら後輩を前にしたとき、誰もが自分よりも力の弱い人を前にしたとき、つい力で相手をねじ伏せ、一方的に言い聞かせてしまう危険性があります。わたし自身も含めて、ほとんど人に思い当たるふしがあると思います。

 《わたしも一つだけたずねよう》。キリストは祭司長と指導者たちにそのように問われました。このキリストのひと言こそ、わたしたちが愚かな権力者に成り下がってしまわないための神のひと言と言ってもいいと思います。このキリストの言葉を翻訳するとしたら、《あなたは口を閉じて、わたしからの問いかけに耳を傾けなさい》ということです。語ることをやめて、まず耳を傾けて聴きなさい、ということです。

 キリストはいつもそうされていることをあらためて思います。キリストはまずわたしたちに寄りそい、わたしたちの悩み、悲しみ、痛みに耳を傾けてくださいます。十分に耳を傾けて共感してくださいます。その上で慰めと励ましの言葉を語ってくださいます。福音書にはいつもそのように人々に接しておられるキリストの姿があります。

 まず耳を傾けて、聴く。口よりも耳のほうが先です。キリストと共に歩む生涯とは、キリストに語りながら歩むのではなく、キリストからの語りかけを聴きながら歩む生涯です。


 

2017年9月3日

「生きよ、生かされているのだから」

【新約聖書】マタイによる福音書21章18節~22節

  実をつけていないいちじくの木をご覧になったキリストがそのいちじくの木を枯らしてしまわれたという出来事です。弟子たちは驚き、《いちじくがどうしてすぐに枯れたのでしょうか》とたずねます。キリストは言われました、《あなたがたも信じて疑わないならば同じことができる。そればかりか、山を海の中へ動かすことだって出来る》。

 少なからずの説教者はこの箇所から次のように語ります、《キリストを信じる者として、もし実を結んでいないならば、このいちじくの木のようにキリストはその人を枯らしてしまわれる。だから実を結ばねばならない・・・》。わたし自身、これまで何度もそのような説教を耳にし、そのたびに違和感をおぼえたものです。はたしてキリストはそのような道徳的なことをここで語っておられるか・・・いつも疑問に思っていました。

 《信じて疑わないならば・・・》とキリストは言われました。そもそもわたしたちにとって、信じて疑わないなどということはあり得ません。不可能です。宗教改革者ルターの言葉を借りるなら、「神の前にはわれわれは罪人に過ぎない。罪がゆるされた罪人に過ぎないのだ」。アウグスチヌスであろうが、マザーテレサであろうが、しょせんは人です。人であるかぎり《信じて疑わない》などということはあり得ません。

 ここでキリストが伝えておられるメッセージは、しょせんは身勝手な罪人に過ぎないわたしたちを、そしてこの人間社会を、主なる神が枯らそうと思われたなら、すぐにでも枯らすことがお出来になるということです。主なる神はいつでも瞬時にして、わたしたちからいのちを取り去り、枯らしてしまうことなど簡単にお出来になるということです。

 わたしたちが枯れないで、生きているのは、主なる神がわたしたちひとりひとりを生かしておられるからに他なりません。この罪に満ちた、身勝手で理不尽きわまりない人間社会を、なおあわれみ、支えておられるからに他なりません。

 いつの日か、主なる神さまがいのちを取られ、御国へ導かれる日が訪れます。地上では枯れてしまう日が誰にも訪れます。しかしその日までは、わたしたちは生きてゆきます。一日一日、生きてゆきます。キリストを背に乗せてエルサレムまで歩いた、あのろばのように、自分を生きてゆきます。

 主なる神はいつもわたしたちひとりひとりに語りかけておられます、《生きよ、わたしがあなたを生かしているのだから》。


 

2017年8月27日

「夕となり、朝となった」

【旧約聖書】創世記1章1節~5節

 《夕となり、また朝となった》。この聖書の言葉を2011年の豊浜キリスト教会のテーマとしてかかげました。創世記の冒頭で語られているこの言葉は、天地創造ならびに人間創造について、核心を告げる言葉と言っても言い過ぎではありません。まさに聖書の世界観、そしてわたしたちの人生観を端的に指し示している神の真実の言葉です。

 《夕となり、また朝となった》。たいていの人の意識はこれとは正反対の意識で歩んでいます。すなわち、「朝となり、また夕となった」です。日が昇り、朝が来れば一日が始まり、夕となれば一日が終わる。朝となり、また夕となる。誕生以来、こちらの意識の方がわたしたちにはしみこんでいます。ですから人生を思い描くときも、人生の前半期、すなわち10代、20代そして30代は朝であり、人生の活動期であり、やがて人生の後半期に入ると、日が暮れて夜になるように、人生もたそがれていく・・・大半の人はそのような人生観で歩んでいます。季節にたとえるなら、人生の前半期は春から夏であり、そして人生の後半期は秋から冬といった具合です。

 しかし聖書はまったく正反対の世界観、人生観を宣言しています。人生の前半期は夕であり、暗闇であり、夜です。混沌としていて、先が見えない混乱の時です。年をかさね、悩みや悲しみをかさね、やがて人生の後半期に入ると、だんだんと光が差し込んできます。朝へと近づきます。そして誰もが迎える死は、生涯最後の夕であり、暗闇ですが、キリストを信じる者にとっては、死の向こうには光り輝く御国が待っています。朝が待っています。キリストと共に歩む生涯とは、御国にいたるまで、徹頭徹尾、《夕となり、また朝となった》でつらぬかれているのです。

 わたしたちの日常には、悩みや不安、病気や悲しみなどの《夕》にあふれています。生きているかぎり、悩みや悲しみは尽きません。しかし悩みにおそわれるたびに《夕となり、また朝となった》という、天地創造の折から、この世界をつらぬく神の真実を思い起こします。どのような悩みにおそわれようと、またわたしたちの体と心がどれほどおとろえようと、主なる神さまの前におけるわたしたち人間の存在の有り様はつねに《朝》へと近づいています。光に近づいています。

 《夕となり、また朝となった》。創世記冒頭で宣言されるこの言葉は、永遠に変わることのない神の真実であり、わたしたちの生涯をつらぬく神の真実です。キリストを信じて生きるとは、この神の真実に生きることです。


 

2017年8月20日

「きょうの自分が鍵を握っている」

【新約聖書】第一テサロニケ5章16節~18節

 《きょうの自分が鍵を握っている》、これはメメント・モリの五つ目の意訳です。ご承知のようにメメント・モリとは直訳すれば《あなたの死をおぼえよ》ですが、わたしたちはメメント・モリの意味をくんで、次のように意訳しています。《死を背負って生きている》、《次はないかもしれない》、《余計なことをしている暇はない》、《一日一笑》、そして今年の教会テーマである《きょうの自分が鍵を握っている》です。

 このテーマにそって、教会としての今年の聖書の言葉として、使徒パウロの有名な言葉を取り上げました。《いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい》。新年礼拝でも申し上げましたが、この言葉を誤解している方も多いと思います。わたしたちが置かれている現実は悩みに満ち、悲しみに満ち、心配ごとにあふれ、痛みが絶えません。「いつも悩んでいなさい、絶えず悲しみなさい、すべてのことについて心配しなさい」と言ってもいいほどです。

 悩みを喜びなさいとか、悲しみや痛みを感謝しなさい・・・などという無理難題をパウロは言っているのではけっしてありません。およそパウロほど現実のきびしさ、理不尽さ、悲しみ、苦しみを味わい尽くした人物はいません。新約聖書コリント人への第二の手紙11章後半を読んでみてください。ここで重要なのは、《何に》いつも喜び、《何に》絶えず祈り、《何に》感謝しなさいと言っているのか、です。

 きょうという一日が悩みで満ちていても、わたしたちの魂は、なお喜ぶことができます。祈ることができます。感謝することができます。もちろん悩み自体を喜んだり、悲しみそのものを感謝することはできません。悩みは悩みであり、悲しみは悲しみです。しかし、悩みのなかで、悲しみのなかで、痛みのなかで、わたしたちには主なる神がおられること、キリストが共におられることを知ると、わたしたちの魂は喜び、安心し、感謝します。わたしたちの心と体は悩み、悲しみ、痛みをおぼえていても、わたしたちの魂は、共におられるキリストを知って、喜び、安心し、祈ります。パウロが語っているのはこのような信仰の世界です。

 いつもキリストが共におられます。だからわたしたちは、きょうという一日を歩いてゆけばいい。キリストを背に乗せてエルサレムまで歩いた、あのろばのように、ひとあしひとあし、きょうという一日を歩いてゆけばいい。ただそれだけでいい。あせることも、急ぐことも、先のことを思い煩うこともありません。いつもキリストが共にいてくださるのですから。大丈夫ですよ。


 

2017年8月13日

「身軽になろう」

【新約聖書】マタイの福音書21章12節~17節

 遠くからエルサレムの神殿へやってくる巡礼者のために、犠牲として捧げる動物を売る人たちや、律法で定められていた献金用の貨幣を両替する人たちで神殿の境内はにぎわっていました。ただし動物を売ったり、両替すること自体は、巡礼者たちへの便宜のためであり、けっしてとがめられるべきことではありません。

 【わたしの家は祈りの家と、となえられるべきである。それだのにあなたがたは強盗の巣にしている】とキリストは叫んでおられます。商売がけっして悪いのではありません。問題は、神を礼拝する場所と商売の場所との間に境界線がなくなってしまっていることにあります。犠牲のための動物を売ることも、また両替商もなくてならないものです。しかし神殿の内側で商売をする必要はありません。神殿の外側にいくらでもそのための場所を備えることは出来たはずです。

 境界線がなくなって、動と静が入り乱れ、わけがわからなくなってしまうのは、わたしたちが身を置いている日常でもよく見られることです。お金がもうかるなら何をしてもいいとか、怒る場面ではないのに荒々しく怒ってしまうとか、すべて境界線がなくなってしまっているゆえです。恐ろしいのは、いつの間にか境界線がなくなってしまい、それが当たり前のことのようになってしまい、どうすることも出来なくなる・・・当時の神殿の内側での商いもそうだったと思います。

 わたしたち人間のせいで境界線が失われてしまっている現実に、キリストがくさびが打ち込まれました。《宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し・・・》というキリストの姿に、本来の神殿のあり方を取り戻すためのキリストの愛ゆえの激しい姿を見ます。このキリストの激しいばかりの愛は、やがて十字架上での死に結晶することとなります。

 わたしたちは弱いですから、いろいろな出来事や世間体などに惑わされて、自分のペースを見失いがちです。見栄やプライドから、怒るところでないのに怒ってみたり、出来ないことを無理して引き受けてみたり。いわば静寂が求められる神殿の内側に商売人が入り込んで静寂がやぶられてしまうことは誰もが体験しています。境界線がぼやけてくると、大切なものがわからなくなり、自分自身が見えなくなり、それこそ何が何だかわからなくなってしまいます。

 このときのキリストのように、ときに荒療治も必要です。静寂を取り戻すために、本来の自分を取り戻すために、今の自分にとって本当に大切なものを取り戻すために、余計なものは追い出してしまいましょう。解放されて、とっても身軽になります。どうせ御国へは手ぶらでゆくのですから、主とともに、身軽にまいりましょう。


 

2017年8月6日

「どんな時にも人生には意味がある」

【新約聖書】マタイの福音書21章1節~11節

 マタイによる福音書を礼拝説教に取り上げて2年半となります。21章に入り、キリストの旅路もいよいよクライマックスとなります。本日の箇所は毎年待降節に開く場面です。ろばの背に乗られて神の都エルサレムへキリストが入城される場面です。

 《向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見る》。ろばはつながれていました。思えば、わたしもいろいろなものにつながれてしまいます。悩みや悲しみ、あるいは病気につながれてしまって、身動きできなくなります。または罪の意識に、あるいは不安や恐怖、思い煩いに簡単につながれてしまいます。キリストは続いて言われました、《ろばを解放して、わたしのところへ引いてきなさい。・・・主がお入り用なのです、と言いなさい》。

 キリストを信じるとは、このときのろばのように解放されることです。自由になるということです。キリストを信じるとは、ほっとすることです。安心することです。ひとりのかけがえのない人間として、キリストはわたしたちを解放し、大切な存在として祝福し、誰かのために、あるいは何かのために用いてくださいます。

 キリストがあなたを求めておられる・・・そう聞くと、キリストのために頑張らねば!とか、キリストの期待になんとかこたえなければ!などと肩に力の入る人も多いものです。しかしそうではありません。誤解してはなりません。解放されたろばは何をしたのでしょうか。キリストを背に乗せて、ろばはエルサレムまで歩いただけです。ただそれだけです。解放され、自由となったろばは、キリストを乗せて、自分の足で、自分のペースで、ひとあしひとあし、神の都エルサレムまで歩いただけです。

 わたしたちもそうです。キリストが願っておられるのは、いまの自分にていねいに寄りそい、ひとあしひとあし、歩むことです。天の御国を目指して、キリストを背に乗せて、自分のペースで歩いていくことです。ただ、それだけでいい。ただ、それだけでいいのです。大切なことは、自分の背中にキリストの愛とぬくもりを感じながら、自分のペースで、ひとあしひとあし、一日一日、天の御国を目指して歩いていくことです。ただそれだけです。この《ただそれだけ》こそが、もっとも大切なことです。


 

2017年7月30日

「キリストのまなざし」

【新約聖書】マタイの福音書20章24節~34節

 【あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、かしらになりたいと思う者はしもべとならねばならない】

 このキリストの言葉を誤解している人も意外と多いのではないかと思います。ここでキリストは人の奴隷になれとか、人の言いなりになれとか、そのようなことを語っておられるのではけっしてありません。ここでキリストが言われているのは、誰かのために、とくに弱さをかかえ、悲しみをかかえている人に寄りそい、その人のために何か自分に出来ることがあるなら、そのために自分の身を用いなさいということです。

 二人の目の不自由な男がキリストにあわれみを求めて叫びました。ところが彼らの周囲にいた人々は、キリストの弟子たちも含めて、誰もがこの二人の男をやっかい払いしようしました。《群衆は目の不自由な二人の男をしかって、黙らせようとした》とあります。キリストの弟子たちもこの二人を黙らせるほうに加担したと思われます。理由は簡単です。うるさかったからです。面倒だったからです。

 目が見えないのは相当なハンディです。二人の男たちは必死でキリストのあわれみを求め、叫びました。ここで注目すべきは、彼らの前に立ち止まり、彼らの叫びに耳を傾けられたのは他のだれでもなく、キリストご自身だったということです。キリストだけが立ち止まり、彼らの叫びに耳を傾け、彼らに寄りそわれました。

 《仕える者になりなさい》とは、人の弱さや悲しみにきちんと立ち止まり、耳を傾け、寄りそいなさいという意味です。《しもべになりなさい》もまったく同じ意味です。人の弱さや悲しみに耳を傾け、なにか力になれることがあるなら、自分にできる精一杯を果たしなさいという意味です。 

 ここでとかく忘れがちな大切なことがあります。それは自分自身の叫びにもきちんと立ち止まり、耳を傾け、キリストが寄りそってくださるように、自分自身の弱さや悲しみにも、しもべのように寄りそわなくてはならないということです。意外と自分の弱さや悲しみをやっかい払いしようとしたり、自分自身の叫びには耳を傾けず、軽んじてしまう人が多いものです。

 自分自身の弱さや悲しみに寄りそい、仕えることが出来てはじめて、身近な人の弱さや悲しみに寄りそい、仕えることが出来ます。自分のそして身近な人の弱さや悲しみに耳を傾け、弱さや悲しみに仕える《しもべ》として生きていく。そのように歩むことがキリストの願いです。《自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい》も、これとまったく同じ意味です。


 

2017年7月23日

「神の平安」 金田和子姉

【新約聖書】ヨハネの福音書1章1節~5節

 わたしたちひとりひとり、みんな違った状況の中で生かされていると思うのですが、最近「甘えている」ということばの中に、わたし自身深く考えさせられることがありました。それは人にわたしが甘えているという時、わたしがその人に対して自分の思いどおりになって欲しいということがあると気づかされました。そしてそれはわたしのエゴであり、大きな的はずれであり、罪であることを深く思わしめられました。そのことを思わしめられた時、同時にキリストの十字架の血しおを思わしめられました。そして主のゆるしの愛を感じ、深いなぐさめが与えられ、平安が与えられました。不思議なことですが、それはキリストがわたしと共にいて下さるという実感です。心が軽くなり、自由にされました。きょうの聖書の《この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった》ということばが、わたしの中で溶かされるという体験でした。

 これは苦しみの中、やみの中での体験でした。やみと思える苦しみの中で、キリストは命の光となってくださいました。ほんとうに不思議なことでした。神であるキリストには本当の命があり、この命こそは人が歩むやみじを照らす光です。キリストを信じる時、キリストは共にいて下さり、やみの力からわたしたちを解放して下さり、平安の中において下さいます。わたしたちひとりひとりをゆるしと愛の中でつつんで下さいます。


 

2017年7月16日

「置かれた場所で精一杯生きよう」

【新約聖書】マタイの福音書20章17節~23節

 教会の駐車場の壁にサナギがくっついていました。その目で見たら、あちこちにサナギが壁や木にくっついています。ふと思いました、「すごいなあ」と。サナギは自分の置かれた場所から身動きひとつできません。じっとしたままですから、「生きているのだろうか?」とすら思います。でもサナギの内側ではやがて来るべき時に備えて命が躍動しています。身動きしないで、置かれた場所でサナギは懸命に生きている。大げさのようですが、そんなことを思いました。

 わたしたちも人生で幾度かサナギのようになります。病気や事故、仕事や人間関係あるいは大切な人との死別などで、深い悲しみや痛みの中に放り込まれ、身動きできなくなってしまいます。身動きはできませんが、心の中は嘆きや叫びでいっぱいです。躍動しています。まさに本物のサナギのようです。

 キリストは三度目の受難予告を弟子たちに告げられました。しかし弟子たちにはその真意はまったく理解できません。むしろ弟子たちは、いよいよキリストの王国が樹立される!などと誤解しました。弟子の筆頭格であったヤコブとヨハネもそうでした。自分たちをキリスト王国の左大臣と右大臣に任命してください、などと願い出たのです。キリストは彼らに言われました、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない」。まったく筋違いのトンチンカンな申し出に、キリストはきっと悲しく、さみしい気持ちを持たれたと思います。

 受難をひかえておられるキリストの心の痛みなど、この時はまったくわからなかった弟子たちでしたが、やがて彼らにもキリストの痛みと愛がわかるようになる時を迎えます。弟子たちの目が開かれるのは、サナギの体験を通してです。サナギの体験とは、キリストが捕らえられ、十字架につけられるとき、弟子たちの誰もがキリストを裏切り、見捨ててしまうということです。キリストを見捨てた弟子たちは、恐怖と不安、悲しみと苦しみの中で身動きできなくなってしまうのです。まさにサナギのようになってしまいます。

 わたしたちも深い悲しみや悩み、あるいは痛みゆえに身動きができなくなり、いやでもサナギになってしまうことがあります。人生には何度かあります。しかし思い返せば、そのようなつらいサナギの時をへて、人の悲しみに寄り添えるようにもなり、神さまの愛とあわれみに目が開かれることも事実です。自分の十字架を負ってキリストと共に歩むとは、自分がサナギのように身動きできなくなったときも、自分の置かれた場所で、自分にていねいに寄り添うことです。あせることも急ぐこともありません。置かれた場所で一日一日を精一杯に生きてゆけばいい。ただ、それだけでいいのです。 


 

2017年7月9日

「報酬と恵み」

【新約聖書】マタイの福音書20章1節~16節

 イスラエルでは朝6時から夕方6時までの一日の労働賃金は1デナリが相場でした。仕事のない労働者は、労働者たちが集まる市場で自分を雇ってくれる主人をひたすら待ち続けるほかにありません。家ではおなかをすかせて待っている家族や子供たちもいたでしょう。すこしでも働いて、すこしでも賃金を得たい。そう願いつつ、不安な気持ちで自分を雇ってくれる主人を待ち続ける労働者たちがたくさんいました。

 《あなたがたも、ぶどう園に行きなさい》。このぶどう園の主人は9時頃にも、また12時頃にも、3時頃にも仕事のない労働者を雇いに市場に出かけます。これは通常はあり得ないことです。夕方の5時頃にも主人は市場へ出かけ、朝からずっと仕事を求めていた人々を雇っています。仕事は夕方6時で終わりますから、彼らが働ける時間はほんの1時間足らずです。

 《天の御国とはこのようなものである》。キリストはそう言われて、このぶどう園のたとえを話されました。このぶどう園の主人とはまさしく主なる神のお姿です。たとえ話では、このぶどう園の主人は労働時間に関係なく、どの労働者にも1デナリを与えます。12時間働いた人にも、そして1時間しか働いていない人にも1デナリを与えます。ここで12時間の労働をした人たちが不平をもらします。1時間しか働いていない人たちと自分たちとが同じ賃金だったのですから。しかし彼らの不平は的はずれです。ぶどう園の主人は契約どおりに1デナリを彼らに与え、なにも不正はしてはいません。

 そもそも、ぶどう園で働いた労働者のすべてが早朝から夕方まで同じように働いたのであれば、彼らはなにも不平はなかったはずです。誰もが1デナリの報酬を受けて喜んで家に帰ったことでしょう。ところが自分たちより少ない労働時間であるにもかかわらず同じ賃金をもらった人たちをねたましく思い、不平が出てしまいました。

 まず神さまがご覧になり、祝福しておられるのは、わたしたち自身です。わたしたちの働きについては二の次です。この世の論理でいえば、それぞれの働き具合によって報酬は異なり、その人に対する評価も違います。しかし神の真実はこれとは違います。神さまは、わたしたちの働きではなく、神の前に生きている、ひとりの人間としてのわたしたちの存在そのものを祝福しておられます。

 もちろん、神さまはわたしたちの働きについても報いてくださいます。しかし忘れてはいけません。かりに、わたしたちが寝たきりになっても、神さまが注いでくださる祝福はまったく変わることはありません。《わたしの目には高価で尊い者よ》。この神さまの祝福は、わたしたちの働きとは関係なく、いつも変わることのない神の真実です。ぶどう園のたとえは、この神の真実を物語っています。


 

2017年7月2日

「持たないという幸せ」

【新約聖書】マタイの福音書19章23~30

 どうせ、御国へは手ぶらで行きます。どれほど地上でため込もうが、なにひとつ御国へは持っていけません。そのことを思うと気持ちが軽くなります。いつ御国へ召されるのかわかりませんが、召されるときは召されます。御国へ召されるまでは自分の置かれた場所で、一日一日、一生懸命に生きていく。空の鳥や野の花をお手本にして、与えられたところを歩んでいく。どうせ御国へは手ぶらで行くのですから。

 先週は富める青年が登場しました。彼は資産があったがゆえに天の御国を得ることができませんでした。しかし彼はキリストのもとを《悲しみながら立ち去った》とありますから、このときに知った人間としての自分の限界、挫折感や悲しみをとおして、やがてきっと彼もおさなごのようにキリストを信じる者となり、天の御国が与えられたと思います。

 この青年とキリストとのやりとりの後、ペテロが自慢げに言いました、《わたしたちはいっさいを捨ててあなた(キリスト)に従いました。ついては、何をいただけますか》。まだこのときのペテロはなにもわかっていません。ペテロは思ったことでしょう。《自分はあの富める青年とは違う。何もかも自分はいさぎよく捨てて、キリストに従っている。自分には天の御国を受ける資格がある》。しかしながら、このときのペテロと富める青年はまったく同じ思いをいだいていました。それは《自分が良いことをしたからこそ、天の御国を受ける資格が自分にはある》という思いです。

 天の御国はお金で買えるものでも難行苦行で得られるものでもありません。どれほど良いことをしても、それで手にはいるものではありません。《天の御国はおさなごのような者たちの国である》とキリストははっきりと言われました。天の御国はいわば値段をつけることができないほど高価で貴重なものです。もし天の御国をわたしたちが手に入れたいのであれば、おさなごのように神さまの前に頭をさげて、恵みとして、神さまからいただく他にありません。そのように神さまが一方的に恵みとして与えようとしておられる天の御国を、わたしたちがなにか良いことをして得ようなどと思うと、神さまご自身がとてもさみしい思いをされます。悲しい思いをされます。

 《神さま、ありがとうございます》と、おさなごのように神さまの祝福を受けいれたら、それでいいのです。というか、それしかありません。神さまがもっとも喜ばれること、それはわたしたちがどんなときも神さまの前にはおさなごのようであることです。


 

2017年6月25日 

「人間の限界」

【新約聖書】マタイの福音書19章13~22

 年を重ねるとは、自分という人間の限界を思い知らされることでもあります。若い頃はふつうに出来ていたことが、年をとるとなかなか出来なくなります。しかし自分の限界を知ることで、すこしずつ見えてくる恵みの世界があります。信仰の世界でも、若くて元気な頃はほとんど気がつかなかったのに、年を重ねて、自分の弱さや限界を思い知らされることで、見えてくる神の恵みがあります。

 年齢的に若く、元気で、裕福な家庭に育った青年が登場します。両親のもとで彼なりに律法を守って生活していたのでしょう。世間知らずのおぼっちゃま!?だったのかもしれません。《先生、永遠のいのちを得るためにはどんなよいことをしたらいいでしょうか》。彼はキリストにそうたずねます。彼なりに律法を守って歩んできたものの、永遠のいのちを得ているという確信はなかったようです。キリストは彼にお答えになりました、《殺すな、姦淫するな、盗むな、・・・自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ》。ところがそれを聞いた彼の口からは驚きの言葉が発せられました、《それはみな守ってきました》。

 たしかに彼は殺人も姦淫も盗みも偽証もしてはいなかったでしょう。彼なりに両親を敬ってもいたのでしょう。しかし《自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ》と言われて、これをいつもどのような状況でも、守ることのできる人などぜったいにありません。しばしば自分を傷つけ、あるいは身近な人に冷たくしてしまうのがわたしたち人間です。裕福な家庭で、ほとんど苦労せずに育ってきた青年だったゆえに、彼にはまだ自分自身のことがほとんど見えていなかったということです。
 人間としての弱さや愚かさ、限界が見えていないこの青年にキリストは言われました、《帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝をつむようになる》。そして聖書は伝えています、《このキリストの言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである》。自分は何でも出来ると思っていた彼が、自分の限界というものを意識したのはこの時が始めてだったのかもしれません。自分の限界を知って、彼はそうとうのショックを受けたと思われます。

 多くの資産を持っているのが悪いのではありません。問題は、自分の努力や裁量で何でも手に入れることができるとつい思ってしまう、人間の愚かさにあります。この青年のように、人間としての限界を肌で体験しないと、自分の努力と裁量で永遠の命さえも得ることが出来ると傲慢にも思ってしまいます。ここでおぼえたいのは、この青年にとって、自分の限界を知ることによって味わった悲しみこそが彼の人生のほんとうの意味での出発点になったということです。自分の愚かさや弱さをとおして自分の限界を思い知ったところから、わたしたちの歩みはいつも新たに始まります。心から神の前にへりくだり、神さまにゆるされ、守られ、支えられている世界が見えてくるからです。


 

2017年6月18日

「人生いろいろ」

【新約聖書】マタイの福音書19章1~12

  パリサイ人たちがキリストにたずねました、《何かの理由で、夫がその妻を出す(離縁する)のは、さしつかえないでしょうか》。彼らは夫が妻を離縁することだけを想定しており、妻が夫に離縁を申し出ることなどまったく考えていません。このパリサイ人たちが発した質問からもわかるように、当時のイスラエル社会は絶対的に男性優位の社会でした。女性は証言台にも立てず、女性から離婚を申し出ることなどできませんでした。離婚についての法律もありましたが、しょせんは男性である夫に有利になるように解釈され、用いられていました。夫が暴力をふるい、まるで妻を召し使いのように扱っても、女性である妻は我慢する他になく、あるいは夫が妻を気に入らなくなったら適当な理由をつけてすぐに妻を離縁してしまうこともありました。

 「夫は妻よりも立場が上である。男性である夫は、女性である妻よりも偉い」などと当時の誰もが当たり前のように思っていました。キリストは、そのような間違った意識そのものを問題にされました。キリストはパリサイ人たちに言われました、《主なる神は初めから人を男と女とに造られた》。これが意味するところは、そもそも人は、男か女かである前に、神の前にひとりの人間であるということです。だれもがまず神の前にひとりのかけがえのない人間であり、そしてある人は男性に、べつのある人は女性に造られたということです。ですから、男性であろうが女性であろうが、ひとりの人間として神の前に高価で尊い存在であることに違いはなく、両者の間に上下関係などはまったくありません。

 神の引き合わせによって結婚する人もいれば、独身で歩む人もいます。人はみな違うのですから、生き方もいろいろです。生き方はさまざまであっても、互いにひとりの人間として重んじ合いつつ、生きていけばいいのです。ところが悲しいことに、わたしたち人間は愚かで、弱く、心がかたくな(わがまま、強情、身勝手)になりやすい。お互いのことを重んじるどころか、力のある者は力の弱い人を苦しめたり、悲しませたりしてしまいます。夫婦関係でもそうです。一方がどれほど相手に誠意を尽くしても、相手次第では結婚生活の継続が出来なくなります。そのような場合は深い悲しみとともに、神ご自身が二人を引き離されます。《神が合わせられたものを、人は離してはならない》というキリストの言葉は、身勝手な理由で軽々しく離婚するのはゆるされるものではないが、弱い立場の側の人を結婚生活の苦しみから解放するために《神が合わせられたものを、神ご自身が引き離される》ことが十分にあることも意味しています。

 いずれにせよ、キリストが言われたのは、自分自身を初め、誰もが神の前にはかけがえのない人間であるという意識を忘れてはならないということです。この意識こそが出発点です。でも忘れてしまっても大丈夫です。なんどでもこの意識に帰って、ここから歩み始めたらいいのです。人生とはじつにその繰り返しです。


 

2017年6月11日

「ゆるすということ」

【新約聖書】マタイの福音書18章21~35

 《兄弟(知り合い)が罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか》というペテロの問いかけに対して、《七たびを七十倍するまで、ゆるしなさい》とキリストは言われました。ここで誤解してはならないのは、どんな犯罪行為にも目をつぶり、とにかくゆるしなさい・・・という意味ではけっしてありません。犯罪行為に対してはきちんと段階を踏んで対処します。本日の箇所の直前でキリストもそのように語っておられます。

 人はひとりでは生きていけません。生きるとは誰かと共に生きることであり、共に生きるところに幸せや喜びもあります。しかし共に生きるところには混乱や争いもあります。気の合う人とでもちょっとしたことで人間関係が混乱することもあります。ですから、わたしたちが共に生きていくためにぜったいに欠かせないことがあります。それがなければ人間関係は成り立たず、遅かれ早かれ破綻してしまいます。

 わたしたちが共に生きていく上で大切なこと、それはゆるしあうということです。お互いに相手のことを大目に見るといってもいいでしょう。仕事上の関係でも親子関係でも夫婦関係でも友人関係でも、どのような人間関係であろうとも、共に幸せに生きるためには、互いにゆるしあうということはぜったいに欠かせません。

 本日のたとえ話は、ゆるすということがテーマです。主人から今の日本円にして6千億円もの借金をゆるしてもらったしもべが登場します。それほどの高額な借金を自分はゆるしてもらいながら、自分が百万円を貸している仲間のことがゆるせず、このしもべは仲間を牢獄にぶち込んでしまいます。

 どうして、彼は仲間をゆるせなかったのでしょうか。それは自分がゆるされていることを忘れてしまったからです。自分がどれほど神と人に助けられ、支えられ、ゆるされてきたか、それが見えなくなってしまったからです。わたしたちにとってとても大切なことは、身近な人たちに、そして今は身近にはいない多くの人たちに、自分がどれほど助けられ、支えられ、ゆるされてきたか、それを知ることです。神といろいろな人に、ゆるされてきた自分を発見することです。

 そうした自分の姿が見えてくるにつれて、心の中に暖かいものが流れ込んできます。そして自然と人を思いやり、人をゆるせるようになります。良い意味で人を大目に見れるようになります。まずは今まで助けられ、ゆるされてきた、かけがえのない自分を発見することです。


 

2017年6月4日

「キリストの名を呼び求めよう」

【新約聖書】使徒行伝2章1節~21節

 死からよみがえられたキリストは40日の間弟子たちはじめ多くの人々に復活のお姿を示されました。そして地上でのすべてのわざを終えられたキリストは、わたしたちの肉眼では見えない本来の神のお姿に戻られました。これをキリストの昇天といいます。ただし昇天される直前に弟子たちに一つの約束をお与えになります。《聖霊があなたがたにくだる時、あなたがた力を受けて、地の果てまで、わたしの証人となる》。

 聖霊がくだるとはどういうことか、いつ聖霊はくだるのか、力を受けるとはどういう意味なのか、詳しいことはなにひとつ弟子たちには知らされませんでした。しかし弟子たちは共に祈りながら、キリストの約束を信じ、聖霊がくだる時を待ち望みました。

 五旬節の日、弟子たちが一緒に集まっていたとき、ついに聖霊がくだります。五旬節とは春の収穫に感謝する祭りの日です。聖霊で満たされた弟子たちは《いろいろの他国の言葉で語り出し》ました。彼らが人々に語ったのはキリストの名を呼び求める者はみな救われるという福音に他なりません。いよいよこれから弟子たちは福音宣教のために全世界へ出て行くこととなります。

 《夕となり、また朝となった》。これは創世記冒頭にしるされている、この世界を導いておられる主なる神さまの真実です。様々な悩み、様々な問題をかかえつつ生きているわたしたちにとって、そのような悩みや問題はいわば夕であり、暗闇です。しかし暗闇はいつまでも暗闇のままではありません。天地創造いらい、《また朝となった》という神さまの真実がこの世をつらぬいています。

 聖霊降臨もまさに《夕となり、また朝となった》ことを証しする出来事でした。弟子たちは死から復活されたキリストの姿を見て、さあこれから!と思っていた矢先、キリストが昇天され、弟子たちの目の前から姿を消されました。弟子たちはひどく不安になったと思います。彼らはふたたび暗闇に置かれました。しかし彼らは不安と暗闇のなかで祈り続け、待ち続けました。いつ朝が来るのかわからなくても、弟子たちはキリストを信じて待ち望み続けました。

 主を信じて、朝を待ち望むことが出来る。それはなんと幸いなことでしょうか。わたしたちはやみくもに待つのではありません。主がおられます。朝へと導かれる主を知っています。だから暗闇や不安の中に置かれても、わたしたちは待ち望みます。また朝となる日を待ち望み、きょうという一日をせいいっぱいに歩みます。主の名を呼び求めながら、きょうという一日を喜び、感謝しながら、生きていきます。あとのことはすべて主が最善を導いてくださいます


 

2017年5月28日

「幸いな人」 土屋清司兄

【新約聖書】マタイの福音書5章1節~12節

 この幸いですという言葉は、今あるままにすべてが幸いなのだという形式で書かれています。いずれ苦しみが去り、幸いになる、ではないのです。この世の幸いはハッピー・ハプニング、すなわち偶然の幸せ、そして何かの偶然で消えてしまうかも知れない幸せ・・・。しかし、ここでの幸いという言葉は「マカリオス」、なにものも取り去る事の出来ない幸いです。人生に何が起きても、どんな不幸が来ても、そういう事に左右されない幸いという意味です。更に付け加えますと、ここの文体は日本語で読みますと「心の貧しい者は幸いです」 ですが、本来の形は感嘆文で「なんと幸いなるかな、貧しい者!!」という形です。

 それほど感動する程の幸せにあずかっているのならば、ではクリスチャンはどんな時にも幸せで、どんな時にも喜んでいる人なのでしょうか? しかしそうとばかりも言えない、喜んでばかりもいられない現実もあるのが、私たちの偽らざる現状の歩みではないでしょうか? では何をもって幸いだと言うのか? 

 心の貧しい者は幸いですとは、これは究極の貧しさ。食べるものも家もない。生活の手段も助けてくれる人もない。もはや神にすがるしか方法がない。そういう究極の貧しさを現す言葉です。では心が究極に貧しいとはいかなる意味か? それは自分のうちに良きものがなにもないという状態。自分には神の前に誇るものも、救われるに値するものも何もない事も知っており、従って、ただ神に祈り求めるしかないという事なのです。であれば、そのような者こそ幸いであるというのは、しごく当たり前の事でもあります。すなわち、そのような者こそ、救いにふさわしい者なのですから。さてそうなりますと、先ほど申し上げた通り、やはり私たちクリスチャンは何があっても幸せ? どれほど苦しめられても、それでも喜んでいられる? でも、そうはいかない事も多々あるのではないでしょうか?

 私たちはすでに救われ、すでに祝福の中に入れられているとはいえ、やはり幸せだと思えない事もある、喜んでいられない状況もある。それが人生というものです。そして、そのような現実に目を留めてしまえば、確かに私は幸いであるとは言いにくいかも知れません。しかし、そのような現実のすべてを御手に収めておられ、すべてを主イエスの十字架の恵みの内に入れて下さった方に目を向けるなら、一転、それでも私たちは幸いなのです。いや、そのような苦しい現実であればこそ、なおさらに私たちは幸いなのだと言えるのです。なぜなら、私たちのそのような現実のすべてを御手の内にしっかりと受け止め、すべてを祝福と変え、何があっても、やがて天の御国まで伴って下さる方が共におられるからです。だから、マカリオス!! なんと幸いなのだ!! 何があっても何が起きても、今ここで、私たちは誰も取り去る事の出来ない幸いの中に、すでにいるという事を、この山上の垂訓冒頭、八福の教えは私たちに伝えているのです。


 

2017年5月21日

「共に生きる喜び」

【新約聖書】マタイの福音書18章15節~20節

 共に生きていくことが、わたしたち人間の本来の姿であり、そのように生きている中にこそ、喜びや幸せがあります。しかしながら、わたしたちが置かれている現実社会には、どうにもこうにも仕方のない、身勝手で理不尽きわまる人がいることも事実です。こちらが誠意を示しても、まったく伝わらない相手がいます。こちらは何も悪くなくても、相手の方から一方的に迷惑な行為を受けることがあります。

 キリストが言われた《もしあなたの兄弟が罪を犯すのなら・・・》という意味は、あなたの知り合いが、的はずれの行動をしたら、という意味です。罪を犯すとは、的はずれの行動をするとか、迷惑な行為をするという意味です。そのような場合には、まずは誠意をもって相手にきちんと伝えます。しかし相手がまったく反省しないなら、次に信頼の出来る第三者に間に入ってもらいます。それでも相手が聞き入れないのであれば、最後に事を公にします。現代なら裁判所に訴えたり、当時なら教会へ申し出るということです。

 ただし問題はそのあとです。キリストは言われました、《もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい》。とにもかくにも、この現実の社会には、どうしようもなく身勝手で理不尽な人はいるということです。たとえ裁判で有罪になったとしても、まったく反省しない人もいます。キリストはまさにそのような現実を誰よりもご存知です。だから言われました、《その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい》。このキリストの言葉の真意は「あとは主なる神さまにまかせよ。神さまにゆだねよ。そのような人からはあなたは手を引きなさい」という意味です。「自分はこれほど誠意を尽くしているのに、相手は何もわかってくれない」などと思ってしまうと、そのような身勝手な相手に対して憎しみの感情が芽生えてしまいます。

 憎しみの感情は強敵です。わたしたちの喜びや感謝の気持ちを吹き飛ばしてしまいます。一度きりの生涯です。わたしたちに与えられている時間は限られています。わたしたちは心の通い合う人と共に大切な時間を過ごしつつ、喜びや幸せを分かち合って生きて行きます。心の通い合える人と喜びや幸せを分かち合いつつ生きていくためにも、喜びや幸せを吹き飛ばしてしまうような憎しみの感情が少しでも心に芽生えたら、すぐに祈りましょう。「主よ、この憎しみの感情をあなたにゆだねます。おまかせします。わたしを憎しみから解放してください」と。日常の喜びを大切にするために、この祈りだけはけっして忘れてはなりません。


 

2017年5月14日

「いのちを得るために」

【新約聖書】マタイの福音書18章7節~14節

 力や地位を手にした途端、とかくわたしたちは傲慢になってしまいます。弱さや低さに寄り添うどころか、力にまかせて弱さや低さをないがしろにしたり、つぶしてしまうこともあります。《もしあなたの片手または片足が罪を犯させるなら、それを切って捨ててしまいなさい》。とてもきびしいキリストの言葉です。罪を犯させるとは、弱さをかかえている人をつまずかせるという意味です。つまずかせるとは倒してしまうということです。

 手を使って人を介抱することもできるし、同じ手を使って人を押し倒すこともできます。同じ足であっても、おさなごやお年寄りを背負って歩くこともできるし、けり飛ばすこともできます。同じ目であっても、笑みを相手にそそぐこともできれば、相手を威圧することもできます。同じ手、足、目であっても、人の弱さに寄り添うこともできれば、力のない弱い人を殺してしまうことだってできます。

 キリストは迷い出た一匹の羊の話をされました。この一匹は他の羊と比べて弱く、力が乏しく、群れについていけなくなり、迷い出てしまいました。わたしたちも病気や事故、加齢あるいは生まれつきのハンディゆえに、周囲の人々について行けなくなることがあります。あるいは、それまで歩んできたようには、なかなか歩めなくなってしまうことがあります。ちょうどこの迷い出てしまった一匹の羊のように、です。キリストは言われます、《九十九匹を山に残し、その一匹を捜しに出かけないであろうか》。群れについていけなくなり、迷い出てしまった一匹の羊を、キリストは当たり前のように捜し出そうとなさいます。キリストはそのようなお方です。しかしここでキリストはわたしたちに問いかけておられます、「わたしがそうするように、あなたも迷い出たこの一匹の羊を捜し出し、その羊の弱さに寄り添うか?」 人としてのほんとう強さ、それは弱さ、低さに寄り添いつつ生きていく強さです。まさにキリストの強さとは、わたしたちの弱さにいつも寄り添ってくださる強さです。

 一度きりの人生です。人を蹴落としながら、強がって生きることもできるでしょう。あるいは弱さや低さに寄り添いながら、弱さや低さにこそ手や足を差し伸ばして、生きることもできます。ひとつだけ言えることは、弱さ、低さに寄り添って生きているとき、そこにはいつも祈りが生まれます。インマヌエルの神さまを身近に感じることができます。そして何よりも神さまの平安が注がれ、いのちが輝いています。 


 

2017年5月7日

「おさなごのように」

【新約聖書】マタイの福音書18章1節~7節

 《おさなごのようにならなければ、天国にはいることはできない》。このときのおさなごがどれくらいの年齢なのか、たしかなところはわかりませんが、たぶん今でいうところの幼稚園生くらいでしょう。問題はキリストはどのような意味合いで《おさなごのようにならなければ》と言われのかということです。たしかにおさなごは素朴で、すなおです。しかしおさなごは幼稚で、わがままで、頑固でもあります。

 キリストはさらに続けて次のように言われています、《このおさなごのように自分を低くする者が天国ではいちばん偉い》。力の上で、おさなごは大人より低く、弱い存在です。ですから、おさなごが成長するためには、親か、親に代わる大人が世の荒波から守ってやらねばなりません。だれもが例外なく、そのように守られて成長してきました。

 わたしたちは今の年齢になるまで多くの人たちに守られ支えられてきました。ところが大人になって、それなりの力を持ってしまうと、まるで自分の力だけで生きているかのような錯覚をいだいてしまうことがあります。おさなごであろうが、大人であろうが、しょせんは人は人です。弱く、低い存在であることに違いはありません。

 福音書を読むとキリストは当時、罪人と呼ばれる弱く、社会的にも低い人たちにまず寄り添っておられます。キリストはいつもそうです。では現代のわたしたちはどうでしょうか。何事についても、より高さを、より強さを求めて、生きているところがあります。もちろんそのこと自体はなにも悪いことではありません。向上心をもって、精一杯に努力して、上を目指して生きているということですから。

 しかしここに落とし穴があります。それは本来の人としての弱さ、低さが見えなくなるということです。財産や地位、名誉をそれなりに手にした途端、人は傲慢になりやすく、人としての弱さや貧しさに目を向けなくなる危険性があります。それもまた人の弱さでもあります。

 しょせんは人は人です。弱く、低い存在です。キリストは言われます、「まず弱さと低さに寄り添いなさい」と。キリストがまずわたしたちの弱さと低さに寄り添っておられるようにわたしたちもまず自分の弱さ、低さに寄り添って歩みます。そして出来る限り、隣人の弱さと低さにまなざしを注ぎつつ、歩みます。そのように歩んでいる者たちにキリストは言われます、「そのような者こそが、天国でいちばん偉いのである」と。


 

2017年4月30日

「つまずかせないために」

【新約聖書】マタイの福音書17章22~27節

 20歳以上の男は神殿税と呼ばれる税金を年に一回納めることとなっていました。この税金はエルサレム神殿の維持管理のために用いられていました。ひとり分の神殿税は当時の二日分の賃金くらいでした。ある日カペナウムという町のペテロの家で、ペテロがキリストとふたりだけがくつろいでいたとき、この税金を集める役人がやって来ました。「あなたがたの先生(キリストのこと)は宮の納入金(神殿税のこと)を納めないのか」。役人たちはどうも最初からけんか腰です。なぜならキリストは大衆には評判はよかったのですが、なにかと役人や指導者たちからは反感を持たれていたからです。

 ペテロはすぐに答えました、「納めておられます」。長い間わたしはどうしてペテロは役人たちにいとも簡単にそのように答えたのか疑問でした。とかく血の気の多いペテロでしたからいつもの彼なら「正真正銘の救い主である方がどうしてそんな税金を納めなくてはならないのだ!」などと強気で、突っぱねたと思うからです。でもこのときのペテロはどこか元気がなくおどおどしています。

 じつは、この出来事の直前に「間もなくわたしは、人々の手にわたされ、殺され・・・」とご自身の受難についてキリストは弟子たちに話されました。これを聞いた弟子たちは「非常に心をいためた」とあります。ペテロもひどく不安になったに違いありません。ですからペテロはキリストの身を守るためにも役人たちとの余計なもめ事は避けたいと思ったのではないか。そのためにペテロは神殿税を納めて、一件落着としたかったのではないかと思います。

 そんなペテロの心境をすべてご承知のキリストでした。キリストはやさしく、笑顔でペテロに言われました、「神殿とは神の宮なのだからそもそも天の父なる神のものだ。そしてわたしは神の子であり、そしてペテロよ、あなたも神の子だ。父が子から税金を取り立てることなどしない。だから神殿税は納めなくてもよい」。

 「子は納めなくてもよい」と訳されている言葉は、他の聖書が訳しているように「子たちは納めなくてもよい」と原文では複数形です。さらに「納めなくてもよい」というキリストの言葉は、そのまま直訳すると「解放されている。自由である」です。つまり税金の話を用いて、キリストは税金のことではなく、受難の話を聞いて不安になって縮こまっているペテロを励ますために言われたのです、「ペテロよ、あなたは不安から解放されて自由になっているはずだ。わたしがいつもあなたと共にいる。心配ない。大丈夫。元気を出しなさい」と。

 釣りに行き、魚の口から銀貨一枚を見つけたとき、ペテロにいつもの笑顔が戻り、彼はほっとしたと思います。「ああ、このお方なら大丈夫。なにも心配はいらない」。わたしたちもそうです。キリストを信じて、このお方と共に歩んでいるのですから、思い煩うことはありません。大丈夫です。なにも心配はいりません。キリストと共にかけがえのない一度きりの人生を安心して歩んで行けばいいのです。


 

2017年4月23日

「今日の自分が鍵を握っている」

【新約聖書】ヨハネの福音書21章15~17節

 死から復活されたキリストと出会って、弟子たちは福音宣教のために立ち上がりました・・・と言いたいところですが、21章の冒頭に登場する弟子たちはどうも元気がありません。福音宣教のために立ち上がるどころか、以前の漁師に戻っています。土壇場でキリストを裏切り、見捨ててしまった事実が、どうしても彼らの心から離れなかったからです。キリストは以前と変わらず、弟子たちを祝福され、神の愛で彼らをつつまれました。しかしキリストを見捨てて逃げてしまったという過去の事実が、弟子たちを苦しめ、しばり、身動きできない状態にしていました。

 そのような弟子たちの心境をすべてご承知のキリストは、弟子の代表格であるペテロにひとつの問いかけをされます。「ヨハネの子シモンよ、あなたはわたしを愛するか」。三度、同じ問いかけをされました。「あなたはわたしを愛するか」とは「今、この時、あなたはわたしを愛しているか」という意味です。昨日でもおとといでもなく、また明日でもなく、まさに今のこの瞬間、わたしを愛しているか、というキリストの問いかけです。

 「あなたはわたしを愛したか」と過去形でキリストは問われたのではありません。もし過去を問われたら、弟子たちにはキリストに返す言葉はありません。キリストを裏切り、キリストを見捨てたという過去の事実はぜったいに変えることはできませんから。しかしキリストが問われたのは過去のペテロではなく、今この時のペテロの気持ちをおたずねになったのです。ペテロは悟りました。キリストが求めておられるのは過去の自分ではなく、今のこの時の自分であることを。そうであるなら、ペテロは全身全霊をこめてキリストに答えることができました。「主よ、わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です」。

 いつもキリストは、過去のあなたではなく、きょうのあなたを求めておられます。きょうのあなたに神の愛のまなざしを注いでおられます。そして問われています、「今、あなたはわたしを愛するか」。キリストを信じる者の過去にはキリストの十字架が立てられています。過去はキリストが引き受けてくださっています。キリストを信じて歩むとは、きょうという一日をせいいっぱいに歩むことです。いつも前を向いて、一日一日を歩んで行くことです。


 

2017年4月16日

「キリストの復活」 イースター礼拝

 希望とはなんでしょう。まだ未来がある、まだ先がある・・・などということではありません。たしかなところ、明日になにが起こるのか、わたしたちにはわかりません。では希望とはなんでしょう。希望とはキリストがおられることです。死をつらぬかれたキリストがおられる、これが希望です。

 キリストが復活された日曜日の早朝、マグダラのマリヤと呼ばれるひとりの女性がキリストが葬られた墓にやってきます。もちろん彼女はキリストの復活など思いもしません。ただ墓参りにやってきただけです。当時は小さな洞窟の中に遺体を安置しました。キリストの遺体も洞窟の中に安置され、洞窟の出入り口は大きな石でふさがれていました。

 マリヤが墓にやってくると、墓の石はとりのけられ、キリストの遺体がなくなっていました。知らせを受けたペテロたちも墓にやって来ますが、彼らはすぐに家へ帰ってしまいます。しかしマリヤは帰らず、墓の外で泣きながら墓を見つめていました。するとマリヤの背後からキリストが近づかれました。気配を感じて、マリヤは後ろを振り返るのですが、目の前に立っておられる方がキリストであるとは彼女にはわかりません。無理もありません。十字架上で息を引き取られたキリストが、自分の目の前に立っておられるはずがないからです。やがて「マリヤよ」というキリストの愛に満ちた聞き慣れた声を聞いて、やっとそこに立っておられる方がキリストであるとマリヤは知ります。「マリヤよ、あなたはどこを見ているのか。墓の中ではなく、わたしを見なさい。このわたしを見なさい」。キリストはそのような思いをこめて、「マリヤよ」と、声をおかけになったのです。

 わたしたちにもキリストはやさしく問いかけておられます。「○○よ。今、あなたはどこを見ている? 暗い墓の中か?」。もしそうならキリストは言われます、「いったいどこを見ているのだ。わたしを見なさい。このわたしを見なさい」と。

 墓を見て、ただ泣くばかりであったマリヤは、もう墓を見てはいません。彼女はふり返り復活の主を仰ぎ見て、ふたたび歩み始めました。回心とは、ふり返ってキリストを見ることです。魂の目で、しっかりとキリストを見ることです。キリストを見て、ふたたび歩み始めることです。わたしたちにとって希望とはキリストです。この世にあっては悩みがあります。しかし悩みを見るのではありません。わたしたちが見るべきはキリストです。インマヌエルの神であるキリストです。死をつらぬかれた永遠の神であるキリストです。希望とはキリストです。キリストがおられることです。アーメン


 

2017年4月9日

「友よ」

 先日の告別式で三浦綾子さんの晩年の言葉を引用しました。「死ぬということは人の生涯で最後にして最大の仕事です」。誰にも代わってもらうことができない人生の最後にして最大の大仕事、それが死ぬということです。病気で最期を迎える人もいれば、事故や事件に巻き込まれて最期を迎える人もいます。地震や津波などの災害によって死を迎える人もいます。死という大仕事は、自分の知恵や力が及ぶところもありますが、自分の知恵や力がまったく及ばないところもあります。その両面を含めて、死が人間の生涯で最後にして最大の出来事であることに異論を唱える人はいないと思います。

 今年も受難主日を迎えました。キリスト教会では受難主日から始まる一週間を受難週と呼んでいます。キリストは死という大仕事をどのように成し遂げられたのか。キリストの死をとおして、どのような神の真実が見えてくるのか。わたしたち人間もそうですが、死という出来事をとおして、その人の真実が見えてくるものです。
 剣と棒を持った群衆を引き連れてイスカリオテのユダがやってきました。場所はゲッセマネの園というオリーブ山のふもとです。ユダはキリストに近づいて言いました、「先生、いかがですか」。「いかがですか」とは「こんばんわ」というくらいの挨拶のことばです。そして彼はキリストに裏切りの口づけをします。それを合図に群衆たちはキリストを手にかけて捕らえます。

 ユダの裏切りの口づけをお受けになったとき、キリストの口からは驚くべき言葉が発せられます。「友よ、なんのためにきたのか」。ユダが裏切ることはすでにご承知のキリストです。さらにユダが引き連れてきた群衆は剣や棒をもっています。ユダがなんのために来たのか、明らか過ぎるほど明らかです。ところがキリストはユダを最後の最後までお見捨てにはなりません。ご自分を裏切るユダのことを「友よ」と呼ばれました。これがわたしたちの信じるキリストです。

 主なる神さまの愛は何があろうとも愛です。わたしたちがどれほど弱く、愚かであっても、主はわたしたちをお見捨てになることはない。キリストを仰ぐとき、いつもやさしく呼びかけてくださいます、「友よ。わたしの愛する友よ。わたしはあなたを愛している」と。繰り返します。けっして忘れてはなりません。神の愛はなにがあろうとも愛です。何の罪もないキリストが十字架にまでおかかりになったのは、キリストが最後の最後まで愛をつらぬかれた証しです。

 神の愛はキリストの十字架の死に結晶しています。信仰とはなんでしょうか。信仰とは「キリストが十字架にかかってくださったほどに自分は愛されている、自分のいのちはそれほどかけがえのないものである」、そのことをおさなごのように信じて歩むことです。


 

2017年4月2日

「ほんの一粒でいいんだよ」

 「ああ、なんという不信仰な曲がった時代か。いつまでわたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢できようか」。ここでキリストはわたしたち人間の愚かさに愛想を尽かしておられるように思えます。たしかにわたしたち人間の愚かさを深く嘆いておられることは間違いありません。しかしこのときのキリストの叫びは、わたしたちを愛しておられるがゆえの愛の叫びです。わたしたちが神に背を向け、自分勝手に的はずれな歩みをしても、一度出した救いの手を、キリストは引っ込めてしまうことはなさらない。わたしたちを見捨ててしまうようなことは断じてなさらない。必死になって愚かなわたしたちを支え続けておられるキリストの愛ゆえの叫びをわたしたちは聞きとどけねばなりません。

 「あなたがたの信仰が足りないからである」と未熟な弟子たちにキリストは言われました。「信仰が足りない」と訳されてますが、マルチン・ルターはこれを「信仰がないからだ」と訳しています。わたしもそれが正しいと思います。なぜならキリストは「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、それで十分である」と言われているからです。からし種一粒とは、世の中でもっとも小さいものをたとえるときに当時使われていた表現です。「信仰が足りない」とか「信仰が薄い」ではなく、そもそも「信仰がないからだ」と言っておられるのです。では、弟子たちが見失ってしまったからし種一粒の信仰とはどのようなものなのでしょうか。

 この場面で、からし種一粒の信仰を見せたひとりの人が登場します。本人はそれを信仰などとは思ってはいないでしょう。福音書はその人こそがキリストが言われたからし種一粒の信仰に生きた人として示しています。その人とは、この場面のはじめにキリストに近寄ってきた人です。彼はキリストの前にひざまずいて言いました、「主よ、わたしの子をあわれんでください」。彼はキリストの前におさなごのようにひざまずいて、キリストのあわれみを求めました。キリストの愛とあわれみにすがるしか、自分の子が助かる道はない。キリストのあわれみにすがるしか、生きる道はない。恥も外聞も捨て、彼はキリストの前にひざまずきました。まるで物乞いのように。名前も残されていないこのひとりの人の姿にこそ、山をも動かすほどのからし種一粒の信仰が見えます。聖書は問いかけています、「この人の中にキリストが言われたからし種一粒の信仰があなたには見えているか?」と。

 主はわたしたちを見捨てたり、見限ったりなさらない。主は愛をつらぬかれます。わたしたちが愚かにも神に背を向け、道を間違えても、悔いあらためて、キリストのもとへ帰るなら、キリストはゆるしてくださいます。どれほど悩みに満ちている現実でも、足元にはいつも主のあわれみがあります。わたしたちを底辺から支えておられる主のあわれみがあります。主のあわれみに支えられ、ゆるされ、生かされている。この思いこそ、からし種一粒の信仰です。ところがこのときの弟子たちは、キリストのあわれみを見失い、信仰という名の傲慢さが大きくなっていました。


 

2017年3月26日

「ただ一つのこと」 金田和子姉

 イエスさまが道を歩まれている時、生まれつき目の見えない、道ばたで物乞いをしている人に会い、目をとめられました。そして彼をじっと見、地につばきをし、どろをつくって彼の目にそのどろを塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。その盲人はイエスさまの言われたとおり、すなおにシロアムの池に行って目を洗いました。すると目が見えるようになりました。このイエスさまの方法、そして、もとは盲人だった男のした事は、普通は考えられない不思議なことです。

 道ばたにいたこの盲人は、まっ暗な何の希望ももてない世界に生きていましたが、この人のところにイエスさまは来てくださり、ねんごろにかかわってくださいました。そして彼は不遜な的はずれなパリサイ人たちにむかって、「あの方が罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人でしたが、今は見えます」とはっきりと言いました。

 もう一つの大切な世界、イエスさまは救い主キリストであるという確認が与えられる驚くべき変化がおこされました。生きていく時、悩み、苦しみ、そして自己中心に陥る自分ではどうしようもないところから主に導かれて歩む歩みは、不安でさまよっていた魂に「これに歩め」と今も後も死のむこう側まで、安らかな天のみなとへの確かな光の道が主にあって約束されています。

 心の扉(とびら)を主の前に開いて歩ませていただきましょう。取っ手は自分が開くのです。


 

2017年3月19日

「あとになって、わかる」

 旧約聖書最後の書巻であるマラキ書の終わりに「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたし(神)は預言者エリヤをあなたがたにつかわす」とあります。このマラキ書の言葉を受けて当時のイスラエルの人々は救い主が来られる前に、まず預言者エリヤが現れると信じていました。弟子たちが「エリヤがまず先に来るはずだと律法学者たちは言っていますが・・・」と主イエスにたずねたのはそのような時代背景からです。

 主イエスは答えられました、「預言者エリヤはすでにきたのだ」。弟子たちはこの主イエスの言葉によってバプテスマのヨハネこそが預言者エリヤの役割を与えられた人物であったと知ります。この時点ではすでにバプテスマのヨハネはヘロデ王によって首をはねられています。ヨハネが死んで、ずっとあとになってから、主イエスが事の次第を解き明かされ、弟子たちは「バプテスマのヨハネこそがエリヤだった」と知ったわけです。

 わたしたちの生涯も、ずっと後になってから、事の次第がわかることが多いものです。出来事の真っ只中にいるうちは見えませんが、あとになって、距離を置いて、人生を振り返ると大切なことが見えてくるものです。喜劇王チャップリンの「人生は近くで見ると悲劇だが、遠目に見ると喜劇である」という言葉も同じことを意味しています。

 「神の導きは、あとになって少し見えてくるものだ」。宗教改革者ルターの言葉です。そのときはわからなくても、キリストを信じて、キリストに連れていってもらう人生は、あとになってから、神の導きが見えてくる・・・ルターが自分自身の信仰の歩みを振り返って語った言葉です。

 キリストと出会い、キリストと共に歩む生涯は、キリストに連れて行ってもらう生涯です。「主よ、どうぞわたしを連れて行ってください」と祈りつつ、キリストに連れて行ってもらうのが、キリストを信じて歩む者の生涯です。そしてわたしたちの生涯はこの地上の歩みで終わるのではありません。その時が来たら、わたしたちはまさに手ぶらでキリストに連れられて御国へ旅立ちます。

 ですから聖書は語っています。「人はこの世では旅人であり、寄留者に過ぎない」と。この世にあっては、わたしたちは旅人であることをけっして忘れてはなりません。やがては手ぶらで御国へ旅立つ旅人、それがわたしたちです。そして旅人であるわたしたちにもっとも大切なこと、それは身軽であることです。身軽さが一番です。必要以上に地位や名誉、財産を求めてしまうと、身も心も重くなって、そぼくにキリストについて行けなくなります。あとになって後悔することのないように、身軽に、そして軽やかに、キリストに連れられて、生涯を最後までまっとうし、御国へ凱旋したいものです。


 

2017年3月12日

「キリストに連れられて」

 「主よ、わたしを連れていってください」。キリストと出会い、キリストを信じて歩みをはじめた人は、生涯この小さな祈りとともに歩みをかさねてます。毎朝目覚めたときも、どこかへ訪れるときも、仕事を始めるときも、病気で伏せっているときも、老いを実感するときも、そして死がせまり、そろそろ御国へ召されるときも、主を眼前に仰ぎ見て、このように祈ります、「主よ、わたしを連れていってください」。

 【六日の後イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた】。キリストが先導され、三人の弟子たちはキリストに連れられて、キリストのあとをついて行きました。これこそが心軽やかに人生を歩むための秘訣です。あれやこれやと自分の意識が先行すると、不安になったり、思い煩いが増えます。いつもキリストのあとからついて行きます。「主よ、わたしを連れていってください。わたしはあとからついて行きます」。

 ふと将来のことを思って不安になったり、思い煩ったりすることはありませんか。思い煩えば思い煩うほどにしあわせになれるのであれば、いくらでも思い煩ったらいいのですが、残念ながらそうではありません。思い煩うほどに人のしあわせは遠ざかってしまいます。かといって「もう思い煩わないようにしよう!」と心に決めても、つい思い煩ってしまうのが人間の弱さです。

 あれやこれやと余計なことを考えてしまい、不安になるたびに、静かにこう祈りましょう、「主よ、わたしを連れていってください。よろしくお願いします」。そして先のことは主におまかせしましょう。明日のこと、あさってのこと、これからのことを思い煩ってもしかたがありません。

 一度きりの生涯です。真実の主であるキリストに連れられて、自分の生涯をまっとうし、そしてキリストに連れられて御国に召されたら、それで本望ではありませんか。主が連れていってくださるのなら、どこであっても、そこには豊かな神の祝福と恵みがあります。


 

2017年3月5日

「見て呼んで招き、救ってくださる」 土屋清司兄

 18節に【イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった】とあります。イエス様が彼らをご覧になったという時に、それは、ただ見た、という事ではなくて、彼らのすべてをご覧になったという事です。それも、今の彼らをご覧になったという事でもなく、詩編139編13~16にある通り、まさにイエス様は、人の生まれる以前から今に至るすべてをご覧になっておられます。喜びも悲しみも、苦しみも嘆きも、すべてご覧になっておられるのです。そのようにして、主は私たちを見て、そして呼んで下さるのです。呼ばれるという時に、それは、今申し上げた通り、すべてを知った上で呼んで下さるのですから、誰でもいいという事ではないのです。あなたでなければならない。私でなければならない。そういう呼び方なのです。他の誰かではいけない、あなたを、私を、主はすべてを知った上で、名前を呼んで呼んで下さるのです。

 では何の為に、呼んで下さるのでしょうか?それは、私たちを救って下さる為にです。私たちが、今の苦しみや嘆きや悲しみの原因である罪から救われて、神を愛し人を愛して平和に生きる、そのような人生を歩ませて下さろうとして、主は私たちを見て、呼んで、そして救いへと招いて下さるのです。また、すでに救われた人々にあっては、さらに新たな恵みを見せて下さる為、主は一人一人の名前を呼び、今も招いておられます。

 ですからどうぞ、その主の招きを受ける時、素直になって応答する者でありたいと願います。


 

2017年2月26日

「この驚くべき救いの道」

 体重なら体重計で測ります。体温なら体温計で、速度なら速度計で、長さなら物さしで測ります。では人の命の重さをどのようにして測ればいいのでしょうか。その人の持っている財産や経歴などによって測るのでしょうか。あるいは名声や業績によって測るものなのでしょうか。人の命の重さ、人の命の尊さをわたしたちはどのように測ればいいのでしょうか。

 「この時からイエス・キリストは自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを弟子たちに示しはじめられた」とあります。弟子たちとピリポ・カイザリヤという町に行かれたとき、キリストはご自身の受難についてはじめて弟子たちにはっきりと告げられました。この時の弟子たちにはキリストの受難の意味についてはまったく理解できませんでした。このキリストのことばを聞いたペテロは衝撃のあまりキリストをいさめますが、これも無理からぬことです。

 先週学びましたが、ペテロは今日のやりとりの直前で「あなたこそ生ける神の子キリストです」という、すばらしい告白をキリストにしています。キリストもこのペテロの告白を大いに喜ばれました。ところが、真実の神であり、救い主として来られたキリストが、間もなくエルサレムで捕らえられ、苦しみを一身に受けて、ゴルゴダの丘の十字架におかかりになります。これはいったい、わたしたちにどのようなメッセージを伝えているのでしょうか。

 冒頭の問いかけに戻ります。わたしたちは人の命の重さをどのように測ればよいのでしょうか。じつはこの世界には人の命を測るための物さしは存在しません。天の父なる神さまが人の命の重さを測るために、物さしとしてお与えになったもの、それは生ける神の子キリストの命でした。わたしたちは聖書をとおして、真実の神さまと出会うことによってはじめて自分の命が神さまの目にはかけがえのない高価で尊いものであることを知ることとなります。神の御子であるキリストがご自身の命を献げてくださったほど、それほどまでに、ひとりひとりの命は重く、尊く、かけがえのないものであることをわたしたちは知ることとなるのです。

 わたしは思います。この一度きりの生涯で、この世のどれほどのものを手に入れたとしても、たとえ全世界を手に入れたとしても、自分という人間の命の尊さを知らないままに、もし生涯を終えたとしたら、いったいそれが何の得になろうか、と。自分の命の重さを知らないままに、もし生涯を終えたなら、それは自分という人間の尊さをまったく知らないまま、生涯を終えるということに他なりません。


 

2017年2月19日

「信仰という岩の上に」

 「死が迫ると目の前の現実が遠ざかり、それまであまり意識されなかった魂があらわになり魂がふるえ出す」。敬虔なキリスト者でもありホスピス医として数千人を看取られている柏木先生ならではの言葉です。ただし魂があらわになるのは死が迫ってきたときだけのことではありません。人生の何かのときに神さまの迫りを受け、神さまの息吹にふれ、魂があらわになることがあります。真実の神と出会うとはそのような時です。「信仰を頭で考えている者がおるが、そらダメだ。頭ではわからん。腹で決めるんじゃ、腹で」。ある年代以上の方にはおなじみの漫画「のらくろ」の原作者田河水泡のことばです。腹とは魂のことです。彼もまた神さまの迫りを魂で聞きとどけたひとりです。

 「あなたはわたしを誰と言うか」というキリストの問いかけに、ペテロは「あなたこそ生ける神の子キリストです」と答えます。すばらしい告白です。ペテロはこれを頭で考えて答えたのではありません。彼の魂からの告白です。目の前に立っておられるキリストの中に真実の神の姿をペテロははっきりと魂の目で見ました。だから彼の魂はすぐに答えたのです、「あなたこそ生ける神の子キリストです」と。

 現代の、とりわけ平和で物にあふれる日本にあって、多くの人たちの魂は意識の奥底にしずんでしまっています。だから真実の神さまがなかなかわかりません。さらに言えば、すでに洗礼を受けて魂の救いにあずかっているキリスト者であっても、この世の歩みの中で、魂がにごってしまったり、意識の奥底にしずんでしまうことは多々あります。ペテロもそうでした。この時のペテロの告白はすばらしいものでした。しかし直後キリストからひどく叱られてしまいます。ペテロの魂がにごってしまい、真実が見えなくなり、大失態を犯してしまったからです。人の魂はにごりやすいということです。

 人は弱く、愚かで、すぐに自分の理屈や欲望にとらわれてしまいます。それと同時に魂はにごり、あるいは意識の奥深くにしずんでしまって、真実が見えなくなってしまいます。キリストの恵みがわからなくなってしまいます。

 でも大丈夫です。わたしたちが弱く、愚かであることはキリストはご承知の上です。ペテロの弱さも愚かさも最初からキリストはご承知のことです。そもそも、どうしようもないほど弱くて愚かなわたしたちを救うためにこそ、キリストはおられます。マタイの福音書ではこれから先、キリストはエルサレムへ向かって一心に歩まれます。受難の旅がいよいよ始まります。わたしたちを救うために、ゴルゴダの丘の十字架へとまっすぐに歩まれるのです。

 わたしたちはなんどでもキリストのもとへ帰ります。帰ることができます。自分の欲望を優先して、魂を軽んじてしまうことは人生にはなんどもあります。キリストを見失い、神さまに背を向けてしまうことはいくどもあります。でも自分の愚かさに気づいたら、すぐに悔いあらためて、キリストのもとへ帰ればいいのです。人の生涯で大切なことは、失敗するか、しないか、ではありません。キリストのもとへ帰るか、帰らないか、です。忘れてはなりません。


 

2017年2月12日

「見分ける力を養う」

 パリサイ人とサドカイ人らにキリストは言われました。「あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることが出来ない」。時のしるしとは神の真実と言いかえてもいいでしょう。

 神の恵みを得るために、パリサイ人たちにとっては律法をひたすら守ることは当たり前のことであり、サドカイ人たちにとってはエルサレムの神殿で定められた儀式をきちんと守ることは当たり前のことでした。ですからすでに見てきたように、定められた律法や儀式を守らない人々を彼らは容赦なく断罪しました。

 こうしたパリサイ人やサドカイ人たちの姿と現代のわたしたちの姿が重なります。とりわけ物にあふれ、長寿大国ともなり、平和な日本にあって、わたしたちは当時のパリサイ人やサドカイ人たちと同じように世の中を見てしまうところがあります。それは、けっして当たり前ではないことを、当たり前と見てしまうところです。たとえば戦争がなく平和であること、健康であること、食べ物があること、蛇口をひねると飲み水が出ること、学校に通えること、仕事があること、趣味に興じること・・・さらに言うとしたら、自分が生きていること、家族が元気でいること・・・そのような日常の様々をつい当たり前のことと受けとめてしまっているところがあります。わたしはこれを「当たりまえ病」と名付けています。当たりまえ病にかかると神の恵みそのものが見えなくなります。人々のやさしさが見えなくなります。自分という人間のかけがえのなさ、尊さが見えなくなってしまいます。日々のささやかな繰り返しのなかに、どれほどの感謝と喜びがあるのか、まったく見えなくなってしまいます。

 誰のおかげで、今までの自分があり、今の自分があり、これからの自分があるのか。パリサイ人やサドカイ人たちならきっと次のように答えるでしょう。「それは律法を厳格に守り、儀式を忠実に守っている自分自身のおかげだ。神の恵みが得られるのも自分自身が努力しているおかげだ。それは当たり前のことだ」と。

 ではあなたはいかがですか。正直なところ、誰のおかげで今までの自分があり、今の自分があり、これからの自分があると思っているでしょうか。パリサイ人やサドカイ人たちのようにやはり自分自身の努力と頑張りのおかげだと当たり前のように思っていますか。それとも自分の小さな頑張りと努力をすべてまるごと引き受けて、愛とゆるしをもって導いてくださっている主なる神さまのおかげと思ってしますか。

 人生は自分の頑張りのおかげだと思っている人には感謝や喜びはなかなか見えません。しかし人生は神さまと多くの人々の愛とゆるしのおかげだと思っている人には物事一つ一つに深い感謝と喜びを見ることができます。神の愛に包まれた高価で尊い自分を見ることができます。


 

2017年2月5日

「感謝の種を拾おう」

 福音書を読むと病気の人がキリストによって癒やされる出来事が繰り返し登場します。また群衆の空腹をわずかなパンと魚によって満たされた出来事はすでに14章でも登場しています。わたしたちは福音書を読んでいて、こうした似たような内容の記事に出会うと「前にも同じような記事があった。なにも目新しいことはない」などとつい思ってしまうかもしれません。

 わたしたちの日常はいわば同じような出来事の繰り返しです。目新しいことはあまりありません。日々の生活にあっては、炊事、洗濯、掃除、買物など、大半が同じことの繰り返しです。仕事も基本的には同じようなことの繰り返しです。礼拝のように毎週の繰り返しもあれば、毎月の繰り返し、イースターやクリスマスなどの毎年の繰り返しもあります。なぜ福音書が同じような出来事を繰り返して記しているのか。まずそれは神の恵みは繰り返されるものだからです。繰り返し、繰り返し、注がれるものだからです。

 さらに大切な真実として、日常の繰り返しにこそ、わたしたちが見失いがちな豊かな恵みがあり、幸せがあるということです。その証拠に非日常におそわれると、昨日まで当たり前のように繰り返していたことが繰り返せなくなります。非日常とは、戦争、大災害、事故、病気などのことです。たとえば戦争という非日常の出来事によって、多くの人々がそれまで当たり前のように繰り返していた日常の出来事を繰り返せなくなります。仕事はもとより、炊事や洗濯など、それまで当たり前のように繰り返していた日常が遠ざかってしまいます。難民とは日常の繰り返しがもはや出来なくなった人々のことです。

 「真実の愛は繰り返されても、けっして飽きることはない」。あるドイツ人牧師のことばです。神の愛は繰り返し、繰り返し、わたしたちに注がれています。問題はわたしたち自身が日々のささやかな繰り返しの中にどれほどの幸せを感じているのか、です。今の自分に出来ることを繰り返している日常には、とくに目新しいことはないかもしれません。しかし、ささやかな日々の繰り返しの中にこそ、主の守りと恵みがあります。わたしたちの幸せがあります。喜びがあります。


 

2017年1月29日

「確かな希望に生きる」 土屋清司兄

 患難とは苦しみです。そして、患難・・すなわち苦しみは忍耐を生み出すというのです。ここのところで、ある先生は、こう書いておられました。「聖書で言う忍耐とは、ただじっと我慢して耐える事ではない。それ以上に、患難に対して、もっと能動的に戦うものであり、そこから逃げないで自分の立場に立ち続ける事だ。嵐に向かって立ち続ける事によってこそ、足腰は強められ、困難に立ち向かう力も強くなるのだ。」

 このご意見に、私は賛成です。でも、あえて一言申し添えたい。それは、一体、私達って、自分の力で、嵐に向かって立ち続ける事が出来るのだろうか?という事なのです。いくら自分の力で嵐に立ち向かおうと力んでも、一瞬たりとも立ちおおせる事は出来ない、あっという間に吹き飛ばされてしまう、そんな弱いお互いではないでしょうか?

 なぜならば、もしも自分の力で、嵐に向かって立ち通し、練達の世界に到達出来のであれば、もっと言えば、救いさえも自分の力で得る事も出来るとしたら、イエス様、必要ないじゃないですか? 私達は、神様抜きには、何にも出来ないお互いなのです。生きていることさえ、神様が支えて下さらなければ一瞬たりとも生きられない、そんなお互いなのです。そんな私達が、どうやって、自分の力で、吹きすさぶ嵐に立ち向かうのですか?

 自分の力に頼った瞬間、私達は吹き飛ばされ、部屋に逃げ込んでしまうしかない、そういう弱い者でしかないのです。信仰の試練は、主が共におられなければ、誰一人立ちおおせる事も、乗り越える事もできないのです。思い出して下さい。十字架の後、弟子達は、イエス様がおられなくなってしまった。もうダメだ。自分たちだけではどうにもならない。それで、みんな部屋に隠れて震えていました。すると、その部屋の中に、イエス様が入って来られて、何とおっしゃいましたか? 「平安があるように」「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。そして、別の箇所では、「見よ。私は世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいます」とおっしゃったではないですか。それで初めて、弟子達は勇気が出てきて、もはや命をも顧みず福音を述べ伝える為に全世界へ出て行く者とされたのです。嵐に向かって恐れず立ち通す者とされた、という訳なのです。

 信仰の歩みにあって、主が共におられる事を信じる。これがなによりも大切な事なのです。だから、神様はその事を、苦しみや悩み、様々な問題を通して私たちに学ばせようとされるのです。


 

2017年1月22日

「主よ、あわれんでください」

 キリストが弟子たちと共にイスラエルの北に拡がるツロとシドンの地方に行かれたときのことです。ある女が主のあわれみを求め、叫びながら近づいてきました。弟子たちは彼女を追い払おうとしますが、なおも彼女は叫び続け、あとについてきます。最初キリストは「ひと言もお答えにならなかった」とあります。いわゆる彼女を無視されました。続いて「あなたは異邦人だから神のあわれみは受けることはできない」と言われ、あげくの果てには彼女を小犬扱いされました。これまでのキリストとは思えない言動です。それでもなお彼女はあきらめず、主のあわれみを求めます。ここにきてキリストは言われました、「あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願い通りになるように」。

 おおぜいの人々が取り囲み、こうしたやりとりを見ていたと思います。彼女は恥も外聞も捨て、まさにいのちがけでキリストに助けを求めました。ここまで彼女が必死になれたのは、間違いなく、苦しんでいる娘のためにです。自分自身のためにではなく、苦しんでいる自分の娘のために、娘をなんとかして助けたい一心で、キリストにあわれみを求めました。娘のためだからこそ、あとさき構わず、ここまで必死になれたのだと思います。

 わたしたちは、自分にとって大切な誰かのために、あるいは何かのために、ときに恥も外聞も捨てて、自分のいのちすらも惜しくないという気持ちになります。このときの母親のようにです。誰かのために、何かのために、じっとしておられない。すこしでも何か自分にできることを果たしたい。そうすることは、自分が今、生きている証しともなり、また生きがいともなり、そして喜びともなります。

 「どんな時にも人生には意味がある。誰かがあなたを待っている。何かがあなたを待っている。その誰かのために、その何かのために、あなたにはできることがある」。今のあなたを待っている「誰か」とは誰のことか。今のあなたを待っている「何か」とは何のことか。それがはっきりと見えている人は幸せな人です。

 状況が変われば「誰か」も、そして「何か」も変わるかもしれません。いつも同じ人、同じ事とはかぎりません。ですからひとりひとり、しばしば神の前に静まり、自分を見つめ、そして自分の周囲を見つめなければなりません。「今、自分を待っているのは誰か。今、自分を待っている事は何か」を知るためにです。

 誰かのために、何かのために、主のあわれみを祈り求めましょう。もし今の自分にできることがあるならば、せいいっぱいを果たしましょう。わたしたちがそのように生きるとき、キリストは最高の賛辞を与えてくださいます。「あなたの信仰は見あげたものである」と。

 信仰の歩みとは誰かのために、あるいは何かのために今の自分を注ぎながら歩むことです。


 

2017年1月15日

「口から入るもの 口から出るもの」

 衛生上の理由から食事の前に手を洗うことは望ましいことです。しかしパリサイ人たちがこだわっていたのは宗教上の理由から食事の前に身を浄めるための手洗いです。キリストは言われます、「そのようなことはまったく意味がない」と。本来食事とは神さまが与えてくださった食物を感謝していただくことです。身を浄めるとか、聖なるものにふさわしくなければならないとか、そのようなことは食事の本来からずいぶんとずれています。

 いつの時代でもパリサイ人のような人たちはいます。あなたのごく身近にもいるかもしれません。「自分は正しい。自分はけっして間違ってはいない」、そう思い込んでいる人のことです。いつも上から目線で自分の正しさだけを主張する。相手の話を聞こうとしない。自分の思い通りに相手がふるまうなら機嫌はいいが、そうでなければ不機嫌になり、相手を一方的に責める。人の弱さや悩みにはほとんど関心はなく、人の痛みを知ろうとも、見ようとも、また聞こうともしない。もちろんけっしてひと事ではありません。わたしたちの誰もが、そのようなパリサイ人のようになってしまう愚かさを持っています。

 「彼らを(パリサイ人たちを)そのままにしておけ(放っておけ)。彼らは盲人を手引きする盲人である。彼らは・・・穴に落ち込むであろう」。そのようにキリストはパリサイ人たちをきびしく批判されました。そして弟子たちに「彼らを放っておけ。関わるな。おまえたちまで彼らと一緒に穴に落ち込んでしまうかもしれない」と言われました。弟子たちに語られたこのキリストの言葉を現代のわたしたちもきちんと心に留めておきたいと思います。

 たしかにキリストはもっとも大切なことして「神を愛し、自分を愛するように、隣人を愛せよ」と言われました。ところが現実の社会にはじつに様々な隣人がいます。自分の間違いを認めず、つねに自分は正しいと信じて疑わないパリサイ人のような人もいます。そのような人にへたに関わると、争いになったり、憎しみの感情をいだいてしまったり、あげくの果てには相手を傷つけたり、自分が傷ついてしまうことがあります。まさに罪人としての人間の暗い現実がそこにはあります。「放っておけ。主なる神にゆだねよ。あなた自身も一緒に穴に落ち込んでしまう」。キリストのこの言葉にはじつに深い意味があります。

 もちろんわたしたちがお互いにできる限り助け合いつつ、この世の荒野を生きていくことは大原則です。しかし自分の正しさだけを主張してやまないパリサイ人のような相手に対しては、無駄な争いを避けるためにも、キリストが言われたように「放っておく。相手にしない」ことも大切です。もし関わったら、争いが起こることが目に見えている相手であるなら、きちんと距離を置き、放っておくことです。

 このとき、パリサイ人たちに示されたキリストの対応がまさにそうでした。 


 

2017年1月 8日

「神の言葉に生きよう」

 パリサイ人や律法学者たちはたくさんの規則や昔からの言い伝えを守り、人々にも守るように強制していました。それらをきちんと守ることによって神の救いを受けることができると信じていたからです。しかし時の流れの中で、だんだんと規則や言い伝えが神の心からずれ、的はずれのものになってしまいました。パリサイ人たちは神の救いを求め、規則や言い伝えを真剣に守っていましたが、真剣に守れば守るほど本来の神の心から離れてしまうという皮肉な結果を招いてしまいました。

 「あなたの父と母を敬いなさい」とは、その昔エジプトでの奴隷状態から解放されたイスラエルの民に与えられた有名な神の言葉です。律法とも呼ばれます。また当時「だれでも父や母にむかって『あなたにさしあげるはずのこの物は、神への供え物です』と言えば、父や母にあげなくてもいい」という言い伝えが守られていました。この言い伝えの本来の意味は「まず主なる神さまを大切にしなさい」ということです。しかし言い伝えは次第に本来の意味を失い、独り歩きをするようになります。たとえば老いた親がお腹をすかせていても「お父さん、お母さん、この食べ物は神への供え物です」と子どもが言えば、食べ物は親の口には入らず、宮に献げられることとなります。いわばこれは老いた親への虐待です。いかなる理由があろうと、このようなことは神の心に反しています。「口さきでは神を敬うが、その心は神から遠く離れている」とキリストが言われたのはそのような意味です。
 
 さて「あなたの父と母を敬いなさい」という神の言葉について、親から不当な仕打ちを受けた子どもは親を敬うことなど簡単にできるものではありません。「隣人をゆるしなさい」と言われても、やすやすとわたしたちはゆるすことができない時もあります。「いつも喜んでいなさい」と言われても、喜ぶことの出来ない現実があります。神の言葉に生きることがほとんど不可能とも思える人間社会の現実があります。

 神はそのようなわたしたちの実情をすべてご承知です。その上で、父と母を敬いなさい、隣人をゆるしなさい、とわたしたちに語りかけておられます。神は無理難題をわたしたちに押しつけておられるのでしょうか。もちろんそうではありません。

 神の言葉に生きる信仰とは、何度も何度も、神の言葉と格闘しながら、神の言葉に生きてみようとする意志です。もし誰かを憎んでいるなら、憎しみを持ったまま、もがきつつ、生きることもできます。あるいは神の言葉を聞き、相手をゆるそうと、もがきつつ、生きることもできます。どっちにしてももがきつつ、生きることに違いはありません。なんとかして、ゆるそうと、そのためにもがきながら生きていく、それが神の言葉に生きる信仰の歩みです。なんど失敗しても、なんどでもやり直す。それが信仰の生涯です。

 カトリックのシスターの渡辺和子さんは父親を目の前で殺されます。シスターになられて後も犯人への憎しみが消えず、しかし犯人をゆるすために、もがきつつ歩まれました。犯人への憎しみから解放されたのはシスターになられてから何十年も経って、晩年になってからです。


 

2017年1月1日

「大丈夫 主が共におられる」

 2017年豊浜キリスト教会に与えられた主の言葉は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」(テサロニケ人への第一の手紙5章16~18)です。多くの方がこの言葉を誤解しているかもしれません。わたし自身も長い間誤解していました。現実のきびしさ、苦しみや悲しみを思うとき、この言葉はかなり現実離れしているとずっと誤解していました。

 この言葉を語っているのは使徒パウロです。福音宣教のために生涯をささげたパウロでしたが、彼ほど人間社会の苦しみ、悲しみ、理不尽さを体験した人物はいません。関心のある方は新約聖書コリント人への第二の手紙11章後半を読んでください。パウロがどれほどのこの世の荒野を体験したかが記されています。

 わたしたちが身を置いているこの世の現実は、ときに喜びや感謝からあまりにも遠いものであることを誰よりもパウロ自身が知っていたはずです。そのようなパウロが主の名によって人々に告げています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」。どうしてそんなことが言えるのでしょうか。誰よりも苦難を知っていたパウロに、なぜそのようなことが言えるのでしょうか。

 主がおられるからです。主がいつも共におられるからです。パウロが伝えようとしている真実は「主がいつもあなたと共にいてくださる。だから大丈夫。何も心配はいらない。主はあなたをけっして見捨てず、けっして見放すことはない。主が共にいてくださるのだから、あなたも喜ぶことができる。祈ることができる。感謝することができる」。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」は、クリスチャンの規範や道徳として語られているのではけっしてありません。この言葉はわたしたちをかけがえのない存在として愛し、いつも共にいてくださる主なる神さまからの愛に満ちあふれた励ましのことばです。主は言われます、「大丈夫だ。いつもわたしはあなたと共にいる。心配ない。あなたがどのような荒野に置かれても、あなたは喜ぶことができる。あなたは祈ることができる。あなたは感謝することができる」。このような主の語りかけに、わたしはこころがいっぱいになります。

 2017年も、一日一日、わたしたちは歩んでまいります。主の言葉を毎日かみしめながら、主と共に歩んでまいります。きょうという日がどんなにきびしくても、主があなたと共におられます。新しき一年をどう生きるのか、と漠然と考えるのではなく、新しき一年を見すえて、きょうという一日を自分はどう生きるのか、と考えましょう。つねに「きょうの自分が鍵を握っている」のですから。きょうの自分が喜び、きょうの自分が祈り、きょうの自分が感謝します。天の御国を目指して、今年も主と共に一日一日をそのように歩んでまいりましょう。主に感謝しつつ、アーメン。


 

2016年12月25日

「キリストの誕生」

【新約聖書】ルカによる福音書2章1節~20節

 「人生に 迷いはないが 道迷う」。シルバ川柳の一句です。わたしの場合、ペンを握って文字を書くことが少なくなり、簡単な漢字をふと忘れてしまうことが増えました。「人生に 迷いはないが 字迷う」といったところです。若い時はなんでもなかったようなことが、年と共に困難になります。わたしたちが置かれている人生は荒野であり、老いるとは荒野が拡がることでもあり、この荒野は天の御国に入れられるまで続きます。わたしたちはこの人生という荒野をいさぎよく引き受けて生きていくほかにありません。今の荒野を逃げ出しても、また別の荒野が待っているだけです。自分の置かれた荒野を引き受けて、行けるところまで行くほかにありません。

 クリスマスとは何でしょうか。クリスマスとはわたしたちが生きているこの人生のど真ん中に救い主が誕生されたということです。しかもキリストは、神の都と呼ばれたエルサレムにではなく、ベツレヘムという田舎の小さな村の家畜小屋という前代未聞の場所に誕生されました。まさに荒野の中の荒野と言える場所にキリストは誕生されました。

 わたしたちは荒野でキリストと出会います。荒野で人生の真実を知ります。いつもそうです。アウシュビッツ強制収容所に入れられたあのビクトール・フランクルも、この世の究極の荒野とも言える強制収容所で次の人生の真実と出会いました。「どんな時にも人生には意味がある。誰かがあなたを待っている。何かがあなたを待っている。その誰かのために、その何かのために、あなたには出来ることがある」。強制収容所という荒野に投げ込まれたからこそ、フランクルはこのような人生の真実に出会ったのだとわたしは思います。

 荒野に主がおられます。主が共におられます。わたしたちはたったひとりでこの人生の荒野を歩んでいるのではありません。主が共におられます。それが福音です。ユダヤのベツレヘムの家畜小屋の飼い葉桶の中に誕生されたキリストは、現代に生きるわたしたちひとりひとりと共におられます。不平や不満ばかり言って、荒野から逃げようとしているかぎり、キリストとは出会えません。荒野を真正面からみすえ、自分が置かれた荒野を引き受けたとき、わたしたちはキリストと出会います。

 主がおられます。主が共におられます。人生の荒野を行けるところまで行ってみましょう。もうちょっと生きてみましょう。主がおられるのですから。主が共におられるのですから。大丈夫です。恐れることはありません。


 

2016年12月18日

「聖母マリヤ」

【新約聖書】ルカによる福音書1章26節~38節

 先週お越し頂いた東條高さんは17歳で大島青松園のハンセン病施設に入所されました。当時ハンセン病の方々はすさまじい偏見と中傷を受けていました。東條さんはやがてキリストと出会われ、洗礼をお受けになります。以来東條さんはキリストと共に歩んでこられました。心を込めて讃美歌を歌われ、お話ししてくださる東條さんの背後に、共におられるキリストのお姿を見ました。

 「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」。天使のこの言葉にマリヤは「ひどく胸騒ぎがした」とあります。マリヤは恐れ、とても不安になります。当然です。このときのマリヤは十代の半ばの少女です。まだまだ幼くて、あどけないマリヤです。天使の言葉に心が動揺してもすこしもおかしくありません。救い主の母となると告げられたマリヤは天使に向かって叫びました、「どうしてそんな事があり得ましょうか」。

 今年一年を振り返って、きっと誰もが叫んだことでしょう。「どうしてこんな事が? どうして?!」と。身近な人に向かって、あるいは自分自身に向かって、目の前の状況や主なる神に向かって・・・。この時マリヤが天使に向かって叫んだように、です。

 自然科学は「どうして?」と問いかけることによって進歩してきました。原因を追及することで、わたしたちの世界は整えられ、発展してきました。その恩恵を誰もが受けています。しかしその一方で「どうして?」と問いかけても答えの出ない出来事にもあふれています。この世は理不尽で、道理に合わない出来事にあふれているからです。目の前の状況を引き受けるしかない、ただ引き受けて生きるしかない、そのような現実であふれています。このときのマリヤがそうでした。ところがマリヤは、ある真実を知ることによって、「どうして?」と叫ばなくなります。「どうして?」と叫ぶことをやめ、自分の置かれた状況をそのまま引き受けて生きるようになります。

 マリヤが知った真実とは「主がおられる、主が共におられる」ということです。そもそも天使は最初にこう言いました、「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」。マリヤは気づきました。頭だけでなく、彼女は全身全霊で知りました。「主がおられる。主がわたしと共におられる。だから大丈夫、何も心配することはない」。ここに、のちに聖母と呼ばれるようになるマリヤが誕生します。

 主がおられます。主があなたと共におられます。この本当のことを、本当のこととして、一度きりの生涯をわたしたちは歩みます。人生には荒野もあります。理不尽な出来事にも遭います。道理に合わない状況にも置かれます。でも大丈夫です。何も心配することはありません。主がおられるのですから。主があなたと共におられるのですから。わたしたちは御国を目指して、ひたすら歩むだけです。


 

2016年12月11日

「恐れるな、キリストがおられる」

【新約聖書】マルコによる福音書1章1節~8節

 「薄くなる 頭と記憶と 存在感」。シルバー川柳のひとつです。シルバー川柳が人気なのは日常のあちらこちらに拡がっている荒野を笑いに変えているからだと思います。皆さんもぜひ日常のいろいろな荒野を川柳を用いて笑いに変えてみてください。

 「荒野で呼ばわる者の声がする」。待降節にはバプテスマのヨハネが荒野に現れた場面を毎年開きます。わたしたちの教会では先にマタイの福音書からヨハネの死について学びました。ヨハネは領主ヘロデと彼の妻ヘロデアの反感を買い、首をはねられてしまいます。ヨハネの死はまったく道理に合わない、理不尽きわまる死でした。まさにヨハネの生涯は荒野の生涯であったと言えます。しかしヨハネは世の権力に迎合せず、神と共にあることだけを願い、荒野での生涯をまっとうしました。

 この世にあるかぎり、どこで、どのように生きようが荒野はあります。なぜならこの世そのものが荒野だからです。いろいろな荒野がわたしたちに迫り、わたしたちを苦しめます。生涯の最後には死という荒野が待ち構えています。 

 希望とは荒野がなくなってしまうことではありません。希望とは荒野がなくなることではなく、荒野を歩まざるを得ないわたしたちと共に主がおられるということです。希望とはキリストが共におられることです。ヨハネは叫びました、「わたしよりも力のある方が、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない」。わたしたちが身を置いている荒野にキリストご自身が足を踏み入れてくださる、とヨハネは人々に告げました。クリスマスとはキリストがこの荒野に誕生された出来事に他なりません。

 繰り返しますが、この世は荒野です。わたしたちが自分の生涯をまっとうするとは、荒野での生涯をまっとうするということです。「このような荒野に、どうしてわたしが投げ込まれたのか」などと言ってもはじまりません。「この荒野で、わたしはどう生きればいいか。荒野できょうのわたしに出来ることはなにか」、そう祈りつつ、一日一日、ひとあしひとあし、歩みをかさねます。キリストを背に乗せて神の都エルサレムまで歩いた、あのろばのようにです。

 わたしたちは天の御国に入れられるまで、キリストのぬくもりを背に感じながら、ぼつぼつとこの世の荒野を歩んでいきます。急ぐこともあせることもありません。急いでも違いはないし、あせっても思い煩いが増すだけです。主が共にいてくださるのですから、この世の荒野にあっては開き直って歩みましょう。「まあ、主が最善に導いてくださる。なんとかなる。大丈夫、大丈夫」。主が共にいてくださるのですから、荒野での歩みもなんとかなります。そのことに気づくと余計なことから解放されて、心が軽くなります。ふと笑顔になれます。


 

2016年12月4日

「大丈夫、大丈夫」

【新約聖書】マタイによる福音書21章1節~11節

 「向こうの村に行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに連れてきなさい」。ろばはつながれていました。不自由でした。わたしたちもいろいろなものにつながれて自由を失います。悩みにつながれ、病気につながれ、罪や思い煩いにつながれて、ときに身動きができなくなってしまいます。そもそもわたしたちはこの世に誕生した瞬間から死を背負い、死につながれて生きています。
 
 「ろばを解いて、わたしのところに連れてきなさい」。ろばは解放され、自由になります。キリストのところへ行くとは、解放されて自由になるということです。このときのろばはまさにわたしたち人間の姿です。この世のいろいろなことにつながれて自由を失っているわたしたちが、キリストと出会い、キリストのところへ行くとは、神の前に生きる本来の自由なひとりの人間になるということです。死からも解放されて、もはや死はわたしたちをしばるものではなくなります。死は永遠の御国の入り口になります。

 「主がお入り用なのです」。キリストがろばを必要とされたように、キリストはあなたを必要としておられます。そもそもわたしたちが生きているとは、キリストに必要とされているということです。他の誰もあなたを必要としなくても、キリストはいつもあなたを必要とされています。かといって、キリストの必要にこたえなければとか、立派なことを果たさなければなどと気負うことはまったくありません。

 キリストによって解放されたろばは何をしたのでしょうか。特別のことを果たしたのではありません。ろばはごくふつうのことをしただけです。自分に出来ることをしただけです。キリストを背にお乗せして歩いただけです。ひとあし、ひとあし、自分のペースで、エルサレムの町まで歩いただけです。ただそれだけです。

 キリストがわたしたちひとりひとりに求めておられるのは、キリストを信じて歩むこと、それだけです。ひとあし、ひとあし、それぞれが自分のペースで、キリストの愛を背に感じながら、一生懸命に歩むことです。そのように人生を歩み、人生をまっとうし、御国へ凱旋することです。ただそれだけです。

 今日という一日をキリストの愛を背に感じて、自分を精一杯に歩めば、それでいいのです。御国を目指して、キリストと共に歩む一日一日こそが、まさにわたしたちの人生です。


 

2016年11月27日

「しっかりするのだ。恐れることはない」

【新約聖書】マタイによる福音書14章22節~36節

 本日の場面で語られるキリストの言葉「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」は、今年の豊浜キリスト教会のみことばです。わたしたち人間には四つの感情が与えられています。喜び、悲しみ、怒り、そして恐れです。恐れの感情は危険から身を守るために神さまが与えておられる大切な感情です。ですから人間であるかぎり、恐れの感情がなくなることはありません。恐れるべきものを恐れることはわたしたちにとっては当然のことです。
 
 ところがわたしたちは弱いですから、とかく的はずれのものを恐れてしまいます。たとえば人の目を必要以上に恐れたり、老後のことを無駄に恐れ、思い煩ってしまいます。そもそも恐れは危険からわたしたちのかけがえのない命を守るためのものです。しかし的はずれの恐れはわたしたちの心をしばり、不安にさせ、ひどくなると判断をくもらせてしまいます。あやしげな団体は、こうした人間の弱さを突いて恐怖心をあおり、判断能力をうばってしまいます。俗に言う、洗脳です。

 本日の場面で弟子たちはとても格好悪い。恐れの感情にあたふたしています。日常のわたしたちの姿そのものかもしれません。弟子たちはキリストを幽霊だと思って恐れ、海の上を歩こうとしたペテロは風や波を見て恐れ、おぼれかけてしまいます。まさに恐れのオンパレードです。わたしたち人間はとても恐れやすいものであることを聖書はここで伝えています。

 「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」。キリストは恐れる弟子たちにすぐに声をかけられました。おぼれそうなペテロにはすぐに手をのばされました。ここで注目すべきは「すぐに」というところです。

 人や状況に必要以上に恐れをいだいたときはすぐにキリストの言葉を思い起こします。「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」。すぐに、そしてなんども繰り返し、このキリストの言葉を自分自身に語りかけます。大切なことは、すぐに、です。あとになってから、ではありません。気持ちが落ち着いてから、でもありません。すぐに、その場で、このキリストの言葉を自分自身に語りかけます。恐れがなくなり、心と魂が神さまの平安でつつまれるまで、このキリストの言葉に集中し、この主の言葉を黙想します。必ず、心と魂は平安でつつまれます。

 「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」。いつも、そう語ってくださる主がおられます。主があなたと共におられます。恐れることはありません。大丈夫です。


 

2016年11月20日

「鍵は今日の自分が握っている」

【新約聖書】マタイによる福音書14章13節~21節

  総勢1万人は超えるであろう群衆を前にして「あなたがたの手で食物をやりなさい」とキリストは弟子たちにいわれます。弟子たちは群衆を解散させて、めいめいに食べ物を調達させるつもりでした。ごく常識的な判断です。いつもはそうしていたと思います。ところがこのときは違いました。

 弟子たちの手元にはパン5つと魚2匹しかありません。これはキリストと12人の弟子たちが食べる分だったと思われます。総勢1万人以上の大群衆に対して、それだけのパンと魚だけではとうてい足りません。弟子たちは当惑したことでしょう。

 「それをここに持ってきなさい」。キリストは弟子たちの手元にあるパンと魚を持ってくるようにいわれます。キリストはそのパンと魚を手に取り、天を仰いで祝福し、群衆にお与えになります。そして聖書は伝えています、「みんなの者は食べて満腹した」と。弟子たちはびっくり仰天したことでしょう。しかしこの出来事は弟子たちにとって驚くべき出来事であった以上に、特別の意味をもっていました。4つの福音書すべてがていねいにこの出来事を書き記しているのも、その理由からです。

 それから数年後には弟子たちは福音宣教のために全世界へ出て行くこととなります。当時はローマ帝国という強大な権力が世界を支配していました。皇帝を神とたたえるローマ帝国にとってキリスト教徒たちは邪魔な存在であり、異端分子でした。ですから容赦なくローマ帝国はキリスト教徒を迫害し、捕らえ、命を奪います。ローマ帝国の圧倒的な武力の前に、弟子たちが意気消沈してしまうこともなんどもあったと思います。

 意気消沈するたびに彼らはこの五つのパンと二匹の魚の出来事を思い出したに違いありません。この出来事はいつも彼らを信仰の原点に立ち戻らせました。原点とは「きょうの自分に出来ることを果たせはそれでいい。あとはすべてキリストが最善に導かれる」。これこそ弟子たちが苦難のたびになんども立ち戻った信仰の原点でした。

 「主よ、きょうのわたしに出来ることはなんですか」。この小さな祈りがわたしたちを原点に立ち戻らせてくれます。鍵を握るのはいつもきょうの自分です。どれほどの悩みであろうとも、きょうの自分に出来ることは必ずある。キリストはいつも言われます、「きょう、あなたに出来ることをささげなさい」と。出来ないことをキリストは求めてはおられません。いつもキリストが求めておられるのは、わたしたちそれぞれの手元にある五つのパンと二匹の魚です。

 弟子たちひとりひとりの小さな小さな福音宣教の働きが、やがて4世紀になって実を結ぶこととなります。キリストの福音がローマ帝国全土を包み込んでしまうこととなるのです。


 

2016年11月13日

「ヨハネの死」

【新約聖書】マタイによる福音書14章1節~12節

 領主ヘロデを公然と非難したためにヨハネは投獄され、ヨハネが獄中からキリストを求めたことはすでに学びました(11章)。キリストは獄中のヨハネに「わたしにつまずかない者はさいわいである」と告げられました。これは「安心しなさい。わたしこそが正真正銘の救い主メシアである。わたしを信じる者は救われる」という意味です。ヨハネはキリストを信じ、獄中にあって主の平安につつまれました。

 そのヨハネが首を切られます。ヘロデの妻ヘロデヤの策略によってです。ヨハネの死は理不尽きわまりない死といえます。ヨハネはなにひとつ悪いことはしていません。時の権力者が力にまかせてヨハネの首をはねたのです。まったく道理に合わない死です。

 この世は道理に合わない、理不尽な出来事にあふれています。大災害やテロ行為あるいは事件に巻き込まれて命を落とす人もたくさんいます。ひとごとではありません。わたしたちだって、いつ何時思いもよらぬ出来事に遭遇して命が取られてもおかしくはありません。まさにメメント・モリ、死を記憶せよ、です。

 聖書はヨハネの死に関してわたしたちに問いかけています、「時の権力者に首を切られたヨハネを人生の敗北者だと思うか」。あるいは同じ問いかけですが、「ヨハネの首をはねた領主ヘロデとヘロデヤを人生の勝利者だと思うか」。現代も世界中のあちらこちらで権力を握る者たちが、その力を無造作にふるい、力のない人たちをしいたげています。では権力を握る者たちは人生の勝利者であり、力のない者たちは人生の敗北者なのでしょうか。

 ヨハネがヘロデという権力者の犠牲になったことは事実です。しかしけっして敗北したのではありません。ここを間違えてはなりません。ヨハネは犠牲者ではあっても、人生の敗北者ではありません。投獄され、死を覚悟したヨハネはキリストを求めました。そのようなヨハネに主は共におられます。ヨハネの首が切られる瞬間も、インマヌエルの神はヨハネと共におられます。ここで聖書は問いかけているのです、「あなたには、ヨハネと共におられる主が見えるか。主の平安でつつまれている預言者ヨハネの姿が見えているか」。主はヨハネと共におられます。しかし主は領主ヘロデとは共におられません。ヘロデヤともヘロデヤの娘とも共にはおられません。

 わたしたちの希望とは何でしょう。勝利するとはどのようなことでしょうか。先週の召天者記念礼拝でも申し上げましたが、希望とは主が共におられるということです。人生に勝利するとは死をつらぬく永遠のいのちが主によって与えられることです。

 キリストを信じる者にはどのような時も主が共におられます。理不尽としか思えない出来事にも、たとえ道理に合わない死を迎えても、主は共におられます。すべてを御手に包んでおられるインマヌエルの神が共におられます。希望とは主が共におられることであり、勝利するとはキリストから永遠のいのちを受けることです。主はヨハネと共におられ、彼の死を見守り、ヨハネを御国へ導き入れられました。

 わたしたちはヨハネの死の背後にヨハネと共におられる主の御手を見なければなりません。


 

2016年11月6日

「キリストというお方」 金田和子姉

【新約聖書】ヨハネによる福音書14章1節~6節

 死はけっして今の歩みのずっと向こう、ずっと先にあるのではありません。この世に誕生した瞬間から、だれもが死を背中に背負って生きています。いつ何時背中の死がぐるっと回って眼前に来てもおかしくはありません。阪神淡路大震災や東日本大震災、御嶽山噴火や熊本地震、パリの同時多発テロ、あるいは病気や事故、事件に巻き込まれることもあります。死はある日突然に訪れることを物語っている出来事にあふれています。けっして他人事ではありません。自分だけが例外なのではありません。

 希望とは「まだまだ先がある」ということではありません。死を背負って生きているわたしたちにとって「次はないかもしれない」と思っていたほうがいい。明日はないかもしれない、一年後はないかもしれない、家族や知人と交わす語らいも今日が最後になるかもしれません。極端なことを言っているようですが、それがわたしたちが置かれている現実です。ですから聖書が告げる希望とはまだ先があるということではありません。聖書が告げる希望とは死をつらぬくキリストがおられるということです。希望とはキリストです。

 キリストはご自身についてはっきりと語っておられます。「わたしは道であり、真理であり、命である」と。道であるとは、キリストは死をつらぬき永遠の御国につながっておられるお方であるということです。真理であるとは、キリストは間違いのないお方であるということです。命であるとは、キリストは信じる者に、もれなく永遠の命を与えることのできる唯一のお方であるということです。

 キリストを信じるだけで永遠の命が与えられて死は御国の入り口となります。いつ地上で最期が訪れても御国です。自分は死んだらどうなるのか?などと思い煩うことがなくなります。安心して残りの生涯を歩むことができるようになります。少なくとも人生の後半期に入っている人は達者なうちに自分の死と真正面から向き合い、出来るかぎりのそなえをすべきです。安心して残りの生涯を歩むために、です。

 今あなたはしあわせですか? 逃げず、ごまかさず、真正面から自分に問いかけてみてください。あるいは次のように問いかけてみます、「もし自分の命が今日一日で終わるとしたら、自分は何に後悔するか?」 死と真正面から向き合うことによって、自分が見えてきます。自分にとってほんとうに大切なものが見えてきます。しあわせとは何か、もしわからないなら、まず死と真正面から向き合うことです。自分も死ぬ、自分の身近な大切な人も死ぬ、自分の子も孫も死ぬ。死と真正面から向き合うことによって、ほんとうに大切なものが見えてきます。しあわせとは何なのかが見えてきます。今が輝いてきます。

 キリスト教会の召天者記念礼拝とは、今生きているわたしたちが死と向き合うために開かれるものです。すでに天に入れられた方々は御国で憩っておられます。何も心配はいりません。問題は今生きているわたしたちです。自分は死にそなえているか、自分は今しあわせか、自分にとって大切なものはなにか。この機会にぜひ真剣に考えてみてください。


 

2016年10月30日

「神の信頼」 金田和子姉

【新約聖書】ルカによる福音書19章1節~10節

 エリコのまちはエルサレムに入る入口の豊かなまちで、そのまちにザアカイという名の人がいました。この人は不正に取り立てた税金で私腹をこやすような取税人でした。ザアカイは金持でしたが、しあわせではありませんでした。そして人から嫌われていました。淋しい生活を送っていたと思います。

 ザアカイはイエスさまがエリコのまちにこられるということを聞いて、イエスさまに会ってみたいと切に願いました。通りに出ると群衆がいっぱいでした。ザアカイはずいぶん背が低かったようです。ザアカイを見て人々は「ザアカイが来たぞ」と言ってザアカイをつまはじきにし、小突き、さんざんのけものにしました。ザアカイはこれではイエスさまに会えないと思い、意を決して、いちじく桑の木に登ってイエスさまのこられるのを待っていました。

 そこへイエスさまがこられました。そしてイエスさまはザアカイを見られ、「ザアカイよ」と名を呼ばれました。これは不思議なことだと思います。ザアカイとイエスさまは初対面でしたから。そして「ザアカイよ。急いでおりてきなさい。今日あなたの家に泊まることにしているから」と言われました。ザアカイは驚きと喜びで急いでおりてきました。そしてイエスさまを家にお迎えしました。

 ザアカイはイエスさまの破格の愛に包まれて、自分の今までしたことのまちがいを示され、人生がひっくり返りました。ザアカイは立って「自分の財産の半分を貧民にほどこします。もしだれかから不正な取り立てをしていましたら四倍にして返します」といいました。イエスさまはザアカイの家に来て下さり、食事を共にして下さいました。そして「きょう、救いがこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから」と言われました。アブラハムとはイエスさまの系図の始まりの人です。イエスさまはザアカイに「わたしの子よ」という語りかけられたのです。

 イエスさまはザアカイの存在を受けとめ、愛のまなざしをもって信頼してくださいました。人の一番して欲しいことは信頼されることだと思います。イエスさまはザアカイの名を呼び、「わたしの子よ」と言ってくださいました。

 わたしたちはあるべきところから迷い出て、さまよっている存在だと思います。どうしてこんなことになるんだろう、こんなことがあるんだろう。人とくらべたり、人を傷つけたり、人に傷つけられたり、悩んだり傲慢になったりします。さまよいながら右往左往している存在だと思います。イエスさまはこんなわたしたちのすべてを包んでくださり、このさまよえる魂の救いのために、失われたものを回復させて下さるために、この破れだらけのもののために、十字架にかかり、血を流して下さり、命をうけよと復活して下さいました。ザアカイの所にきて共に食事をして下さったイエスさまは今も生きて、わたしの所に、わたしの家に来て、一緒にいて下さり、平安を与えて下さるお方なのです。

 「尊いわたしの子よ、大切な子よ」と、名を呼んで招いて下さるこのお方に、今も後も御国にまで共にいて下さる主に、お従いしてまいりましょう。


 

2016年10月23日

「近すぎて見えなくなる」

【新約聖書】マタイによる福音書13章53節~58節

 河合隼雄(かわいはやお)氏は日本を代表する心理学者として大きな功績を残しておられます。日本ウソツキクラブ会長を自称し、とてもユーモアに富んだ方でした。河合氏の生涯の問いかけは「河合隼雄とは何者か?」でした。「人間ひとりひとりはいわば小さな宇宙である。自分という人間について、知り尽くすことのできない未知なる世界がある」といつも語っておられました。

 自分のことは自分が一番知っていると思いがちですが、しかし自分自身についてすらまだまだわからないことがたくさんあります。ましてや自分以外の人については、どれほどつきあいが長くても、ほとんど知らないと思って間違いありません。聖書は語ります、「もし自分は何かを知っていると思うなら、知らなければならないほどの事すらまだ知ってはいない」。要するに何事もわかった気になってはならないということです。謙虚な人とは、まだまだ自分は知らないことが多いと思っている人のことです。身近な人についても、自分は十分に知っていると思った途端、その人の語ることに耳を傾けなくなります。わかったと思った途端、わたしたちは目も耳も閉ざしてしまうからです。

 主イエスの故郷ともいえるナザレの町の人々がまさにそうでした。彼らは主イエスの教えにとても驚きました。ところがナザレの町の人々は「この知恵と力あるわざをどこで習ってきたのか」と言い出します。彼らは母マリヤのことも知っており、主の兄弟たちのことも知っており、主の幼少の頃の様子も知っていました。その意味で、ナザレの人たちにとっては主イエスはとても身近な存在でした。彼らにとって主イエスがあまりにも身近な存在であったがゆえに、主イエスのことはなんでも知っていると思い込み、かえって主イエスというお方が見えなくなってしまったのです。

 信仰とはこんなもんだ、聖書とはこんなもんだ、キリストとはこんなお方だ・・・などとわかった気になってはいけません。まだまだ今のわたしたちにはわからないこと、明らかになっていない神の導きがあります。自分についても、また隣人についても、まだまだわからないことがたくさんあります。自分がまだ気づいていない、自分のなかに秘められた神から受けている賜物もあります。

 悩みにも意味があります。どんなときにも人生には意味があります。しかし悩みのただ中にいるときの自分には、それがわからないことが多い。宗教改革者マルチン・ルターも言っています、「神さまの導きはあとになって人生をふりかえったときに見えてくる」。だからわかった気になって、すぐに白黒つけてはいけません。投げやりになってしまったら、それこそ神の導きを見失ってしまいます。

 悩みのときにはあたふたしないで、じっと主を待ち望みます。わかった気にならないで今の自分に出来るところをぼつぼつ果たしつつ、主の時を待ち望みます。信仰とは実に主を待ち望むことです。


 

2016年10月16日

「天の御国」

【新約聖書】マタイによる福音書13章44節~52節

 スマホや携帯が普及し、どこにいても連絡が取れるようになりました。電化用品もどんどん進歩し、とりわけ日本では、わたしたちの暮らしはずいぶんと便利になりました。では暮らしが便利になった分、わたしたちは幸せになったのでしょうか。持ち物・・・財産に限らず、学歴、地位、名声や名誉なども含みます・・・が増えれば人は幸せになるとは一概には言えません。むしろ持ち物が増えると思い煩いも案外増えるものです。

 「天国は、持ち物すべてを売り払ってでも、どうしても手に入れたいほどの宝である」とキリストは語っておられます。天国とはある特定の場所を意味するのではなく、恵みの神が支配しておられるという意味です。ひらたく言えば、「恵みの神が共におられる」ということです。このことをマタイによる福音書ではインマヌエル(神、われらとともにいます)と記しています。どのようなときも神が共におられる。神が導いておられる。この真実こそが、キリストが語られた宝の意味です。

 ここで自分に問いかけてみます。今の自分はインマヌエルの神をきちんと見ているか。インマヌエルの神とともに自分の人生を歩んでいるか。神が共におられるという真実を地中に埋めてしまってはいないか。あれやこれやと思い煩ったり、不安になるのは、要するに恵みの神を見失ってしまっているからです。神を見失うと人は思い煩いに翻弄され、不安が増大します。そのようなときはすぐに、そしてなんども自分自身に語りかけます、「主なる神がおられる。主なる神が共にいてくださる。思い煩うな。大丈夫、心配ない」。

 死が迫ると、この世で手に入れた持ち物すべてが力を失い、輝きを失い、自分の手から遠ざかってしまいます。しかしインマヌエルの神は、死が迫るほどに輝きを増して、わたしたちに近づいてくださいます。死が迫るほどにわたしたちの魂に神の平安を注いでくださいます。ここで誤解しないでください。この世の持ち物には意味はないなどと言っているのではありません。この世で生きていくためには、この世の持ち物はたしかに必要です。しかし死を前にした途端、この世の持ち物すべてが輝きを失ってしまうということを十分に知っておかねばならないということです。

 死に際してもなお光り輝き、わたしたちを導き、希望と力を与えてくれる宝・・・それはまさにインマヌエルの神ご自身の存在であり、おさなごのように神を信じる信仰です。手遅れになる前に、この唯一無二の宝を自分のものにしてください。すでにこの宝を畑から掘り出して、自分のものにしている人は、けっして地中に埋めてしまうことのないように、この永遠に朽ちない宝を何よりも大切にして、かけがえのない生涯を最後まで歩み、天の御国へと凱旋してください。じつはこの不滅の宝は、天の御国への通行切符ともなっています。アーメン


 

2016年10月9日   

「たとえ話によって」

【新約聖書】マタイによる福音書13章34節~35節

 聖書には山ほどの「たとえ(譬)」が登場します。比喩ともいいます。「たとえ」は物事を別のものに置きかえて説明することです。「わた菓子のような雲」とか「彼女はかごの中の鳥だ」とか、大気汚染で「山が泣いている」などもたとえです。きっとわたしたちも日常たくさんのたとえを語っています。

 「イエスはたとえで群衆に語られた」とあります。聖書全体が多くのたとえを記しています。そもそもわたしたちがたとえを語るときはどのような時でしょうか。それはまず、1)何か伝えたいことがある、2)それを伝えたい相手がいる、3)事実を話すだけでは十分に伝わらない・・・そのような時だと思います。「台風は最大瞬間風速80Mです」よりも、「ワゴン車が横転し、街路樹が根こそぎ倒れるほどのものすごい暴風です」と伝えた方がより台風の威力が伝わります。どのように話したら、すこしでもこちらの真意が相手に伝わるのか。そのためのひとつの工夫がたとえ話です。

 当時キリストのところには多くの群衆が話を聞きにやってきました。群衆といっても、子どもいるし、壮年もいる。高齢者もいるし、病気や悩みをかかえている人もたくさんいました。兵隊もいたでしょうし、取税人や罪人扱いされて社会からはじき出された人もいました。事情がまったく異なる多種多様な人々がキリストのもとへ救いを求めてやって来ました。キリストは、いわば手を変え品を変えて、いろいろなたとえ話を話されました。その理由のひとつは、事情の異なる多種多様な人々のひとりでも多くの人に神の真実を届けるためにです。いろいろな語りようで、いろいろなたとえ話を用いて話すことによって、より多くの人々が神の真実を理解できます。子どもには子どもにふさわしい話で、大人には大人にふさわしい話で、取税人には取税人にふさわしい話で、キリストは相手に合わせて、ふさわしいたとえ話を用いて、神の真実を語られたのです。キリストのたとえ話が多いのは、まさにキリストの愛ゆえのことです。

 神の真実はひとつですが、わたしたち人間は多種多様です。でも主なる神は、地球上に生きるすべての人間に届くように、神の真実をいろいろな切り口で、いろいろなたとえを用いて、いろいろなエピソードによって伝えておられます。聖書とは、そうした神の言葉がまとめられた書です。

 聖書のすべてが理解できなくても構いません。むしろそれは当然のことです。でも聖書の中には、今のあなたに届く神の言葉が必ずあります。他の人には届かないが、あなたには響いてくるキリストの言葉があります。聖書を開く前には、そして礼拝説教の前にもそうですが、まず次の祈りを神に捧げましょう。「主なる神さま、今のわたしにふさわしい、あなたの言葉をください」と。主なる神は必ず与えてくださいます。与えられるまで求め続けることです。


 

2016年10月2日

「からし種のたとえ話」

【新約聖書】マタイによる福音書13章31節~33節

 キリストはなんども「思い煩うな」と語っておられます。それほどわたしたちは思い煩いやすい。そもそも思い煩いとは、将来を思って悲観したり、過去を思って嘆くことです。いわば思い煩いとは、意識が目の前の現実から逃げ出して、将来や過去のことをひたすら否定的に考えてしまうことです。思い煩いとは現実逃避です。自分があれやこれやと余計なことに思い煩っている時は「自分は現実から逃避している」と思って、まず間違いありません。思い煩いは苦しいものです。心は不安でおおわれ、思い煩うだけでとても疲れます。弱いわたしたちにとって、こうした思い煩いからの解放は大きな課題です。

 「天国は一粒のからし種のようなものである」。聖書の告げる天国とは、神さまの愛につつまれ、神さまの愛によって支配されているところです。このような天国はわたしたちの心の中にもあります。ところが思い煩いによって、神さまの愛がわからなくなってしまうこともあります。思い煩いが神さまの愛を覆い隠してしまうからです。

 でも大丈夫です。一粒のからし種ほどの信仰によって、思い煩いからの解放が始まります。どのようにしてでしょうか。まず祈ります、「主よ、今のわたしに出来ることは何でしょうか」。この小さな祈りを心を込めてなんども主に祈ります。やがて必ず気づくはずです。「まだまだ今のわたしには出来ることがある」。

 愛の神はけっしてわたしたちに無理を強いたり、出来ないことを求めたりはなさいません。どんな状況にあっても出来ることを求めておられます。思い煩いは現実からの逃避ですがこの小さな祈りはわたしたちを目の前の現実に引き戻します。思い煩いによって未来や過去へ逃げていた意識と力が、再び、目の前の現実を生きるために注がれ始めます。そして実際に自分に出来ることを果たしていると、知らない間に、自然に思い煩いから解放されます。

 わたしたちは明日を生きることは出来ません。しかし明日のために今日を生きることは出来ます。わたしたちは過去を生き直すことは出来ません。でも過去をゆだねて、今日を精一杯生きることは出来ます。一粒のからし種とは、小さく弱い自分が今日という一日を自分に出来ることを果たしつつ懸命に生きている姿のことです。たとえ今日一日の自分が、誰の目にもとまらないような一粒のからし種のような小さな歩みであろうとも、キリストはいつも言われます、「その一粒のからし種で十分である」と。

 どのような状況にあろうとも、必ず今の自分に出来ることはあります。今の自分に出来ることに集中して、ややこしいことはすべて主なる神に大胆にゆだねて、歩んでまいりましょう。一粒のからし種は、やがて成長すると、鳥が宿るほどの大木になると主は言われました。一粒のからし種のような歩みこそが、まさに人としての本来の歩みです。


 

2016年9月25日

「福音のきざし」 土屋清司兄

【新約聖書】マタイによる福音書1章1節~17節

 ユダヤ人は系図を非常に重んじる民族です。ですからユダヤ人にイエス様の事を伝えようとするなら、まずイエス様の系図を示し、血統の正統性を立証する必要がありました。なぜならユダヤには昔から救い主が生まれるという伝承があり、その救い主はダビデの家系から生まれると信じられていたからです。だからユダヤ人への福音書と言われるマタイ福音書冒頭には、このようなややこしい系図が記されているのです。

 ところがこの系図にはユダヤ人からは明らかに否定されてしまう五人の女性が系図に登場しています。ユダヤの男達は日々の祈りで、こう祈りました。「主よ。女と異邦人に生まれなかった事を感謝します」。つまり女性と異邦人は人間の数に入れてもらえなかった、それがユダヤ人の偏見に満ちた差別意識でした。

 しかし、その女性が、なんと五人も系図に入れられています。しかも、更に調べますと、その五人の女性達とは、最後のマリヤを除けば、ユダヤ的に見れば、それぞれがなんらかの問題を持っている者ばかりでした。ルツもタマルもラハブもバテシェバも、異邦人だったり、罪人であったり、とうていユダヤ人に受け入れられるはずはない人達ばかりです。

 ではどうして、この罪多き女性達をあえて新約聖書冒頭にかかげる必要があったのでしょうか。それはこの罪多き女性達・・・しかも女性としても、異邦人としても、虐(しいた)げられ、疎外されて生きてきた悩める女性達とは、それは誰あろう、この私たちを表しているのではないでしょうか。

 罪なき人間は誰もいません。それゆえにこの女性達も、私たちも、誰もが救いを必要とする罪人に過ぎないのです。更に言えば、人は誰もが平等。誰もが同じ存在価値を与えられている、神様によって造られた存在なのです。しかし、この時代のユダヤのみならず現在の日本にあっても、在留外国人の方々や、少なからずの弱者の方々は、理不尽な差別や不当な扱い、冷たい視線に苦しみ、自分ではどうしようもない疎外感に苦しんでおられます。どうしてそうなってしまうのか。それはやはり誰が持っている自己中心という罪から来るのです。それゆえ人間に罪がある限り、どうしようもないのです。

 しかし新約聖書冒頭、それは罪からの新しい救いの始まりです。その始まりのイエス様の系図に、その罪人の名が、はっきりと記されている。疎外され、差別されて生きた、異邦人の女性の名が堂々と記されている。 それは、性別も地位も家柄も国籍も肌の色も関係なく、誰でもイエス様の系図に入れられ、救われるという事なのです。

 神様は、新約聖書冒頭に、まずその事を読者に伝えたい。それが、ここに系図が記されている意味なのです。


 

2016年9月18日

「神は待っておられる」

【新約聖書】マタイによる福音書13章24節~30節

 麦畑に毒麦が生えてきたというたとえ話です。毒麦とは、麦に似た雑草で、毒性を持ち、人が食べるとめまいやはきけを起こすそうです。ふつうなら毒麦はすぐに抜いてしまいます。農業のプロが麦と毒麦を間違えることはありません。毒麦を抜くときに少しの麦も一緒に抜いたとしても、損害は最小限に抑えることができます。ところがキリストは言われます、「収穫まで両方とも育つままにしておけ」。これは常識ではあり得ない対応です。

 この話は実際の麦畑のことではありません。わたしたちの心の中の麦畑の話です。たとえば自分の心の麦畑を見渡してみましょう。良い麦もあれば、毒麦もあるかもしれません。ここでひとつの大切な真実があります。実際の畑ではあり得ないことですが、心の麦畑では麦が毒麦になったり、毒麦が良い麦になったりすることはめずらしくありません。カウンセリングの場面ではよくあることですが、本人は短所だと思っていた自分の性格が、じつはいろいろな場面でその人を支えていた長所であったことに気づく人も多いものです。

 盆栽民族といわれる日本人は、毒麦をすぐに抜こうとします。もちろん実際の農作業においてはそれでいいのですが、人の心の麦畑では「毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかもしれない」ということが十分にあり得ます。きっと皆さんも自分が何か大きな失敗をしたときに「もう自分はダメだ、もう生きていけない」などと自分を全否定してしまったことはありませんか。自分の中の毒麦ばかりを見て、毒麦に捕らわれてしまうと、良い麦がまったく見えなくなり、身動きつけなくなってしまいます。こうした体験は誰にもあると思います。

 自分の中の毒麦ばかりを見て、その毒麦を抜こうとばかりすると、かえって自分が見えなくなります。「収穫まで両方とも育つままにしておけ」とキリストは言われました。自分の心の畑で「どれが良い麦で、どれが毒麦で・・・」などということはあまり深く考えなくていいのです。ここでフランクルの言葉を引用します、「どんな時にも人生には意味がある。誰かがあなたを待っている。何かがあなたを待っている。誰かのために、何かのために、あなたには出来ることがある」。麦であろうが毒麦であろうが構いません。誰かのために、何かのためにもちろん自分自身の幸せのために、今の自分に出来ることを果たします。麦だろうが、毒麦であろうが、キリストに用いてもらったらいい。

 自分がどうの、自分の過去がどうの、自分の中の麦がどうの、毒麦がどうの・・・そのようなことは気にすることはありません。今の自分に出来ることに生きていく。キリストはそのように懸命に生きるわたしたちを見守り、養い、導いてくださいます。そもそも生きるとはとてもシンプルです。生きるとは、今の自分に出来るところを精一杯に生きることです。


 

2016年9月11日

「豊かさは豊かさを生み出す」

【新約聖書】マタイによる福音書13章10節~17節

 鳥取県発祥の次世代の梨で「新甘泉(シンカンセン)」と命名された梨があります。鳥取県の平井知事は「鳥取県には新幹線はないが、新甘泉はある」と言い放ったそうです。鳥取在住の友人がこの新種の梨を送ってくれました。じつに美味しかったです。食べ物はすべてそうですが、いくら説明を受けても実際に食べてみなければわかりません。糖度はいくら、水分量はいくら・・・そのようにどれほど説明されても、知識としてはわかりますが、食べてみないかぎりはわかったことにはなりません。

 信仰の世界はまさにそうです。いくら聖書や参考書を読み、キリストについて知識として学んでも、実際にキリストを信じて歩んでみなければ肝心なところはなにひとつわかりません。「神の目にはあなたは高価で尊い」という聖書の言葉についても、たしかに最初はただ聞くことから始まります。でもただ聞くだけではこの神の言葉のほんとうの力はわかりません。「この言葉は主なる神さまの言葉なのだから、間違いはない」と、おさなごのように神を信じてこそ、わたしたちの力となり、支えとなります。

 キリストは弟子たちに言われました。「あなたがたは天国の奥義を知ることがゆるされているが、彼ら(群衆)にはゆるされていない。彼らは見ても見ず、聞いても聞かず、悟らないからである」。群衆に対して、とてもきびしいキリストの言葉です。では、キリストの弟子たちはいつも見るべきことを見て、聞くべきことを聞いていたのでしょうか。弟子たちはそれほど優秀だったのでしょうか。いいえ、弟子たちもふつうの人間です。事実、福音書を読むと、キリストはなかなか理解しない弟子たちをなんども叱っておられます。

 そもそも群衆と弟子たちの違いは何でしょうか。それはたとえば群衆にとってキリストは、いわば病院であり、スーパーマーケットであり、講演会場のようなものです。病気になったら行くところ、お腹がすいたら食料調達に行くところ、なにかすばらしい話を聞きに行くところ・・・つまり群衆にとってキリストとは何かを求めて「行くところ」です。けっして「帰るところ」ではありません。ですから群衆は、事が済めばキリストのところを去って、自分たちの家へ帰ります。

 ところが弟子たちは違います。弟子たちとってキリストはまさに「帰るところ」であり、自分の唯一の居場所です。失敗をして自信をなくしたとき、疲れ果てたとき、悲しみにしずむとき、うれしいとき、いつも弟子たちはおさなごのようにキリストのもとへ帰ります。キリストのもとで憩い、悔いあらため、力を受け、祝福を受けます。いつもキリストのもとへ弟子たちは帰り、本来の自分を取り戻します。

 キリストの弟子とは、おさなごのようにキリストを慕い、キリストを信じて歩んでいる人のことです。天国の奥義は、神の前に生きているひとりのかけがえのない人間として、実際にキリストとともに歩むなかで、明らかにされるものです。


 

2016年9月4日

「種まきのたとえ」

【新約聖書】マタイによる福音書13章1節~9節

 わたしたちの教会では礼拝のたびにイザヤ書43章冒頭の神の言葉を読んでいます。「主なる神は仰せられる、『わたしの目にはあなたを高価で尊い』」。機会あるたびにこの神の言葉を引用していますから、多くの方はすでにおぼえておられると思います。ところがこの言葉がなかなか腑に落ちない方も多いと思います。あるいは腑に落ちるときもあるが、腑に落ちないときもある。

 同じ神の言葉であっても、なるほど!と感動するときもあれば、まったくピンと来ないときもあります。夏の暑い時など、頭がぼ~としているときに聖書を開いても、みことばを目で追うだけで、なかなか心に入ってきません。まさに道ばたに落ちた種が、落ちた先から鳥が種を食べてしまうようなものです。あるいは礼拝の説教を聞いているときや、聖書を読んだり、信仰の書物を読んでいるときには、「なるほど!」と感動します。しかし喉元過ぎれば熱さを忘れるように、すぐに感動は薄れてしまう。まさに岩地に落ちた種のように、なにか不都合や困難があると、根を張っていないためにすぐに枯れてしまうようなものです。あるいは神の言葉を聞くものの、いろいろな欲に惑わされたり、心配事や世間体、周囲の人々の言葉に邪魔されて、なかなか実を結ばないこともあります。まさにいばらの地に落ちた種のように、いばらにふさがれて、実を結べなくなっている状態です。

 誰の心のなかにも道ばたがあり、岩地があり、そしていばらが生い茂っています。洗礼を受けてクリスチャンとして歩んでいても、なお心の中には道ばたがあり、岩地があり、そしていばらの地があります。残念ながら生涯、なくなってしまうことはありません。ただしキリストは語っておられます、「ほかの種は良い地に落ちた」と。良い地に落ちた種はすくすくと育ち、やがてたくさんの実を生み出します。

 大切なことは誰の心の中にも良い地も必ずあるということです。その良い地に蒔かれた神の言葉は、本人すら知らないうちに大きくなり、豊かな実を結ぶようになります。自分にも良い地がある。まず、そうと信じることです。そして良い地に蒔かれたみことばの種を育てることです。礼拝の恵みにあずかり、機会あるたびに祈り、聖書を開き、讃美歌を聞いたり歌ったり・・・出来る限り、主なる神さまの息吹にふれることです。ふれ続けることです。人はふれるものに似るからです。

 良い地に蒔かれた種であっても、水も肥料も与えず、何もしないで放っておかれたら、種が育つことはありません。しかし、いろいろな機会をとおして主なる神さまの息吹にふれ続けていたら、良い地に蒔かれたみことばの種はやがて必ず実を結びます。大いなる実を結びます。


 

2016年8月28日

「キリストの家族になろう」

【新約聖書】マタイによる福音書12章46節~50節

 「イエスの母と兄弟たちがイエスに話そうと思って外に立っていた」とあります。わたしたちの誰もが最初はキリスト教会の外に、聖書の外に、信仰の外に立っていました。聖書のこともキリストのことも知識としては知っていたかもしれません。でもそれはあくまでも部外者として、キリストとは直接関係のない外に立ったままで、いろいろなうわさを聞いていたに過ぎません。信仰の世界は部外者として外に立ったままではわかりません。一歩踏み出して、中へ入らなければ肝心なことはわかりません。でも中へ入るためには勇気がいります。そしてその勇気がなかなか出ない。きっと誰もがそのようなところを体験しているのではないでしょうか。わたし自身もそうでした。

 「わたしの母とはだれのことか。わたしの兄弟とは誰のことか」とキリストは言われました。身内に対してとても無愛想にも思えます。ユダヤ人社会では血縁をとても重んじ、とくに親子関係は重んじられていました。「あなたの父と母を敬いなさい」という律法もあります。しかしここでキリストはけっして身内の人たちをないがしろにしておられるのではありません。じつはこの場面を用いて大切なメッセージを告げておられるのです。

 わたしたちが生きていくためには家族や友人そして身近な人たちとの人間関係は大切です。これはいわばこの世の人々と自分との関係、十字架でいえば横棒の関係です。しかしキリストは言われます。まず天の神と自分との関係、十字架でいえば縦棒の関係がもっと大切である、と。自分はどこの生まれで、父はどんな人で、母はどんな人で、兄弟はどうの、親戚はどうの、友人はどうの・・・こうした横の人間関係も大切ですが、もっと大切なのは天の神さまと自分との関係であり、天の神さまの前にひとりのかけがえのない人間として生きている自分を知ること、これがまず重要だということです。

 自分だけではありません。人種を問わず、年齢を問わず、性別を問わず、すべての人が神の前にはひとりのかけがえのない人間です。弱く、愚かで、失敗だらけでも、あなたもわたしも、誰もが等しく神の前にはひとりのかけがえのない人間です。まず、神の前にひとりの人間としての尊厳を持つことが大切です。そのためにキリストと出会い、キリストの言葉を聞き、キリストを信じ、キリストの家族の一員となります。その上で、一度きりの地上での生涯を生きていきます。いろいろな人との横の関係を大切にしつつ、共に生きていきます。

 本日の場面でキリストはそのようなことを伝えておられます。


 

2016年8月21日

「人間の弱さ」

【新約聖書】マタイによる福音書12章38節~45節

 パリサイ人たちはキリストに「もしあなたが本物の救い主なら、しるしを見せてほしい」と詰め寄ります。確かなしるしを見た上で判断したい、という彼らの要求は、とても理にかなった要求だと思われます。ところがキリストは「邪悪で不義な時代は、しるしを求める」と返答され、彼らの要求を拒否されました。これはどういうことでしょうか。

 じつはこの時点ではすでにキリストは多くのしるしを見せておられました。目の見えない人が見えるようになったり、片手が動かない男が癒やされたり・・・数え切れないほどの不思議なわざをキリストは見せておられます。パリサイ人たちもそれを自分たちの目で確認しています。それにも関わらず、彼らがなおもしるしを要求したのは、なんとかしてキリストを陥れたいと思っていたからです。

 この時のパリサイ人たちの心にはキリストへの憎しみが宿っています。キリストはそのような彼らの心を見抜き、彼らの要求をはねつけられました。さらにキリストは彼らへの警告として、憎しみのような黒い感情は、汚れた悪霊につけ込まれて、手がつけられなくなるほど大きくなってしまうと言われました。事実、このキリストの言葉通り、パリサイ人たちのキリストへの憎しみは大きくなり、やがて彼らはキリストを捕らえ、十字架につけてしまうこととなります。

 わたしたちは弱い存在です。加齢とともに弱くなっていく自分も思います。病気にもなり、怪我もします。失敗もし、思い通りにいかないことの連続です。悲しみや悩みの中で途方に暮れることもあります。自分の弱さが思い知らされる時は、とてもつらいものです。ただし、それはつらいことではあっても、恐ろしいことではありません。

 では、弱い存在であるわたしたちにとって、もっとも恐ろしいことはなにか。それは悲しみや悩みのなかに置かれたとき、あるいは様々な事情によって、わたしたちの心の中に憎しみが生まれてしまうことです。「自分がこんなにつらいのは、あの人のせいだ。親のせいだ。神のせいだ・・・」などとつい思ってしまうことは誰にもあると思います。最初は小さな憎しみの炎であっても、状況次第では、自分でも消すことができないほど大きく燃え上がってしまうことがあります。わたしたちにとってそれこそがもっとも恐ろしいことです。

 誰でも憎しみを抱きます。でも、キリストとともに歩む者は祈ることができます。「主よ、この憎しみをあなたにお任せします。あなたの裁きにゆだねます」と。憎しみが自分のうちで大きくならないように、何度も何度も、ひたすら祈ることができます。しかし、もしキリストに祈ることを知らないなら、憎しみの炎はどんどん燃え上がってしまう危険性をはらんでいます。このときのパリサイ人たちがまさにそうでした。


 

2016年8月14日

「木はその実ででわかる」

【新約聖書】マタイによる福音書12章33節~37節

  キリストとパリサイ人との問答が続きます。「木が良ければ、その実も良い。木が悪ければ、その実も悪い。木は、その実でわかる」。わたしたちひとりひとりは、いわばそれぞれが一本の木です。大きな木もあれば、小さな木もある。太い木もあれば、細い木もある。たくさんの葉が茂っている木もあれば、ほとんど葉が茂っていない木もある。白い木もあれば、黒い木もある。しかしその木がどんな木なのか、見かけだけで判断してはいけません。

 パリサイ人たちは聖書に精通し、規則を厳格に守り、献金や祈りも忠実に行っていました。見かけは、とても立派な木に見えます。ところがキリストは彼らに言われました、「まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか」。きびしい言葉です。見かけでは、パリサイ人たちの言動は信仰深く、良い実を結んでいるように思われます。しかしキリストは彼らの偽善を見抜いておられました。パリサイ人たちには肝心なものがなかったからです。それがなければ、彼らがどんなに雄弁であろうが、規則に従って立派な行動をしていようが、しょせんは自己満足であり、偽善でしかありませんでした。

 パリサイ人たちになかったもの、それはキリストの愛です。神の愛です。良い木か悪い木か、それは何で決まるのかというと、その木にキリストの愛が流れているか、いないか、です。見かけは関係ありません。見かけはどれほどみすぼらしい木であろうとも、あるいは弱々しく、目立たない小さな木であろうと、そぼくにキリストを信じて歩むとき、そのような木にはキリストの愛がいつも注がれます。かけがえのない良い木として、キリストが守られます。

 キリストの愛が注がれている良い木であっても、悩み、苦しみ、たくさんの失敗もします。でも良い木は、悩みや苦しみ、失敗のなかで、祈りという実を結びます。そうです。良い実とは祈りのことです。良い木は祈りながら育っていきます。祈りをとおして、キリストから慰めを受け、癒やしを受け、ゆるしを受け、良い木は育っていきます。

 良い木として歩むために大切なことは何でしょうか。それは他の木と比べないことです。他人と比べて、「どうせ自分なんて・・・」などと卑屈になってはいけません。次のことを忘れてはいけません。「わたしのような小さな木にもキリストの愛が注がれている。このわたしも神の目には、一本のかけがえのない良い木なのだから」。

 御国に入れられるまで、自分が置かれた場所で、自分の枝を伸ばし、自分の花を咲かせましょう。どんなときも胸をはって、天を見上げ、かけがえのない一本の木としての誇りをもって歩みましょう。そのように生きることこそが、せめてものキリストへの恩返しです。


 

2016年8月7日

「ゆるされない罪がある」

【新約聖書】マタイによる福音書12章22節~32節

  「聖霊に対して言い逆らう者は、この世でもきたるべき世でも、ゆるされることはない」。どきっとするようなキリストの言葉です。日頃から、神さまに文句ばかり言っている自分は、大丈夫だろうか?などと心配する人もいるかもしれません。結論から言いますと、心配はいりません。そもそも、そのように心配する人は、聖霊に言い逆らう罪とは無縁です。安心してください。

 聖霊に言い逆らうとは、別の福音書では「聖霊を汚す」という表現がされています。いずれにせよ、それはけっしてゆるされない罪であるとキリストは語っておられます。神をけがしても、またキリストをけがしても、ゆるしていただける。しかし、聖霊をけがす罪だけはゆるされることはない。ここで誰もがそぼくに思うでしょう。「聖霊をけがすとは、いったいどういうことなのだろう?」と。

 先週と同じく、ある安息日での出来事です。盲人で口もきけない人がキリストのもとへ連れてこられました。当時の安息日はあらゆる医療行為が禁じられていました。しかしキリストは連れてこられたこの男を癒やされます。彼は目が見え、話すことも出来るようになりました。この出来事を見た群衆は「この方こそが救い主ではないか?」と叫びます。ところがそこにいたパリサイ人たちは言い放ちます、「これは悪魔の力だ」。

 パリサイ人たちもキリストの驚くべきわざを目撃しました。しかし規則を守ることこそが神を信じて歩む者の姿であると信じて疑わない彼らは、安息日の規則をやぶってしまうような者(イエス)をとうてい認めることは出来ませんでした。でも病人を癒やすという大いなるわざを見せつけられたパリサイ人たちにとって、「もはやこれは悪魔の力が宿っているとしか言えない」と判断したわけです。

 自分がいままで信じてきた主義や立場を断じて変えない、あるいは何があっても変えようとしない。自分の主義や主張のためなら、人々を傷つけたり、殺すこともいとわない。それが当時のパリサイ人たちの姿です。人々のしあわせや命よりも自分たちの主義や立場をこそ重んじ人々を容赦なく断罪し、殺してしまう。聖霊に逆らう罪とは、そのような罪のことを言われていると思います。ある牧師が言いました、「これはふつうにはあり得ない罪だ」と。そのとおりです。悩みや悲しみをかかえつつ、この世の旅路をぼつぼつと歩んでいるわたしたち庶民には、自分の主義や立場のために他人を殺してしまうことなどふつうはありません。

 主なる神さまがけっしておゆるしにならない罪がある。これはぜひ、おぼえておくべき真実です。たとえば今、世界中で、ある人々が自分たちの主義や主張のためになんの罪もない人々の命を奪っています。どんなに崇高な主義や主張であろうと、かけがえのない人の命を奪うような行為を主なる神はけっしておゆるしにはなりません。聖霊に逆らう罪として永遠の罪に定められ、神ご自身が必ず報復されます。 


 

2016年7月31日

「手を伸ばしなさい」

【新約聖書】マタイによる福音書12章9節~21節

  ある安息日に神さまを礼拝するために会堂に集まった人々の中に片手が動かなくなった男がいました。脱臼したのか、骨折したのか、あるいは軽い脳梗塞ゆえか、原因はわかりません。キリストが彼に目を止められたほどですから、彼は相当の痛みをおぼえていたと思います。しかし安息日には、いっさいの医療行為は禁じられていましたから、どれほど痛みがあろうとも医療行為を受けることはできませんでした。

 キリストに反感をおぼえているパリサイ人たちは「安息日に人を癒やしてもいいですか?」などと、痛みで苦しんでいる目の前の男のことはまるで眼中にないかのように、キリストに質問します。キリストはパリサイ人たちの思いをすべてご存知の上で、「安息日に良いことをするのは、正しいことである」と言われ、片手が動かないで苦しんでいる男に向かって言われました、「手を伸ばしなさい」。

 言われた男は何のためらいもなく、動かない手を伸ばしました。「手を伸ばすと、もう片方の手のように良くなった」と聖書は記しています。ここで知っておくべきことはキリストの言葉を信じて手を伸ばしたこの男も当時の安息日の規則を破ったことになります。間違いなく、彼はこの後パリサイ人たちから罪人として断罪され、村八分にされたに違いありません。この男はそうなるのを覚悟の上で、キリストを信じて、自分の手を伸ばしたということです。

 人がどれほど苦しみ悩んでいても、人よりも規則を重んじるパリサイ人たちでした。規則を重んじるあまり、人の命の尊さがまったく見えなくなり、人の痛みや苦しみがまったくわからなくなってしまったパリサイ人たちを可哀想にも思います。人の命の尊さも人の痛みもわからないにも関わらず、当時のイスラエルの社会では彼らが指導者でした。人間をほとんど知らない者が人間社会の指導者になるという、この悲しい現実は現代のわたしたちの社会でも見られます。

 倒れたら、起き上がればいい。失敗したら、やり直したら良い。そもそも倒れない人生などないし、失敗のない人生などあり得ません。倒れても立ち上がり、何度でも手を伸ばそうとする者を、キリストは豊かに祝福してくださいます。手を出し渋ってはいけません。あきらめてはいけません。「あなたの手を伸ばしてみよ」とキリストは言われます。ですから勇気を出して手を伸ばしてみましょう。神の祝福はいつもそこから始まります。


 

2016年7月24日

「神のあわれみにつつまれて」

【新約聖書】マタイによる福音書12章1節~8節

 「服装違反した者は、半年間教頭と交換日記をする」。「便所の紙を使った者は、クラス・名前と何センチ使ったかを記入すること」。とある学校の校則です。どんな事情でこのような校則が出来たのか、想像するだけでも笑えます。

 規則とは、お互いに気持ちよく生きていくための取り決めであり、お互いを思い合う愛がその根底にあります。国家でも地域でも学校でも会社でも家庭でも、お互いに迷惑をかけることなく、気持ちよく生きていくためには規則はぜったいに必要です。規則がなければ社会は混乱するだけです。ところが、こうした規則はどうかするとわたしたちの日常をしばり、人を支配するようになります。当時のイスラエルの社会がまさにそうでした。本来は人を生かすための規則が、人々の日常生活を苦しめ、自由を奪っていました。そして規則の権化とも言うべき人々がパリサイ人たちでした。

 ある安息日にキリストの弟子たちは空腹のため、麦の穂をつんで食べ始めました。それを見たパリサイ人たちは弟子たちを非難しました。他人の畑に勝手に入って、他人の麦の穂を勝手に摘んで食べたから・・・ではありません。当時、他人の畑の麦の穂を手でいくら摘んで食べてもゆるされました。貧しい人たちへの愛の配慮からです。パリサイ人たちが非難した理由はその日が安息日だったからです。安息日にはあらゆる労働が禁じられていました。キリストの弟子たちが麦の穂を摘んで食べた行為を労働であるとパリサイ人は判断し、それゆえに非難したのです。安息日でなければ、なんの問題なかったわけです。

 そもそも安息日とは、週日の労働による疲れを癒やすために、神さまご自身がイスラエルの民のために備えられた日です。神さまの前に、かけがえのない一人の自由な人間として、神さまの前に静まり、休息し、力を養うための日が安息日です。ところが次第に安息日の本当の意味が忘れられ、規則だけが独り歩きするようになり、やがて安息日にはいかなる労働もしてはならないことになりました。パリサイ人たちは239もの安息日にしてはならない禁止項目を作成し、目を光らせていたのです。

 当時の安息日は、もはや神さまの前に憩うどころか、息のつまる一日になっていたと思います。キリストは言われました、「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない。人の子(キリスト)は安息日の主である」。パリサイ人たちも、神を信じて歩んでいたはずです。しかしいつの間にか、神よりも、規則を重んじるようになりました。神よりも、また人よりも、規則を重んじるようになると、神のあわれみが見えなくなります。人の弱さ、人の痛みが見えなくなります。

 人間社会では規則はぜったいに欠かせません。規則のない、無秩序な社会では安心して生きて行くことは出来ません。しかし規則はあくまでもわたしたちがお互いに愛し合い、助け合って、共に生きていくためにあります。規則は人が生きるためにあるのであって、規則のために人があるのではありません。


 

2016年7月17日

「軽やかに生きよう」

【新約聖書】マタイによる福音書11章28節~30節

 わたしたちはロボットではありませんから当然、疲れます。体も心も疲れます。体が疲れたら、お風呂にゆっくりと入るとか、睡眠を取るとか、美味しいものを食べるとか、疲労回復の方法があります。心が疲れたら、ゆっくりと音楽を聴いたり、山や海に行ったり、旅に出たり、人それぞれに疲労回復のためにいろいろな方法を実践していると思います。

 ただし、話はここからです。眠りたくても眠れない、食べたくても食べられない、何をしても休まらない、疲れが取れないことがあります。理由はさまざまですが、人生にはそのような時が必ずあります。それがあまりにもきびしい現実であれば、さらにきびしい状況が長く続くと生きていることがつらくなります。きっと誰にもそのような経験はあると思います。

 使徒パウロほどの人物でも叫びました、「主よ、わたしを御国へ取り上げてください。わたしはそれを望んでいます」。パウロの福音宣教の旅はそれほど過酷で、心労がかさなっていました。わたしたちも自分の置かれた現実から逃げ出したい、逃げ出してホッとしたい、今すぐにでも天の御国に引き上げてもらいたい・・・クリスチャンであっても、そう主に叫ぶ現実はたしかにあります。

 ところがなかなか主なる神さまは引き上げてくださいません。依然としてきびしい現実に置かれ続きます。どれほど祈っても状況は変わりません。しかし・・・です。じつは変わらない現実にこそ、主なる神のメッセージが注がれていることをわたしたちは知らねばなりません。キリストは言われました、「わたしのくびきを負ってわたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられる」。「わたしに学びなさい」とは「わたしのように歩みなさい」ということです。ではキリストの歩みはどのようなものであったのか。ひと言でいえば「キリストはご自分の十字架を最後の最後まで担いきり、死なれ、そして復活された」です。

 どれほど主に祈っても、なおきびしい現実に置かれ続けるとき、そこにある神のメッセージは「あなたなら大丈夫。あなたならその現実を最後まで担いきることができる。その現実を担いきって、自分の生涯を最後までまっとうし、御国に凱旋するのだ」。神は、わたしたちが耐えることのできないような試練はぜったいにお与えにはなりません。

 御国に上げられるときは上げられます。それまでは自分が置かれた現実をわたしたちはそれぞれに担い、生きて行きます。生きて行くことができます。キリストの熱いメッセージを聴き届け、今日も歩みます。「あなたなら大丈夫。あなたなら、その現実を担いきれる。その現実を最後まで担い、生涯をまっとうして、天の御国へ凱旋するのだ」。大丈夫です。主がそう言われるのですから、なんとかなります。


 

2016年7月10日

「真実の神を知るために」

【新約聖書】マタイによる福音書11章25節~27節

 「どうして牧師になったのか?」。そう、よく聞かれます。もちろん答えはそれなりにあります。でも、お腹の中ではいつも思っています、「まだ、自分には知らされていない神さまの導きがある。これから先、いろいろな場面で、それが明らかになっていく」。ほんとうにそう思っています。まだまだ本人には知らされていない神の真実や神のご計画があります。誰にもあります。ですから「人生とはこういうもんだ。もう自分なんて、生きていても意味がない」などと、まるで人生のすべてを悟った気になって、白黒つけてしまうのは、とても傲慢なことです。

 キリストは声をあげて言われました、「これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、おさなごにあらわしてくださいました」。ガリラヤの町の多くの人々は結局のところキリストを信じるには至りませんでした。彼らにはキリストを理解するだけの能力がなかった・・・のではありません。彼らには知恵もあり、知識もありました。むしろ知恵や知識があったからこそ、キリストのことをわかった気になってしまい、キリストから離れていったと思われます。

 知恵や知識、あるいは地位や名誉、財産や人生経験がそれなりにあると、わたしたち人間はかえって面倒になります。余計なプライドが生まれるからです。さも自分はすべてを知っているかのように錯覚し、物事の真実を見ようとしなくなります。そして万事において「自分が・・・自分は・・・」と、自分を物事の中心に置いて考えるようになり、自分が少しでも軽く扱われるとすぐに機嫌が悪くなります。

 これはけっして他人事ではありません。ですから自分自身に次のように問いかけてみましょう。「この年齢になるまで生きてきたが、さて自分は自分について何を知っているのか? 身近にいるその人の何を知っているというのか?自分は人生の何を知っているのか? 聖書の何を知っているのか? キリストの何を知っているのか?」。きっと気づくはずです。「まだ自分は知らなければならないほどのことも、ほとんど知ってはいない」と。

 主なる神さまが自分に期待しておられることで、まだ神さまが明らかにしておられないことはたくさんあります。それらは天に召されるまで、これから先、時と状況に応じて明らかになります。80歳になろうが、90歳になろうが、100歳になろうが、いくつになっても「まだまだ、これから」です。人生、とにもかくにも、わかった気になってはなりません。


 

2016年7月3日

「その日は必ず訪れる」

【新約聖書】マタイによる福音書11章20節~24節

 日本の平均寿命は今や世界でトップレベルです。先日の政府発表によると65歳以上の高齢者人口が全体の4分の1となりました。つまり4人にひとりが65歳以上となる社会になりました。今後ますます、人生の長さよりも、人生の質が問われることとなります。人生の質とは「何歳まで生きたか?」ではなく、「どのように生きてきたか?」ということです。そもそも65歳以上を高齢者と呼ぶこと自体がもはや日本では時代遅れなのかもしれません。

 本日登場するコラジン、ベッサイダ、そしてカペナウムとは、いずれもガリラヤ湖の北の町々です。キリストが福音宣教をお始めになったのは、これらの町々からでした。数々の力あるわざもなされ、山上の説教をはじめとして、神の愛と恵みを懸命に語ってこられました。ところが多くの人々は、結局のところ、キリストを信じようとせず、キリストから離れていきました。そのような心がかたくなで、悔い改めようとしない人々の姿をご覧になって、キリストは「わざわいだ」と叫ばれたのです。

 「わざわいだ」と訳されている言葉は、「おまえたちのことはもう知らん! 滅びてしまえ!」ではありません。この言葉は壁に頭をぶつけたときなどに発する「痛い!」という意味です。別の聖書では「ああ、コラジンよ ああ、ベッサイダよ」と、「ああ!」と訳しています。つまりなかなか信じようとしない人々をご覧になって、キリストは深く嘆き、悲しんでおられるのです。

 キリストは深い嘆きのなかで、「神のさばきの日は必ず訪れる。その日が訪れたら、もはやどうしようもなくなる」と人々に警告しておられます。ヘブル書9章には「人間には一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきに会うことが定まっている」とあり、そしてイザヤ書55章では「あなたがたは主にお会いすることができるうちに、主をたずねよ。近くにおられるうちに呼び求めよ」とあります。いずれも神の愛ゆえの警告です。

 今ならまだ間に合います。魂の救いにあずかることもそうですが、それ以外のことでも、だらだらと先延ばしにしていること、うやむやにしていること、ずっとほったらかしにしていることはありませんか。終わりの日が来たら、もはやどうしようもなくなります。手も足も出なくなります。でも、今ならまだ間に合います。まだ大丈夫です。しかし次はもうないかもしれない。生きる上で、こうした聖なる緊張感をわたしたちは忘れてはなりません。


 

2016年6月26日

「聴くべきことを聴く」

【新約聖書】マタイによる福音書11章15節~19節

 「わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった・・・」というのは当時の子供たちの素朴な歌です。笛を吹いたら、一緒に踊ってくれる者にいれば、踊らない者もいるでしょう。とむらいの悲しい歌を歌っても、胸を打ってくれない者もいるでしょう。子供たちが歌うかぎりは、たわいもない内容の歌です。

 ところがキリストは大人たちの意識もこの歌のようだと言われました。物事のうわべだけしか見ようとしない、また聴こうとしないということです。たとえば、バプテスマのヨハネを見て「あれは悪霊につかれている」などと言ってみたり、キリストを見て「あれは食をむさぼる者、大酒飲みだ」などとあざ笑ったりする。ヨハネが神の救いをどれほど真剣に求めているのか、あるいはキリストが口先だけでなく、実際の行動によって、どれほど真剣に神の愛を人々に伝えようとしておられるのか、当時の多くの大人たちは知ろうとはしなかったということです。ヨハネやキリストのうわべだけの様子を見て、勝手にわかったつもりになっていたということです。

 しかし、このようなことはけっして他人事ではありません。わたしたちも、主なる神さまのこと、聖書のこと、身近な人のこと、そして自分自身のことを、簡単にわかったつもりになってしまうことがあります。うわべや見かけだけで判断して白黒つけたり、神さまの愛とはこんなもんだとか、キリストの恵みなんてこの程度のものだ、などとわかったつもりになってしまうことがあります。自分自身についても「自分はなんてつまらない存在なんだ」などとわかったつもりになってしまうこともあると思います。

 けっして、わかった気になってはいけません。主なる神さまがどれほど自分を愛しておられるか、自分はどれほどかけがえのない高価で尊い存在か、それは生涯をかけて知っていくことであり、知り尽くしてしまうということはけっしてありません。まだまだ自分はわかっていない、まだまだ自分は見るべきものを見ていない、まだまだ自分は聴くべきことを聴いていない。主なる神さまについても、また身近な人についても、そして自分自身についても、そうです。神とともに生きるとは、自分の生涯をかけて、神の愛の深さ、大きさを知っていくような歩みであり、わかった気にならず、天に召されるまで求道者として歩むことです。 


 

2016年6月19日

「前座と真打ち」

【新約聖書】マタイによる福音書11章7節~14節

 バプテスマのヨハネとはそもそもどのような人物であったのか。ひと言でいえばキリストを「真打ち」とするなら、ヨハネは「前座」です。ヨハネとは、真打ちであるキリストを指し示している前座です。そもそも前座とは江戸落語のいわゆる駆け出しの人です。師匠のためにいろいろな雑用をしながら、いつも師匠に寄り添って、真打ちになることを目指して落語の修行をかさねます。一方、師匠は前座である弟子を親身になって世話をします。師匠は稼ぎのない前座の弟子のために住む部屋や食事も提供し、家族のように寄り添います。

 キリストは「女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物は起こらなかった」といわれました。つまりヨハネは前座の中の前座であったということです。「自分自身はキリストではない、自分の後から正真正銘のキリストがお越しになる」とヨハネはいつも人々に語っていました。前座としての自分の立場をわきまえていました。とかく有名になると、自分こそがキリストであるなどと言い出す者が多いのですが、ヨハネにはそのようなことはいっさいありませんでした。とは言え、ヨハネもまたわたしたちと同じ人間です。「天国で最も小さい者も、彼(ヨハネ)よりは大きい」とキリストが言われたのは、ヨハネは前座の中の前座ではあっても父なる神さまの前にはあくまでもひとりの人間に過ぎないという意味です。

 キリストを信じて歩むとは、キリストを師匠と仰ぎ、あくまでも自分はキリストの前座であることをわきまえて歩むということです。ただし、実際の落語の世界では修行によって、前座からやがて真打ちへ昇格しますが、信仰の歩みにあっては、天の御国に引っ越すまで前座は前座のままです。真打ちになることはありません。いつもキリストを後ろ盾として、キリストの前座のひとりとして歩みます。それがキリストを信じる者の生涯です。

 とかく図に乗りやすいわたしたちは、キリストの前座であることを忘れて、自分が真打ちであるかのように振る舞ってしまいます。牧師も宣教師も信仰の歴史が長い人でも、しょせんは誰もがキリストの前座に過ぎません。でもキリストは、前座であるわたしたちひとりひとりに神の愛をもって寄り添い、わたしたちの師匠として、天の御国にいたるまで責任をもって導いてくださいます。

 ヨハネがキリストの前座であることに誇りをもち、前座としての生涯を胸を張って歩みぬいたように、わたしたちもそれぞれにキリストの前座であることに誇りをもち、胸を張って、かけがえのない生涯を歩みぬきたいものです。


 

2016年6月12日

「誰を待ち望むのか」

【新約聖書】マタイによる福音書11章1節~6節

 洗礼者ヨハネはヘロデ王に捕らえられて獄中に入れられています。いつ首をはねられてもおかしくない状況です。死がヨハネの眼前に迫っています。まさにメメント・モリ、文字通り、明日はないかもしれない状況にこの時のヨハネは置かれています。こうした極限状態で人は何を思うのか、とうていわたしたちにはわかりません。想像するだけです。 

 明日にでも自分は処刑されるかもしれないという切羽詰まった状況の中で、ヨハネはどうしたのか。そこに深いメッセージが込められています。ヨハネは獄中から自分の弟子たちをキリストのもとへ送りました。「『きたるべきかた』はあなたなのですか」とキリストに問いました。これは「あなたこそが正真正銘の救い主で間違いないですね」という、死を前にしたヨハネのいわば魂からの叫びの言葉です。ヨハネの獄中からの魂の叫びにキリストはきちんとお答えになりました。「わたしにつまずかない者はさいわいである」。つまり「わたしこそ正真正銘のメシア、救い主である」とキリストはヨハネに対して答えになりました。「わたしにつまずかない者はさいわいである」。つまり「わたしこそ正真正銘のメシア、救い主である」とキリストはヨハネに対してはっきりお答えになったのです。

 死を前にして、獄中からキリストを求めた洗礼者ヨハネの姿をとおして、あらためて思います。わたしたちにとってキリストに代わる存在はない。キリストの言葉に代わりうるものは何もない。とりわけ死を前にした状況で、わたしたち人間の魂が待ち望むうるお方は、キリストの他にはない。

 すでにキリストを信じて歩んでいる者にとっては、キリストが後ろ盾となってくださっています。いつでも、どんなときでも、たとえ死を前にしても、安心してキリストに叫び求めることができます。キリストに祈り求めることができます。なんという、さいわいでしょうか。


 

2016年6月5日

「神からの報い」

【新約聖書】マタイによる福音書10章40節~42節

 「わたしね、石にかじりついても、ひねくれまいと生きてきたのよ」。一昨年に90歳で召された三浦光世さん(三浦綾子さんの夫)の一歳違いの妹さんの言葉です。三浦綾子さんは生前、この言葉に深く感動し、しばらくこの言葉が胸の中で響き渡っていたとのことです。三浦光世さんが三歳のときに父親が亡くなり、母親と妹の三人でとても貧しい中、必死に生きてこられました。父親という後ろ盾を失い、生きてこられました。

 「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである」。いよいよ弟子たちはキリストのいわば名代として、宣教の旅へ出かけます。いままでいろいろと大切な心構えを弟子たちに語ってこられたキリストですが、最後に告げられたのがこの言葉です。このキリストの言葉は、そのままわたしたちへの励ましの言葉でもあります。「あなたがたを受けいれる者は、わたし(キリスト)を受けいれる者であり、主なる神を受けいれる者である」。これは「わたしたちがどんなに弱く、小さい者であろうと、また愚かで失敗だらけの者であろうと、わたしたちの後ろ盾として、いつもキリストがいてくださる。主なる神さまがいてくださる」というメッセージです。

 思えば日常生活でいろいろと問題が起こったときに、後ろ盾とまでは言えなくても、相談できる頼れる人がいると安心です。とは言え、こと自分の魂の後ろ盾になり得る方は、キリスト以外にはいません。たしかに死の手前までの事柄については相談できる人はいますが、死をつらぬいた先の御国のことについてはキリスト以外に頼れる方はいません。

 最近つくづくと「どこで、どのように、自分の生涯をまとめようか?」と考えています。年齢的に人生のなかばを過ぎたら、つねに考えておくべき問いかけだと思います。こう問いかけることで、自分はこれから先、天に召されるまで、どこで、どのように生きていくのか、自然と見えてくるものです。

 自分の死を真正面から見すえたとき、キリストがわたしの後ろ盾として、生においても、死においても、御国に至るまで、寄り添ってくださることを思い、わたしの魂はこの上ない安心感と喜びでつつまれます。福音宣教に旅立つ弟子たちにキリストが最後に伝えられたのは、キリストを信じる信仰によってのみ与えられる魂の安心感と喜びでした。

 この魂の安心感と喜びは、キリストを信じる人すべてに、もれなく与えられるものです。


 

2016年5月22日

「聖なるつるぎ」

【新約聖書】マタイによる福音書10章34節~39節

 「地上に平和をもたらすためにわたし(キリスト)が来たと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むために来た」。キリストの言葉とは思えない、かなりショッキングな言葉です。もちろんキリストは、人と人との争いを挑発しておられるのではありません。

 わたしたちは生まれたときからいろいろな人に囲まれて生きています。親や兄弟、親戚、地域の人々、会社の上司・部下、同僚、教会の人たち、サークル仲間など、様々な人たちと共に歩んでいます。わたしたちはふれるものに影響を受けますから、良い意味でも悪い意味でも自分の身近にいる人々の言葉に大なり小なり影響を受けます。暖かい言葉を受ければ励まされ、力を得ますが、心ない言葉をかけられて落ち込んだり、怒りや憎しみを抱くことも少なくありません。そしてここがもっとも大切なところですが、自分という人間はかけがえのない人間なのか、この質問への答えは、これまで自分が接してきた人々が自分についてどのように語り、自分のことをどのような人間だと言ったのか、そうした人々の言葉こそが、今の自分を形作っていると言っても過言ではありません。

 「わたしが来たのはつるぎを投げ込むためである」。つるぎとは切り離すものです。本当の自分を知るためには、一度まず、今まで自分に関わってきた人々の言葉を自分自身から切り離さねばなりません。父親が自分に語ったこと、母親が自分に言ったこと、身近な人たちが自分に語りかけたこと、そして自分が自分に語ってきたことのすべてから、一度自分を切り離します。そしてまるで生まれたばかりのおさなごのようになって、主なる神の前に立ち、神の言葉に耳を傾けます。キリストの投げ込まれる聖なるつるぎとは、まずこの世のものからわたしたちを引き離し、神の前にひとりのおさなごとして立たせるためのつるぎです。

 「主なる神はこう仰せられる、『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』」。生まれてから今まで、いろいろな人から聞いてきた様々な言葉から一度自分を切り離し、この聖なる神の言葉を聞きとどけます。キリストを信じる者の歩みは、いつもここから始まります。ここが原点であり、出発点です。愛する神の言葉をまず聞きとどけ、その上で一日一日を精一杯に歩んでいきます。

 この世は否定的・破壊的な言葉であふれています。神の言葉に反する否定的、破壊的な人の言葉は聞く必要はありません。流してしまえばよろしい。まず神の言葉を聞き、神の言葉に身をゆだねて生きる。それこそがキリストを信じて歩む者の姿です。


 

2016年5月15日

「待ち望む」

【新約聖書】使徒行伝2章1節~21節

 今日、自分はどう生きるのか。今日、自分は主なる神とどのように向き合い、神の言葉をどのように聞きとどけるのか。今日、自分は出会う人たちとどのように接するのか。明日の自分でもなく、5年後の自分でもなく、大切なのは今日の自分の生き方です。今日の自分の生き方が明日につながり、これからの自分につながっています。鍵を握っているのは今日の自分です。最近になってやっとこのことが見えてきました。シスター渡辺和子さんの言葉を借りると「あなたの幸せは今日のあなたの心が決める」という世界です。今まで牧師をしてきたとか、今まで献金をしてきたとか、今まで奉仕もしてきたとか、たしかにそのようなこともとうといことではあります。しかし決定的に大切なことは、今日の自分は主なる神さまにどう向き合っているか、今日の自分は神の言葉にどのように生きているか、です。

 聖霊降臨とはまさにそのような真実を告げる出来事であったと思います。「時期や場合はあなたがたの知るかぎりではない。しかし聖霊がくだるとき、あなたがたは力を受ける」。死から復活されたキリストは弟子たちにそう言い残して天に上げられました。弟子たちには「聖霊がくだる時、あなたがたは力を受ける」とだけキリストは言われました。それ以外の具体的なことはなにひとつ話されませんでした。

 でも、この時の弟子たちは、あせることなく、不安に思うこともなく、一日一日、祈りながら聖霊がくだる時を待ち望みました。キリストの言葉を信じて一日一日をかさねました。そしてついに約束どおり聖霊がくだる日が訪れます。彼らは力を受けます。全世界へ出て行き、殉教をもいとわないほどの力を受けました。

 ここで忘れてはならないのは、聖霊がくだるまでの日々を弟子たちはキリストの言葉を信じて一日、一日、歩んできたということです。そうした一日一日の積み重ねがあったからこそ、聖霊降臨の当日を迎えることができたということです。

 くどいようですが、鍵を握っているのは今日の自分です。今日という日に神さまとどう向き合い、神の言葉をどう聞くのか。自分の行く末を決めるのはいつも今日の自分の生き方です。どのような過去であれ、明日から先になにが起ころうとも心配はいりません。大丈夫です。神さまとともに今日一日を精一杯に歩み、あとのことは神さまに大胆におまかせし、神の時を待ち望みましょう。ひたすら聖霊を待ち望んでいた、あの時の弟子たちのように。


 

2016年5月8日

「光の中を歩む」 土屋清司兄

【新約聖書】イザヤ書60章1節

起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。(イザヤ書60章1~4)

 闇は、地上と人々を覆い尽くしている。その地上にイエス様は光として来て下さいました。

 では、その光とは、どのような光なのか?
それは人に文明をもたらした光でしょうか?
それとも知恵の光なのでしょうか?そうではありません。

 文明の光は、世の中を電気で明るくし、高速道路をつけ、宇宙ロケットを飛ばし、多くの病気を治せるようにしました。そして知恵の光はその科学の未来を、ますます明るく照らすかもしれません。しかし、どれほど文明が進み、宇宙ロケットを何本飛ばしても、たとえ人間が不老不死の医学を身につけたとしても、それで人の心の闇を照らすことは出来ないのです。

 いくら努力し、教養を高め、知恵を積み重ねても、心の闇の大本である罪の性質が消えてなくなるわけではないのです。だから、いくら教養を積んでも、人は皆、罪を犯してしまう。それゆえ、この地上は罪に満ち、その闇が地上を覆い尽くしているのです。

 しかし、その地上の闇を照らす存在として、イエスキリストは人となってこの世に来て下さり、十字架上で死んで下さったことにより、罪からの救いの道を開いて下さった。

 それは、天からこの地上に下された一筋の光でした。そして、その光こそ、この罪の闇に打ち勝つ唯一の光なのです。


 

2016年5月1日 

「本当に恐るべきもの」

【新約聖書】マタイの福音書10章24~33節

 「わたしが求めていたのは『大丈夫だよ』と言ってくれる人。そのことに気づくのにたくさんの時が流れた。そして今、いつもほほえんで『大丈夫だよ』と言ってくれるキリストがわたしのそばにおられる」。年老いてからキリスト教会に集うようになり、神さまと出会い、洗礼を受けたある男性の証しです。

 キリストは言われます、【恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である】。繰り返し、繰り返し、【しっかりするのだ。恐れることはない。大丈夫だよ】と語りかけてくださいます。一羽のすずめにさえ、天の神さまは目をかけておられます。すずめよりもはるかにまさるわたしたちひとりひとりには、どれほど深いあわれみを神さまは注いでおられることでしょうか。

 主なる神さまを信じるとは何事にも深刻にならないことです。余計なことをあれやこれやと考え過ぎないことです。生きることに真剣ではあっても、深刻になってはならない。自分の分を越えたことについては、大胆に、あっさりとキリストにおまかせする。これがキリストを信じる者の生涯です。状況や人を恐れて深刻になると、わたしたちは簡単にわなにはまってしまいます。大切なことが見えなくなり、判断を誤ります。

 【からだも魂も地獄で滅ぼす力のある方を恐れなさい】。わたしたちが本当に恐るべきお方は主なる神さま、ただおひとりです。ところが永遠なる神さまを見失ってしまうと、どうしてもこの世の状況や人のことが気になり、思いわずらいが増え、ときに身動きつかなくなってしまいます。【恐れることはない。大丈夫。心配ない。】とキリストが言っておられるのですから、このキリストの言葉にそのまま甘えて、軽やかに歩んで参りましょう。キリストを信じて軽やかに歩むのも人生、あるいは思い煩いをかかえながら生きるのも人生、しかしいずれにせよ、一度きりの人生です。同じ生きるのであれば、大胆にキリストを信じて、軽やかに歩みたいものです。


 

2016年4月24日 

「神の言葉を語る」

【新約聖書】マタイの福音書10章16~23節

 まもなく福音宣教に弟子たちは旅立ちます。しかし弟子たちが訪れる先の町の人々にとって弟子たちはしょせんはよそ者です。弟子たちの話すことに町の人たちがすなおに耳を傾けるとは思えません。あるいはパリサイ人や律法学者に質問されたら、答えに窮することが目に見えています。そこでキリストはすべてを見通した上で弟子たちに言われました、「わたしがあなたがたをつかわすのは羊をおおかみの中に送るようなものである。へびにように賢く、はとのほうに素直であれ。・・・一つの町で迫害されたら他の町へ逃げなさい」。

 これを言い換えると「自分に出来る精いっぱいを果たし、それでも相手が聞き入れないならあとは主なる神にゆだねよ。おまえたちに責任はない」ということです。何があっても町の人々が悔い改めるまで町にとどまっていなさい、ではありません。誠意を尽くして神の言葉を語ってもなお、人々が拒絶したなら、その町を離れ、別の町へ行きなさい、ということです。さらに付け加えるとしたら「人々に拒絶されたり、迫害されたからといって、けっして彼らをうらんだり、彼らに報復してはならない」とキリストは弟子たちをさとしておられます。

 わたしたちが精一杯の誠意をもって相手に関わろうとしても、相手に聴く耳がなく、相手が一方的にこちらの誠意を踏みにじることなど人間社会では茶飯事です。そしてとても悲しいことに、このようなことを通して、こちらのこころの中に相手への憎しみや怒りが生まれてしまうことがあります。相手への愛と誠意が、憎しみに変わってしまう。なんとも悲しい人間の現実です。

 相手への憎しみを野放しにしてはなりません。憎しみを野放しにすると、憎しみはこころをむしばみ、縛り、不自由にし、やがては相手への報復すら考えるようになってしまいます。ではどうしたらいいのでしょうか。聖書は語ります、「愛する者たちよ。自分で復讐しないで、神の怒りに任せなさい。主は言われる、『復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』」(ローマ書12章19節)。

 相手をゆるすことです。ゆるすとは泣き寝入りすることではなく、憎しみや怒りを主なる神にゆだねることです。聖なる神ご自身が報復されるからです。必ず、報復されるからです。福音宣教にこれから旅立つ弟子たちは神にゆだねることを知っておく必要がありました。そしてわたしたちの人生の旅でも同じです。人生途上でいだく憎しみは、自分自身で報復しようとせず、神に報復をゆだねる。これを知らないと、わたしたちのこころは憎しみに支配され、不自由になります。神にゆだね、人をゆるしてはじめて、わたしたちは自由になります。

 神にゆだねたら自分に言い聞かせます、「もう、これ以上このことで悩むまい」と。


 

2016年4月17日 

「平和を告げるために」

【新約聖書】マタイの福音書10章5~15節

 本日はキリストによって特別に選ばれた十二人の弟子たちが宣教につかわされる場面です。10章の冒頭でキリストは彼らに「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった」とあります。十二人の弟子たちはキリストから特別の力を受けて宣教につかわされることとなります。

 今までキリストは人々の病を癒やし、悩みから人々を救い出されました。弟子たちはそれを間近で見て驚くばかりでした。これからは彼ら自身も人々の病を癒やし、人々を悩みから解放することとなります。キリストのあとを歩くだけだった彼らが、これからは自分たちがまるでキリストのように働くこととなるわけです。

 もし自分にそのような大いなる力が与えられたらどうなるでしょうか。毎日のように病気や悩みをかかえる人々が行列をなして自分のところへやってくるでしょう。この力を用いたら、すぐにでも大きな富と名声を得ることも可能です。ですから弟子たちが受けた力は、いわば諸刃の剣です。この力を人々を救うためにではなく、もし間違った用い方をしたら、簡単に富や名声に心が奪われ、自分を見失ってしまうことにもなりかねません。

 「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」。弟子たちに告げられたキリストのこの言葉はじつに深い意味をもっています。ともすれば自分を見失ってしまいかねないほどの大きな力を弟子たちは受けました。彼らの弱さをよくご存知のキリストは「ただで受けたのだから、ただで与えよ」と彼らに告げ、「身ひとつで宣教の旅へ赴き、身ひとつで帰ってこい」といわれたのです。余計なことのために力を用いるな、という意味です。

 そもそもわたしたちの誰もが身ひとつでこの世に誕生しました。命も体も心も主なる神さまからただで受けたものです。ただで受けたこの命と体を資本にして、わたしたちの人生は始まり、やがて誰もが生涯を終えます。たしかにそれぞれなりに精一杯の努力をして名声や財産を得ます。でもそもそもはすべてがただで与えられたところから始まっています。自分の体も心も、自分が置かれた状況も、努力すればそれなりに報いが得られる環境も、思えばすべてが与えられたものです。自分に与えられた状況のなかで、わたしたちは生を営んでいます。自分の人生は自分の努力による、などと傲慢にも思いがちなわたしたちですが、けっしてそうではありません。

 平和を告げるとは神さまの恵みを人々に伝えることです。そのためにまず大切なことは、わたしたちは肝心なことのすべてを主なる神からただで受けている、このことを十分にわきまえているかということです。「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」。自分の人生を振り返り、自分の命も体も肝心なものは何もかも、主なる神からただで受けていることをあらためて確認しておきたいと思います。


 

2016年4月10日 

「取税人マタイ」

【新約聖書】マタイの福音書10章1~4節

 世界でいちばん貧しい大統領と言われるウルグアイの前大統領ホセ・ムヒカ氏が来日されました。現役の大統領のときは給与の9割を寄付として献げて自らはとても質素な生活を奥様と一緒にしておられました。若い頃は貧困からなんとか人々を救おうとして反政府ゲリラ活動をし、十年以上も牢獄されましたが、武力では何も解決にはならないと悟られたそうです。ムヒカ氏が語る一つ一つの言葉は心に響くものがあります。「私たちは多くの富、科学、技術が発展した時代にいるが、『では、私たちは幸せか?』という問いかけをしなければならない」もそのひとつです。

 キリストの十二使徒のひとりに「取税人マタイ」が登場します。他の福音書ではたんにマタイとだけ記されていますが、マタイの福音書では彼の昔の肩書きである取税人が付されています。取税人とはローマ帝国に身を売ったいわば売国奴であり、同胞のイスラエルの人々からは村八分どころか、村十分の扱いを受けていた人々です。かつては取税人であったという暗い過去をマタイは隠すことなく、「取税人マタイ」と福音書に記しました。そこには彼なりの思いが込められていると思います。

 取税人だったころ、マタイは多くの富を持っていました。しかし彼は幸せではありませんでした。でもキリストと出会い、キリストに招かれ、キリストの弟子になることによって、神の前のかけがえのないひとりの人間としての自分を取り戻しました。キリストの使徒としてのその後の生涯はまさに波瀾万丈であったと思いますが、きっと彼は思う存分に自分を生き抜き、その意味で幸せな生涯を送り、天の御国へ凱旋したと思います。

 「今、自分は、神の前にかけがえのないひとりの人間として、思う存分に生きているだろうか?」 この問いかけにどう答えますか。ムヒカ氏も言っておられましたが、人生はほんのつかの間です。富や物ばかりを求めるあまり、肝心の自分を生きることなく人生を終わってしまっては元も子もありません。わたしたちはいくらかの財産や物を手に入れると、それを失うことをとても恐れるようになります。失うことを恐れるあまり、もっと物や富を得ようとあくせくします。ここに大きな落とし穴があります。物や富に心が奪われ、時間も奪われ、自由も奪われ、命も奪われ、幸せも奪われてしまいます。

 裸で生まれてきたわたしたちは、やがて裸で死にます。死を前にして人は裸です。あくせくと富や物を追い求めるところに幸せはない。むしろ富や物から離れるところに幸せが見えてくる。マタイも富を追い求める取税人から足を洗い、取税人から離れてはじめて、ほんとうの意味で自由になり、解放されて、自分という人間が輝き始めました。幸せが見えてきたと思います。

 今、あなたは幸せですか? 自分の幸せは他人や状況が決めるものではありません。幸せはいつもあなたの心が決めるものです。


 

2016年4月3日 

「キリストの願い」

【新約聖書】マタイの福音書9章35~38節

 《群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて倒れているのをご覧になって、キリストは彼らを深くあわれまれた》とあります。聖書の「あわれむ」とは内臓がちぎれるほど心を痛めるという意味です。たとえばあなたの大切な人が病気か心配事で弱り果てて倒れているとき、きっと居ても立ってもいられなくなると思います。病院を探したり、誰かに相談したり、夜も眠れなくなるほど心配するでしょう。それが聖書のいう「あわれむ」です。たんなる同情とは違います。

 群衆とはいわゆる見ず知らずの人々のことです。たとえばシリアの難民の人たちの姿をテレビで見て、わたしたち日本人もたしかに胸が痛みます。でもどれほどの人が居ても立ってもいられなくなるでしょうか。一方、自分の大切な人があのような悲惨な目に遭っていたら、きっと居ても立ってもいられなくなるはずです。わたしたちは自分にとって大切な人をあわれむことは出来ても、自分とは無関係の見ず知らずの人をあわれむことには限界があります。ところがキリストは群衆を見て深くあわれまれた、とあります。福音書を読むとキリストはどのような人にも深いあわれみを注いでおられます。こうしたキリストの姿にわたしたち人間にはとうてい及びもつかない神の愛の姿を見ます。

 何かの事情で、弱り果てて倒れてしまったとき、キリストご自身が内臓がちぎれるほどにあなたのことを心配しておられることを忘れてはなりません。そのような時、あわれみ深いキリストは必ずふさわしい助け手を送ってくださいます。誰もがきっと経験があるはずです。自分が疲れ果てて倒れてしまったとき、誰かが心配して寄り添ってくれたこと、あるいは誰かが笑顔や心遣いを注いでくれたこと、そしてそのような誰かの小さな愛にふれて、気持ちが随分と落ち着き、慰められたこと。誰かとは家族だったかもしれないし、友だちだったかもしれないし、いろいろだと思います。そして忘れてはいけないのは、そのような具体的な人たちの背後には、いつもあなたを深くあわれんでおられるキリストの愛の導きがあるということです。

 さらにキリストは《働き人を送り出すようにしてもらいなさい》と言われました。倒れている人に寄り添うために別の誰かの助けも求めなさい、ということです。自分だけが働き人だと思ってはなりません。自分以外に、もっとふさわしい助け手、働き人がいるかもしれません。謙虚に、主なる神にふさわしい働き人を祈り求めましょう。ふさわしい働き人を祈り求め、探し求めることもわたしたちの大切な役目です。それはキリストの願いでもあります。


 

2016年3月27日

「また朝となった」 イースター礼拝

【新約聖書】ルカの福音書24章1~12節

 今年も復活祭を迎えました。キリストの復活とは、キリストが死をつらぬかれたという出来事です。今日のキリスト教会はまさにキリストの復活から始まりました。ペテロもトマスも、それこそ数え切れないほどの多くの弟子たちもキリストの復活を伝える証人として生涯をささげました。かつてはキリスト教徒たちを迫害していたパウロも、復活のキリストと出会い、回心し、福音を宣べ伝える者となりました。

 わたしたちは年をかさねるにつれて、死を身近に感じるようになります。死に接し、死は誰をも寄せ付けない、絶対的な孤独であることをつくづくと思います。自分の愛する人がひつぎの中に横たわっている姿に接し、ひつぎのすぐ手前までは行くことができても、ひつぎの中に一緒に入ることはできません。どれほど大切な人であろうと、その人が死んだら、もはやわたしたちには手も足も出ません。わずかな言葉さえもかわすことはできません。死は、間違いなくこの世での終わりです。死は何ものをも寄せ付けない闇であり、人間の力ではどうしようもできないものです。

 「あなたがたはなぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。その方はここにはおられない。よみがえられたのだ」。天使は、キリストの葬られた墓にやって来た女たちにそう語りました。キリストはよみがえられた。死はすべての終わりとしか思えないわたしたちに、まだ先があることをキリストは身をもって示されました。夕となり、また朝となった。キリストの十字架上での死を「夕」とするなら、キリストの復活は「また朝となった」ことを告げる出来事に他なりません。

 聖書は約束しています、「キリストを信じて洗礼を受ける者は救われる」。救われるとは死の向こうに御国が約束されるということであり、死をつらぬく永遠のいのちが与えられるということです。わたしたちもやがて必ず死を迎えます。こればかりはどうしようもありません。しかし死は終着駅ではありません。キリストを信じる者にとって、死は御国へと通じる通過駅にすぎません。

 希望とはキリストです。死から復活されたキリストこそがわたしたちの唯一の希望です。主の復活をお祝いするイースターを心からお慶び申し上げます。


 

2016年3月20日

「友よ」

【新約聖書】マタイの福音書26章47~56節

 今年も受難週を迎えました。キリストに敵意を抱いていたパリサイ人や律法学者たちはローマ帝国の役人たちを巻き込み、民衆を扇動し、キリストをなんとか亡き者にしようと企みます。彼らの手引きをしたのが十二弟子のひとりイスカリオテのユダでした。ユダがなぜキリストを裏切ったのか、歴史上いろいろな人がいろいろな解釈をしていますが、真相は明らかではありません。

 ただキリストの受難について忘れてはならない大切な真実があります。悪の権化のように言われるユダですが、キリストを裏切ったのはユダだけではありません。福音書ははっきりと記しています。「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った」と。キリストが捕らわれるほんの少し前、ペテロは「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と豪語していました。ところが彼もまたキリストを見捨てて逃げ去ったのです。ヨハネもヤコブも弟子たちの誰もがキリストを土壇場で見捨ててしまいました。ですからユダだけではありません。ゴルゴダの丘に立てられた十字架へと歩まれるキリストに寄り添える者は誰ひとりいませんでした。

 最後の晩餐を終えられたキリストはゲッセマネの園という場所に弟子たちとともに行かれます。夜ですから周囲はすでに暗闇です。キリストを捕らえるために、たいまつをかかげたおおぜいの群衆が剣と棒を持ってやってきました。先頭にイスカリオテのユダがいます。ユダはキリストに裏切りの口づけをします。それを合図に人々はキリストに襲いかかり捕らえます。

 「友よ。なんのためにきたのか」。ユダの裏切りの口づけをお受けになったとき、キリストは彼にそう言われました。ユダの背後には剣と棒を持った大勢の群衆が迫っています。ユダがなんのために来たのか、明らか過ぎるほど明らかです。そもそもユダが裏切ることをキリストはずっと前からご存知でした。そのような状況であってもなお、キリストはユダを「友よ」と呼びかけられました。わたしはこの場面にいつも身震いします。感動します。ユダがなにをしようとしているのか、ユダがどんな人物なのか、なにもかもご存知の上でなお、キリストはユダにやさしく語りかけておられるのです、「友よ。わが友よ。」と。

 わたしたちの過去がどうあれ、今がどうあれ、これからがどうあれ、キリストはいつもやさしく語りかけてくださいます、「友よ。わたしのかけがえのない友よ」と。アーメン


 

2016年3月13日

「的はずれ」

【新約聖書】マタイの福音書9章27~34節

 肺がんで41歳で召されたある女性は召される直前まで夫と四人のまだ小さな子供たちに日記にして言葉を残しました。次の言葉は召される数日前のものです。「主に目を向ける。主にのみ、わがふたつの瞳(ひとみ)をすえて生きる。誰がどうあろうと、わたしは今、それだけによって生きる」。主なる神という的をみごとに射ぬいて今日という一日を生きているこの人の姿に襟が正される思いがします。

 さて残念ながら、わたしたちの現実は的がはずれ、とんちんかんなことであふれています。悲しんでいる人と共に悲しむどころか、むしろ人の不幸を喜んでしまったり、喜んでいる人と共に喜ぶどころか、むしろ人の喜びをねたんでみたり、とんちんかんのオンパレードです。

 究極のとんちんかんは真実の神を神として認めないことです。その代わりに神でないものを神としたり、自分をまるで神のように思ってみたり、ここまで的がはずれてしまうと、的がはずれていることすら分からなくなります。こうした的はずれの人間の姿を聖書では罪といいます。罪のもともとの意味はギリシャ語のハマルティアという言葉で、これは「的はずれ」「とんちんかん」という意味です。

 長年病気で苦しんできた人たち、ハンディをかかえて生きてきた人たちを主イエスは癒やされました。人々はそのような主イエスを見て、「かつて見たことがない!」と驚きました。ごくふつうの反応です。ところがとてもとんちんかんな反応をした人々がいました。パリサイ人と呼ばれる人たちです。彼らは言います、「彼(イエス)は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」。要するに彼らが言いたいのは「聖なる自分たちは、悪霊どものかしらなどとは親しくない。だから彼(イエス)がしているようなことは出来ないし、出来なくて当然なのだ」。もはやこれは、まさに自分たちの体面を繕うだけの品のない言動でしかありません。

 パリサイ人は有識者であり実力者です。聖書の知識は言うに及ばず、律法の専門家でした。主なる神の愛や恵みについて、知識としては誰よりも知っていました。ところが彼らは自分たちが出来ないことを主イエスがされているのを見て、主イエスをねたんでしまいます。パリサイ人としてのプライドが彼らの瞳を曇らせてしまったのでしょう。このねたみという小さな的はずれが、やがて殺意を生み出し、主イエスを十字架上で殺してしまうこととなります。

 他人事ではありません。聖書はここでわたしたちに問いかけています。あなた自身はどうなのだ? あなたの瞳は今、どこに注がれているか? 天の神にふたつの瞳をすえて生きているか? 「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」、この主の言葉をきちんと聞きとどけているか? それとも「そんなことなどない!」と神の言葉をしりぞけて、神に背を向けてはいないか? 

 誰であろうと、このときのパリサイ人のようになり得ることを忘れてはなりません。


 

2016年3月6日

「しっかりしなさい」

【新約聖書】マタイの福音書9章18~26節

 会堂司が登場します。当時、村や町の人々は会堂という建物に集まり、主なる神を礼拝していました。そして、律法学者とかパリサイ人と呼ばれる人たちが会堂司として、大きな力を持っていました。福音書を読むと、こうした律法学者・パリサイ人たちは律法の解釈をめぐってキリストとしばしば対決しています。キリストはすべての根本とも言うべき主なる神の愛をまったく見失ってしまっている律法学者やパリサイ人らを痛烈に批判しておられます。

 本日登場する会堂司もそうした律法学者のひとりです。立場上、表立ってキリストと話したり、キリストになにかを願うことなどは出来なかったはずです。そんなことをしたら仲間の律法学者たちから反感を買い、最悪の場合には会堂司としての身分を失うことになります。ですから相当の覚悟をもって、この会堂司はキリストのところへ来たということです。彼にとっては自分のことよりも、娘のほうが大事だったということです。

 十二年間、出血性の病気をわずらっていた女性が続いて登場します。他の福音書では彼女は十二年間多くの医者にかかったものの、ただ苦しめられただけで、財産も使い果たし、病状はますます悪くなる一方であったと記されています。十二年とはじつに長い年月です。きっと彼女は自分の死を見すえつつ、生きてきたと思います。そして残されていた最後の力を振り絞って彼女はキリストのところへ来ました。

 キリストによって会堂司の娘は蘇生し、十二年間長血をわずらっていた女性も癒やされました。ただこの出来事でわたしたちが注目しなければならないのは、蘇生したことでも癒やされたことでもありません。注目すべきことは会堂司も長血の女も、いわば恥も外聞も自分の立場もプライドも捨てて、最後の力をふりしぼってキリストに会いにきたということです。おさなごのように二人ともキリストを真実の救い主と認め、信じたということです。

 わたしたち人類は様々な問題を解決しつつ、歴史を刻んできました。でもいまだに人間の手ではどうすることもできない問題があります。それが死であり永遠への問いかけです。しかし死と永遠に真正面から向き合うとき、わたしたちは真実の神と出会います。肉眼で見えるもののはかなさを知り、肉眼では見えない永遠に続くものとつながろうとします。会堂司も長血の女も、死と真正面から向き合うことによって、頭ではなくて、まさに腹で、キリストこそが永遠なる真実の方であることがわかったのです。

 このキリストのもとで生き、このキリストのもとで死に、そしてキリストが約束しておられる永遠の御国に入れられたい。それこそがわたしたちの願いであり、希望です。アーメン。


 

2016年2月28日

「新しい皮袋に入れよう」

【新約聖書】マタイの福音書9章14~17節

 あなたの弟子たちはなぜ断食をしないのか?とキリストにたずねる人たちがいました。彼らは当時の律法で定められた断食を定期的に行っていました。それに対してキリストは《婚礼の客は披露宴というで悲しい顔をして断食をするだろうか?》というユニークな回答をされています。

 律法主義とは断食や修行によって神の救いを手に入れようとするものです。ところがキリストによって神の救いがわたしたちの目の前に届けられました。いわば披露宴の招待状が届けられたようなものです。ここでわたしたちに出来ることは、喜んでその招待状を受け取り、神の救いにあずかり、ただ感謝して喜ぶだけです。それなのに今さら断食を持ち出すことなどまったく的はずれです。それはまるで喜ばしい結婚披露宴で、悲しい顔をして断食をするようなものです。律法主義者たちのまったくの的はずれの言動をここでキリストは痛烈にそのように批判しておられるのです。

 神の救いを得るためにわたしたちは断食はしませんし、する必要もありません。ただキリストを信じて洗礼を受けるだけで神の救いを得られるからです。でも律法主義者たちを笑ってばかりもいられません。違う意味で、わたしたちも的はずれのことをしてしまうからです。たとえばあまり深く考えもしないで自分の古い考えを一方的に相手に押しつけたり、余計なことを言って相手を困らせたり、どうでもいいことを思い煩ったりすることなど日常茶飯事です。わたしたちも新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れず、つい古い皮袋に入れてしまいます。どうしてこのように的がはずれるのでしょうか。

 きっとそれは人生の根本を見失うからだと思います。たとえば、わたしたちは今生きていることをつい当たり前と思ってしまうところがあります。明日もあさっても自分が生きていることを当たり前と思ってしまう。身近な人がいることを当たり前と思ってしまう。生きていることを当たり前だと思ってしまうとわたしたちの歩みはどうしても軽はずみになります。命は輝きを失い、軽く扱われるようになり、結果として自分をそまつにしたり、人を傷つけたり、ひいては戦争をも起こしてしまいます。
 生きているのは当たり前ではないし、命が続くのは当たり前ではありません。メメント・モリです。死ぬのは明日かもしれません。いつ死が訪れるのかわかりません。もし今日という日が最後の日であるなら、今日、自分の口から出るひと言ひと言はいわば遺言になります。

 メメント・モリを深く意識しながら歩むことはけっして簡単なことではありません。しかしメメント・モリはすぐれた鏡として今の自分の姿を映し出してくれます。メメント・モリはいつも問いかけています、「あなたはキリストの言葉に生きているか? 明日死んでも本望か?何か、やり残していることはないか? 自分の言動が的はずれになってはいないか?」


 

2016年2月21日

「神の招き」

【新約聖書】マタイの福音書9章9~13節

 ある年齢以上の方は漫画《のらくろ》をご存知だと思います。作者の田河水泡(たがわすいほう)さんもクリスチャンでした。田河さんが若い頃、ある著名な神学者に「キリスト教にはユーモアが足りませんね」と言うと、その先生が「そうだ、そのとおりだ、それを君に頼む」と力強く返答されたそうです。その先生の短く力強い言葉が記憶に残り、田河さんは「のらくろ」シリーズが一段落した晩年に「人生おもしろ説法」という、聖書を題材にしたユーモアたっぷりの本を描かれました。

 神の招きのことばはとてもシンプルです。でもシンプルだからこそ力強い。本日の場面は弟子のマタイがどのように取税人からキリストの弟子になったか、それを伝える場面です。福音書はとてもシンプルに語っています。《イエスはマタイという人が収税所にすわっているのを見て「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ち上がってイエスに従った》。ただそれだけです。主イエスの招きを受けてマタイは腰を上げた。マタイはくどくどと語りません。シンプルですが、力強さを感じます。

 取税人と呼ばれる人たちはローマ帝国のいわば手先として同胞から税金を徴収していた人たちです。決められた以上に好き勝手に集金していました。ですから同胞からは売国奴、罪人と呼ばれ、相手にされませんでした。しかしローマ帝国の後ろ盾もあり、収税所の椅子に座っているかぎり、マタイの生涯は少なくとも経済的には安泰です。だからこそ同胞から村八分にされても、マタイのように取税人になる人たちがいました。

 マタイが収税所の椅子に座っているときに主イエスの招きの言葉が注がれました。ちょうど税金を徴収しているときだったかもしれません。あるいは集めたお金を勘定していたときだったかもしれません。まさに取税人としての日常のど真ん中にマタイがいたときに主イエスからの招きを受けるのです。マタイが祈っているときでも神殿にいるときでもありません。取税人としての生々しい現実にどっぷりと浸っているときに神の招きを受けます。そしてマタイは、収税所の椅子から腰を上げ、主イエスに従いました。周囲の人々は驚いたに違いありません。なんの予告もなしに、急にマタイがそれまで座っていた収税所の椅子を離れ、主イエスの弟子としてついていったのですから。このようにマタイの回心はとてもシンプルでしたが、シンプルなゆえに、とても力強くもあります。

 田河水泡は語っています、「信仰を頭で考えとる者がおるが、そらあかん。頭では分からん。腹で決めるんじゃ、腹で」。神の招き、神の愛の言葉に対して、頭でいくら理屈をこねても分かりません。信じるとは神の言葉をシンプルに信じて、ひょいと腰を上げ、神の言葉に身をまかせることです。信じるとは、頭ではなくて、腹で信じることです。


 

2016年2月14日

「あなたの罪はゆるされた」

【新約聖書】マタイの福音書9章1~8節

 中風で寝たきりの男をキリストのもとへ連れてきた人たちが登場します。他の福音書の同じ記事を読みますと、群衆がひしめき合い、家の中で話しておられるキリストに近づくことすら出来なかったので、彼らは中風の男をかついで屋根にあがり、屋根に穴をあけて、天井から男をつりおろしたとあります。端で見ると、彼らの行動は無謀としか思えません。しかし自分が当事者だったらどうでしょう。きっと今までに誰もが一回や二回、自分にとって大切な人を救うために多少なりとも無謀な行動を起こしたことがあるのではないでしょうか。

 《イエスは彼らの信仰を見て・・・》とあります。まっ先に主イエスがご覧になったのは中風の人をかついできた男たちでした。彼らは中風の男を救いたい一心で、主イエスのもとへ彼をかついで連れてきました。とてもたいへんだったと思います。《彼らの信仰》とは、彼らの愛と置き換えてもいいと思います。

 《子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ》。かついで連れてこられた中風の男は主イエスから罪のゆるしを受け、病もいやされました。神の大いなる祝福にあずかりました。彼はただおさなごのようにかつがれて連れてこられただけです。彼自身は何もしていませんし、そもそもからだが不自由ですから何もできませんでした。たいへんだったのは彼をかついできた友人たちのほうでした。しかしここでわたしは確信します。中風の男をかついでやってきた人たちにとって、彼が神の祝福にあずかっただけで、それだけで本望であったに違いありません。病気の友が神の祝福を受け、彼にふたたび笑顔が戻ったのです。それだけで十分に彼らは満足し、喜びで満たされたはずです。報いを受けたと思います。

 「どんな時にも人生には意味がある。誰かがあなたを待っている。何かがあなたを待っている。その誰かのために、その何かのために、あなたには出来ることがある」。死滅の収容所といわれたアウシュビッツ強制収容所から奇跡的に生還したフランクルの言葉です。誰かのために自分が出来ることを果たすところにこそ、生きる意味があり、生きている喜びがあります。神の祝福に誰かがあずかるために、そのために自分が用いられたら、それだけで本望です。とかく忘れがちですが、きっと誰もが今までにこのような世界を体験しているはずです。自分の人生に意味と喜びを見つけたいのなら、まず静まって、誰が自分を待っているのか、何が自分を待っているのか、考えてみることです。


 

2016年2月7日

「出会いと別れ」

【新約聖書】マタイの福音書8章28~34節

 福音書を読んで、あらためて驚くことがあります。そしてそれはわたしたちにはとうてう不可能と思えることでもあります。それはなにかと言いますと、キリストはどんな人にも出会っておられるということです。取税人、遊女、異邦人、そして本日登場する墓場を住居とする手に負えない乱暴者たちにもキリストは当たり前のように出会っておられます。わたしたちはそうはいきません。顔を合わせたくない人もいるでしょうし、会わないですむならそれでいいと思っている人もいると思います。

 ガダラ人とは当時のイスラエルの社会からすれば異邦人であり、部外者の人々です。なぜならイスラエルの人たちは現代でもそうですが、豚は汚れた動物であり、豚肉を食べるいことはもちろん、豚を飼うことなどぜったいにしません。豚を飼育していたガダラ人たちは明らかに異邦人であり、当時のイスラエル社会からすれば罪人の集まり、まさに部外者の人たちです。

 そのガダラ人たちから手に負えない乱暴者として相手にされなかった二人の男が登場します。彼らは町には居場所がなく、墓場に住んでいます。そのような二人にキリストは当たり前のように出会っておられます。同胞のガダラの人たちからも相手にされず、見捨てられていた二人の男にわざわざキリストは出会っておられます。

 他の福音書を読むと、この二人の男はキリストに癒やされた後、キリストの弟子になりました。ここでとても興味深いことは、ガダラの町の人たちは「この地方から去ってください」とキリストを町から追い出していることです。やっかいごとに巻き込まれたくないと思ったからでしょうか。ここで大切なメッセージを聖書は伝えています。キリストはどのような人にもわけへだてなく出会ってくださる。わたしたちがどうあれ、いつもキリストは神の愛をわたしたちに送り届けてくださる。暖かい言葉を注いでくださる。キリストはそのようなお方です。ある人たちはキリストの言葉を受け入れ、キリストとともに歩みます。墓場に住んでいた二人の男たちのようにです。しかしその一方で、キリストを追い出してしまう人もたくさんいます。いつの時代でもそうです。

 「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」。わたしたちがどうあれ、キリストはいつも変わらず語りかけておられます。出会ってくださいます。寄り添ってくださいます。問題は、キリストの言葉をおさなごのように信じて歩むのか、それともキリストの言葉に背を向け、キリストを追い返してしまうのか。

 キリストを迎え入れるのか、それともキリストを追い返してしまうのか、その鍵はいつもその人自身が握っています。


 

2016年1月31日

「なぜ、こわがるのか?」

【新約聖書】マタイの福音書8章23~27節

 《突然、海上に激しい暴風が起こって、舟は波にのまれそうになった》とあります。弟子たちは同じ舟に乗っておられる主イエスをたたき起こして叫びました、《主よ、お助けください。わたしたちは死にそうです》。状況が状況ですから、弟子たちが恐怖を感じたのは当然とも思えます。ですから《なぜ、こわがるのか。信仰の薄い者たちよ》と弟子たちに言われた主イエスの言葉はすこし酷なようにも思えます。

 人生の大波はいろいろとありますが、わけてもすべてをのみ尽くしてしまう大波は、間違いなく死です。死亡率100%のわたしたちですから、《主よ、お助けください。わたしは死にそうです》と、けっして大げさではなく、こう叫ぶときがやがて必ず誰にも訪れます。あるいは病気などで自分の死を実感したときなど、わたしたちは恐怖し、このときの弟子たちのように震え上がるかもしれません。そのとき主は言われるのです、《なぜ、こわがるのか。信仰の薄い者たちよ》。

 自分の死を前にして、まったく平静でいられる人はいないと思います。でもキリストを信じる信仰が深まるにつれて、死への恐怖が薄れていくのも事実です。キリストを信じる信仰によって、死の向こうに燦然と輝く御国が見えてくるからです。死よりも力のあるお方としてのキリストがだんだんと信仰によって見えてくるからです。

 この時の弟子たちにはまだキリストがどのようなお方なのか、たしかなところはわかっていませんでした。死の向こうに輝く天の御国もまったく見えてはいませんでした。信仰の目がまだ養われていなかったからです。彼らにとっては実際に目に見える現実の世界こそがすべてでした。だから当然ながら、目に見える暴風や大波こそが弟子たちには驚異であり、恐怖でした。それも仕方がありません。キリストの弟子となって、まだまだ日も浅かったのですから。

 キリストを信じて洗礼を受けてから、インマヌエルの神としてキリストはいつもあなたと共におられます。同じ舟に乗っておられます。いつもそうです。ところがわたしたちの信仰の目はなかなか養われないので、キリストが見えなくなってしまうこともしばしばあります。死は見えても、死の向こうに輝いている御国が見えなくなります。ですから、この時の弟子たちのように、世の暴風や大波にただただあたふたしてしまいます。

 でも、忘れてはいけません。あなたはけっして独りではありません。独りで舟に乗って人生の大海原を進んでいるのではありません。信仰が薄かろうが、深かろうが、関係はありません。キリストがいつもあなたと同じ舟に乗っておられます。死ぬまで、そして永遠に。


 

2016年1月24日

「あなたはどちらを選ぶ?」

【新約聖書】マタイの福音書8章18~22節

《きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子にはまくらする所がない》。人の子とは主イエス・キリストがご自分のことを指して用いられる特別の表現です。ここでわかるのは、キリストが地上を歩まれた間、安住の場所はどこにもなかったということです。ペテロなどの近しい弟子たちにさえ理解されず、人々からは誤解され、キリストはまさに孤独の生涯を歩まれたということです。

 居場所とは自分が安心していられる場所のことです。自分が自分として理解され認められている場所のことです。だれかひとりでも自分の語ることに耳を傾けてくれる人がいたら、そこが自分の居場所になります。たくさんの人がいても自分に寄り添ってくれる人がいないなら、そこは自分の居場所にはなり得ません。

 学校、職場、同好会、自治会、家庭・・・こうした場所が自分の居場所になり得ます。しかし学校には卒業があり、職場には退職があり、引っ越しすれば自治会も隣近所も変わります。家族関係も時の流れのなかで変わっていきます。居場所を失う理由は、理不尽ないじめによる場合だけに限りません。そもそも時の流れのなかで、わたしたちの居場所は変化し、あるいは失われてしまうものです。この世にあっては《旅人であり、寄留者》(ヘブル書11章13)であるのがわたしたち人間ですから、この世界に永遠に安住できる居場所などはそもそもないのです。

  《主よ、まず父を葬りに行かせてください》とある弟子が言います。しかし主イエスは《死人のことは死人にまかせておくがよい》と返答されました。誤解してはならないのは、ここで主イエスは父親の葬儀などは放っておけ、などと言っておられるのではありません。ここで問われているのは《まず・・・》というところです。わたしたちもきっと似たようなことをしばしば経験しているはずです。「まずこれを片付けてから、それから神の言葉を聴こう」「まず仕事を終えてから、それから祈ろう」。静まって神の言葉を聴くよりも先に、あれやこれやと行動に移してしまう。しかし主イエスは言われます、「まず神の言葉を聴くがよい。それから自分の果たすべきことを果たすがよい」と。

 《しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない》という主の言葉をまず聴く、それから行動に移す。まず神の前に静まる、それから行動に移す。その逆ではありません。ところがわたしたちはこの順番が逆転していることが多いと思います。

 さらに言うなら、まず神の約束を信じて永遠の居場所を確保しておく、それからこの世をひたすら歩む。まず死をつらぬいた先に御国を仰ぐ、それからこの世を歩んでいく。永遠の居場所を確保しておけば、安心してこの世を歩めるというものです。

 信仰によって歩むとは、まず愛の神の言葉を聴くことです。行動に移すのはそれからです.. 


 

2016年1月17日

「病を負うということ」

【新約聖書】マタイの福音書8章14~17節

 阪神淡路大震災から本日で21年となります。時間とともに震災の記憶は薄らぎ、家族や親しい人を失った方々の悲しみもやわらいでいることはたしかです。しかし深い悲しみはけっして消え去ることはありません。癒やされて、忘れてしまっている悲しみもありますが、いつまでも忘れることのできない悲しみが人生にはあります。病もそうかもしれません。癒やされる病もありますが、癒やされないまま、負い続けている病もあります。つらいことですが、それが現実です。

 先週わたしは25年ぶりに結石をわずらいました。痛みが出たのが週末だったので、日曜日の説教だけはなんとか守ってくださいと必死で祈りました。金曜日の夜中までずっと続いていた痛みが土曜日にはなくなり、日曜日の礼拝説教も無事に守られたことは、わたしにとってはまさに奇跡的な主なる神さまの癒やしとしか言いようがありません。本日の箇所で、大事を前にして熱病でペテロのしゅうとめが倒れます。しかし主に癒やされ、主をもてなすという大役を無事に果たし終えました。彼女は心から喜び、そして安堵したことでしょう。先週のわたしがまさにそうでした。

 病を負うと、それまで当たり前に出来ていたことが出来なくなります。そして自分の大切な人がどれほど病で苦しんでいても、代わって病を負うことは出来ません。その人の病はその人自身が負うほかにない。誰だって病を負いたくはありませんが、病のまったくない人生などあり得ません。これもまた病の現実です。

 《人々は悪霊につかれた者をイエスのもとに連れてきた》とあります。悪霊につかれた者とは病をかかえる人たちのことです。当時はそのように表現しました。ここで注目すべきことは病気で苦しむ人に寄り添い、病人を背負い、主のもとへ連れてきた人がいるということです。わたしたちも静かに今までの自分を振り返ってみましょう。自分が病気で苦しんでいたとき、誰かが、あるいは何かが、寄り添ってくれたはずです。それは家族や友人あるいは近所の人かもしれません。人とは限りません。愛犬かもしれない。あるいは鳥のさえずり、野の花だったかもしれない。医者や看護師、看護スタッフかもしれない。わたしたちが病を負い、心がなえ、孤独を感じたとき、きっと誰かが、あるいは何かが寄り添り、支えてくれたはずです。自分は独りのようでも、けっして独りではなかったということです。そして聖書は告げています。いつも寄り添い、心を励ましてくれた誰か、あるいは何かの背後に、インマニュエルの愛の神がおられることを。

 病をとおして人は孤独になります。しかし忘れてなりません。あなたはけっして独りではない。キリストはいつもあなたに寄り添っておられる。そして小さなキリストとして、誰かが、あるいは何かが、あなたに寄り添っています。あなたは独りではありません。


 

2016年1月10日

「神様のプレゼント」

【新約聖書】ルカの福音書2章1~7節

 星野富弘さんの月めくりカレンダーの詩を読みます。この詩はマンゴーの絵に添えられた詩です。

 雨にも負けて 風にも負けて
 夏の暑さにも負けて
 東に病気の人がいても 
 西に困っている人がいてもなにもしない
 丈夫な身体になりたくて健康食品に気を配り
 うまいものが好きでマズいものが嫌い
 お金もほしい 着物もほしい
 そんな私が 仰向けに寝ている

ふざけた詩だと思われるでしょうか?人がどこで困っていようが他人の事はどうでもいい。けど、自分にはやさしい。そんな自己中心のわがままな性格を想像してしまうでしょうか?
でも、この詩をよく味わってみると、どうもそういう雰囲気ではないような気がしないでしょうか? 車いす生活という不自由なお体にも関わらず、そういった状況から解放された、明るさみたいなものを感じないでしょうか?色々な事を考えながら仰向けに寝ている事を、むしろ楽しんでおられるかのようにも感じてしまいます。

もう一つ、これはトリカブトの絵に添えられた詩です。

 覗いてみれば あるわ あるわ
 心の中に 同じ顔をした 毒と薬

いかがでしょうか?ちょっと不思議な感じがしませんか? まるで、読んでいるこっちの心まで覗かれているような思いにさせられますが、でも、嫌な感じはしないです。むしろ、カラッと明るくて、自分の心を、まるで他人事のように覗いているかの如く感じます。分析してみれば、かなり陰のある詩なのに、どうしてそういう明るい感じを受けるのか? それは、この二つの詩は、どちらも福音の奥義を表しているからなのです。すなわち、弱さの中に現される恵み、弱くならなければ見えない恵みというものを、作者はしっかりと見ておられるという事であり、すべての罪を赦し愛して下さる主の恵みを心から信じておられる信仰ゆえの平安に満たされた明るさなのです。

 そして共に思う事は、このように自分の中にある、人にはあまり知られたくない思いにしっかりと向き合って、しかも、すっぱりさらけ出して詩に書いてしまう。どうして、そんな事が出来るのか?それは、そんな自分の心の弱さ、汚さ、罪深さをすべて知っておられる方が、そんな自分をそのまま愛して下さるという、そのキリストの愛を心から信じ、その愛の中に生かされているという事に尽きます。そして、その愛を私たちに届けるために、イエスキリストは人となり、地上に来て下さった。あらためて感謝しようではありませんか。


 

2016年1月3日

「一日一笑」

【新約聖書】マタイの福音書14章27節

 人生は近くで見たら悲劇だが、遠目に見たら喜劇である。喜劇王チャップリンの言葉です。自分の生涯を振り返ると、その時は悲劇としか思えない出来事が、今になって思えば、喜劇とまでは言えなくても、かけがえのない経験になっていることが少なくありません。信仰とは何でしょうか? 信仰とは今の自分を遠目で見ることです。遠目で見るとは、神のまなざしをとおして、今の自分を見ることです。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」、今年一年もこの神の愛のまなざしに歩みます。

 嵐のなかで、主イエスが海の上を歩いて近づいて来られるのを見た弟子たちは恐怖のあまり叫び声をあげました。「主イエスを見て、彼らは幽霊だと思った」とあります。なんともこっけいではありませんか。もしこの場面が舞台の上で演じられていて、観客席でわたしたちが見ていたとしたら、弟子たちのこっけいさに笑ってしまうと思います。きっと弟子たちもあとになってこの出来事を思い起こした時には、あんなこともあったなあ、と笑顔になったのではないでしょうか。

 主イエスはわたしたちにいつも語りかけておられます、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」。この言葉は、今年のみ言葉です。この主の言葉とともに歩みをかさねてまいります。主がそう言っておられるのですから大丈夫です。恐れることはありません。余計な心配もいりません。思いわずらってもはじまりません。身は荒野でも、意識は御国です。恐れることはない、と言ってくださる主の言葉に支えられて、一日一日を歩んでまいりましょう。

 数年前から掲げている教会のテーマ、メメント・モリの四つ目の訳語が決まりました。すでにある三つの訳語は「次はないかもしれない」「死を背負っている」「余計なことをしている暇はない」です。そして四つ目の訳語は「一日一笑」です。神さまは荒野で悪戦苦闘するわたしたちのために、あちこちに聖なる笑いの種を蒔いておられます。恵みの種と言ってもいいでしょう。どれほど現実が不安で悩みがあろうとも、わたしたちが笑顔になれる聖なる笑いの種が蒔かれています。神さまからの日々のかてとして、最大にして最強のもの、きっとそれは笑顔です。笑顔は大きな大きな力です。

 現実は荒野です。きびしいのはわかっています。荒野で悩み、苦しそうな顔をするのはふつうです。しかしそうした現実を笑顔で生きていけるとしたら、それこそ神わざです。2016年は「一日一笑」という大いなる神わざに期待しましょう。


 

2015年12月27日

「夕となり、また朝となった」

【新約聖書】ヨハネの福音書14章1節

 キリストはいつもわたしたちに語りかけておられます、「あなたがたは心を騒がせないがよい」。ですから心を騒がせるのはやめましょう。「神を信じ、またわたしを信じなさい」。ですから神を信じ、キリストを信じましょう。いろいろと考えても、ただ心が騒ぐだけです。疲れるだけです。無駄に時間が過ぎるだけです。笑っても、思いわずらっても、時間は同じように過ぎて行きます。だったらおさなごのようにキリストを信じて、この世という荒野を心軽やかに笑って生きて行きましょう。

 「杖もつと まねしたくなる 座頭市」。シルバー川柳です。足腰弱くなり、杖が必要となったことを見事に笑いに転じています。自分も年を取ったという現実(荒野)を笑い飛ばしています。キリストを信じて歩んでいるわたしたちは、身はこの世という荒野にありますが、意識は荒野をつきぬけて、天の御国を仰いでいます。天を仰ぎながら、荒野を笑い飛ばしながら生きて行きます。キリストとともに歩むとはそういう歩みです。

 「明るく、楽しく、喜んで」、これは神戸の住吉山手キリスト教会の伝道師であった林美智子先生が今年天に召されたとき、夫であり牧師である林晏久先生が告別式の説教題として掲げたものです。深い悲しみのなかにあっても、意識は死をつらぬき、天の御国で明るく笑っている奥様を思って説教をされました。説教のなかで、林先生ご自身もまた会衆もなんども大笑いしました。聖なる笑いの渦につつまれました。わたしを含めて告別式の会場にいた誰もがこうした聖なる笑いによって悲しみが癒やされるのをおぼえました。このように荒野のあちこちに聖なる笑いの種が落ちています。荒野に生きるわたしたちにキリストが与えてくださる最大の賜物、きっとそれは笑顔です。荒野がけわしければけわしいほど、大きな聖なる笑いの種が落ちています。遠慮なく拾いましょう。

 心を騒がせなくていい。幼子のように神を信じ、キリストを信じましょう。どんな荒野にも朝が必ず訪れるのですから。キリストがそう約束しておられるのですから。大丈夫です。

 笑顔とともに一年を終え、笑顔とともに新しい年を始めましょう。われらの主なる神さまは今年一年、いつも笑顔でわたしたちを見守ってくださいました。そして来年もいつも笑顔でわたしたちを導いてくださいます。われらの主にならって、わたしたちも笑顔とともに年を終え、笑顔とともに新しい年を迎えましょう。


 

2015年12月20日

「キリストの誕生」

【新約聖書】ルカの福音書2章1~20節

 「この荒野はいつまで続くのでしょうか?」とある方が言われました。残念ながら、ひとつの荒野を越えたら、また別の荒野がわたしたちを待っています。生涯最後の最後まで、天に導き入れられるまで荒野は続きます。

 《彼らがベツレヘムに滞在している間にマリヤは月が満ちて初子を産み・・・客間には彼らのいる余地がなかったからである》。家畜小屋でキリストは誕生されました。当時のベツレヘムの町には誰ひとりとして身重のマリヤに部屋を提供する人はいなかったということです。自分さえよければ、たとえ身重の女性が家畜小屋で寝泊まりしようと構わない。そうした人間の薄情さ、身勝手さをここで聖書は伝えています。そしてそうした人間の薄情さや身勝手さはけっして他人事ではありません。いつの時代でもどこの国でも、ごく当たり前のように見られます。そうした人間の薄情さ、身勝手さがこの世の荒野をさらに深刻なものとしています。

 クリスマスとはなんでしょうか。クリスマスとは、この世という荒野に主なる神ご自身が永遠に消えることのない光を投げ込まれた出来事です。荒野に永遠に枯れない花が咲いた出来事です。どれほど人間が薄情であろうと、また身勝手であろうと、どれほどこの世の荒野がけわしくても、この荒野のまっただ中に救い主は誕生されました。それは永遠に消えない光であり永遠に枯れない花です。そしてそれは荒野に置かれているわたしたちの唯一の希望です。希望とは、荒野に輝いておられるキリスト、救い主です。キリストは永遠に輝く光であり、死をつらぬく光であり、信じる者を御国へと導く光です。

 この世の荒野では、生きることがとてもしんどい時があります。生きるのが面倒になることがあります。不安に襲われることがあります。荒野に悩みはつきません。でも、行けるところまで行きましょう。つらくても、もうちょっと生きてみましょう。キリストがおられるのですから。したいことが見つからなくてもいい。すべきことに縛られなくてもいい。ただ、今の自分に出来ることでいい。立派に生きようとか、かっこよく生きようとか、そんなことは考えなくてもいい。ただ自分が置かれた場所で生きていくだけで、それだけで十分です。

 《わたしは神に願うことはしない、ただ神に感謝だけする》。最近出会った言葉です。目から鱗が落ちる思いがしました。皆さんも、しばし神に願うことをやめて、ただ神に感謝だけしてみてください。荒野にあっても、有り余るほどのキリストの恵みに自分がつつまれていることがわかりますから。神に愛されている、かけがえのない自分が見えてきますから。


 

2015年12月13日

「聖母マリヤ」

【新約聖書】ルカの福音書1章26~38節

 忘れることのできる悲しみもあり、忘れたほうがいい悲しみもあります。その一方で忘れてはならない悲しみがあり、忘れることのできない悲しみも多い。東日本大震災から4年9ヶ月ですが、いまだ2千人以上の方々の行方がわかっていません。つまり何万人もの人たちがいまだ家族や知人の行方がわからないまま、深い悲しみの中に置かれているということです。この悲しみは生涯忘れることのできない悲しみではないでしょうか。

 《恵まれた女よ、おめでとう》、天使はマリアにそう語りかけます。毎年、待降節第三主日にはこのマリヤへの受胎告知として知られる箇所を開きます。このときのマリアはおそらく14歳から15歳くらいのまだまだ幼く、あどけない少女です。そんなマリヤが突然、救い主の母に選ばれました。それが何を意味するのかも、マリヤにはわからなかったと思います。彼女は《ひどく胸騒ぎがした》とあります。当然でしょう。先がまったく見通せない荒野に放り込まれたかのようです。

 《どうしてそんなことがあり得ましょうか》。誰もが荒野に放り込まれとき、口から出る言葉です。今年一年を振り返り、きっとわたしたちのほとんどが《どうして? どうしてこうなんだ? どうしてこんなことになるんだ?》という言葉をなんども口から発したのではないでしょうか。それほど現実はきびしいからです。たしかに《どうして?》と問いかけ、原因究明をきちんとすることは大切なことです。でも、いったいどうしてなのか、その原因や理由がわからないことも多い。あるいはわかりようのない場合もあります。マリアがどうしてキリストの母に選ばれたのか、結局のところはわかりません。

 わたしたちはそれぞれに置かれた所を引き受けて、生きるほかにありません。不平や不満を言ってもなにも始まりません。置かれる場所は選べなくても、置かれた場所でどう生きるのか、生き方は選べます。この世は荒野であるにせよ、荒野でどう生きるのか、わたしたちは選ぶことができます。マリヤは最後に告白しました、《わたしは主のしもべです。お言葉どおりにこの身になりますように》。彼女は自分の置かれた場所を受け入れ、そこで生きることを選びました。

 荒野で、どのように生きるのか。どのように生きていくのか。神をのろい、状況や周囲の人々に不平を言い続けるのも人生でしょう。しかしマリアのように、自分の置かれた場所を引き受け、神が備えてくださっている恵みと祝福を受けつつ、ひたすら荒野を生きていくのも人生です。いずれであろうとも一度きりの人生です。どう生きても一度きりです。


 

2015年12月6日

「荒れ野で神と出会う」

【新約聖書】マルコの福音書1章1~8節

 とかくに人の世は住みにくい。悲しみあり、争いあり、不安あり、病気あり、そして人は誰もが老います。悩みに事欠かない、それがまさにわたしたちが身を置いている人の世でありましょう。「世では悩みがある」といわれたキリストの言葉とおりです。この世はけっして満ち足りたオアシスのような場所ではなく、いわば荒野のような場所だと思うほうが現実的です。誕生から今日まで、わたしたちの誰もがこうした荒野を生きてきました。悲しみを負い、病気を負い、不安と恐怖のなかにも置かれ、ときに裏切られ、あるいは裏切り、この世という荒野を生きてきました。

 こうした荒野の人生において、わたしたちに決定的な影響を与えるもの、それは出会いと別れです。親、兄弟姉妹、学校の先生、友だち、伴侶、あるいは動物や自然、書物や仕事などにも、出会いと別れがあります。こうした出会いと別れをとおして、わたしたちの誰もが人生を問いつつ、歩みを重ねています。そして様々な出会いと別れを経験するなかで、誰もが必ず、自分の人生に決定的な影響をもたらした出会い、あるいは別れの体験を持っていると思います。

 《荒野で呼ばわる者の声がする》。洗礼者ヨハネは荒野に登場します。荒野で神の言葉を人々に伝えています。荒野でこそ、神の言葉がわたしたちにもっとも確実に届くからです。荒野でこそ、わたしたちの心と魂がより切実に神の言葉を求めるからです。ヨハネは人々に告げました、《この荒野に正真正銘の救い主がおいでになる》と。

 思えばわたしたちが聖書を手にとり、神の言葉に真剣に耳を傾け、真実の神と出会うのは、いつも深刻な荒野に投げ込まれたときです。満ち足りた状況のなかでは、人は聖書を手にとることはあまりなく、真剣に神の言葉に耳を傾けることはほとんどありません。悲しみのなかで、不安のなかで、病気のなかで、死を前にした恐怖のなかで、人の魂は神を求めます。荒野でこそ、わたしたちは真実の神を求め、神の守りと恵みを求めます。

 この世は荒野です。でも荒野でこそ、わたしたちは真実の救い主と出会います。そして荒野でこそ神の言葉を聞き届け、わたしたちの荒野での歩みは再び始まります。夕となり、また朝となります。荒野はこの先も続くとしても、荒野で神と出会ったわたしたちには、もはや神との別れはありません。生涯、御国に入れられてのちも永遠に、神はわれらと共にいてくださいます。神の愛から、わたしたちを引き離すものはなにひとつないのですから。


 

2015年11月29日

「ひとあし、ひとあし」

【新約聖書】マタイの福音書21章1~11節

 『主がお入り用なのです』。この言葉によって、つながれていたろばが解放されます。思えば、わたしたちもいろいろなものにつながれています。そもそも生きているとは、この世につながれていることなのかもしれません。悩みにつながれ、悲しみにつながれ、病につながれ、あるいは不安や恐怖につながれることも多い。

 悩みのない人はいません。悩みで苦しまない人はいません。悩みのない人生などあり得ません。わたしたちは簡単にこの世の様々な悩みにつながれてしまいます。つながれて身動きができなくなってしまいます。生きているかぎり、悩みはあって当然ですし、悩みに苦しむのは当然のことです。自分だけが弱いせいでも、信仰が足りないせいでも、祈りが少ないせいでもありません。そもそもわたしたち人間は弱く、
もろいからです。

 『主がお入り用なのです』。キリストはひとりひとりに生きる意味を与えておられます。キリストはいつもあなたを招き、あなたを求めておられます。悩みにつながれて身動きが出来ないでいるひとりひとりの魂に、キリストはいつも愛のまなざしをそそぎ、やさしさに満ちあふれた声で語りかけておられます『わたしの愛する子よ。わたしはあなたを必要としている』。 

 このキリストの言葉を聞くとき、わたしはいつもフランクルの次の言葉を思い起こします。「どんな時にも人生には意味がある。誰かがあなたを待っている。なにかがあなたを待っている。その誰かのために、そのなにかのために、あなたにはできることがある」。

 ここでおぼえておきたいことがあります。それは「誰かのために」というときには自分自身もそこには含まれているということです。自分が愛するべきもっとも身近な隣人、それは自分自身だからです。ところがとかく自分のことを素通りしてしまったり、自分のことをないがしろにしている場合がじつに多いものです。ときに、あなたの愛を一番待っている人は、ひょっとしたら、あなた自身なのかもしれません。

 『主がお入り用なのです』。待降節第一週は、このキリストの言葉に耳を傾けつつ歩みます。キリストは誰かのために、あるいは何かのために、あなたを必要としておられます。今、誰があなたを待っているのか、何があなたを待っているのか、そして自分に出来ることは何か。行動を起こす前に、まず主の前に静まってそれぞれに考えてみたいと思います。


 

2015年11月22日

「みこころのままに」

【新約聖書】マタイの福音書8章1~13節

 《主よ、みこころでしたら・・・》と、病気をかかえる男はキリストの前にひれ伏して言いました。病気は癒やされたいと願うのが人情です。だれもそうです。しかし彼は自分の願いをけっしてキリストにごり押しはしません。ローマ人の百卒長も、病気で苦しむしもべのためにキリストに病気の癒やしを願います。しかし、なにがなんでも癒やしてください!などとごり押しはしていません。この二人に共通するのは、あくまでも主のみこころにおまかせするという柔和な姿勢です。病気の癒やしは心から願うものの、自分の願いよりも、主のみこころを彼らはもっと大切にしています。主のみこころこそ、つねに最善であると信じているからです。

 わたしたちは様々な状況に置かれます。ときには無理矢理、否応なく置かれます。悩みのない人生などあり得ませんし、失敗もし、病気にもなり、悲しみを負い、最後は死を迎えます。とにもかくにも、否応なく置かれる場所で自分を生きていくほかにありません。置かれた場所で自分という花を咲かせるほかにありません。《主よ、みこころをなしてください》という祈りは、どのような状況に置かれても、《主よ、わたしの前を歩んでください。わたしは後からあなたについて行きます》という祈りです。そして《主よ、みこころをなしてください》と祈った瞬間から、《神は万事を益となるように導いてくださる》(ローマ書8章28節)という神のわざが始まっていきます。

 病が癒やされないとしても、《主よ、みこころをなしてください》と祈ることで、魂は主にある平安でつつまれます。自分の願い通りに事が運ぶことを多くの人は望みます。でも願い通りに事が運ばない現実であっても、主の愛とあわれみでつつまれています。導かれています。ですから現実は悩みと悲しみでつつまれていても、《主よ、みこころをなしてください》と静かに祈るなら、そうと祈った者でしか味わうことのできない主の平安が祈った者の魂をつつみます。必ず、つつみます。

 わたしたちの幸せは「願い通りに事が運ぶか、運ばないか」によるのではありません。「心と魂に平安があるか、ないか」によります。自分の願い通りに事が運んでも、魂はなお不安であることが多いものです。むしろ願い通りに事が運ぶほどに人間の魂は不安になり、かわいてしまうものです。

 《主よ、みこころをなしてください》と祈り、主の前に自分自身は一歩退くとき、主にある平安がわたしたちの魂をつつみます。たとい死の陰の谷に置かれても、この主にある平安はわたしたちをしっかりとつつみます。


 

2015年11月15日

「人生の基礎」

【新約聖書】マタイの福音書7章24~28節

 5章から始まる山上の説教も終わります。《イエスがこれらの言葉を語り終えられると》とあります。語り終えるとは、完成するとか、語り尽くすという意味の言葉です。主イエスは、父なる神の愛とあわれみをまさに語り尽くされたということです。

 山上の説教の最後はキリストの言葉を《聞いて行う》のか、それとも《聞いても行わない》のかが問われています。聞いて行うとは、キリストの語ってこられた言葉をおさなごのように信じて生きるということです。聞いても行わないとは、キリストの言葉を聞き流すだけで、信じないということです。

 山上の説教は祝福の説教であると何度も申し上げてきました。《心の貧しい人たちはさいわいである》で始まる山上の説教をとおして、キリストは余すところなく父なる神の愛とあわれみを語っておられます。語り尽くしておられます。今、あらためて自分自身に問いかけたいことは、《神の愛とあわれみが自分の人生の基礎になっているか?》です。基礎とは、自分を支えているものであり、自分の原点であり、出発点ということです。

 つらい時も、悲しんでいる時も、不安でふるえている時も、いつもインマヌエルの神がおられる、いつも神の愛とあわれみが注がれている。誕生から、歩みのすべて、死にいたるまで、いっさいが神の愛とあわれみに支えられ、つつまれている。自分のいっさいがっさいが、父なる神の愛とあわれみのうちにあり、自分の過去も、未来も、そして今も、自分のいっさいがっさいを主の愛とあわれみが支えてくださっている。そうと信じて生きている人は《岩の上に自分の家を建てた賢い人》とキリストは言われています。

 繰り返します。つらい時も、悲しんでいる時も、不安な時も、どんな時であっても、自分のいっさいがっさいは、父なる神の愛とあわれみにつつまれ、支えられている。キリストを信じて歩んでいる人も、なんどでもこの原点に立ち戻り、神の愛とあわれみが自分の基礎であり、出発点であることを確認しながら歩みをかさねます。《わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している》。この神の言葉をいつも思い越し、御国に入れられるまで歩んでまいります。

 父なる神の愛とあわれみこそ、わたしたちの土台であり、基礎であり、出発点であり、そしてわたしたちの歩みを根底から支える堅固な岩です。


 

2015年11月8日

「キリストをそぼくに信じる」

【新約聖書】マタイの福音書7章15~23節

《わたしに向かって、主よ、主よ、と言う者がみな天国にはいるのではなく、ただ天にいますわが父の御旨を行う者だけがはいるのである》。このような言葉を聞くと「自分は大丈夫だろうか?」などと不安になる方もいるかもしれません。

そもそもこの言葉はにせ預言者と呼ばれる人々に対してキリストが語っておられるものです。うわべだけでは、その正体がはっきりしない、いわゆる異端と呼ばれるカルト集団がそれに該当します。彼らも、主よ、主よ、と言います。そして表向きはとても熱心です。しかしキリストが指摘されているように、じっくりと注意深く時間をかけて見ていると、自然とその正体(実)が現れるものです。

 にせ預言者のことをここでは語っておられるのだから自分とはまったく関係ない、とも言えません。《天にいますわが父の御旨を行う者だけが天国に入る》という言葉が何を意味しているのか、わたしたちもきちんと理解しておかなければなりません。理解を誤ると、わたしたちも父なる神の御旨から逸れてしまいかねないからです。

 父なる神さまの御旨は、5章から始まる山上の説教をとおして、キリストが語ってこられたことです。《心の貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである》に始まる山上の説教は父なる神の祝福とあわれみに満ち満ちています。主の祈りにも父なる神の深い愛が込められています。わたしたちが何をしたとか、どうふるまったとか、そのようなこととは無関係に、父なる神はわたしたちを愛しておられ、あわれみを注ぎ、ゆるしてくださっています。だからこそ、今、わたしたちは在る。このことはすでに学んできたところです。

 父なる神が一方的に注いでおられる愛とあわれみをわたしたちがおさなごのように信じて受け入れることが神の御旨です。そして、こうした神の愛とあわれみを信じない、あるいは軽んじることが神の御旨に反することです。聖書ではそれを的はずれと言い、罪と言います。

 わたしたちはしょせんは人間、何をしても不十分でしかありません。たとえ神の名によって最高のわざをなしても、神の目から見れば不十分であり、五十歩百歩です。そんな人間のわざを聖なる神の前であれこれと申し述べても、自己満足でしかなく、それで御国に入れていただけることなどありません。

 肝心なことは、父なる神はいつも変わらずに愛してくださっている、かけがえのない者として大切にしてくださっている、そのことをそぼくに信じて歩んでいること、それこそが父なる神の御旨であるということです。言い換えるとそぼくにキリストの愛を信じて、御国を目指してひたすら歩んでいること、それが父なる神の御旨にそった歩みだということです。


 

2015年11月1日

「命にいたる門」

【新約聖書】マタイの福音書7章13~14節

 今年も召天者記念礼拝を迎えました。いつもお伝えしているように、すでにこの地上での歩みを終えられた方々は、聖書の約束にしたがって、天の御国で安らいでおられます。キリストが責任をもって御国へ導いておられます。だから心配はまったくいりません。心配すべきは、さて自分自身は御国への備えが出来ているか、です。

 先日も宮崎で痛ましい事故がありました。車が歩道を暴走し、歩道にいた二人の方が亡くなりました。残された家族の方々の悲しみを思うと胸が痛みます。何の前触れもなく、死は訪れることがあります。突然の事故や事件、自然災害に巻き込まれて、命を落とすことがあります。まさにメメント・モリ(人は死を背負って生きている)です。

 聖書は記しています。「人間には一度死ぬことと、死んだのちに神のさばきに会うことが定まっている」。元気で若いうちは、あまり自分の死など意識しません。生きるのに精一杯だからかもしれません。人生の前半期はそれでいいと思います。しかし人生も折り返し地点を過ぎて後半期に入ると、どうしても死を意識するようになります。親の死をはじめ、人の死に出会う機会が増えるからです。ただし仕事や子育てなどで忙しいこともあって、ふとよぎる死への不安もすぐに忘れてしまう人が大半だと思います。

 狭い門から入れ。キリストの有名なことばです。人生にはいろいろな門がありますが、だれもが例外なく通らねばならない狭い門があります。それは自分の死という門です。自分はもとより、自分の子や孫も、誰もが等しく、その人自身の死の門をくぐらねばなりません。他人が代わることはできません。自分の死は自分だけの門であり、それにどう備え、どうくぐり抜けるのか、その鍵は自分だけが握っています。

 死は門です。つまり死はすべての終わりではなく、死の門の先にはまた別の世界があります。聖書ははっきりと語っています。キリストを信じて死の門を通った人は、もれなく永遠のいのちの世界へ導き入れられる、と。キリストを信じる人はいつ死んでも天国です。別に立派な行いをしたとか、善行を積んだとか、そのようなことはまったく関係ありません。キリストを信じているか信じていないか、ただそれだけで死の門の先に天の御国があるか、ないかが決まります。いわばキリストというお方は、天の御国への確かな水先案内人というわけです。

 キリストをすでに信じて洗礼を受けている人は安心してください。なにも心配はいりません。いつ死んでも天の御国です。安心して残された日々を精一杯歩んでください。まだキリストを知らない人は、ぜひこの機会に考えてみてください。メメント・モリ・・・死はいつ訪れるか、わかりませんから。


 

2015年10月25日

「求めつづけよ」

【新約聖書】マタイの福音書7章7~12節

 家計簿を創案し、自由学園の創立、友の会の設立などに尽力された羽仁もと子さんは17歳で洗礼を受けておられます。日本で初めての女性ジャーナリストとも呼ばれています。羽仁さんのことばに次のようなものがあります。「人間には二つの動力があります。一つは『よし、やってみよう』、もう一つは『やってもむださ』です。神に造られた人間の本来の姿は『よし、やってみよう。今日も生きてみよう』です」と語っておられます。

 とかく「やってもむださ」の否定的な思いが強くなります。どうして否定的な思いの方が強くなるのか。それは自分という人間の本来の姿が見えなくなるからです。神のまなざしが見えなくなってしまうからです。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語ってくださる主なる神のまなざしが見えなくなるからです。

 きょう、自分が生きているということは、自分の苦労がそれなりに報いられ、いろいろな場面でいろいろな人に助けられ、守られ、ゆるされてきたからです。自分という人間が愛されてきたから、そして今も愛されているから、だからこそきょうの自分があります。過去も、今も、そしてこれからも、愛されているからこそ、自分は在る。そのことが見えないうちは、どれほど年を重ねていても、その人の人生はまだ始まっていないと言ってもいい。わたしはそう思います。

 「求めよ、捜せ、門をたたけ、そうすればとびらは開かれる」。キリストの有名なことばです。求めつづけよ、捜しつづけよ、門をたたきつづけよ、と訳したほうがより原文に近いです。ここで肝心なことは、何を求めつづけるのか、何を捜しつづけ、何のために門をたたきつづけるのか、です。

 先回の笑天会で、自分の欲が求めるものと自分の魂が求めるものとは違っている場合が多いということを学びました。自分の魂が求めていることに関心を払わないまま、自分の欲のままに生きてくると、死を迎えたときに必ず後悔します。ところがなかなか魂の求めには無頓着なことが多いのがわたしたちでもあります。

 生まれた瞬間から死を背負って生きているわたしたちです。さて残された生涯、自分は何を求めて生きていきたいか。自分の魂は何を願っているのか。あらためて、ひとりひとりが主の前に静まって、自分自身に問いかけてみましょう。自分の魂が求め、願うものをこそ、ひたすら求めつづけ、捜し続け、そのためにこそ門をたたき続け、かけがえのない一度きりの地上での生涯を歩みぬき、御国へと凱旋したい。皆さんは、そう思いませんか? 


 

2015年10月18日

「豚に真珠」

【新約聖書】マタイの福音書7章6節

 先週は自分の目の中の梁(丸太)の話をしました。梁を取り除こうとしてもなかなかすぐに取り除けるものではありませんが、神のまなざしに触れ続けていると、次第に神のまなざしが自分のなかに養われるようになります。「わたしの目にはあなたは高価で尊い」という神のまなざしが、やがて自分自身のまなざしになります。自然と、自分の目の中の梁が細く小さくなり、代わりに神のまなざしが大きく太くなっていきます。

 目の中に梁があるのは自分だけではありません。ご安心ください。誰の目にも梁はあります。それを踏まえてキリストは語っておられます。「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな」。ちなみに日本には他に似たような表現として、猫に小判、馬の耳に念仏などがあります。

 自分の目に梁があると、相手が実際に何に悩み、自分の周囲で何が起きているのか、たしかなところがまったく見えていないことがあります。肝心なところが見えていないままに、よかれと思って行動してしまうと、的はずれの行動になってしまいます。親切心から相手に接しても、相手にとっては迷惑でしかない場合も多いものです。いくら高価であろうとも、相手が求めてもいないものをこちらが一方的に提供するなら、まさに豚に真珠、猫に小判です。

 逆に、相手の目の中にも梁があるゆえに、こちらがどれほど誠意を示しても、相手がまったく取り合わない場合もあります。謙虚な気持ちでこちらが助けの手を差しのばしても、相手にまったく理解してもらえない。むしろこちらの好意が踏みつけられたり、向きなおってかみつかれることも実際の人間関係にはあるものです。キリストのご生涯をみても、それがよくわかります。どれほどキリストが神の愛を説かれても、多くの人々はキリストを信じませんでした。それどころか、キリストを踏みつけ、キリストにかみつき、あげくの果てにキリストを十字架にかけてしまいました。人々の目の中に太い梁があって、神の御子としてのキリストの姿がまったく見えなかったからです。

 相手の目の中にある梁を無理矢理取り除こうとしても無駄です。こちらがどれほど誠意を尽くしたとしても、相手の目の中の梁が取り除かれることはまれです。人の目の中の梁を取り除くのは神のわざであり、わたしたち人間のわざではないからです。ですから相手の目の梁を取り除くために躍起になることはありません。自分の手にあまることまでする必要はありません。それは豚に真珠を与えるようなものです。キリストはそのようなことをここで語っておられます。

 わたしたち人間の愛には限界があります。限界があることをきちんと知った上で、自分に出来ることを果たせば、それでいい。あとは主なる神さまがとびらを開けてくださるのを信じて待ち望むだけです。 


 

2015年10月11日

「まず自分自身と向き合おう」

【新約聖書】マタイの福音書7章1~5節

 「自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてくださいと言えようか」。そもそも梁とは家の屋根を支えるための太くて頑丈なものです。もちろんそのような梁が実際の目の中に入ることなどありません。キリスト独特のユーモアを交えた指摘です。

 要するに自分の目のなかに梁があるとは、自分は見ているつもりでも、肝心なところはまったく見えていないということです。なお悪いことに、自分が見えていないことに、まったく気づいていない。そんな状態で、他人のことをとやかく言えるのか、他人のことをさばくことなどできるのか・・・それがここでキリストが指摘されているところです。

 福音書の中に「盲人が盲人の手引きをすれば、ふたりとも穴に落ち込んでしまう」というキリストの言葉があります。この言葉は、自分たちはきちんといつも真実が見えていると思い込んでいるパリサイ人たちに対して、キリストが言われたものです。とかくわたしたちも、自分のことは棚に上げて、他人を見て、すぐにさばいてしまいます。自分のことすら満足に見えていないものが、他人のことに口を出し、すぐに白黒つけるのはこっけいですらあります。「まず自分の目から梁を取りのけるがよい」。物事をどうのこうの言う前に、物事を見る目を養わなければなりません。ところが・・です。自分の目のなかの梁を取りのけるのはけっして簡単なことではありません。しかも年を重ねるほどに難しくなります。なぜなら目の中の梁とは、その人が自分の経験から積み重ねてきた知恵や知識、価値観、人生訓などであり、その人自身の物の考え方ともいえるからです。実際の家で言えば、もし梁を取り除けば家は崩れてしまいます。

 イザヤ書43章冒頭の神の言葉、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」、この神の言葉がなかなかピンとこない人も多いものです。この神の言葉がピンとこないのは、それほど自分の目のなかの梁が太くて大きいからです。自分の目のなかの梁がじゃまして、神がご覧になっているようには見ることが出来なくなっているからです。ところが神のまなざしに触れ続けていると、少しずつではあっても、神の言葉が心に響いてくるようになります。自分の目のなかの梁を取りのけるもっとも確実な方法は、神の言葉に触れ続けて、神の愛のまなざしを自分のなかに取り入れていくことです。すぐに物事に白黒つけないで、「キリストなら、どうご覧になるだろう?」と時間をとって静まり、祈ってみることです。

 信仰の旅路とは「ひょっとしたら、自分は肝心なことが見えていないかもしれない。キリストなら、どうご覧になるだろう」、そう祈りつつ、歩んでいくことです。


 

2015年10月4日

「思いわずらうな」

【新約聖書】マタイの福音書6章25~34節

 「あの時こうすべきだった」とか、「もしこんなことが起きたら」とか、不毛な思いわずらいに引きずり込まれることは誰もが経験するところです。○○○すべきだった、もし○○○になったら・・・「べき」と「もし」は、わたしたちをやり直しのきかない過去や手の届かない未来へ引きずり込んで、身動き出来ないようにしてしまいます。これが人生最大の敵とも言うべき思いわずらいの実態です。

 「空の鳥を見るがよい、野の花を見るがよい」とキリストは言われます。空の鳥、野の花を見るとき、わたしたちは何をそこに見て、感動するのでしょうか。空の鳥も野の花も今日という日を思う存分に生きています。神さまに置かれた場所で、今日という日を生き抜こうとしています。明日は命がないかもしれない、花は落ちてしまうかもしれない。でも鳥も花も、そのようなことはすべて神にゆだねて、今日という日を見事に生きています。きっとそのような姿を見て、わたしたち人間は感動するのではないでしょうか。

 「思いわずらうな」。キリストは七回も繰り返して語っておられます。それほどわたしたちは思いわずらいやすいからです。思いわずらいは不毛です。命の輝きを失わせ、今日を生きる力をわたしたちから奪い取ってしまいます。思いわずらいはとても手ごわく、がむしゃらにふりほどこうとしても、ひたすら忘れようとしても、すべて無駄です。あとからあとから思いわずらいは追いかけてきます。どうすればいいのでしょうか。

 「まず神の国と神の義を求めよ」。思いわずらいからの解放はこれに尽きます。まず神のみまえに一人静まります。そして思いわずらいの原因となっている出来事に真正面から向き合います。あるがまま見すえます。すると必ず気づくはずです。思いわずらいの根底には恐れの感情があるということを。この恐れの感情こそが、思いわずらいの正体です。

 静まって、主なる神の助けを求めます。神の言葉を求めます。魂に語りかけてくださる神の愛の言葉をひたすら待ち続けます。「まず神の国と神の義を求めよ」とはそうすることです。やがて必ず、神の言葉が注がれます。「恐れるな、わたしがあなたを救った」「力にあまる試練を与えることはない」「夕となり、また朝となった」「わたしはあなたを愛している」・・・与えられる神の言葉は様々です。主なる神の言葉は生きて働き、神の言葉を聞き届けたとき、恐れは去り、心は平安でつつまれます。

 一度平安につつまれた心も、すぐにまた思いわずらいによって不安になります。ですから神の愛の言葉を、四六時中、何度も何度も自分自身へ語り聞かせることです。ひたすら神の言葉にしがみついて歩むことです。思いわずらいそうになったら、すぐに神の言葉を口にします。そうこうしているうちに、思いわずらいは完全に去り、恐れも消え、ほんとうに解放されます。まさに主を信じる信仰の勝利です。 


 

2015年9月27日

「あなたの宝はどこにある?」

【新約聖書】マタイの福音書6章19~24節

 「あなたにとって大切なものは何ですか?」と聞かれたら、どう答えますか。健康、仕事、もちろん家族、自分の趣味・・・などなど、たいていの人はいくつかの大切なものを答えると思います。では、「あなたにとって、もっとも大切なものは何ですか?」と聞かれたらどうでしょう。迷わず、すぐに「これです!」と答えることが出来る人はどれほどいるでしょうか。もっとも大切なものは?と聞かれると、はたと考え込んでしまいませんか。皆さんはいかがでしょうか。

 「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、それが何になろうか」と聖書は語ります。これには誰も異論はないと思います。ということは、もっとも大切なものは自分の命なのでしょうか。もちろん・・・その通りです。昔から、命あっての物種といわれるように、何事も命があってのことです。しかしながら実は問題はここからなのです。

 ご承知の通り、キリストはご自分の命を十字架上で献げてしまわれました。大切なご自身の命を献げてしまわれたのです。聖書の核心とも言うべきこの出来事は、わたしたちに次のような真実を告げています。それは、自分の命はたしかに大切な宝ものに違いありません。しかし命よりもさらにもっと大切なものがある。生きるとは命より大切なもののために生きることであり、命はそのために献げるものである・・・ということです。

 自分の命が一番大切だと思うばかりに、わたしたちは自分の命を肥やそうとして、お金を蓄えたり、名声を得ようと躍起になったり、他人のことなどお構いなく、あるいは死から目をそらして、ひたすら生きてしまうところがあります。「地上に宝(命)をたくわえる」とは、そのような生き方です。自分の命を大切に思うあまり、かえって命そのものが輝きを失い、虫が食い、さびついてしまうわけです。

 「天に宝(命)をたくわえなさい」とは、命よりもさらにもっと大切なものがあることに気づいて、自分の命は天の父なる神さまにまかせて、この地上にあっては、命よりももっと大切なもののために生きるということです。誰かのために、何かのために、必ず自分の命が役に立つことがある。そのように生きるとき、きっとわたしたちは生きがいをおぼえ、自分が生きている、いや生かされていることを実感し、喜びを得ます。「目が澄んでおれば、全身が明るい」とは、目が澄んでいたら、命よりももっと大切なものが見える。命より大切なものを見ながら、そのために命を献げて、生きる。そのように歩んでいる人は、手ごたえのある生きがいと喜びを全身で感じているはずです。

 さて、今の自分にとって命よりもさらにもっと大切なものは何か。それぞれに心の目を澄ませて、考えてみましょう。それは抽象的なものではなく、具体的なものです。もし見えないなら、静まって、命よりも大切なものをまずきちんと見すえるところから始めましょう。


 

2015年9月20日

「笑顔で歩もう」

【新約聖書】マタイの福音書6章16~18節

 十字架を思い描いてみてください。十字架はたて棒とよこ棒とからなっています。たて棒は主なる神さまと自分をつなぐものです。よこ棒はこの世の人々と自分とのつながりを象徴しています。神さまを信じて歩むようになるとは、それまではよこ棒の世界しかなかった自分に、たて棒の世界が加わるということです。それまでのよこ棒にたて棒が加って十字架となります。十字架を負って生きるとは、そのような意味です。

 この世に生きるかぎり、神さまとのつながり(たて棒)も人々とのつながり(よこ棒)もどちらも大切です。しかしやはり、かなめは神さまとのつながり、すなわち十字架のたて棒の世界です。本日の箇所で「断食は周囲の人に知られないように行いなさい」とキリストは言われます。断食とか祈りは、たて棒の世界の出来事です。父なる神さまに自分の断食の意味や祈りを知ってもらえたら、それで十分です。「隠れた事を見ておられるあなたの父なる神は報いてくださる」からです。それなのに自分の行っている断食や祈りを周囲の人々に自慢して、人々からも称賛を得ようとするのは的はずれです。キリストはそのようなことをここで指摘しておられるのです。

 この世にあっては悩みがある、とキリストは言われました。たしかにこの世のいろいろな悩みにほんろうされ、わたしたちは傷つき、疲れ、倒れます。十字架のよこ棒とは「この世の悩み」と置き換えてもいいくらいです。そして、この世の悩みという、十字架のよこ棒を背負えるように、主なる神はわたしたちに十字架のたて棒を与えてくださっています。十字架のたて棒をとおして、主はいつもわたしたちに語りかけてくださいます、「あなたが耐えられないような試練を与えることはない」「わたしの目にはあなたは高価で尊い」「わたしはあなたに永遠のいのちを与える」などなど・・・。

 この世の人々から、そしてこの世の出来事から、わたしたちはたくさんの報いを受けています。しかし残念ながら、この世から得られる報いは、いずれも棺おけの手前までのものです。他方、神から受ける報いは、死をつらぬき、永遠の世界にまで及ぶ報いです。さらに、この世にあっては報われないこともたくさんあります。それどころか、誤解や災難を受けることだってあります。

 しかし神からの報いは違います。キリストは約束しておられます、「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださる」。わたしたちはもっと大胆に永遠につながる神からの報いを期待してもいい。死で終わってしまうこの世の報いよりも、死をつらぬく永遠の神の報いをこそ求めて、一度きりの生涯を歩み抜きたいものです。


 

2015年9月13日

「そぼくな祈り」

【新約聖書】マタイの福音書6章13節

 主の祈りをていねいに礼拝説教で取り上げてきました。本日はその最後の七番目「われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」です。おそらくこの祈りの意味を誤解している人も多いと思います。たとえば「わたしが悩みにあわないように」とか「物事が順調に運びますように」とか「今の悩みが早く解決しますように」という意味で理解している方が大半ではないでしょうか。じつはそうではありません。

 そもそも試みとはなんでしょうか。試みとは、神の愛からわたしたちを引き離そうとする出来事です。悪とはなんでしょうか。悪とは、神の愛からわたしたちを引き離そうとする力です。そしてここで覚えておくべき、とても重要なことがあります。それは同じ出来事が、わたしたちを神から引き離す出来事にもなれば、わたしたちをより神に近づける出来事にもなるという点です。

 作家三浦綾子さんは「氷点」で一千万円の莫大な賞金を得ました。夫の三浦光世さんは綾子さんが賞金を得る前から、賞金の使い道をすでにきちんと考えていました。「愚かな人間は急に大金を手にすると人生を踏み外すから」という思いからです。あるいは、まじめに働いていた人が数億円の宝くじが当選した途端に人が変わったようになり、人間関係も破綻し、人生を棒に振った人もいます。病気をとおして神と出会う人もいれば、病気をとおして神から離れてしまう人もいます。

 キリストが十字架にかけられたとき、キリストの両脇に二人の犯罪人が同様に十字架にかけられました。ひとりの犯罪人はキリストに悪口を言い続けるばかりでしたが、もうひとりの犯罪人はキリストに救いを求めました。同じ犯罪人でも、ひとりはキリストに背を向け、もうひとりはキリストに救いを求めたのです。

 「われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」という祈りは、弱く、愚かなわたしたちが、どのような状況に置かれても、神さまの愛からわたしたちが離れてしまわないことをそぼくに願った祈りです。自分の弱さや愚かさを十分にわきまえた、まさに信仰者の祈りです。

 悪魔はじつに巧妙です。どのような出来事でさえも用いて、どうにかして、わたしたちを神の愛から引き離そうとします。生涯、天に召されるまで、主なる神さまとともにあることを願い、そぼくに「主なる神さま、われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ」と祈りつつ歩みましょう。アーメン。


 

2015年9月6日

「ゆるしの中に立つ」

【新約聖書】マタイの福音書6章12節

 主の祈りの後半の二つ目の祈りは「われらに罪をおかすものをわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」です。まず確認しておくべきことは、父なる神のゆるしは、キリストを信じるだけで、無条件に与えられているということです。そもそもわたしたちは、父なる神の前に立つとき、ただ神のゆるしを一方的に受けるだけです。ルターはこの様子を「われわれ人間は父なる神の前では、まさにこじきに過ぎない。神のゆるしをただ受けるだけのこじきに過ぎないのだ」と表現しています。キリストを信じている者にとってはすでに神のゆるしを受けており、いつ死んでも天国です。心配はまったくいりません。ただし、わたしたちが地上を歩んでいる間、父なる神さまは主の祈りをとおして、わたしたちに求めておられます。それは「あなた自身もゆるす側に立ちなさい」ということです。

 神のゆるしを受け、救われたら、それで終わり・・・ではありません。父なる神は「あなたもまた、ゆるす側に立ちなさい」と願っておられます。ゆるす側に立ってみて、人をゆるすということがどれほど難しいことであるかがわかるからです。父なる神は愚かなわたしたちをゆるすために、命をおかけになり、大きな犠牲を払われました。そうした神の愛にすこしでも迫るためには、わたしたち自身がゆるす側に立たないといけません。

 そもそもゆるすとはどうすることでしょうか。聖書には「自分で復讐しないで、神の怒りに任せなさい。主なる神は言われる、『復讐はわたしのすることである』」とあります。ゆるすとは主におまかせする、ゆだねてしまうということです。では今週も主にゆだねつつ一日一日を歩みましょう・・・と言いたいところですが、事はそう単純ではありません。

 先月大阪の寝屋川市で起きた中学生二人が惨殺された事件は記憶に新しいと思います。たとえば惨殺された子供が自分の子供や孫だったらどうか。あるいは自分にとって大切な人だったら、はたして自分は犯人をゆるせるだろうか。むしろ大切な人であればあるほど、犯人をゆるすどころか、憎しみや怒りが大きくなるのではないか。人間の愛はなにかあると憎しみや怒りに変容してしまいます。わたしはここに人間の愛の限界を思います。

 ところが父なる神の愛は、なにがあろうとも、愛です。御子キリストがなぶり殺しにされても、父なる神の愛は微動だにしませんでした。人の愛は憎しみや怒りに変容しますが、神の愛はどこまで愛であり、なにがあろうとも愛です。神の愛は次元が違います。こうした神の愛ゆえに、わたしたちの救いはたしかなものとなっています。

 人の罪をゆるす側に立ってこそ、このような神の愛が見えてくる。そのためにキリストは主の祈りにこの祈りを加えられたのだと思います。そして誰もがこうした神の愛に目が開かれていくところから、自分もゆるす側に立って、生きるようになります。そしてすぐにわかります。ゆるすことによって、はじめて人は解放され、自由な身となり、喜びと感謝でつつまれた生涯を歩むことができることを。


 

2015年8月30日

「日ごとのかて」

【新約聖書】マタイの福音書6章11節

 「思い煩う」と「心配する」の違いはなんでしょうか。思い煩うとは悩みにただ振り回されているだけです。心配するとは悩みを見すえ、今の自分に何が出きるのか、考え、行動することです。同様に「後悔する」と「反省する」の違いはなんでしょうか。後悔するとは過去をただ嘆き、過去にとらわれ、振り回されているだけです。反省するとは過去を真正面から見すえ、今の自分に出来ることは何か、徹底的に考え、行動することです。

 申し上げたいことは要するに今の自分がすべての鍵を握っているということです。昨日でも明日でもなく、今日という日がすべての鍵を握っているということです。今日という一日をどう生きるのか、すべてはここにかかっています。だからこそ「メメント・モリ 来る日も来る日も今日が最後だと思って生きよう」という言葉が響いてきます。

 「わたしたちの日ごとの食物をきょうもお与えください」。全生涯の食べ物をまとめて、ではありません。日ごとの食べ物を、です。ですから、この主の祈りをわたしたちは来る日も来る日も祈らなければなりません。明日の分の食べ物については明日祈ります。一週間分の食べ物をまとめて祈り求めることはできません。「日ごと」の食べ物を、「きょう」お与えくださいと、来る日も来る日も毎日祈ります。

 わたしたちの人生において、つねに鍵を握っているのは今日という日です。今日という日をどう生きるのか、何を思い、どう判断し、実行するのか。過去を生かすも殺すも、将来を生かすも殺すも、すべて今日を生きる自分が鍵を握っています。かけがえのない今日という一日を生きるために、主なる神さまは日ごとのかてを備えておられます。それは口から入れる食べ物だけでなく、わたしたちの心と魂を支える食べ物もふくまれています。誰かの笑顔や、ありがとうのひと言、花や鳥の鳴き声、あるいは知恵や知識などもそうでしょう。もちろん聖書の言葉もそうです。

 どうして「日ごとのかて」なのか。それは毎日が違う日だからです。昨日も今日も明日も、同じ24時間ではあっても、表情が違います。メメント・モリを意識して歩むと、日々の表情が違うことがより鮮明に見えてきます。苦しいだけの一日もあれば、うれしさ一色の一日もあります。体調や思い、気分は毎日違います。それはわたしたちが生きている証しでもあります。だからこそ主なる神さまは今日という一日にふさわしい日ごとのかてを備えて、わたしたちを養われるのです。そして、きょうのかてはまさに「きょう」味わうべきかてであり、明日は明日にふさわしい日ごとのかてが備えられています。

 さて、主なる神さまは、今日はどのような日ごとのかてを備えてくださっているでしょうか。きちんと日ごとのかてを味わうために今日も祈りましょう。「主よ、わたしたちの日ごとのかてをきょうもお与えください」。


 

2015年8月23日

「神の愛に生きる」

【新約聖書】マタイの福音書6章10節

 「明日はどうなるのかと悲観しながら、当然明日も生きていると楽観している」。なかなかうまい表現です。明日生きているという保証はありません。生きていると思い込んでいるだけです。明日の保証はないのに明日のことを思い煩ってしまう。こっけいですらあります。「来る日も来る日も今日が最後と思って生きる。そう生きていたら必ずその日が訪れる」。これはアイフォンで有名なアップル社の創業者スティーブ・ジョブズ氏の言葉ですが、まさにメメント・モリを生き抜いたひとりだと思います。これらのすべてはキリストの言葉、《明日のことを思い煩うな。労苦はその日一日だけで十分である》に通じています。明日のことを思い煩う暇があったら、今日を精一杯生きなさいということです。本日午後の笑天会では、足腰そして頭がそれなりに達者な今をどのように生きれば悔いは少なく、喜びの多い人生となるのか、一緒に考えてみたいと思います。

 《みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように》。ここで誰もがそぼくに思うのは、みこころとは何か、です。わたしたちは人のこころなど、なかなかわかりません。自分のこころすら、ときにわからなくなります。ましてや主なる神さまが何を思っておられるのか、神のみこころは何か、そう簡単にわたしたちにわかるはずがありません。みこころと言いながら、多くの場合、たんに自分の思いを語っているだけに過ぎません。ですから軽々しく「それは神のみこころだ」とか「それはみこころではない」などと言うものではありません。
 
 《みこころが地にも行われますように》とは主なる神のこころがわかろうがわかるまいが、主を信頼して、みこころが行われることを願うということです。これは主はいつも最善を導いてくださることを信じる信仰者の祈りです。

 ただし、たったひとつだけ、はっきりしている神のみこころがあります。それは主なる神さまがわたしたちをどのようにご覧になっているか、です。《わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している》。このわたしたちへの神のみこころだけは、つねにはっきりしています。何があろうとも変わることはありません。

 《みこころが、地にも行われますように》という主の祈りには、主のみこころはわからなくても、みこころはいつも最善であると信じて、この世界でもみこころが行われることをそぼくに願う気持ちが込められています。そしてもうひとつ、《わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している》と語ってくださっている、いつも変わらない主のみこころをおぼえて、できる限りこの主のみこころにふさわしく生きていこうとする信仰者の願いが込められています。


 

2015年8月16日

「神の国に生きる」

【新約聖書】マタイの福音書6章10節

 《御国がきますように》。御国は神の国とか天の御国とも言われます。キリストを信じている者たちがこの世の旅路を終えて、やがて入れられるところでもあります。ただし、御国(神の国)をていねいに翻訳すると《神の愛によって支配されること》です。ですからわたしたちが死んだ後に入れられる永遠の世界のことだけでなく、この現実の世界にあって、わたしたちの誰もがが神の愛による支配をひたすら願うのであれば、そこに神の国が実現します。もちろん私たち人間は身勝手ですから、この現実の世界に実現する神の国は不完全で長続きするものではありませんが。

 人間社会では衝突は避けられません。家庭でも会社でもキリスト教会でも、人が集まる所、衝突は避けられません。衝突のない人間社会などありません。この実社会で、なかなか神の国が実現されないのは、それだけわたしたち人間は身勝手で、自分のことしか考えられない罪人だからです。

 人間社会での衝突は避けられませんが、ここで肝心なことは、衝突そのものよりも、衝突後の対応です。衝突後の対応次第で、人間関係がより深まりもすれば、破綻もします。さらに話を拡げましょう。人生には悩みがあります。悩みは避けられません。事故にも遭い、病気にもなります。理不尽な事件に巻き込まれることだってあります。悩みは尽きないのがわたしたちの置かれている実社会です。しかしここで肝心なことは、悩みそのものではなく、悩みをどう受けとめ、それにどう対応するのか。対応次第で、同じ悩みであっても、人生がより輝くこともあれば、逆に人生そのものが破綻してしまうこともある。

 《御国を来たらせたまえ》という祈りは、今自分が置かれている局面に神の御手を求める祈りです。自分の思いや感情はさておき、まず神の前に静まり「主よ、このような局面で、あなたならどうなさいますか?」と神の介入を求める祈りです。《御国を来たらせたまえ》とは、そのような意味をもった祈りです。自分の思いや感情を投げ出してしまい、神の思いに耳を開き神の知恵を求めようとする信仰者の祈りです。
 
 とかく自分の思いにとりつかれ、感情的になりやすいわたしたちです。《御国を来たらせたまえ》という祈りは、とりつかれた自分を突き放し、冷静な自分を取り戻すための祈りです。なぜなら《御国を来たらせたまえ》と祈りながら、同時に争うことは出来ないからです。《御国を来たらせたまえ》という小さな祈りは、衝突や悩みが避けられない人間社会にあって、さらなる争いや破綻からわたしたちを守るためのキリストの知恵が込められた祈りであると思います。何かの拍子に高慢になり、怒りや憎しみの感情にとりつかれそうになったらすぐに祈りましょう、《主よ、御国が来ますように》と。


 

2015年8月9日

「神の名をあがめよう」

【新約聖書】マタイの福音書6章9節

 《天にましますわれらの父よ》という主への呼びかけに続き《御名があがめられますように》という祈りをもって主の祈りは始まります。文語訳では《願わくは御名をあがめさせたまえ》です。ただし原文ギリシャ語から直訳すると《御名が聖なるものとされますように》となります。聖なるものとは、本質的に違う、別格の存在であるという意味です。主なる神はまさに別格のお方であり、他に比較しうるものはなくそれゆえに《あがめられるべきお方》ということです。こうして《御名があがめられますように》という意訳が歴史的に定着することとなりました。いずれにせよ、主イエスが主の祈りの最初に《御名があがめられますように》という祈りを置かれたことには深い意味があります。

 日常わたしたちの口から出る祈りのなかに《御名があがめられますように》という祈りはどれほど登場するでしょうか。病気が癒やされたときや、災難から守られたときなどは元気よく!?「御名をあがめます!」などと祈れるかもしれません。しかし大きな悩みや悲しみ、不安の中に置かれたときはどうでしょうか。「主よ、御名をあがめます。あなたのような方は他にはおられません」とはなかなか祈れないのではないでしょうか。むしろ心のどこかで「主の御名を信じても信じていなくても現実は変わらないのではないか」などと不平や不満を言って、神の御名をあがめるどころか、汚してしまうほうが多いのではないでしょうか。そもそも《御名があがめられますように》とは、どのような意味が込められているのでしょうか。

 この祈りの意味を考える前に、聖書が語っている希望について知っておかねばなりません。わたしたちの置かれている現実は悩みに満ちており、ときに理不尽でもあります。生涯、悩みは尽きることはありません。わたしたちにとって希望とは、状況が今より良くなるとか、まだ先がある、などという甘い、悠長なことではありません。では希望とは何でしょうか。わたしたちにとって希望とは、結局のところ、聖なる神がおられるということです。しかも聖なる神がインマヌエルの神となられ、われらと共にいてくださる、これが希望です。

 《御名があがめられますように》と祈るとき、わたしたちの心は地上のもろもろから離れ、天にいます聖なる神に向きます。つまりこの小さな祈りは、この世の悩みや悲しみに取りつかれているわたしたちの心を、それらから引き離し、父なる神とつなぐものです。《聖なる神がおられる、そして今もわたしと共にいてくださる》、この希望をわたしたちが取り戻すための祈り、それが《御名があがめられますように》という祈りです。

 この世の悩みや悲しみに取り込まれ、父なる神がおられることをすぐに忘れてしまうわたしたちです。そうした弱いわたしたちのためにこそ、主イエスは主の祈りの冒頭にあえて《御名があがめられますように》という祈りを置かれたのだとわたしは思います。ここにも主イエスの大いなる愛と恵みを思わざるを得ません。


 

2015年8月2日

「天の父と呼ぼう」

【新約聖書】マタイの福音書6章9節

 これから7回の礼拝説教で主の祈りを取り上げます。最初は《天にいますわれらの父よ》です。文語訳では《天にましますわれらの父よ》となっています。主なる神へのこの呼びかけによって主の祈りは始まりますが、この短い呼びかけのなかに、じつに深い神の愛と恵みがつまっています。

 天とはどこでしょうか? 天に対して、わたしたちが身を置いている世界は《地》と呼ばれています。天とは宇宙のことではありません。天とは、わたしたちが身を置いているこの世界とは根本的に次元の異なる場所とでも言えます。人間がどう頑張ってみてもけっして手の届かない場所です。それが証拠に、わたしたちがこの地上に生きている間は天の御国には入ることはけっしてできません。

 《天にまします》とは、主なる神というお方は、本来、わたしたちの手の届かない所におられるという意味です。しかしこのように天におられる方が、身を低くして、わたしたちに近づき、寄り添ってくださる神(インマヌエルの神)となられたことを福音書は伝えています。なんとも畏れおおいことです。

 続いて《われらの父よ》です。わたしだけの父ではなく、わたしたちすべての父です。われらの父の《われら》とは、すべての生きとし生けるもののことを表しています。キリスト教徒だけの神ではありません。宗教を問わず、人種を問わず、文字通り全ての人の神であり、父であられることを告げています。ですから《われらの父よ》と祈るときは、生きとし生けるものの全ての父であることを思い、祈らなければなりません。

 さらにここで覚えるべき真実は、そうした唯一の創造主であられるお方に向かって、《父よ》とわたしたちは気安く呼びかけることがゆるされているということです。わたしたちは主なる神から見れば、吹けば飛ぶような小さな弱い存在です。でも、そのようなわたしたちが天にいます唯一の創造主に向かって、《父よ》と呼びかけることができる。なんと幸いなことでしょうか。

 《天にまします我らの父よ》。この短い祈りから、くめども尽きない神のあわれみがあふれ出ています。 


 

2015年7月26日

「主の祈り」

【新約聖書】マタイの福音書6章7~15節

 多くの人にとって主の祈りは神さまを信じて歩むようになって最初におぼえる祈りだと思います。主の祈りをこれから7回に渡って礼拝でお話しします。祈り慣れている主の祈りをとおして、新たな神の恵みにせまりたいと願っています。

 主の祈りは福音の要約であるといわれます。福音とは《喜びの知らせ》という意味ですが、宗教改革者マルチン・ルターは福音の本質は神のゆるしであると指摘しています。神はわたしたちをゆるしておられる。わたしたちがどんなに弱く、愚かであろうとも、神はゆるしの光のうちにわたしたちを置き、わたしたちの歩みを導いてくださっています。神のゆるしをただ信じるだけで、天の御国も約束してくださっています。

 ここで大切なことは、自分には今、神のゆるしの光が見えているか、ということです。あるいはこれまで多くの人々にゆるしてもらって、今の自分があります。そのような真実がきちんと見えているか。こうしたゆるしの光が見えなくなると、わたしたちは傲慢になり、すぐに人を裁いたり、責めたり、非難するようになります。

 《あなたがたが人々をゆるすならば、天の父もあなたがたをゆるしてくださる。ゆるさないならば、天の父もあなたがたをおゆるしにはならない》。ここでキリストは、ゆるしの光を忘れがちなわたしたちにひとつの忠告をしておられます。それは《ゆるす側に立ってみよ》ということです。徹底して、ゆるす側に立ってこそ、人をゆるすためにはどれほど忍耐を必要とし、我慢し、つらい思いをしなければならないかがわかる。ゆるす側に立つとは、けっして相手を裁かず、寄り添い、愛を持って接することです。

 主なる神さまは、わたしたちをゆるすために、大きな忍耐と犠牲を払われました。また、わたしたちの誰もが、今までの生涯で、いろいろな人々に迷惑をかけ、心配をかけ、そしてゆるしてもらってきたはずです。そうであるからこそ、今の自分があるはずです。

 今の自分があるのは、そのような神と人々のゆるしがあってこそです。ゆるしの光があってこそです。だれかを非難し、裁いているときは、このゆるしの光を見失っています。主なる神さまの福音を見失っています。 


 

2015年7月19日

「父なる神に祈る」

【新約聖書】マタイの福音書6章1~6節

 偽善者という言葉が登場します。偽善者とはもともとは舞台役者のことだそうです。舞台役者(偽善者)にとって、もっとも気になるのは観客の反応であり、評価です。いい演技をすれば観客からは称賛されますが、そうでなければ非難をあびます。
 わたしたちの置かれている現実は、大なり小なり、舞台のようなものかもしれません。だれもがそれぞれに肩書きという役割を背負って生きています。家では父親の顔、会社では仕事の顔、遊び仲間の間ではまた別の顔があります。それぞれの顔にふさわしく自分を演じ分けて生きています。この意味で、だれもが舞台役者であり、偽善者です。

 実生活では、自分の肩書きにできるだけふさわしく自分を演じなければなりません。好き勝手にしたら、まわりの人々から非難され、相手にされなくなります。そうならないために、言いたいことも言わず、忍耐して、自分を生きているのが現実です。偽善者と言われたらその通りですが、偽善者として生きて行かざるを得ない現実があります。

 『あなたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所においでになる父なる神に祈りなさい。父なる神が報いてくださるであろう』。これはとても慰めに満ちたキリストの言葉です。父なる神の前では役者を演じる必要はありません。偽善者になる必要はありません。自分をかっこつけたり、良く見せようとする必要はまったくありません。父なる神の前では、遠慮なく愚痴を言ってもいいし、怒ってもいいし、泣いてもいい。どんな自分であろうとも、父なる神はけっして見捨てず、見放さず、神のあわれみでつつんでくださいます。安心してください。

 大切なことは、日常生活のなかで、父なる神の前に静まり、ありのままの自分でいられるための時間をどれほど持っているか、です。肩書きを取り払い、ひとりのかけがえのない素の自分に戻り、思いのままを父なる神に祈るために、どれほどの時間をささげているでしょうか。

 周囲にだれかいると、父なる神の声がなかなか聞き取れません。たとえば誰もいない礼拝堂の椅子に自分だけすわってみます。あるいは顔見知りの人がまったくいない場所に自分の身を置いてみます。あるいは戸を閉じて自分だけの部屋に入ります。その上で、ひとり静かに父なる神を思い、み言葉を思い巡らしてみます。心にわき起こる思いを、そのまま自由に祈ってみます。言葉にならない思いを、そのまま祈ってみます。時間を惜しまず、父なる神に祈りをささげます。祈るとは、こういうことです。キリストは約束しておられます、『隠れた所においでになる父なる神は、祈りに報いてくださるであろう』。

 わたしたちの信仰の歩みの源はこのような祈りにあるといっても過言ではありません。


 

2015年7月12日

「しかし、わたしは言う」

【新約聖書】マタイの福音書5章43~48節

 律法学者・パリサイ人たちを批判して、主イエスは「しかし、わたしはあなたがたに言う」と叫んでおられます。ここで主イエスが言われているのは「律法を守ることによって、神に認められ、神の救いを得られると言うのであれば、天の父なる神が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。具体的には「身近な者に怒りを発するな。いやらしい目で女を見るな。敵でさえも愛せよ。自分を迫害する者のためにも祈れ」などなど。このどれをとっても、とうてい守り通すことなど出来ません。時々なら守ることはできるでしょう。でも生涯をとおして完全に守り抜くことなど、わたしたちにはぜったいに不可能です。そもそも律法を守り通すことで神に認められるなど絵空事であり、幻想に過ぎません。的はずれです。

 キリストが批判しておられる律法主義は、現代の日本では合理主義という名で息づいています。たとえば人を判断するときに、その人は何が出来るのかに基づいて、その人を判断します。とても合理的な判断です。しかし、たとえば年をかさねると、以前はふつうに出来ていたことが当然ながら出来なくなります。出来ているうちは評価され、人として認められるが、出来なくなった途端に人としての認められなくなってしまう。都会の高齢者を地方へ移住させるという愚かな考えも、その根本には、体力が弱まり、生産能力がなくなった高齢者は人として価値がないとする合理主義の考え方があります。これこそまさに神の愛を見失った律法主義の現代版です。出来ようが出来まいが、自分が自分であることに違いはなく、その人がその人であることに変わりはありません。出来る、出来ないに関係なく、人としての意味や価値に変わりはまったくありません。これが聖書の告げる神の前に生きる人間の真実です。合理主義では高齢化社会は成り立たないと言ってもいいとわたしは思います。

 人を判断するとき、「何が出来る?」ばかり見てしまうと、ほんとうのその人自身が見えなくなってしまいます。そもそも自分にとって大切なその人は、何かが出来るから大切なのでしょうか。もしそうなら、出来ていたことが出来なくなってしまったら、もはや大切な人ではなくなってしまうのでしょうか。自分が大切なのは、自分が何かが出来るから大切なのでしょうか。もしそれが出来なくなってしまったら、自分はもはやお払い箱のような存在になるのでしょうか。

 自分にとって大切なその人は、その人がその人であるから大切なのであり、自分という人間が大切なのは、自分が自分であるから、ただそれだけで大切な存在です。「わたしの目にはあなたは高価で尊い」とは、この真実を告げる永遠の神の言葉です。


 

2015年7月5日

「ただキリストのあわれみによって」

【新約聖書】マタイの福音書5章17~21節

 当時のイスラエル社会には律法と総称される決まり事が山ほどありました。今の日本でも検事とか弁護士などの法律の専門家がいるように当時も律法の専門家がいて、律法学者とかパリサイ人と呼ばれていました。当時のイスラエルは律法をとても重んじる宗教社会でしたから、彼らは人々の実生活に大きな影響力を持っていました。

 律法とは一言でいえば、「神を愛するにはどうしたらいいか?」について事細かに記されたものです。神を愛せよと言われても具体的にどうしたらいいのか、わかりません。ですから「神を愛するとはこうすることですよ」と律法で具体的にまとめられたわけです。ですから律法は、人々が神を愛し、お互いに助け合って生きていくための具体的な愛の指針であり、とても意味あるものでした。キリストご自身も律法を大切にされ、重んじておられます。

 ところが当時の律法学者やパリサイ人たちは肝心かなめの大切な真実を見失っていました。これは、主なる神を知らない現代の一般の日本人はまったく知らない真実であり、あるいはもしキリスト教会がこの真実を見失うならば、当時の律法学者やパリサイ人らと同じ重大な過ちを犯すことにもなります。

 その真実とは、「キリストがこのわたしをどれほど愛しておられるのか」をまず知らねばならないということです。神に愛されている自分という人間はどれほどかけがえのない高価で尊い存在であるのか、この真実を徹底して知らねばなりません。自分の魂に焼き付けなければなりません。これを抜きにして、キリスト信仰はあり得ません。始まりません。キリストの十字架も復活もまったく意味がなくなってしまいます。

 繰り返しますが、キリストを信じる信仰の原点は、どんなときも今の自分はキリストに愛されていることを大胆に信じることです。これなくしてキリストを信じる信仰などあり得ません。この原点を見失ったキリスト信仰など、たんなる信仰という名の道徳でしかありません。当時の律法学者やパリサイ人が見失っていたのは、まさにこの信仰の原点でした。

 人は、愛されてはじめて愛するようになる。人は、ゆるされてはじめてゆるせるようになる。どんなときも寄り添ってくださる主なる神の愛を知って、はじめて人は安心して自分を生きるようになります。かけがえのない自分を知って、はじめて身近な人を大切にして生きるようになります。

 信仰の原点を忘れてしまった律法学者やパリサイ人らの義など、しょせんは中途半端な義でしかありません。それよりもはるかにまさっている救い主キリストの義を、わたしたちはただキリストを信じるだけで、受け取ることができます。これが福音です。良い知らせです。

 すでにキリストを信じている人は、いつ死んでも天国です。なんの心配もいりません。


 

2015年6月28日

「神があなたを輝かせる」

【新約聖書】マタイの福音書5章13~16節

 「はじめに神は天と地とを創造された」。創世記冒頭の言葉です。聖書はこの言葉をもって始まっています。以前にも申し上げましたが、すべての始まりに主なる神がおられ、わたしたち人間を含めて、すべてのものは神によって造られたものです。

 造られたものには意味があります。たとえば椅子も机もペンもノートもパソコンもすべて造られたものです。造られたものはすべて意味をもって造られています。わたしたち一人一人も神によって造られたものであり、それゆえに一人として例外なく、一人一人に存在の意味があります。これは人間の原点であり、出発点でもあるといっていいでしょう。

 キリストは言われました、「あなたがたは地の塩である。世の光である」と。塩も光も、他のものでは代用はできません。ですから塩も光もかけがえのないものです。ここでキリストはわたしたち一人一人は神によって創造された、かけがえのない存在であることをはっきりと宣言しておられるのです。現代の科学主義や合理主義によって、神を見失ってしまった多くの人々が、神を見失うことによって、自分という人間の意味を見失ってしまいました。ここに現代の大きな大きな落とし穴があります。

 現代のような合理主義の世の中では、人を評価するときに、「どんなことをしているか? どんなことができるか?」で判断してしまうところがあります。もしこれが正しい判断とすると、たとえば事故や病気あるいは老いなどによって、体の自由が奪われ、何もできなくなってしまったら、もはや人間のしての意味がなくなってしまうこととなります。もちろんそんな馬鹿なことはありません。年齢や状態を問わず、その人の人間としての価値に変わりはなく、「あなたがたは地の塩である。世の光である」というキリストの言葉はどのような状態のどのような人にも語りかけられているものです。

 さらにキリストは「あなたがたの光を人々の前に輝かし・・・」と語っておられます。誤解する人も多いのですが、自分で努力して、光り輝くのではありません。ここを直訳すると「あなたがたの光よ、輝け!」となります。つまりわたしたちの内にある光に向かって、キリストが「輝け!」と命じておられるのです。端的に言えば、キリストがわたしたち一人一人を輝かせてくださる、ということです。

 以上を踏まえて、わたしたちはそれぞれに一度きりの生涯を歩んでまいります。神に創造された、かけがえのない一人の人間として、御国に入れられるまで、自分をひたすら生きて行きます。なにもかっこつけることはありません。弱くてもいい。失敗してもいい。人生とは、キリストを救い主と信じて、自分の生涯を最後までまっとうし、御国へ凱旋することです。

 キリストを信じて、ひたすら生きていく。それがキリストの願いであり、16節で「よいおこない」と聖書が語っているところの人間の姿に他なりません。


 

2015年6月21日

「メメント・モリ」

メメント・モリとはラテン語です。直訳すると《あなたの死をおぼえよ》ですが、その意味をくみとると《次はないかもしれない》と訳することができます。あるいは《余計なことをしている暇はない》《死を背負っている》と訳してもいいと思います。

 人間は機械ではありません。ひとつのいのちをもって生きている存在です。わたしたちが生きているということは、つねに死を背負っているということでもあります。死をどれほど意識して歩んでいるのかについては個人差があると思いますが、背負っている死がいつ何時、眼前に来てもおかしくありません。老若男女をとわず、これは生きているわたしたちすべてに共通している人間の姿です。

 希望とはまだ先がある、まだ次があることだと一般的には思われています。しかしよくよく考えてみると、死をつねに背負っているわたしたちは《次はある。まだ先がある。》と断言はできません。阪神淡路大震災そして東日本大震災などの未曾有の出来事を例に出すまでもなく、わたしたちの人生は《次はないかもしれない》と描写する方がよりふさわしいのではないでしょうか。明日はないかもしれない、来年はないかもしれない・・・これがわたしたちが置かれている人生の真実であろうと思います。人はこの世にあっては必ず死を迎える。そして死を前にわたしたちは無力です。繰り返しになりますが、死を常に背負っているわたしたちにとっては次があるとは断言できません。

 聖書が語る希望とは、まだ次があるということではありません。聖書が告げる希望とは、死をつらぬいておられるキリスト、まことの救い主がおられるということです。もっと端的にいえば、《希望とはキリスト》です。そしてすでに学びましたように、キリストを信じるだけで、永遠のいのち・・・死をつらぬくいのち・・・が与えられます。肉体と精神はこの世の死によって滅びますが、永遠のいのちを受けた魂は、死をつらぬき、永遠の神の国へ入れられます。御国とも、天国とも呼ばれる永遠のいのちの世界へ入れられます。《いつ死んでも天国》です。

 わたしたちが地上に生きる間は、永遠の御国を目指して歩む旅人です。死をつらぬいた先に燦然と輝く永遠の御国を目指してひたすらわたしたちは歩みます。かけがえのないひとりの人間として、ひたすら自分に与えられた生涯を歩みます。主なる神さまが、それぞれに与えておられる命を天に召されるその瞬間まで、わたしたちは生きて行きます。


 

2015年6月14日

「人生はたった一度きり」

【新約聖書】マタイの福音書5章10~12節

 聖書が語る義(正しいこと)とは、道徳的に品行方正だとか、立派だとか、そのような意味とはまったく違います。聖書が言うところの義とは、神の愛を信じることであり、神の愛をおさなごのように信じて生きることです。
 ところが神の愛からわたしたちを引き離そうとする力がこの世界にはあふれています。神の愛からわたしたちを遠ざけ、引き離そうとする力のことを「迫害の力」といいます。戦争中はキリスト教会の礼拝には憲兵が同席し、反戦思想や天皇批判などに目を光らせていました。今の日本は宗教の自由、信仰の自由が憲法で保障されていますから、今はそのような意味での迫害はありません。しかし今の日本でも神の愛からわたしたちを遠ざけようとしたり、引き離そうとする様々な力があちこちで猛威をふるっています。

 日本は戦後急速に衛生環境が整い、栄養事情が格段に良くなりました。医学も進歩して結核などの感染症も治るようになりました。それによって急速に寿命が延び、人生50年から今や人生80年、90年となっています。それ自体はとても喜ばしいことですが、他方、死が限りなく遠ざかってしまいました。死が遠ざかることで、現代の日本人の多くは信仰から遠ざかり、神の愛から遠ざかっています。あるいは仕事も神の愛からわたしたちを遠ざけてしまうことがあります。仕事に没頭して多忙になると、人生についてとか、神の愛について、じっくりと考えてみることをしなくなってしまうからです。世間体といわれる得体の知れない力も、ときに神の愛からわたしたちを引き離してしまいます。その目で見ると、じつはいろいろなことが神の愛からわたしたちを遠ざけ、引き離してしまう力を持っていることに気づかされます。それらひとつひとつが、いわゆる現代日本で言うところの迫害の力と言えるのではないか、とわたしは思っています。

 キリストは言われました、「義のために迫害されてきた人たちはさいわいである。天国は彼らのものである」。神の愛からわたしたちを引き離すものにあふれている現代日本において、それでも神の愛を信じ、かけがえのない自分をひたすら生きてきた人たちはさいわいである、とキリストは祝福しておられます。天の御国はそのような人たちのものであると約束してくださっています。

 当たり前のことですが、わたしたちの人生は一度きりです。一方通行です。そして一度きりの人生をどう生きるも自由です。しかしたったひとつ、忘れてはならない神の真実があります。それはキリストが身代わりとなって十字架にかかってくださったほどに、それほどまでにわたしたちひとりひとりを神は愛しておられるという真実です。神の愛の前にひとりとして例外はありません。

 現実は、この神の愛からわたしたちを引き離そうとする出来事にあふれています。でも一度きりの生涯、同じ生きるのであるなら、神の愛を信じ、神に愛されている自分を精一杯生きて、御国へ凱旋したいと思います。皆さんはいかがですか。


 

2015年6月7日

「自分にもつくりだせる平和」

【新約聖書】マタイの福音書5章9節

 先週は神戸の三田キリスト教会に行ってきました。そこに太平洋戦争を体験された80歳半ばの元英語の先生がいらっしゃいました。広島出身の女性で原爆後の広島を知っておられる方です。戦争が終わって疎開先から広島に戻ってきた子供たちの親の大半が原爆で亡くなっていました。焼け野原の広島の姿を今でもその方は鮮明におぼえておられます。食べる物がまったくなく、野草を食べて毎日をしのいでいたとも言われました。「食べることのできる野草にはとても詳しいですよ」と笑顔をまじえておっしゃいました。そして言われました、「安倍さん(現首相)は何も知らない。戦争の悲惨さを少しでも知っていたら、戦争なんてぜったいに起こしてはならないと人間なら思うはずです」。

 「平和をつくり出す人たちはさいわいである」。当時キリストのこの言葉を聞いた人たちは、毎日生きるだけで精一杯の貧しいユダヤの人たちでした。ローマ帝国に支配され、律法にしばられ、自由も力もない民衆たちでした。「平和をつくり出しなさい」といわれても、何もしようのない弱い人たちでした。しかしキリストは出来もしないことを民衆に声だかに語っておられるのではありません。どんなに弱く、小さく、力のない人であろうとも、つくり出すことのできる平和がある。ここでキリストはそのことを語っておられます。いわばこれはキリストの励ましのメッセージです。

 すでにキリストはこう言われました、「悲しんでいる人たちはさいわいである」。世にあるかぎり悲しみは尽きません。天に召されるまで誰にも悲しみはつきまといます。でも悲しみこそが人と人とをつなぐ架け橋となります。国を越え、民族を越え、性別や年齢を越えて、人と人とをつなぐ架け橋となるのが悲しみです。悲しみは思いやりを生み出し、愛を生み出すからです。ところが悲しみは、憎しみをも生み出します。世界中の争いは悲しみが憎しみを生み出してしまった結果です。不幸にも、悲しみが生み出してしまった憎しみは、悲しみをあらたに生み出し、あらたな悲しみはさらに憎しみを生み出してしまう。まさに負の連鎖です。

 平和をつくり出すとは、現安倍内閣のように口先だけで世界平和のために!などと叫ぶことではけっしてありません。平和をつくり出すとは、人の悲しみに寄り添うことであり、自分が出会う人の悲しみの前に少しでも立ち止まってその人の悲しみに静かに寄り添うことです。人が人の悲しみに寄り添うところから、着実に平和が拡がっていく。わたしはそう思います。

 悲しみがけっして憎しみを生まないために、悲しんでいる人に寄り添い、悲しみが愛を生み出すことを心から願う。そう願う人こそが、ここでキリストが語っておられる平和をつくり出す人たちの姿であり、神の子と呼ばれる人の姿です。なにも大きな声で平和、平和などと叫ぶ必要はありません。ただ静かに誰かの悲しみに寄り添う。それは誰にでもできることであり、誰にでもつくり出せる平和です。



2015年5月31日  土屋清司兄 説教

「洗足」

 十字架前夜、イエス様は、その場にいた弟子達の足を、自ら洗われました。普通、このイエス様の洗足はイエス様が弟子達に愛を示されたとか、仕える者の姿勢を見せられたとかいうふうに言われます。

確かに、14節、15節を見ますと、「主であり、師である私が、あなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗うべきです。私は、あなた方に模範を示したのです」とありますから、確かにそれは合っています。

 でもそれは、イエス様の真の思いとしては、弟子達に愛を示そうとしてとか、模範を示しておいてやろう、などという上から目線の事ではなかったのではないでしょうか?つまり1節には「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」とあります。すなわち、イエス様は、弟子達を愛されていたのです。だが、自分は間もなく父のみもとに行く、すなわち、十字架の時が迫っているが故に、どうにかして、この弟子達を愛したい。もっともっと愛したい。だから、この弟子達の為に、何かして上げたい。

 その思いが、弟子達の足を洗うという行為となって、すなわち、愛の発露となってほとばしり出た、そういう事なのではないでしょうか? 愛するがゆえに、それは足を洗う事でも良い、料理を作る事でも良い。人を愛するという事は、その相手に対しての、なんらかの行為を発露せずにはいられない。そういうものなのではないでしょうか?

 ごちそうさんの言葉が聞きたくて、一生懸命料理をする。人の喜ぶ顔を見たくて、一生懸命世話を焼く。一人暮らしを始める息子娘に前の晩、お母さんは何かしてやりたい、何か食べさせて送り出したい。そういう事だと思います。

 だから、この時のイエス様は、決して残していく弟子達の為に、教訓的な意味合いで、ここは一つ教えておかなければ・・・などといった意図的な意味で足を洗われたなどという事ではなくて、そうせずにはいられなかったのです。それが、1節の「その愛を残すところなく示された」という事なのだと、私は考えます。

 ですが、それは、その場にいる人達からは、一見、弱い立場に立つ、というふうに勘違いされてしまうかも知れません。人より立場が下だから、弱いから、ああいう人の嫌がる事をやってるんだ、だから、するのが当たり前だとかですね。でも、そうではなくて、それは弱さではなくて、実はもっとも強い生き方なのだという事。

 これを、まず一つ覚えたいと思います。



2015年5月24日

「待ち望む」

【新約聖書】使徒行伝2章1~21節

 『真理は時の娘である』。これは、時がたてばどれが本物なのかが自然と見えてくるという意味です。いい物は風雪にも十分に耐えます。しかし安物はすぐにダメになってしまいます。いろいろな場面で皆さんも体験しておられることと思います。人間形成もまったく同じです。

 『彼を長い目で見てやりなさい』。高校生のときにこの日本文の英語訳を知って「なるほどなあ」と感心したことをおぼえています。英語訳は『Give him time』です。直訳すると『彼に時間を与えなさい』です。子供を愛するとは、子供に十分な時間を与えて見守ることであり、自分を愛するとは自分に時間を与えるということです。隣人を愛するとは、じっくりと時間をとって寄り添うということです。

 本日は聖霊降臨主日です。死から復活されたキリストが、天に昇られるときに弟子たちにひとつの約束をされました。それは「時が来ればあなたがたに聖霊がくだる」というものでした。ところが弟子たちには、聖霊がいつくだるのか、そもそも聖霊がくだるとはどういうことなのか、いっさい知らされませんでした。キリストから「時が来ればあなたがたに聖霊がくだる。聖霊がくだる時、あなたがたは力を受ける」とだけ聞いた弟子たちは、いつとも、どうなるともわからないまま、ひたすら時を待ち望みました。

 主なる神さまを信じるとは、主に時間をあずけることです。主よ、早く、早く・・・ではなくて、主に時間をたくすこと。これが主を信じることであり、主を待ち望むことです。主を愛することでもあるといってもいいでしょう。

 同様に、自分を愛するとは自分に時間を与えることであり、隣人を愛するとはその人に時間を与えることです。自分で勝手に時間を区切ってしまうから、あせりやいらだちが生まれます。無駄にあせったり、無駄に急いでも、人生が充実するわけではありません。信仰が深まるわけではありません。

 神さまに時間をたくします。おまかせします。しょせんは、時が来なければ状況は動かないのですから。どうあがいても、時が訪れなければ、事態はかわらないのですから。もちろん努力も何もしないのではありません。今の自分に出来ることをしっかりと果たしつつ、御国を目指してひたすら歩みます。

 必ず、神の指が動きます。もちろん、いつ動くのかわかりません。でも、いいのです。必ず、神の時は訪れることさえ信じておれば、あとは主にたくします。それが信仰です。主を待ち望む信仰です。



2015年5月17日

「魂の目を養う」

【新約聖書】マタイによる福音書5章8節

 山上の祝福の説教の第六番目、『心の清い人たちはさいわいである。彼らは神を見るであろう』です。残念ながら、わたしたちは中途半端な『清さ』しか持ち合わせていません。心がまったく清らかで、色でいえばまっ白な人などいませんし、逆に心が真っ黒な人もいません。わたしたちの心の色はまっ白でも、真っ黒でもない、いわば灰色です。白みがかった灰色の人もいれば、黒みがかった灰色の人もいる。でも中途半端な清さしか持ち合わせていないわたしたちの心は、誰もが等しく灰色であることは間違いないところです。

 中途半端な清さしか持ち合わせていないわたしたちですから、古来、完全な清さを得ようとして様々な宗教が取り組んできました。福音書に登場するパリサイ人と呼ばれる人たちも主なる神さまの前に完全なる清さを得ようとして律法を厳守しました。ところが聖なる神の前では人間はしょせんは人間です。キリストの目からご覧になれば、パリサイ人たちの清さもやはり中途半端でしかありませんでした。

 中途半端な心の清さしか持ちあわせていない、またどれほど頑張ってみても中途半端な清さしか手に入れることができないわたしたちです。そんなわたしたちに『心の清い人たちはさいわいである』と語っておられるキリストの真意はなんでしょうか。じつはここでキリストが語っておられる『清い』という言葉ですが、これは『心にしわがない』という意味だそうです。言い換えると、あきれるほどに心が単純であるということです。

 誰かのことを『あの人は単純な人だ』とわたしたちが言うとき、それはおそらく褒め言葉ではありません。だまされやすい、軽薄な人だというニュアンスを込めて言っています。

 しかし、いつも、どのようなときも、神の愛とあわれみのうちに、単純に自分の身を置いて生きている人、じつはそのような人こそが、ここでキリストが言われる『心の清い人』という意味です。

 詩篇に『神が喜ばれるのは砕けた魂、砕けた心』という言葉があります。まさに自分がどのようなときも、あれやこれやと余計なことを考えないで、あきれるほど単純に、大胆に、神の愛とあわれみのなかに身を置く。『あなたはわたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している』といつも語りかけてくださっている主なる神のあわれみのうちに単純に身を置く。この単純な信仰こそが心が清いということであり、魂が砕かれた人の姿であり、主なる神さまがもっとも喜ばれるわたしたちの姿です。

 あきれるほどに大胆に神のあわれみのうちに身を置いて、一度きりの生涯を歩んでいく。そのように歩む人は、魂の目ですでに愛の神を見ています。聖なる神の愛の息吹を魂で感じ取っているはずです。



2015年5月10日

「情けは人のためならず」

【新約聖書】マタイによる福音書5章7節

 先週のビデオ上映会では『おくりびと』を観ました。人の死を真正面から見すえたすばらしい内容でした。ある場面でひつぎを選ぶときに『人生の最後の買い物は他人が決める』というセリフが登場します。なかなか意味深い言葉です。自分ひとりで生きているのではない。わたしたちは誰もがいろいろな人に助けられ、支えられ、ゆるされて生きている。それが端的にわかるのは死を迎えた時です。死んだら、自分のひつぎを自分で選ぶことはできない。自分の葬儀は自分以外の人に頼るほかにない。このような人生の真実をきちんと見すえつつ、今を生きているだろうか。この映画はそうした深いメッセージを発している秀作だと思います。

 「情けは人のためならず」という表現があります。子供の頃は「安易に情けをかけることは結局はその人のためにならない」という意味に誤解していました。たぶん周囲の大人たちもそう誤解していたと思います。しかし「情けは人のためではなく、いずれは巡って自分に返ってくるのであるから、誰にでも親切にしておいた方が良い」というのが本当の意味であること知って、なるほどと思ったことを覚えています。

 ではキリストは「情けは人のためならず」と同じ意味合いで、山上の説教の第5番目「あわれみ深い人たちはさいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう」と言っておられるのか。たしかにその意味も含まれていますが、じつはもっと大切な真実がこのキリストの言葉には含まれています。

 『あわれみ』の語源は旧約聖書までさかのぼると『赤ちゃんをつつむ母胎』という言葉だそうです。たとえて言えば、命をかけて親鳥がひな鳥を守り育てる様子があわれみ深いということです。単に同情するとか情けをかけるといったものではありません。命をかけて守る、これが聖書が言うところのあわれみ深いということです。聖書には「神はあわれみ深いお方」という表現が山ほど登場します。神さまは親鳥が命をかけてひな鳥を守り育てるように、わたしたちを愛し、守り導いておられる。わたしたちの誰もが主からあわれみを受け、主に助けられ、支えられている。あわれみ深い人たちとは、そうした神のあわれみを知っている人たちのことであり、神のあわれみのうちに自分が生きていることをわかっている人たちのことです。

 今、自分が置かれている場所でキリストのあわれみが見えているか? 自分はひとりで生きているのではなく、多くの人々に支えられ、ゆるされ、守られ、助けられていることがちゃんと見えているか? あわれみ深い人とは、まず自分が神の大きなあわれみのなかに置かれているという真実が見えている人のことです。

 自分に注がれている神のあわれみが見えてくると、自然と自分の身近な人に、あわれみを注ぐことができるようになるものです。



2015年5月3日

「義を追い求める」

【新約聖書】マタイによる福音書5章6節

 「義に餓えかわいている人たちはさいわいである」。これは山上の説教の四番目となるキリストの言葉です。義に餓えかわいている人とは、ひたすら義を求める人たち、つまり正義感の強い人のことだと思われるかもしれません。正義感がとても強く、つねに品行方正で、道徳的に間違ったことは許さない人たち、たとえば新約聖書に登場するパリサイ人とか律法学者たちのことではないか。

 しかし聖書が意味している義とは端的に言えば主なる神さまを信じていることです。ですから義の人とは、主なる神さまの愛とゆるしを大胆に信じて生きている人のことです。主を信じる信仰に生きている人のことです。けっしてこの世で、正義感あふれ、品行方正で、道徳的に正しい人という意味ではありません。愚かで、弱く、どれほど罪深くとも、主の愛とゆるしを信じて、一足一足、歩みを重ねている人のことを聖書は義の人、正しい人と告げています。

 「義に餓えかわいている人たちはさいわいである。彼らは飽き足りるであろう」。つまり、どのような時も主なる神さまを追い求め、それも餓えかわいているように、主なる神さまのあわれみをひたすら求めながら生きている人はさいわいである、とキリストは言っておられます。自分がどんなに不甲斐ない、愚かで、弱く、罪深い者であろうとも、大胆に、せつに主なる神さまの愛とあわれみを求める人はさいわいである。そのような人は「飽き足りるであろう」、つまり主なる神はそのような人を最後の最後まで見捨てず、見放さず、いつまでも寄り添ってくださるということです。

 なんども言いますが、われらの神はインマヌエルの神です。いつでも、どのような時でも、いつまでも、永遠にいたるまで寄り添っておられるお方です。魂がどれほど餓えかわこうとも、必ず、飽き足りるまでに満たしてくださるお方です。義に餓えかわいている人たちはさいわいである。主なる神さまのあわれみを餓えかわくほどに追い求め、大胆に主の愛とゆるしのうちをひたすら歩んでまいりましょう。神の愛とゆるしを求めるのに遠慮はいりません。信仰とは、遠慮しないで、大胆に神の愛とゆるしを求めることです。大胆に、一度きりの生涯を、神のあわれみのうちに歩んでいくことです。



2015年4月26日

「やさしさは勝利をもたらす」

【新約聖書】マタイによる福音書5章5節

 柔和な人と聞けば、多くの方はやさしい人とか、おだやかな人をイメージすると思います。逆に柔和でない人とはやさしくない人、荒っぽい人、怒りっぽい人、自分勝手な人といったところでしょうか。ある牧師は柔和な人のことを「力ずくで歩まない人、ごり押ししない人」と語っています。なかなか的を射ていると思います。すぐに力まかせにごり押しする人がいますがたしかにそれは柔和とはかけ離れています。

 マタイの福音書では柔和という言葉はあと二回登場します。「わたしは柔和で心のへりくだった者である(11章29節)」と「あなたの王がおいでになる。柔和なお方で、ろばに乗って(21章5節)」です。いずれもキリストについて語られています。キリストというお方は、力まかせにごり押しされるような方ではない。そもそも主なる神さまが力まかせのお方であるなら、とっくの昔に罪まみれの人間社会は滅ぼされています。

 ぱっと見、権力をふるい、声高の人のほうが強い人のように思えます。しかし結局のところ力まかせにごり押しで歩んでいる人はやがて自分の居場所を失ってしまう。人としてのほんとうの強さ、それは力をふるう強さではなく、力をふるわない強さであり、喧嘩する強さではなく、相手を理解し、相手に寄り添う強さです。 若いうちは力をふるう強さにあこがれるのもやむを得ませんが、とりわけ人生の後半では、力ずくで歩まない、ごり押ししない、人の悲しみに静かに寄り添う柔和という強さを養わなければなりません。なぜならそれは死に備えることにもなるからです。

 死と喧嘩してもはじまりません。力ずくやごり押しなどで死がどうにかなるものではありません。死を前にしてわたしたちにできることといえば、死を真正面から見すえて、死を理解し、死に寄り添うことです。でもそのためにこの世の権威や権力などはまったく役には立ちません。それらとはまったく違う、別の強さが求められています。死から顔をそむけないで、死にきちんと寄り添いつつ生きていくための強さ、力ずくとかごり押しではない強さ、すなわち柔和という強さです。

 力ずくで歩まない、ごり押ししない、そのような柔和な人は「地を受けつぐであろう」とキリストは語っておられます。地を受けつぐとは「居場所が与えられる」こととわたしは理解しています。柔和な人がいるだけで場がなごみます。ですから柔和な人のためにはわたしたちは喜んで居場所を提供します。柔和な人には一緒にいて欲しいからです。

 結局のところ、柔和とはキリストのうちに見ることができる姿です。キリストは力ずくとかごり押しなどとはまったく無縁のお方、いつも静かに寄り添ってくださるインマヌエルの神です。わたしたちがどのような時でも、いつもやさしく語りかけてくださいます、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを心から愛している」と。いつも、そうです。



2015年4月19日

「悲しみに寄り添う神」

【新約聖書】マタイによる福音書5章4節

 生涯消えることのない悲しみがわたしたちの現実にはあります。むしろ消え去ってはならない、忘れてしまってはならない悲しみがあります。戦争しかり、広島・長崎の原爆しかり、福島第一原発事故しかり。たとえば戦争直後は誰もが戦争などという愚かな行為は繰り返してはならないと思っていたはずです。生々しい戦争の悲しみを誰もが体験していたからです。ところが今はどうでしょうか。戦争の悲しみが薄まり、消え去ろうとしています。それと同時に軍備拡張とか、戦争も辞さないなどという愚かな考えをいだく政治家や人々が現れています。消してはならない悲しみを消してしまうと人間は愚かにも悲劇を繰り返すこととなります。

 「悲しんでいる人たちはさいわいである。彼らは慰められるであろう」。じつに深い意味をたたえるキリストの言葉です。悲しみはやがて消え去ってしまうと言っておられるのではありません。そもそも人と人とをつなぐものは悲しみではないでしょうか。お互いの悲しみを共感するところに人と人がつながると思います。わたしたちの身近にも、どうしようもない現実をかかえ、悲しみとともに生きている人はたくさんおられます。お互いの悲しみをなめ合うのではありません。それぞれに悲しみを持っている弱い人間として、お互いに悲しみを思いやる。そうしたところに愛が生まれます。「慰められるであろう」とは、悲しみはやがて愛を生み出すことを語っておられるのだと思います。

 しかし残念ながら、悲しみは愛ではなく、憎しみを生む場合があります。むしろこちらのほうが多いかもしれない。悲しみがあまりにも深く、状況や人や神をも憎むようになってしまう。それもわたしたち弱い人間の現実です。悲しみが愛を生むのか、それとも憎しみを生むのか、とてもきわどく、紙一重のようにも思えます。

 ここでひとつの真実があります。わたしたちが深い悲しみに置かれた時、たった一人でもいい。真剣に、親身に、悲しみに寄り添ってくれる人がいたら、悲しみはけっして憎しみを生み出すことはありません。でも悲しみに寄り添ってくれる人がひとりもいなかったら、とても危険な状態です。悲しみにのみこまれ、悲しみが憎しみへと変身してしまうからです。

 わたしたちの誰もが悲しみの淵を歩んできたはずです。でも悲しみにのまれず、憎しみに身を宿すことがなかったのは、悲しみに寄り添ってくれた誰かが必ずいたからです。その人をとおして、悲しみの中で、愛にふれたからです。そしてその人の背後に、悲しみに寄り添ってくださるインマヌエルの神がおられました。ぜひ、思い出してみてください。

 わたしたちが神と共に歩んでいるのは、悲しみにのみこまれ、憎しみに身を宿すことのないためにです。どれほど深い悲しみを体験しても、悲しみがやがて愛を生み出すことを心から願ってのことです。



2015年4月12日

「祝福の説教」

【新約聖書】マタイによる福音書5章1~3節

 心の貧しい者たちはさいわいである。山上の説教はこのキリストの言葉で始まります。心と訳されている言葉ですが、これは魂と訳されるべき言葉です。ですから心の貧しい者たちとは、魂の貧しい者たち、つまり魂がふるえ、おびえている者たちということです。さらに貧しいという言葉ですが、これはふつうの貧しさではなく、どうしようもないどん底の貧しさを表す言葉です。以上から、山上の説教の始まりは「魂がどうしようもないほどふるえ、苦しんでいる者たちは、さいわいである」と訳すべきところとなります。

 話は少しかわりますが、戦国時代から江戸、明治、大正時代をへて戦後をむかえるまで日本の平均寿命は45歳前後でした。戦後1947年の調査で50歳を越え、それが今や80歳を越えています。寿命が延びたこと自体は感謝なことです。でも同時に死が遠ざかり、魂のことをあまり切実に考えなくなったのも事実です。

 想像してみます。たとえば平成の今でも日本の平均寿命が50歳くらいだったらどうでしょうか。わたしも含めて50歳をすでに越えている人は、切実に死を感じているはずです。どうしようもない死を前に、魂はふるえ、死後のことを考え、魂の救いを切実に求めるはずです。じつは山上の説教を聞いた当時のイスラエルの人々は、極貧のなかで死をいつも肌で感じ、魂の平安、魂の救いを切実に求めながら生きていた人々でした。そのような人々に向かってキリストは語っておられるのです、「さいわいである。魂がもだえ苦しみ、魂の救いを求めている者たちよ。天国はすでにあなたがたのものである」。

 この言葉を耳にした人々は歓喜したでしょう。この世のものではけっして得られない魂の平安をこのキリストの言葉から受けたのですから。しかし残念ながら、現代のとりわけ日本人の多くは、死を遠ざけて生きているがゆえに、魂の存在に無頓着になっています。魂がふるえるとか、魂が苦しみもだえるといっても、まるでピンとこないのが実情だと思います。ですからこのキリストの言葉が響かないのも当然といえば当然といえます。

 しかしやがて必ずその日が訪れます。死が眼前に迫ってくる日を誰もが必ずむかえます。その日には、それまでこの世で得たもの、またどんな人の言葉も、死を前にした自分にはまるで無意味であることに気づきます。死を前に、あらわになった魂はただふるえるばかり、苦しみもだえるばかりです。もしその日、「さいわいである。魂がふるえ、苦しんでいる者よ。天国はすでにあなたのものである」というキリストの言葉を知っていたら、なんとさいわいでしょうか。なんという平安でしょうか。

 その日にそなえて、わたしたちは今、キリストの言葉をたくわえているといっても過言ではありません。キリストの言葉は、今はまだほんとうのところはわからなくても、その日が来たら魂に響いてくる神の言葉です。キリストの言葉とはそのような言葉です。



2015年4月5日

「また朝となった」

【新約聖書】ルカによる福音書24章1~12節

 今年も復活祭を迎えました。キリストの復活とは、キリストが死をつらぬかれたという出来事です。今日のキリスト教会はまさにキリストの復活から始まりました。ペテロもトマスも、それこそ数え切れないほどの多くの弟子たちもキリストの復活を伝える証人として生涯をささげました。かつてはキリスト教徒たちを迫害していたパウロも、復活のキリストと出会い、回心し、福音を宣べ伝える者となりました。

 わたしたちは年をかさねるにつれて、死を身近に感じるようになります。死に接し、死は誰をも寄せ付けない、絶対的な孤独であることをつくづくと思います。自分の愛する人がひつぎの中に横たわっている姿に接し、ひつぎのすぐ手前までは行くことができても、ひつぎの中に一緒に入ることはできません。どれほど大切な人であろうと、その人が死んだら、もはやわたしたちには手も足も出ません。わずかな言葉さえもかわすことはできません。死は、間違いなくこの世での終わりです。死は何ものをも寄せ付けない闇であり、人間の力ではどうしようもできないものです。

 「あなたがたはなぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。その方はここにはおられない。よみがえられたのだ」。天使は、キリストの葬られた墓にやって来た女たちにそう語りまました。キリストはよみがえられた。死はすべての終わりとしか思えないわたしたちに、まだ先があることをキリストは身をもって示されました。夕となり、また朝となった。キリストの十字架上での死を「夕」とするなら、キリストの復活は「また朝となった」ことを告げる驚くべき出来事に他なりません。

 復活祭にあらためて思います。キリストはたしかに十字架上で息を引き取られました。しかしキリストは死んだままの救い主ではない。キリストは死をつらぬき、復活された生ける救い主です。わたしたちの信じるキリストは生ける神であり、死をつらぬいておられる永遠の神であることを忘れてはなりません。これこそがわたしたちの信仰の根幹です。

 キリストは約束してくださいました、「わたしは、わたしを信じる者に永遠のいのちを与える」。わたしたちもやがて必ず死を迎えます。こればかりはどうしようもありません。しかし死は終着駅ではありません。キリストを信じる者にとって、死は永遠の御国へと通じる通過駅にすぎません。死という闇をへて、御国という朝をわたしたちの誰もが迎えるのです。

 希望とはキリストです。死から復活されたキリストこそがわたしたちの唯一の希望です。主の復活をお祝いするイースターを心からお慶び申し上げます。



2015年3月29日

「人間をとる漁師」

【新約聖書】マタイによる福音書4章18~25節

 「わたしについて来なさい。あなたがたを人間を取る漁師にしてあげよう」。キリストは漁師であったペテロたちを招いてそう言われました。もちろん人間を取ってどうこうするという意味ではありません。これはとてもユーモアに満ちた言葉です。現代はとりわけそうですが、人間を取らないで人間以外のものを取っている現実があちこちに見られます。人の健康や安心よりも原子力を取る。人の平和よりも軍備を拡張する。いじめで苦しんでいる子供たちよりも学校の体面を取る。家族よりも仕事を取る。人間を取らないで人間以外のものを取るとき、必ずといっていいほど争いや悲しみが拡がります。

 わたしはふと思います、「主なる神さまにとってもっとも高価なものはなんだろう」。金や銀、ダイヤモンドなどの宝石であるとは思えませんし、地位や名誉や知識などという類いのものでもないことは明らかです。主なる神さまにとってもっとも高価なもの、じつはそれは天地創造以来まったく変わっていません。答えは人間、つまりわたしたちひとりひとりです。

 主こそまさにまず人間を取る漁師でしょう。主なる神さまの目にはわたしたちこそが他の何ものにもまして高価で尊いからです。ところがわたしたちはどうでしょうか。自分のことを、そして身近な人のことを高価で尊いとどれほど思っているでしょうか。むしろいとも簡単に人間を捨てているのではないでしょうか。失敗したり、病気や加齢によって体力や気力が衰えると「自分はもうダメだ」などと簡単に自分という人間を捨ててしまう。不登校の子供を「うちの子供はもうダメだ」などと簡単に見捨ててしまっている。キリストはいつも人を取っておられます。世間体や体面など関係なく、いつも人に寄り添っておられます。

 「すると彼ら(ペテロたち)はすぐに網を捨てて、イエスに従った」とあります。人間を取るとは、同時に必要ないものを捨てることでもあります。自分というかけがえのない命を生きるためには、余計なものを捨てて身軽にならなければなりません。

 生きるとは自分を含めて、人間を取ることであり、同時に必要のないもの、余計なものを捨てることでもあります。  



2015年3月22日

「大いなる光を見る」

【新約聖書】マタイによる福音書4章12~17節

 「さて、イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた」とあります。とても興味深い記述です。かつてキリストに洗礼をさずけた洗礼者ヨハネは権力者から目をつけられて投獄されます。この事件のことを聞いて、キリストは神の都エルサレムから遠ざかり、北のガリラヤ地方へ退かれました。

 何かの事情で予定どおり行かなくなる。退却を余儀なくされる。これもまたわたしたちが置かれている現実であろうと思います。そんなときに無理して前を進もうとするとさらに傷口を拡げてしまうことがあります。もちろん、ちょっとのことですぐに断念してしまうのでは話になりません。努力することは尊いことです。しかし人生にはどんなに努力してももはや前へは進めなくなる、退却を余儀なくされることがあるのも真実です。

 退却されたキリストは海辺の町カペナウムに住まわれたとあります。そして聖書は続いてじつに驚くべきことを伝えています。「暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に光がのぼった」。キリストが退却され、身を引かれた地域は暗黒の地と呼ばれ、死の地、死の陰と呼ばれていた地域ですが、そこでキリストはご自身が救い主であることを公に宣言されました。ここで聖書はとても深いメッセージを伝えているとわたしは思います。

 世では悩みがあります。退却を余儀なくされる現実があります。病気になったり、事故に遭ったり、事件に巻き込まれることもあります。災害もあります。こうした事態に遭い、順調に進んでいた人生にストップがかかってしまう。もはや根性や忍耐だけでは前へ進めなくなります。そして往々にして、立ち止まったり退却することは敗北と思い、身を引いた先に待っているのは暗黒であり、死の地、死の陰であると思っていることが少なくありません。

 ところが実際は違う。順風満帆のときにはけっして見えない、身を引いてこそはじめて見えてくる大いなる光があります。病気の中で、悩みの中で、悲しみの中で、つまり人生の暗黒に投げ込まれて、わたしたちははじめて大いなる光と出会う。自分という存在を根底から支える自分を越えたお方と出会います。

 自分の努力や頑張りだけで人生は何とでもなると思っているうちは、まだその人の本当の人生は始まっていないのかもしれません。では、本当の自分はどこで見えてくるのか?本当の自分は、努力や頑張りではもはやどうすることもできない暗黒の中で、自分という存在を根底から支えておられる大いなるキリストの光に映し出されてはじめて見えてきます。「あなたを造り出した方、主はこう仰せられる、『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』」。暗黒の中でこそ、この主の言葉が光り輝き、響き渡ります。 



2015年3月15日

「いのちの言葉」

【新約聖書】マタイによる福音書4章1~11節

 「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。このキリストの言葉の意味を誤解している方も意外と多いのではないでしょうか。「飢えで苦しんでいる難民の人たちに、神の言葉をどれほど語ることよりも、パンを与える方がまさっているではないか」。もちろんその通りです。福音書の先を読めばわかりますが、キリストもお腹をすかせた群衆にパンと魚を与えられました。のどが渇いている人には水を、飢えている人には食べ物を与えるお方です。神の言葉とパンとどちらが大切か、などというような議論を本日の場面でキリストはされているのではありません。

 そもそも悪魔の意図はこうです、「空腹なら石をパンに変えて空腹を満たせ。別に手段など関係ないではないか」。この悪魔の誘惑の言葉は次のようにも置き換えることができます、「空腹であるなら、パンを盗んで食べたらいいではないか」。あるいはこのようにも置き換えることができます、「金持ちになりたいのなら、人をだませばいいではないか。仕事で偉くなりたいのなら、家族を犠牲にして働けばいいではないか。領土を拡大したいのなら、他国に戦争を仕掛けたらいいではないか。有名になりたいのなら、手柄を横取りすればいいではないか。それほど相手が憎いなら、殺してしまえばいいではないか」。空腹なら石をパンに変えたらいいではないか・・・この悪魔の誘惑はわたしたち人間の弱さをつく絶妙な誘惑の言葉であると断言できます。「欲望を満たせるのであれば、手段はどうでもいいではないか」、これが悪魔の誘惑です。

 人間の欲望にはきりがありません。欲望それ自体は本来神から与えられたものであり、わたしたちの生命力ともいってもいい。欲望をいだくのは生きている証でもあります。しかし問題はおのおの自分の欲望をどのように、あるいはどこまで満たすのか、あるいは満たさないのか。自分の欲望にどのように折り合いをつけながら生きていくのか。おのおのに問われている難しい課題です。

 誰かを傷つけ犠牲にしてまで、そうまでして自分の欲望を満たそうとするのか。そうするところにほんとうの幸せは実現するのか。そもそも人間として生きるとはどういうことなのか。

 キリストは言われました、「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。このキリストの言葉にはとても深い意味が込められています。人はそもそもどのような存在で、人はどのように生き、どのように死ぬのか。このような根源的な問いかけへの答えがこのキリストの言葉となっています。

 神の言葉によってはじめて人は自分という人間の存在の意味が明らかになります。神の言葉によってはじめて自分がかけがえのない高価で尊い存在であることを知ります。神の言葉なくして、わたしたち人間の存在の意味は明らかにはならず、生も死も不確かなままなのです。



2015年3月8日

「もっとも低い所から」

【新約聖書】マタイによる福音書3章13~17節

 ヨルダン川が死海に注ぐ辺りで、主イエスは救い主として、ヨハネから洗礼をお受けになりました。「こうすることは正しいことである」とヨハネに言っておられます。正しいとは神のこころにそっているという意味です。神の御子である主イエスがヨルダン川に身を沈め、つまり身を低くして、洗礼をお受けになった出来事をわたしたちはどう見たらいいのでしょうか。

そもそも洗礼とは主なる神さまからの恵みのプレゼントです。わたしたちはおさなごのように「ありがとうございます」と、身を低くしてそのプレゼントをいただくばかりです。べつにわたしたちが何をしたからとか、どれほど頑張ったからとか、そうした褒美として与えられるものではありません。洗礼とは一方的に主が与えてくださる恵みです。

洗礼はわたしたちの原点を端的に表しています。あるいはそもそも人間が置かれている立ち位置とでもいえるでしょうか。主は与え、主は取られる。主なる神さまの前には本来わたしたち人間はただひれ伏して恵みをいただくばかりです。神に愛され、神に生かされている自分をまず知ることこそ、これがわたしたちの出発点です。洗礼のときに、こうべを垂れて神の恵みを受け入れているときのわたしたちの姿は、神に愛され生かされているわたしたち人間の原点であり、出発点でもあります。

主イエスご自身がヨルダン川に身を沈めて洗礼をお受けになったのは、それがわたしたち人間の原点の姿であることを、言葉ではなく、身をもってわたしたちに伝えるためであったとわたしは考えています。

主イエスが洗礼を受けられた直後に「見よ、天が開いた」と聖書は告げています。この箇所を新共同訳聖書は「そのとき天がイエスに向かって開いた」と訳しています。名訳です。それまでは閉ざされていた天が、この時、主イエスに向かって開きました。

救われるとは、その人に向かって天が開くということです。死で終わる生涯に風穴があき、死をつらぬく永遠のいのちの世界を仰ぎ見て生きるようになることです。天の御国を目指して歩むようになることです。「いつ死んでも天国だわ」とは、ある方の名言ですが、救われるとは心の底からそう思えるようになることです。死におびえる生涯ではなく、天の御国を仰ぐ生涯になることです。

主イエスは、身をもって、そのような道をわたしたちのために開いてくださいました。主イエスの洗礼は、閉ざされていた天が開き、わたしたちのために御国へと通じる新しい道を開くための門出ともいえる出来事です。



2015年3月1日

「キリストが来られる!」

【新約聖書】マタイによる福音書3章1~12節

 マザーテレサの言葉に次のような言葉があります。「今、自分の目の前にいる『ひとりの人』に仕えましょう」。マザーテレサはインドの貧しい人々を救うために働きを始めました。ところが最初は貧しい人々のあまりの多さに圧倒されたそうです。気ばかりがあせって、空回りすることも多かったそうです。しかしある時にふとこう思ったそうです、「今、自分の目の前にいる『ひとりの人』に仕えよう」。一度にたくさんの貧しい人々に仕えようと思うだけで空回りしてしまう。たくさんの人に仕えようと思わず、今、自分の目の前にいるひとりの人に心を込めて仕える。この姿勢こそがマザーテレサの原点であったそうです。

 思いやりを多くの人にいっぺんに伝えようと息巻くことはありません。まず自分の目の前にいるひとりの人に心を込めて寄り添い、やさしく接してみる。時に、自分の目の前にいるひとりが自分自身であることもあります。そのような時には自分自身に寄り添い、自分自身にやさしく接する。あるいは5分か10分だけの立ち話であろうとも、自分の目の前にいるひとりの人に、寄り添い、その人の話に耳を傾けてみる。

 神を愛し、自分自身を愛するように、隣人を愛しなさいとキリストは言われました。その意味は、今自分の目の前の『ひとりの人』に心を込めて接することであろうと思います。



2015年2月22日

「命の置き所」

【新約聖書】マタイによる福音書2章13~23節

 銀行の貸金庫に貴重品を預けている方もいらっしゃると思います。貴重品を手元に置いておくと火災や盗難などの万一のことがあります。貸金庫に預けておけば安心です。まあ銀行の貸金庫に預けるほどの貴重品を持っていないことが、一番の安心かもしれませんが。

 本日の聖書の場面から、かけがえのない自分の命の置き所について考えてみたいと思います。ヨセフは幼子キリストとマリヤを守るためにじつに機敏に行動しています。主とヨセフとの見事な二人三脚ともいえます。主はヨセフの夢をとおして告げられます。「エジプトに逃げなさい・・・イスラエルへ戻りなさい・・・ナザレの町で暮らしなさい」。ヨセフはこうした神の言葉と歩調を合わせています。

 じつは主なる神さまとヨセフとの二人三脚はもっと前から始まっています。それは聖霊によって身重になったマリヤを主が告げられたとおりにヨセフが妻として迎えた時からです。この時ヨセフは自分の命を主にたくしたのではないかとわたしは思っています。思えばマリヤも同じです。救い主の母になると告げられたマリヤは最初はとても当惑しますが、最後に次のように主に告白しました。「わたしは主のしもべです。お言葉どおりこの身になりますように」。マリヤもまた自分の命を主にたくしたのだと思います。ヨセフもマリヤも自分の命を主の御手にたくし、おまかせしたということです。

 ヨセフやマリヤとは正反対の人物がヘロデ王です。彼は自分の命を自分の手元に置いています。だから自分の命をおびやかすものにいつも戦々恐々としています。事実ヘロデは王としての自分の命を守るために親、兄弟、妻、そして我が子さえも処刑しました。自分の命をひたすら自分で守ろうとするところにはつねに不安と恐怖、周囲の人々への疑念がつきまといます。

 大切なことは自分の命の置き所だと思います。ヘロデのように自分の手元に置くのか、それともヨセフやマリヤのようにインマヌエルの神にたくすのか。いわば貴重品を自分の手元に保管するのか、それとも銀行の貸金庫にあずけるのか。

 主に自分の命をあずけ、主が地上に命をとどめ置かれる間はひたすらこの地上を主とともに歩みます。やがて主が御国へと命を引き上げてくださる時が来たら、それから先は御国で主との旅が始まります。主に自分の命をたくすのが一番です。大金や貴重品を手元に置くのは不安ですが、信頼のできる銀行の貸金庫にあずけておけば安心です。主に命をあずけたら、あとはひたすら自分を歩むだけです。命のことで余計な思いわずらいもしなくていい。

 主なる神さまに命をたくすことで、この世からは得られない神の平安が与えられます。この神の平安こそ、ヘロデがけっして得ることができなかったものです。



2015年2月15日

「あなたは独りではない」

【新約聖書】マタイによる福音書2章1~12節

 誕生されたキリストに会うためにはるばる千キロほどの旅路をやってきた人々の様子が描かれています。この箇所は年頭の礼拝で開いた箇所です。あらためて本日もこの箇所を開きました。いわゆる東方から来た博士たちとして昔から知られている場面です。

 彼らはユダヤの人ではありません。異邦人です。そして星占いを行う異教徒でもあります。そのような彼らが異国であるイスラエルまでの旅を始めます。「星を見たから・・・」と彼らは語っています。きっと星の輝きをとおして、主なる神さまの迫りのようなものを感じたからではないかとわたしは思います。もしこの神の迫りを見届けなければ、一生後悔することとなる・・・そう彼らは思ったのかもしれません。

 じつは主なる神の迫りは誰もが受けています。ところが多くの場合、わたしたちはそれを真正面から受けとめないで、後まわしにしたり、どうでもいいこととして無視してしまいます。「今はそれどころではない」などと言って目先のことに躍起になったり、「まだ時間はあるだろう。とりあえずこれをしてからでも遅くはないだろう。来年になってからでもいいだろう」などと神の迫りを避けてしまうことが多いものです。

 「星を見たから来ました」。彼らの旅立ちの動機はとてもシンプルで素早いものでした。千キロもの長旅です。家族も仕事も置いて行かねばなりません。旅の途中で命を落とすかもしれません。自分の国のことではなく異国のことです。直接自分たちには関係はありません。それでも彼らは旅立ちました。思えば、すごいことです。

 命がけの千キロの旅が、もし独り旅であったなら、どうだったでしょうか。同じように旅立ったでしょうか。しかしこのとき、同じ星を見て、同じように主なる神からの迫りを受けた友がいました。同志といってもいいでしょう。伝承では三人です。旅は独りではなかったのです。主なる神は志を同じくする同志を与えてくださる。きっとそれはわたしたちが弱いからです。独りでは出来ない。でも同志がいたらやり遂げることができる。主は、いわば信仰の同志を必要に応じて備えておられます。

 そもそもキリスト教会はキリストを信じる者たち、信仰による同志が集められた場所です。御国への旅を共にする同志の集まりです。わたしたちひとりひとりは弱い。ひとりでは千キロの旅路はむずかしい。しかし主ご自身が旅に寄り添い、そして旅の喜怒哀楽を分かち合える信仰の同志がいる。独りで、御国まで旅するのではありません。同じ主を信じる者として、共に旅をかさねてまいります。それが教会すなわち聖徒の交わりです。



2015年2月8日

「神はわれらと共に」

【新約聖書】マタイによる福音書1章18~24節

 聖霊によってマリヤは身重になります。マリヤには婚約者ヨセフがいましたが、まだ結婚していませんでした。聖霊によって身重になったと言われても、とても信じられるものではありません。ふつうに判断して、マリヤはヨセフ以外の男と関係を持ったとみなされ、当時の律法では死刑となります。ヨセフはマリヤを愛していました。なんとかマリヤの命だけは救いたい。そう思い、事を公にしないまま、ひそかにマリヤを離縁して、彼女がどこか遠くの村で生きていけるように考えました。

 悩んだ末のヨセフなりの判断です。そうと決心はしたものの、なおヨセフは思いめぐらします。思いめぐらすとは、神の御心を祈り求めるということです。ひそかに離縁する以外に道はないと思えても、なおヨセフの心は揺れ動き、不安でいっぱいだったのでしょう。彼は決心はしたもののすぐには行動に移さず、神からの平安を求めて、なお神の御心を求め続けました。この姿勢こそが聖書が言うところの「正しさ」です。

 「ダビデの子ヨセフよ。心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい」。夢をとおして主がヨセフに告げられます。ヨセフの判断とは正反対のことを主は言われました。マリヤの胎内に宿る子を自分の子として守り育てるようにという主の言葉でした。「ヨセフは眠りからさめた後に主の使いが命じられたとおりにマリヤを妻として迎えた」とあります。ヨセフにもう迷いはありません。眠りからさめたらすぐに行動に移します。神の言葉を聴き、神の御心を知ると、わたしたちの心は平安でつつまれます。安心して、一歩踏み出すことができるようになります。

 わたしたちの置かれている現実はすぐに白黒をつけることができない事であふれています。しばしば心は不安になります。不安に耐えられず、とにかくすぐに白黒をつけてしまい、事態がいっそう混乱してしまうことも多いものです。でも神を信じる者の幸いは、心が不安でつつまれたとき、神に祈ることができることです。神の御心はどこにあるか、思いめぐらすことができることです。ヨセフがそうであったように。

 不安は祈りとなります。インマヌエルの神は、わたしたちの不安が生み出す祈りを待っておられます。だから不安なときは、思う存分、思いめぐらしたらいい。不安なときは徹底して神に平安を求めたらいい。インマヌエルの神は必ず祈りにこたえて言葉を与えてくださいます。平安を与えてくださいます。神が言葉をくださるまで、神が平安を注いでくださるまで、ひたすら思いめぐらし、祈ったらいい。それが信仰です。それが神の前に正しいということです。



2015年2月1日

「天と地と」

【新約聖書】マタイによる福音書1章1~17節

 マタイの福音書の1章冒頭のキリストの系図と呼ばれる箇所を開きます。アブラハムから始まる、いわばイスラエル民族の直系の血筋がしるされています。日本人とって、とりわけ聖書を読み始めたばかりの人にとっては、なんとも無味乾燥な人名のられつでしかありません。おそらく大半の人が読み飛ばしてしまう箇所であろうと思います。

 昔の日本でもそうでしたが、長男が家督を相続するのがならわしのイスラエル社会では系図をとても重んじていました。系図といっても、それは家督を相続する男性の血筋を記録したものです。ところがマタイの福音書1章冒頭のイスラエル民族の、いわば本家筋の系図には(マリヤを除く)四人の女性が登場します。あえてマタイはこの四人をしるしているようにも思えます。タマル、ラハブ、ルツそしてウリヤの妻です。いずれの女性もきびしい現実をひたむきに生きた女性たちですが、イスラエル宗教社会の常識から、はみ出した人たちです。タマルはある目的を達成するために遊女となりました。ラハブは最初から遊女でした。ルツは当時イスラエル社会から村八分とされていたモアブ部族出身の異邦人でした。ウリヤの妻はダビデ王にそそのかされ、ダビデ王によって夫ウリヤを殺された後、彼の妻となりました。

 イスラエル民族の系図がこの四人の女性ゆえに汚されているなどと言うためにマタイは四人の女性を系図に登場させているのではもちろんありません。すでに創世記をわたしたちは学びましたが、信仰の父の呼ばれるアブラハムは何度も自分の身勝手さゆえに失敗をかさねた人物と知っています。イサクもそうですし、ヤコブにいたっては兄のエサウをだまして無理やりに家督を相続しました。ダビデも過ちを繰り返し、ソロモンは晩年、偶像礼拝に身を落とし、彼の死後にイスラエルは分裂してしまいます。系図に名をつらねる誰もが身勝手で愚かな人間でしかなかったことを聖書は告げているのです。ですからマタイはこの系図をとおして、時代がどれほど移ろうとも、男女を問わず、まったく変わることのない弱く愚かな人間の姿を伝えていると思われます。

 しかしもうひとつ、マタイがこの系図をとおしてわたしたちに伝えている真実があります。それはどれほど人間が身勝手であろうとも人間の歴史は滅びることなく続いてきた。なぜなら背後にいつもインマヌエルの神がおられたからに他ならない。これがもうひとつの真実です。

 インマヌエルの神とは、共におられる神、寄り添う神という意味です。イスラエル民族の歴史をみると、彼らが主なる神を見失うことは日常茶飯事で、神を神とも思わず、異教の偶像になんども身をまかせてきました。それでも主なる神は彼らを見捨てることなく、寄り添ってこられました。この系図は愚かな人間の歴史であるとともに、インマヌエルの神の愛の歴史でもあるのです。

 わたしたちも自分自身をふり返るときに、正直なところ、自分の弱さや愚かさしか見えてきません。とりわけ年をかさねるとそうです。しかし聖書はそのようなわたしたちに問いかけています。「自分がどうあれ、いつもあなたに寄り添い、あなたをゆるし、あなたを導いておられるインマヌエルの神が見えているか。『わたしの目にはあなたは高価で尊い』といつも天から語りかけておられる主なる神の声をあなたは聴き届けつつ、歩んでいるか」。

 マタイの福音書は、わたしたち人間の弱さ、愚かさにどこまでも寄り添ってくださるインマヌエルの神を記録した福音書です。



2015年1月25日

「インマヌエルの神」

【新約聖書】マタイによる福音書28章16~20節

 ヨハネの福音書を終え、わたしたちは本日よりマタイの福音書を礼拝で読みすすめてまいります。本日はこの福音書の最終章である28章を開きました。とくに最後の節である20節を心に深く刻んでおきたいと思います。【見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる】。このキリストの言葉こそ、この福音書のテーマであり、福音そのものであり、聖書全巻をつらぬくメッセージでもあります。

 キリストはわれらと共にいてくださる。このことをひと言で表したものが「インマヌエル」です。インマヌエルとは直訳すると「神はわたしたちと共におられる」という意味です。後日学びますが、マタイの福音書の1章で、インマヌエルとは主イエス・キリストに与えられたもう一つの名前であるとしるされています。要するにマタイの福音書はキリストはインマヌエルの神であり、いつも、どのようなときも、わたしたちと共におられる真実の神であることをテーマとし、この真実を伝えるために書かれた福音書であるということです。

 民族を問わず、性別を問わず、年齢を問わず、誰であろうとも、キリストをただ信じるだけでいい。信じるだけとは、キリストの恵みにおさなごのようにあずかるだけでいいということです。信心も修行もいりません。キリストは弱いわたしたちにどこまでも寄り添い、いつも、いつまでも共にいてくださる。けっして見放したり、見捨てたりはなさらない。【見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる】とはそういう意味です。キリストはそのようなお方であることが福音(喜びの知らせ)であり、わたしたちの救いであり、希望です。キリストは愛に満ちあふれたインマヌエルの神であることを心に深く刻み、マタイの福音書をこれから読みすすめてまいります。

 もうひとつ大切なことは、福音はまず自分自身にこそ語り聞かせるものであるということです。自分の人生に穴が空いて自分に失望したときはもちろんのこと、つね日頃から自分自身にまず福音を語り聞かせなければなりません。福音はまず自分自身に伝える。福音宣教とは、まず自分自身がキリストの愛にふれ、ゆるされ、傷がいやされるところから始まります。

 キリストが愛してくださっているように、まず自分自身をかけがえのない存在であると認め、自分自身を大切にしてこそ、自然と、自分以外の身近な人を大切にできるようになるものです。



2015年1月18日

「今でしょ!」

【新約聖書】ヨハネによる福音書21章15~25節

 2012年9月2日(日)に始めたヨハネの福音書からの礼拝説教もいよいよ本日で最後を迎えます。

 キリストを土壇場で見捨ててしまうという大失態によって、いわば人生に大きな穴を空けてしまった弟子たちでした。復活の主は、そうした弟子たちのためにガリラヤ湖半で朝食を準備されます。人生の穴をとおして自分の弱さとキリストの愛をあらためて悟った弟子たちでした。「キリストは以前と変わらず自分たちを愛してくださっている」。しかしそれゆえに弟子たちはキリストを土壇場で裏切ってしまった自分自身を赦せませんでした。キリストにゆるされても、自分自身をゆるすことはなかなかできなかったのです。

 キリストは弟子の代表格であるペテロにひとつの問いかけをなさいました。「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。三度、同じ問いかけをされます。「わたしを愛するか」とは、より厳密に言えば「今、わたしを愛しているか」ということです。昨日でも、おとといでもなく、また明日でもない。まさに今のこの瞬間、あなたはわたしを愛しているか、という問いかけです。

 もし「あなたはわたしを愛したか」と過去形で主イエスが問われたら、主を土壇場で裏切ってしまった弟子たちには返す言葉はありません。過去の事実は変えることはできませんから。しかし主イエスが期待しておられるのは過去のペテロではなく、また将来のペテロでもなく、今この時のペテロでした。三度もたずねられてペテロも悟ります。主イエスが必要としてくださっているのは、今この時の自分なのだと。であるなら彼は心から答えることができました、「主よ、わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です」。

 いつも主なる神さまは過去のあなたにではなく、また将来のあなたにでもなく、今この時のあなたに神のまなざしを注がれ、そして問われます、「今、あなたはわたしを愛するか」。キリストを信じる信仰で問われているのは過去でも将来でもありません。まさに今、この時の自分です。

 これより後、いよいよ弟子たちは全世界へ福音宣教へ出ていくこととなります。



2015年1月11日

「原点に戻れ」

【新約聖書】ヨハネによる福音書21章1~14節

 人生の悩みとはいわば人生の穴のようなものだと思います。大きな穴もあれば小さな穴もあります。自分のせいで空けてしまう穴もあれば、自分の意志とは無関係に空いてしまう穴もあります。前者は自分の過失や傲慢ゆえの失敗、後者は病気や自然災害などがそうでしょう。人生に穴が空いたら、すぐにでもふさいでしまいたい。あるいはそもそも穴などなかったことにしたい。これが人情かもしれません。

 キリストの弟子たちの歩みにも大きな穴が空きました。キリストを土壇場で見捨て、裏切ってしまったという大失態です。死からよみがえられたキリストは以前と変わらず弟子たちを愛されましたが、弟子たちにとっては愛する主を土壇場で裏切ってしまったという大失態はどうしようもないことでした。

 人生に穴が空いてしまうのは、つらく、重いものです。ところが、わたしたちの人生が順風満帆であるかぎりけっして見えてこない真実が、人生に穴が空くことで、その穴を通して見えてくるのもまた事実です。失敗や病気、事故や災害などのつらい体験を通して、それまで見えなかった自分の傲慢さや弱さ、愚かさなどがいたいほどに見えてくるものです。しかしそれだけではありません。同時に、いわば人生の原点というものが穴をとおして見えてくるようになります。

 キリストの弟子たちもそうでした。キリストを見捨ててしまうという大失態を通して自分の弱さ、愚かさ、不甲斐なさをいたいほど思い知ったことでしょう。ところが見えてきたのはそれだけではありません。そうした弱く、愚かで、不甲斐ない自分を最初から承知の上で変わらず愛してくださっているキリストの愛を、彼らは思い知ることとなります。

 復活の主はガリラヤ湖半で弟子たちと一緒に食事をされました。主ご自身が魚をそなえ、炭火を準備し、パンも用意されました。弟子たちは主が備えてくださった恵みにおさなごのようにあずかるだけでした。これこそが自分たちの原点であったと彼らは気付いたと思います。

 自分は弱いとか、自分にはこんな才能があるとか、自分はこんな人間だとか、そのようなことは二の次です。はじめにキリストがおられ、キリストの愛が注がれている。次にキリストの愛をおさなごのように受けて、生きている自分がいる。はじめにキリスト、次にわたしたち・・・これこそが人としての原点であり、出発点でもあります。キリストの愛を受け、弟子たちはあらためてこの原点を悟ったと思います。

 人生に穴が空くのはたしかにつらいことです。でも穴を通して、わたしたちは人としての原点に戻ることができるのではないでしょうか。これ以後弟子たちは福音を伝えるために全世界へ旅立って行きます。人としての原点を見失わないために、キリストを裏切ったという大失態を生涯忘れることはなかったでしょう。

 この大失態は彼らにとってはもはや人生の穴などではなく、むしろ大いなる祝福の穴というほうがふさわしいと思われます。



2015年1月4日

「光を求める旅」

【新約聖書】マタイによる福音書2章1~12節

 年の最初の主日にはマタイの福音書2章に描かれる東方の博士たちの記事を開きます。博士たちとは星占いを行う占星術師たちのことです。はるばる千キロもの長旅を経て、救い主を拝みにやってきた占星術師たちの様子をマタイの福音書はとてもていねいに描いています。彼らは、純血を重んじるイスラエルの人からは敬遠されていた異邦人であり、また星占いを稼業とする異教徒でした。つまり当時の生粋のイスラエルの人たちからすれば、彼らは神の祝福とはおよそ縁のない人々でした。

 千キロもの長旅をへて、エルサレムまでやってきた博士たちはいいました、「わたしたちは星を見たからやってきました」。実にシンプルな動機です。どんな星だったのだろう?と思わず想像してしまいます。

 車も電車もない時代です。夜盗もいたでしょう。とても過酷な危険な長旅であったことは間違いありません。途中で旅をあきらめて引き返そうと思ったこともあったでしょう。そのような彼らを支えたのは、ひとつにはもちろん東方で見た星の光でした。何度も何度も星の光を思い出しては気持ちを奮い立たせていたと思います。そしてもうひとつ忘れてはならないのが、彼らが三人で旅をしていたことにあるとわたしは思います。福音書は三人とは名言していませんが、複数であったことは間違いありません。古くからの伝承では三人とされています。何人であったのかはここで問題ではなく、旅のつらさを分かち合い、励まし合える友がいた。このことがとても大きなことであったと思います。

 今年も間違いなくいろいろなことがあるでしょう。荒野に投げ込まれることもあるかもしれません。こんなはずではなかったと肩すかしを食らうこともあるでしょう。悲嘆に暮れることもあるでしょう。そのたびにわたしたちは天を仰ぎます。そしてそのたびにわたしたちの行く手を照らすキリストの言葉がいつも響いてきます。「あなたがたは心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」。

 さあ、2015年という長旅が始まりました。今年もキリストとともに旅をかさねてまいります。キリストを仰ぎつつ、キリストに祈りつつ、旅を進めてまいります。

 東方の博士たちの旅がそうであったように、わたしたちの旅もひとり旅ではありません。キリストがいつも共にいてくださいます。そして同じキリストを信じる者同士、わたしたちは今年も一緒に旅を重ねます。
 今年一年も旅の喜怒哀楽を共に分かち合いながら、キリストの光を求めて歩んでまいりましょう。



2014年12月28日

「老いる恵み」

【新約聖書】ルカによる福音書2章36~38節

 2014年の最後の日曜日を迎えました。毎年同じことを申しあげていますが、すでにキリストは誕生しておられます。ですからわたしたちは、キリストとともに一年を終え、キリストとともに新しい年を迎えます。年末年始も礼拝堂にクリスマスツリーが飾られているのは、キリストとともに一年を終え、キリストとともに新しき年を迎えるためです。

 本日登場する老女アンナは【宮を離れず、夜も昼も断食と祈りをもって、神に仕えていた】とあります。彼女は10代の半ばで結婚し、20歳過ぎには独り身になってしまいます。夫は病死か、あるいは戦死したのかもしれません。アンナと夫との間に子供がいたことも十分にあり得ます。もしそうならアンナは夫を失った後、女手ひとつで子供を育て、しかしその子供にも先立たれたのかもしれません。アンナという名は「恵まれた女」という意味ですが、その名前とは裏腹の悲しみに満ちた生涯であったと思われます。

 アンナは宮を離れず神とともに歩んできました。彼女もひとりの弱い人間です。なげき、悲しみ、怒り、また途方に暮れることもなんどもあったでしょう。でもアンナはいつも神の前に自分の身を置いて生きてきました。その彼女がおさなごイエスと出会います。見た目はふつうの赤ちゃんです。でもアンナにはそのおさなごに希望の光が見えました。救いがはっきりと見えたのです。大勢の人たちが行きかうなかで、アンナにだけ見えた世界でした。

 神とともに歩むことのさいわいはなんでしょうか。神を信じても信じていなくても、この世では悩みがあります。いずれであろうとも病気にもなり事故にも遭います。神を信じたら悩みがなくなってしまうことなどありません。では神とともに歩むさいわいはなんでしょう。それは「夕となり、また朝となった」という神の真実を知っているか、知っていないか、です。天地創造の折から主なる神はこの世界が移りゆく様をこの真実に基づいて導いておられます。神とともに歩むとは、この神の真実とともに歩むと言ってもいいでしょう。

 アンナは大きな悩みの中にいくども置かれても、また必ず朝が来ることを知っていました。彼女もまた、この神の真実に身をゆだねて生きてきました。だからどれほどの艱難辛苦を体験しても老女といわれるほどの年齢に達するまで生きてくることができたとわたしは思います。そしてアンナにとって、おさなごイエスとの出会いこそが、この神の真実を追体験するもっとも大いなる出来事であったと思います。キリストと出会うことによって彼女の人生の夜がすっかり明けて、「また朝となった」ことにアンナは歓喜したことでしょう。

 老いるとは朝に近づくことです。今どれほど悩みが深くとも、また必ず朝となる。聖書はこの神の真実をアンナの生涯を通してわたしたちに伝えています。夕となり、また朝となった。新しき年もこの神の真実を心に刻んで、キリストとともに歩みをかさねてまいりましょう。


 

2014年12月21日

「キリストの誕生」

【新約聖書】ルカによる福音書2章1~20節

 「(マリヤとヨセフが)ベツレヘムに滞在している間にマリヤは月が満ちて初子を産み布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである」と聖書はキリストの誕生の場面を伝えています。そもそもマリヤとヨセフが住んでいたのはナザレという静かな田舎町でした。彼らはこの田舎町で初子を出産する心づもりであったでしょう。ところが人口調査をせよとの命令がローマ皇帝から出され、ヨセフは身重のマリヤとともに生まれ故郷であるベツレヘムに否が応でも行かざるを得なくなりました。車も電車もない時代です。身重のマリヤにとってナザレの町からベツレヘムまでの約150キロの旅はそうとう過酷な旅であったはずです。

 「客間には彼らのいる余地がなかった」とは、要するに宿屋がどこも満室だったということです。またこうも言えます、「誰一人として臨月の若い女性に自分の部屋を提供する人はいなかった」。ここで聖書は暗に人間の薄情さ、身勝手さを伝えていると思います。「自分さえ、ゆっくりできる部屋があればそれでいい。たとえ臨月の女性が路頭に迷っても自分の知ったことではない。自分とは関係ない」。当時のベツレヘムの人々がとりわけ薄情だったのではありません。今のわたしたちにも共通する人間の薄情さであり、身勝手さでしょう。けっして他人事ではありません。

 かくしてマリヤは家畜小屋という、きたなくて臭くて暗い場所で出産します。初子は布にくるんで飼い葉桶の中に寝かせたとありますが、どこの世界に自分の子供を不潔な飼い葉桶の中に寝かせる親がいるでしょうか。飼い葉桶の中とは、まさに人間社会の闇をもっとも端的に象徴しているような場所です。聖書は、キリストはこうした人間社会の闇のまっただ中に誕生されたことを伝えています。それが正真正銘のクリスマスなのだと聖書は告げているのです。

 闇の中にキリストが誕生された。これがクリスマスのメッセージです。どんな闇の中にもキリストは輝いておられる。光を放っておられる。そして今、深い闇の中に置かれている人々に向かって聖書は語りかけています、「キリストがおられるではないか」。

 キリストは誕生されて、人間社会の闇の中に足を踏み入れておられます。足を踏み入れるどころか、身を横たえておられます。悩みのなかで、わたしたちがもがき苦しむたびに聖書は語りかけてきます、「大丈夫。何も心配はいらない。キリストがおられるのだから。どんな闇の中にもキリストは輝いておられるのだから」。だからわたしたちは悩みの中で、悲しみの中で、苦しみのただ中で、いつも飼い葉桶に身を横たえておられるキリストを仰ぎ、叫びます、「わが主よ、わが神よ」と。      


 

2014年12月14日

「キリストの母」

【新約聖書】ルカによる福音書1章26~38節

 現代のわたしたちはとかく出来事を因果関係で推し量り、分かったような気になってしまうところがあります。原因の究明はもちろん大切なことです。しかしたとえば御嶽山の噴火によってわが子を失った親にとって、子供が亡くなった原因は御嶽山の噴石が頭を直撃したからであると言われてもあまり意味はありません。問題は、どうしてよりによって自分の子供があの噴火で死ななければならなかったのか、です。そしてこのような問いかけに対して、すぐに満足のいく答えはありません。ただ目の前のきびしく悲しい状況を引き受けて歩むなかから、人生の真実をひもといていく他にありません。

 【恵まれた女よ。おめでとう。主があなたとともにおられます】。天使の語りかけを受け、キリストの母になることを告げられたマリヤでした。マリヤにとっては思ってもみないことです。【天使の言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがした】とあります。「どうしてそんなことがあり得ましょうか?どうしてわたしが選ばれたのですか?どうして?どうして?」とマリヤは天使に詰めよります。しかしマリヤがキリストの母にどうして選ばれたのか、結局のところはわかりません。主なる神がそうされた、としか言えないのです。

 わたしたちも自分の意志とは無関係にいろいろな状況に置かれます。そもそも自分の意志とは関係なくこの世に誕生します。病気や老い、天災や事故など予想外の状況に否応なく置かれます。とりわけ生死に関わる状況はわたしたちの外から容赦なくやって来ます。東日本大震災しかり、御嶽山の噴火しかり、あるいは老いも病気もそうです。でもこうした状況のなかでどう生きていくのか、生き方は選ぶことができます。【わたしは主のしもべです。お言葉どおりこの身になりますように】。マリヤはどうして?と問うのをやめ、自分の置かれた状況を受け入れます。そして自分が置かれた場所で神を信じて生きていくことを決心しました。

 置かれた場所で咲きなさい。これはある宣教師の言葉です。自分が置かれた状況のなかで、しっかりと自分を生きて行く。状況は選べなくても、生き方は選ぶことができます。どのように生きるのか、それは自分次第です。置かれた場所で咲く。かりに誰の目にもとまらないほどの小さな花であろうとも、置かれた場所で咲く小さな花はまさに自分自身が生きた証しとなります。神を信じてひたすら生きてきた自分を証しするものとして天に刻まれることとなります。のちに聖母と呼ばれるようになったマリヤがそうであるように。


 

2014年12月7日

「誰にも悩みはある」

【新約聖書】マタイによる福音書1章1~8節

 12月12日は漢字の日だそうです。今年一年の日本の世相を表す漢字一文字が発表されます。昨年は「輪」、一昨年は「金」でした。それぞれに自分にとっての2014年を漢字一文字で表し、お互いに分かち合ってみるのも楽しいものです。

 先週の待降節第一週のテーマは「主がお入り用なのです」でした。主なる神さまが必要としておられる。何かのために主ご自身はわたしたちひとりひとりを必要としておられる。天の御国に入れられるまで、この神のご意志は変わりません。

 夏目漱石の草枕の冒頭に「とかく人の世は住みにくい・・・」ということばが登場します。皆さんも何かの時にふと「とかく人の世は住みにくい・・・」とため息をつくことはありませんか。この世にはうれしいこともあるし、わくわくするようなこともあります。でも人の世には総じてあちらこちらに荒野が拡がっています。とかく住みにくいのが人の世ではないでしょうか。

 「荒野で呼ばわる者の声がする」。毎年待降節にはこの聖書の言葉を心に刻みます。バプテスマのヨハネといわれる男が荒野のど真ん中に立って叫んでいます。「やがて正真正銘の救い主がこの荒野にお越しになる」。神の都エルサレムでもなく、オアシスの町エリコでもなく、荒野でヨハネは叫びました。神の救いの言葉まっさきに荒野の人々に伝えられました。

 河野進先生の「病まなければ」という詩があります。「病まなければささげ得ない祈りがある・・・おお、病まなければ私は人間でさえもあり得ない」。最初にこの詩に出会ったとき、わたしは衝撃ともいえる感動をおぼえました。誰もが病気はいやです。悩みも避けたい。それが人情でしょう。ところが病まなければささげることのできない祈りがたしかにあります。悩みがなければ、人はすぐに傲慢になり、主なる神を忘れてしまう。荒野でこそ、そして病のなかでこそ、また悩みのただ中でこそ、主を仰ぐわたしたちの信仰は養われます。本来の弱いひとりの人間として主なる神さまの前にひざまずけるからだと思います。

 とかく住みにくい荒野という人の世にあってじたばたしても、思いわずらっても、あるいはキリストにわが身をまかせて心軽やかに歩んでも、同じように時は流れます。変わらずにわたしたちの一生は過ぎて行きます。そうであるなら、キリストにわが身をまかせて、心軽やかに歩むのが得というものです。

 待降節第二週が始まりました。どのように生きても同じ一週間です。せっかくですから余計なことはキリストにすぱっとまかせて、心軽やかに歩みましょう。それが得というものです。


 

2014年11月30日

「どんな時にも人生には意味がある」

【新約聖書】マタイによる福音書21章1~11節

 今年も待降節(アドベント)が始まりました。共に一年を振りかえりつつ、救い主キリストの誕生を待ち望みたいと思います。

 待降節第一主日ではキリストがろばの背に乗ってエルサレム入城を果たされた場面を開きます。ろばは紀元前4千年以上も前から家畜として飼われていた動物です。ところが日本では馬や牛と異なり、ほとんど飼育されませんでした。記録では日本書紀にも登場しますし、江戸時代にも中国やオランダから移入された記録があります。ところが、まったく家畜としては普及しません。原因は明らかではなく、日本畜産史の謎といわれているそうです。

 『主がお入り用なのです』。この言葉によって、つながれていたろばが解放されます。思えば、わたしたちもいろいろなものにつながれています。そもそも生きているとは、この世につながれていることなのかもしれません。悩みにつながれ、悲しみにつながれ、病につながれ、あるいは不安や恐怖につながれている人も多い。

 悩みのない人はいません。悩みで苦しまない人はいません。わたしたちは簡単にこの世の様々な悩みにつながれてしまいます。つながれて身動きができなくなってしまいます。生きているかぎり、悩みはあって当然ですし、悩みに苦しむのは当然のことです。自分だけが弱いせいでも、信仰が足りないせいでも、祈りが少ないせいでもありません。そもそもわたしたち人間は弱く、もろいからです。

 『主がお入り用なのです』。キリストはひとりひとりに生きる意味を与えておられます。キリストはいつもあなたを招き、あなたを求めておられます。悩みにつながれて身動きが出来ないでいるひとりひとりの魂に、キリストはいつも愛のまなざしをそそぎ、やさしさに満ちあふれた声で語りかけておられます、『わたしの愛する子よ。わたしはあなたを必要としている』。

 誰かの幸せのために、あるいは何かのためにキリストはあなたを必要としておられます。だから、どんな時にもあなたには意味がある。御国に召されるまでそれは変わりません。問題はそれを信じるかどうかです。信じて生きるかどうかです。

 『主がお入り用なのです』。待降節第一週は、この聖書の言葉に耳を傾けつつ歩みましょう。わたしたちひとりひとりはこれといったとりえのない小さな存在です。でもキリストはひとりひとりを必要としておられます。忘れないでください。


 

2014年11月23日

「キリストこそいのち」

【新約聖書】ヨハネによる福音書20章24~31節

 キリストが死から復活された日曜日の夕方、たまたまトマスだけが不在でした。トマスが帰宅すると、他の弟子たちは誰もが復活の主と出会ったと喜んでいます。きっとペテロは目を輝かせ興奮した口調でトマスに話して聴かせたことでしょう。ところがトマスは信じることができません。よりによって自分が不在のときを見計らったかのようにキリストが姿を現されたことに怒ったことでしょう。

 わたしたちは聖書の内容の何もかも信じることができるかというと、けっしてそうではありません。わたし自身も聖書を読み始めた頃や洗礼を受けた当初はたくさんの疑いをもっていました。ところが時の流れの中で、そうした疑いこそが信仰を深めてきたのも事実です。トマスもまさにそうでした。トマスは信じたふりなどしないで、ありのままの自分の気持ちをぶつけました。だからこそキリストは八日の後ふたたび姿を現されます。そしてトマスは心底キリストを信じ「わが主よ、わが神よ」と告白します。キリストはいわれました、「見ないで信じる者はさいわいである」。このキリストの言葉は見ないで信じている後世のわたしたちへの大いなる祝福の言葉でもあります。トマスの疑いのおかげで、このキリストの祝福の言葉が聖書に残りました。

 疑いをいだくのはごく当然のことです。ただしここでとても大切なことは、疑いには「健全な疑い」と「不健全な疑い」があるということです。健全な疑いは信仰を深めますが、不健全な疑いは信仰から人を引き離してしまいます。

 両者の違いはどこにあるでしょうか。疑いの内容が問題ではありません。身の置き所が問題です。トマスはキリストが復活されたことを信じることが出来ませんでした。疑いました。でも彼はなお他の弟子たちと一緒にいました。イスカリオテのユダは交わりから出てしまいましたが、トマスは仲間との交わりの中に身を置いていました。ペテロたちもトマスをそのまま受け入れました。どのような疑いがあってもなおキリストを信じる者たちと一緒にいる、交わりの中に身を置き続けているかぎり、心配はいりません。大丈夫です。もしそうであるなら、時が来れば、そうした疑いをとおしてさらに深い聖書の世界が見えてくるようになります。疑いをとおして信仰が深められることとなります。ところがイスカリオテのユダのように交わりから飛び出してしまったら、炭火が一個ではすぐに消えてしまうように、信仰の火も消えてしまいます。

 疑ってはならないのではありません。トマスがそうしたように、疑いのあるままに、キリストの交わりの中に身を置いておけばいい。わからないことや信じられないことがあっても心配はいりません。主は、わたしたちの疑う心をさえ用いて祝福にかえてくださいますから。


 

2014年11月16日

「平安から送り出される」

【新約聖書】ヨハネによる福音書20章19~23節

 キリストが復活された日曜日の夕方の出来事です。弟子たちはユダヤ人を恐れて部屋に閉じこもっていました。キリストの遺体が紛失したニュースはすぐにエルサレム中に知れ渡ったことでしょう。別の福音書を読むと、ユダヤ人たちは遺体が紛失のは弟子たちが夜中に盗んだからだ、というデマを流します。つまり弟子たちは指名手配犯となるわけです。捕まれば死刑になるかもしれない・・・弟子たちが恐れたのも無理はありません。

 ここで弟子たちは死からよみがえられたキリストをも恐れていたかもしれません。土壇場でキリストを見捨て、裏切り、見放してしまったのですから。キリストに会わせる顔がないどころか、復活の主に断罪されてしまうという恐怖を弟子の誰もが抱いていたとわたしは思います。

 この時の弟子たちは八方ふさがりです。今まではどんなにユダヤ人たちが詰めよってきてもキリストがいてくださいました。いつもキリストに守られていました。ところが今はそのキリストはおられないどころか、キリストをも敵に回してしまっています。弟子たちにとってはまさに絶望の淵、真っ暗闇、まるで墓に葬られたかのようです。どこからも光が差し込まない、棺桶の中のようです。彼らにとって生涯で最もつらい時であったと思います。

「イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」とあります。復活の主は今までと同じように弟子たちを祝福されました。以前と変わらない神の愛のまなざしを彼らに注がれました。弟子たちはキリストの愛に圧倒されたと思います。この時彼らに出来たことは、目の前のキリストを仰ぎ、おさなごのようにただ祝福とゆるしを受けるだけでした。

 週のはじめの日曜日の礼拝では、わたしたちはまずキリストの祝福にあずかり、ゆるしを受けます。礼拝とはまず神の恵みにあずかる場です。礼拝をとおして、復活の主を仰ぎ、過ぎし一週間の的はずれの歩みを悔いあらためます。過ぎし一週間がどのような歩みであったとしても、礼拝をとおして、キリストはいつも何度でもわたしたちの的はずれの歩みをゆるし、存分に惜しみなく祝福してくださいます。信仰とはそのようなキリストの祝福をすなおに受け入れて、新たな週の歩みを始めることです。

 安かれとはシャロームという言葉です。平安があるように、平和がありますように、という意味です。キリストの祝福を受けた弟子たちは平和の使者として全世界へつかわされます。同様にわたしたちもキリストに祝福された小さな平和の使者として一週間を歩みます。大きなキリストの愛を伝える小さな器として用いられることを願いつつ。


 

2014年11月9日

「キリストはあなたと共に」

【新約聖書】ヨハネによる福音書20章1~18節

 本日午後はいよいよ松田卓先生による講演です。テーマは「わてかて死ぬんや」、牧師として、またチャプレンとしての豊富なご経験から語ってくださいます。

 春のイースターに読まれる場面が本日の箇所です。マグダラのマリヤが日曜日の早朝キリストの遺体が納められた墓にやってくる場面です。ペテロとヨハネはキリストの遺体がないことを確認してすぐに墓から立ち去りました。ところがマリヤは墓の前で泣いています。マリヤこそが誰よりもキリストの死を真正面から見すえているといえるかもしれません。でも空虚な墓を前にして彼女はただ泣くばかりです。どうしようもないからです。

 本来わたしたちは死を前にただ立ちすくむだけです。泣くだけです。なすすべがありません。それが本来のわたしたちの姿でしょう。この時のマリヤの姿こそが死を前にしたわたしたちの姿でもあります。あるいは次のようにも言えます、「救い主キリストをまだ知らないときのわたしたちの姿である」と。

 墓をみつめて泣いているマリヤの背後には復活の主キリストが立っておられます。そしてマリヤの背後からキリストは声をかけられます。しかしマリヤはそれがキリストであるとわかりません。彼女は振りかえってキリストを見たのですが、墓の管理人と勘違いしてしまい、ふたたび彼女は墓をみつめて泣きます。このときのマリヤの姿はわたしたちの姿そのものです。悩みや死への恐れから泣きふるえるわたしたちの背後からキリストはやさしく呼びかけてくださる。聖書を通して、身近な人を通して、本を通して、キリストは語りかけてくださる。ところがなかなかわたしたちはそれがキリストの声とは気づかない。

 ところがついにマリヤも自分の背後に立っておられる方がキリストだとわかりました。彼女はふり返り、眼前にキリストを仰ぎます。それまでは眼前に墓を仰ぎ、キリストに背を向けていました。しかしこの瞬間からマリヤは眼前にキリストを仰ぎ、墓を背にします。これが回心です。回心とは、ぐるっと180度方向転換をし、今まで背を向けていたキリストを眼前に仰ぐことです。

 マリヤは復活のキリストを眼前に仰ぎ、墓(死)を背にしています。これはとても象徴的です。わたしたちも死を背負っています。死を背負ってはいますが、眼前に仰ぐのは復活の主キリストです。永遠のいのちです。御国です。死を背負い、次はないかもしれないという聖なる緊張感をおぼえつつ、いつも眼前にキリストを仰いで、御国を目指して歩んでいます。それがキリストと共に歩むということです。


 

2014年11月2日

「死を背負って」

【新約聖書】ヨハネによる福音書14章1~6節

 わたしたちは自分の死を背負って生きています。この世に誕生した瞬間からそうです。人間だけではありません。いのちある生き物すべてが死を背負って生きています。ただその事実を実感していないだけです。死は遠くにあるものと勘違いしているだけです。ですから、いつ背中に背負っている死が目の前にやって来ても不思議ではありません。2011年3月11日の東日本大震災では1万8千人もの人々が亡くなりました。誰ひとり、3月11日のあの日に死ぬとは思っていなかったはずです。

 メメント・モリとは「あなたの死をおぼえよ」という意味です。教会では「次はないかもしれない」と訳しています。それがわたしたちの置かれている現実であるからです。なぜならわたしたちは「死を背負って」生きているからです。背負っている死がいつ眼前にやってきても不思議ではないからです。であるなら、わたしたちは余計なことをしている暇はありません。死を背負っていることを忘れてしまうと、余計なことにわたしたちはとらわれてしまいます。大切なものが見えなくなって、エゴむき出しに振る舞ったり、世間体ばかりを気にしたり・・・。もし自分の余命があと一週間であったら自分はどうするか、時々そのように考えてみたらいいかもしれません。

 希望とはまだ先があるということではありません。そのように悠長に構えていたら足下をすくわれてしまいます。では希望とは何でしょうか。聖書が告げる希望とは、死をつらぬくキリストがおられるということです。わたしたち人間は死に逆らうことはできません。死にあらがうことはできません。しかし、死をつらぬいておられる主なる神がおられる。キリストがおられる。これが希望です。

 キリストは言われました、「わたしは道であり、真理であり、命である」と。キリストは永遠の御国へと通じている道であり、うそ偽りのない真理のお方であり、ただ信じるだけでもれなく永遠の命を与えてくださるお方です。永遠の命とは死をつらぬく命のことです。キリストを信じておくだけで、死は御国の入り口となります。いつ死んでも天国です。安心して今日一日を精一杯歩むことができます。自分は死んだらどうなるのかなどと悩むことも迷うこともいっさいありません。気楽です。
 まずはキリストを信じておく。それだけで死は御国の入り口となります。その上で今日という一日を精一杯に歩みましょう。誰かが言いました、「今日はわたしの一番若い日です」。その通りです。いくつになっても今日という日が青春の一ページ目だと思いましょう。たとえ寝たきりになろうが病気になろうが今日が自分にとって一番若い日です。明日死んでも本望と思えるほどに今日という一日を心を込めて歩みましょう。

 さて、あなたは今日というかけがえのない一日をどのように過ごしますか?


 

2014年10月12日

「すべてが終わった」

【新約聖書】ヨハネによる福音書19章28~30節

 わたしたちがふつうに考える勇気とは、なにかに果敢に立ち向かって克服することです。勇気をもって病気と闘うとか、勇気を出して暴力行為や世の悪に毅然と立ち向かう、などといいます。

 しかしこれとはまったく異なる意味の勇気があります。「受け入れがたいものを受け入れる勇気」です。たとえば現代医学では直らない病気とか、持って生まれたハンディ、過去の失敗、とてもややこしい人間関係・・・そのような受け入れがたいものを受け入れる勇気です。あるいは幼い子供が夜泣きしたら、母親はどれほど眠たくても起きて子供の世話をします。年老いた親を介護している家族は、何かあれば夜中でも起きて、愚痴をこぼしながらも親の世話をします。受け入れがたいものを受け入れる勇気とは、そのようなことです。

 老いもそうですし、死もまさにそうです。どんなに受け入れがたくても受け入れなければなりません。先の御嶽山の噴火で愛する家族を失った方々にとって、それがどれほど受け入れがたいことであろうとも、受け入れるほかにありません。あるいは小学生だった愛する我が子を殺害された長田区の事件でもそうです。両親にしてみたら、怒りや悲しみを犯人にどれほどぶつけてみても子供は戻ってきません。これ以上の受け入れがたい事はありません。でも受け入れるほかに道はありません。それがどれほど苛酷で勇気のいることか。わたしたちにはとうてい計り知ることはできません。

 わたしたち人間の愚かさ、弱さ、身勝手さ、薄情さ・・・そのすべてを受け入れて、キリストは十字架上にかかり、息を引き取られました。「すべてが終わった」とは、すべてを成し遂げたという意味です。まさにありとあらゆる受け入れがたい人間の闇のすべてを受け入れ尽くされたということです。キリストが十字架にかかり、息をひきとられたとはそのような意味です。

 思い返せば、わたしたちの誰もが、今までいろいろな人に受け入れてもらって年をかさねてきたはずです。自分の愚かさや身勝手さを、身近にいた誰かが受け入れてくれたはずです。だからこそ、今の自分がある。けっして忘れてはならないことです。

 キリストは、わたしたちがどれほど愚かで身勝手であろうとも、最後の最後まで、御国に入れられるまで、わたしたちを受け入れ、導いてくださいます。キリストはそのために命をかけてくださいました。十字架にかかって息を引き取られたことが、そのことを証ししています。


 

2014年10月5日

「十字架のキリスト」

【新約聖書】ヨハネによる福音書19章17~27節

 いのちを与えられた主なる神が、いのちを取られるのはいつか、わたしたちにはわかりません。平均寿命くらいまでは生きられるだろうなどと思うのは間違っています。人生そのものを誤解しているといってもいい。背中に背負っている死が、いつ何時、眼前に来てもおかしくありません。神は与え、神は取られる。今日という一日が自分にとってはこの地上での最後の一日かもしれません。わたしたちはメメント・モリをつねにみすえ、一日一日をひたすら生きていく他にありません。誰かのために、あるいは何かのために、今の自分で出来ることを精一杯に果たしつつ、生きていく他にありません。メメント・モリをきわめるとは、主がいのちを取られるその瞬間まで、ひたすら生きていくことに他なりません。過去を嘆いている暇などありません。

 キリストはついに十字架を背負われました。日本語でドクロ(されこうべ)を意味するゴルゴダへと出て行かれました。これは何を意味するのでしょうか。すでに学んだようにキリストは人間の裏切り、薄情さ、愚かさ、弱さ、それらすべてを一身に引き受けておられます。まったく罪のないお方が《みずから十字架を背負って、されこうべという場所へ出て行かれた》と聖書は告げています。十字架を背負われたとは、およそ人間の持っているすべての闇を引き受けられたということです。キリストが十字架を背負われたとはそのような意味です。

 わたしたちは自分の救いをどこで確信できるでしょうか。愚かで、弱く、中途半端なわたしたちです。キリストはちゃんとこんな自分をも引き受けて、御国へ入れてくださるのだろうか? 誰もが不安に思うところです。そのようなわたしたちに聖書は語りかけている。みずから十字架を背負われたキリストを見よ、と。キリストの愛は中途半端で終わることはありません。人間の愚かさを引き受けるためにキリストは行き着くところまで行かれました。行き着くところ、それがゴルゴダの丘の十字架です。

 キリストはこのわたしを愛してくださっているのだろうか?このわたしを救ってくださっているのだろうか?そのような不安に包まれたとき、信仰によって、十字架のキリストを仰いでください。そこには最後の最後まで見捨てず、見放さず、わたしたちのありのままを引き受けて、愛し尽くしてくださった神の御子キリストが見えるはずです。十字架を背負われたキリストこそ、わたしたちの救いの確証であり、神の愛の完全な現れです。


 

2014年9月28日

「沈黙のキリスト」

【新約聖書】ヨハネによる福音書19章10~16節

 最近ある方がおっしゃいました、「神さまはきっと恐ろしい方です」しかしわたしは、はっきりと申しあげました、「それは違う。恐ろしいのは人間ですよ」先の神戸市長田区の殺人事件しかり、またイスラム国と称して問答無用とばかりに殺戮を繰り返している戦争しかり。わたしたち人間は昔から延々とこのような愚かなことを繰り返しています。恐ろしいのはわたしたち人間のほうです。

 「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」ユダヤ人たちは叫んでいます。頭に血が上っているとしか思えません。恐ろしいというか、おぞましい光景です。代官ピラトはどうにかしてキリストを釈放しようと努めます。しかしユダヤ人たちの暴動を恐れたピラトも最後は彼らに屈服してしまいます。「そこでピラトは十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した」と聖書は伝えています。

 「自分さえよければそれでいい。自分の立場さえ守ることができたら、たとえキリストを処刑しようが、主なる神にやいばを向けようが構わない。他人がどうなろうが関係ない。自分こそが正義なのだから」当時のユダヤ人たちが思っていたところであり、また今のわたしたち誰もが思ってしまうところでもあります。

 そうした人間の愚かさに囲まれてキリストは沈黙しておられます。人間の愚かさをそのまま受けとめておられます。反論することなく、これまで振るってこられた神の大権もいっさい振るうこともなく、ただなされるがままです。このときのキリストの姿にわたしたちは何を見るのか。何を見なければならないのか。キリストの弱々しさでしょうか?いいえ。それは違います。

 キリストはここで人々に見捨てられています。代官ピラトからも見放されました。弟子たちからも裏切られました。でもキリストご自身はそうした人々の愚かさを一身に引き受けておられます。つまり神の御子キリストはそうした人間の愚かさをすべて受け入れて、ご自身が十字架にかかるということによって、人間がどれほど愚かであろうとも、キリストはなおそのような人間を見捨てず、見放すことはないことを身をもって告げておられるのです。わたしたちがこのときのキリストに見るべきもの、それは人間の思いをはるかに越えるキリストの愛、神の愛です。

 キリストはご自分は見捨てられても、わたしたちをお見捨てにはならない。見放されても、見放すことはなさらない。裏切られても、裏切ることは断じてなさらない。キリストの愛、まさにここに極まれり、です。


 

2014年9月21日

「見よ、この人を」

【新約聖書】ヨハネによる福音書19章1~9節

 主イエスが十字架につけられる直前のやりとりが続きます。ユダヤ人たちは騒ぎ立ち、代官ピラトはおろおろしています。主イエスを取り巻く人間の騒々しさを聖書は伝えています。対照的に主イエスは静かです。毅然としておられます。むち打たれるままに、いばらの冠をかぶらされるままに、紫の衣を着せられるままに、平手でぶたれるままに、そしてあざけられるままに・・・主イエスはそれらのすべてを引き受けておられます。これがまさにキリストが歩まれた十字架への道でした。

 代官ピラトは、むち打たれて全身血だらけのキリストをユダヤ人たちの前に引き出しました。頭にはいばらの冠をかぶせ、痛々しいとしか言いようのない姿のキリストだったと思います。ピラトはなんとかキリストを釈放しようとします。なんの罪も見いだせなかったからです。ユダヤ人たちに向かって「あなたがたが、この人を引き取って、十字架につけるがよい」とも叫びました。ピラトとしても罪のない人を処刑になどしたくなかったでしょう。少なくとも自分の手を汚したくはなかったと思われます。

 「見よ、この人だ」ピラトはユダヤ人たちの前にキリストを引き出して、そう叫びました。「このみすぼらしく、痛々しい男を見よ。この男が王に見えるか? この男が神の御子に見えるか? どこにでもいるような、ふつうの弱々しい男に過ぎないではないか。どうして処刑までする必要があるのだ? こんな男など、どうでもいいではないか。釈放してやったらどうか?」その時のピラトの思いはそんなところであったと推測します。

 「見よ、この人を」ラテン語でエッケ・ホモといいます。当時ピラトが尋問したといわれる場所には現在、エッケ・ホモ教会という教会が建てられています。さて、ここで聖書はこのピラトの言葉をもって今のわたしたちに問いかけています。「ではあなたは、このお方になにを見るのか?」全身が血だらけで、頭にはいばらの冠、そして無理やり紫の衣を着させられたキリストになにを見るのか。なにを見なければならないのか。

 みすぼらしく、弱々しいキリストの姿にわたしたちが見るべきものは、すべてを承知の上でまさに命をかけて、なにもかもありのままに引き受けておられるキリストの姿です。何一つ弁解もされず、ただひたすらご自身の目の前に起こる出来事をそのままのみ込んでおられるキリストの姿です。つまりキリストはご自身の歩まれるべき十字架の道から一歩も退かれることはなかったということです。

 肉眼で見えるのはキリストのみすぼらしく、痛々しく、弱々しい姿です。しかしその内側には人間の愚かさを一心に背負い、ゴルゴダの丘へと歩まれるキリストの激しい愛が息づいています。脈動しています。そしてさらに聖書は問いかけてきます、「この激しいキリストの愛の息づかいがあなたにはわかるか? 脈動している神の愛があなたには見えているか?」


 

2014年9月14日

「天の門」

【新約聖書】ヨハネによる福音書14章1~6節

 イエスさまはトマスに言われました、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。

 わたしたちは生まれてきて、赤ん坊、子供、大人へと、年をとっていきます。その中でいつ死ぬか、それはだれにもわかりませんが、誰にも死ぬことは決まっています。死んだら、どうなるのでしょうか。

 私は二十歳のころ、この先、どう歩んでいったらよいのか、真実なもの、魂に力を与えるものはないのか、探し迷っていました。そのような時、教会に誘われ、この私の罪のために十字架の死刑を受け、死んで下さり、復活し、魂に力を与えて下さるお方、イエス・キリスト様にお出会いしました。そして、このお方について行くことが真実に歩んで行ける道であり、イエスさまは魂のもっとも深い所の飢え渇きを充たして下さるお方だと知りました。

 それから伊予小松教会に導かれ、今から45年位前、昭和44年9月7日の日曜日に、イエスさまを信じて天に召された菅美津乃さんという93歳のおばあちゃんの葬儀に参列した時、イエスを信じて生きているこの世界の向こう側、すなわち父のみもとには場所が用意されている事をはっきりと知りました。そして、今まで私の無意識の中に死への不安がどれほどあったか、また同時に信仰に勝るものはないこと、イエスさまはどこまでも私の側にいて下さり、天の門にほほえみながら立てるように支え導いて下さるお方であることが、私のうちに音を立てて伝わってきました。

 この天地宇宙すべてのことを統べ治めておられる神さまを、親しく、天のお父さまとわたしたちはお呼びすることが出来ます。聖書の言葉は始めから終わりまで、わたしたちへの天のお父さまからの生のお言葉です。天のみくにをめざし、共に歩んでまいりましょう。


 

2014年9月7日

「真理は目の前にある」

【新約聖書】ヨハネによる福音書18章28~40節

 当時、ローマ帝国はエルサレムとその周辺のユダヤ地方と呼ばれる地域に代官を置いて、直接治めていました。ピラトはそうした代官のひとりです。注目すべきは、どうして主イエスはピラトのもとへ連行されたのか、です。ユダヤ人たちは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と話しています。彼らの言い分によると、主イエスを処刑したいが、自分たちには権限がないので、ローマ帝国の権威によって処刑して欲しいということです。しかしこれはウソです。ユダヤ人たちは律法に反する者たちを自分たちの手で処刑しています。使徒行伝で最初の殉教者となるステファノも石打ちによって処刑されたひとりです。では、ユダヤ人の指導者たちは主イエスを自分たちの手で処刑しようと思えばできたにもかかわらず、ローマ人に実際の処刑をまかせたのはなぜなのか。

 彼らは、主イエスは本物の救い主であると内心では気づいていたとわたしは考えています。でも、そうと認めると自分たちの立場が危なくなります。自分たちの保身のために、どうにかして主イエスをすみやかに葬らねばならない。しかし自分たちの手で神の御子を処刑する勇気はない。だからうまく理由をつけて、ローマ人の手で主イエスを処刑させる・・・これが彼らの描いた筋書きです。つまりユダヤ人の指導者たちは、主イエスが救い主であると知りつつ、葬り去ろうとしたわけです。ピラトもまんまと彼らの策略に、はまったということです。

 ルカの福音書では主イエスはいよいよ十字架にかけられる時、次のように叫ばれました、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。「わからずにいる」という主イエスの祈りは実に深い意味があります。ユダヤ人の指導者たちがわかっていなかったのは「事の重大さ」です。彼らは、自分たちの保身のために救い主と知りつつ処刑してしまいますが、ここで自分たちが犯した事の重大さについてはまったく気づいていないということです。

 知識としては知っていても、事の重大さにはまったく気づいていない・・・人間社会にはよく見られることです。大地震が30年以内に70%の確率で起こると言われていても、抜本的な対策を講じない。先の大震災で放射能の恐ろしさがあれほど報じられたのに、原発を再稼働させる。戦争の悲惨さを叫びながら、軍備増強をはかる。これらすべて、事の重大さに気づいていないゆえでありましょう。なぜ、事の重大さがわからないのか。とにもかくにも、誰もがそうした弱さをかかえていますから、けっして他人事ではありません。

 一度、メメント・モリを徹底して考えてみましょう。たとえば、自分に残されたいのちはあと一週間しかないとしたらどうか。保身がいかに無意味で、空しいことかとわかります。メメント・モリを究めると、余計な事柄は後退し、大切な事柄が自然と浮き上がってきます。 


            

2014年8月10日

「キリストの祈り」

【新約聖書】ヨハネによる福音書17章20~26節

 キリストを信じて直後、自分がなにか特別の聖なる?人間になったような気がしました。ちょうど二十歳のころです。まさに「平家にあらずんば人にあらず」のごとく、神を信じない者は人にあらず、などという傲慢な思いをいだきました。ところが、すぐにそのような傲慢は砕かれ、聖なる神の前には自分も弱く、愚かで、わがままなひとりの人間に過ぎないことを思い知ることとなりました。

 キリストを信じて洗礼を受けても人間であることに変わりはありません。偉人と呼ばれる人であろうと、マザーテレサのような人であろうと、クリスチャンであろうがなかろうが、牧師であろうと宣教師であろうと、徳の高いといわれる僧侶であろうが、人である限り、聖なる神の前には弱く、わがままな存在です。どれほど修行に励もうが、善行を積もうが、しょせんは五十歩百歩です。その意味で、わたしたち人間は同じ、一つです。

 わたしたちは互いに、顔も、言葉も、歴史も、文化も、性格も、様々の面でとても違います。だから世界中で争いが絶えないのかもしれません。しかしキリストは祈っておられます。《違いがどれほどあろうが、そもそも聖なる神の前には、誰もが弱く、身勝手な人間であることには違いはない。弱く、身勝手であるという意味で、わたしたち人間は一つであり、このことを忘れてはならない》。

 そしてキリストの祈りは次の一節で閉じられています。《あなたがわたしを愛して下さったその愛が、彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにいます》。つまり、父なる神がキリストに注がれたその神の愛が、わたしたちひとりひとりに同じように注がれている。弱く、愚かで、わがままなわたしたち人間を、主なる神さまはいつくしんでおられる・・・そのような意味の祈りです。

 人は皆、五十歩百歩、聖なる神の前にはどうあがいても、だれもが例外なく罪人です。でも、これまた例外なく、神はわたしたちひとりひとりを愛しておられる。神の前に、誰もがこのことを認め、受け入れるとき、「お互いに、いろいろと違いはあるが、同じ人間なのだから、一緒に歩んで行こうじゃないか」という共生への意識、また平和への意識が育つのではないでしょうか。

 こう考えると、キリストは最後の最後まで、わたしたちの平和を願い、父なる神に祈られたことがわかります。



2014年8月3日

「ただ信じるだけでいい」

【新約聖書】ヨハネによる福音書17章1~5節

 13章から続く最後の晩餐の場面もいよいよ佳境に入ります。17章では、それまで愛する弟子たちに注がれていたキリストのまなざしが、一転して天に注がれます。まるで天の父なる神さまとホットライン(直通の電話回線)で話しておられるかのようです。すぐそばにいた弟子たちが口をはさむ余地はまったくありません。弟子たちはただ黙って、キリストの祈りを聴いていたことでしょう。

 キリストは弟子たちと水入らずで最後の晩餐の時を過ごされ、晩餐の後、間もなく起こるであろうキリストの受難と死、そして復活について話されました。しかし残念ながら、弟子たちにはなかなか理解できません。無理もありません。彼らの想像をはるかに越える内容ですから。今の弟子たちには理解できないとご承知の上で、それでも弟子たちに余すところなくキリストは愛をもって語ってこられました。

 ヨハネの福音書のテーマは《永遠の命》であることはすでにわたしたちは知っています。永遠の命とは、死をつらぬく命です。死をつらぬいた先に燦然と輝く永遠の御国のことです。キリストはまず、永遠の命について祈っておられます。祈りの内容は、《神を信じ、神がつかわされた救い主、キリストを信じるすべての者に、もれなく永遠の命を与える》というものです。いままでなんどもヨハネの福音書はこのことを語り伝えてきました。いま、あらためてキリストご自身もまずこのことを祈られました。

 だれでもキリストを信じるだけで死をつらぬく永遠の命を受ける。キリストを信じるだけで、死が御国の入口となります。神に背を向け、的はずれの歩みを繰り返すだけのわたしたちにとっては、死は滅びであり、聖なる神の裁きでしかありませんでした。ところが今や、死は御国への入口となりました。これを聖書では福音、喜びの知らせといいます。キリストはじつにそのような福音の道を開くために、救い主として世に来られました。17章冒頭のキリストの祈りは、そのような内容を意味する祈りです。

 ただし、けっしてわたしたちが忘れてはならないことは、そのような福音の道を開くために、キリストご自身がどれほど苦しみ、痛みを負われたか、ということです。17章でのキリストの祈りが終わると、いよいよ18章からキリストの受難が始まります。いばらの道が始まります。キリストを信じるだけで救われるという福音の道は、わたしたちが想像し得ないキリストの受難と神の痛みによって開かれたものであることを忘れてはなりません。



2014年7月27日

「あなたもすでに世に勝っている」

【新約聖書】ヨハネによる福音書16章25~33節

 本日の33節のキリストの言葉は今年の教会の言葉です。「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。悩みとは圧迫とか圧力という意味です。現代風にいえばストレスということです。たしかに現実はストレスであふれています。適度なストレスならいいのですが、過度なストレスでわたしたちも体調をくずしたり、こころがなえてしまうことはしばしばです。

 本日はキリストの次の言葉をとくに味わいたいと思います。「わたしはすでに世に勝っている」。キリストは悩みとストレスの中にあるわたしたちに、「悩みはやがてなくなる」とも、「悩みは解消する」とも語ってはおられません。キリストが言われたのは「わたしはすでに世に勝っている」です。これは「わたしはすでに世をつらぬいている」という意味です。

 先週、悩みや不安は喜びの後ろ姿であると学びました。喜びは当初は悩みや不安の姿をとってわたしたちのところへ迫ってきます。しかし、わたしたちには前姿である喜びは見えません。悩みと不安しか見えません。なぜなら、わたしたちは世をつらぬいていないからです。悩みをつらぬいていないからです。

 キリストとわたしたちとは立ち位置が違います。キリストはすべてをつらぬいた先に立っておられます。世のすべてをつらぬいた先に立って、「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と告げておられるのです。一方、わたしたちはこの世の悩みや不安につつまれた中で、キリストの言葉を聞きます。

 悩みや不安から逃げるばかりでは、喜びをも失ってしまいます。すべてをつらぬいておられるキリストは、懸命にわたしたちを励まして言われます、「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。そしてわたしを信じるあなたがたも、すでに世に勝っている」。あとは、キリストのこの言葉を信じて、歩むばかりです。 



2014年7月13日

「時をわきまえる」

【新約聖書】ヨハネによる福音書16章12~15節

 《わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない》。愛する弟子たちにだけは、真実を余すところなく伝えておきたいとキリストは思われたに違いありません。しかし同時に、どれほど語ったとしても、今の弟子たちにはとうてい理解できないこともありました。

 たとえば、2歳の子供に日本の政治の仕組みをどれほど熱く語ったとしても、とうてい理解してはもらえないでしょう。あるいは3歳の子供に、人生には死というものがあるなどと話しても理解は期待できません。しかし子供たちも成長すれば、政治のことも、メメント・モリについても、理解してもらえる時がおとづれます。
 話せば分かるなどといわれますが、それは状況次第です。たしかに腹を割って話したらお互いにわかり合える時もありますが、誠意を尽くして話し合ってもどうしてもわかり合えない時もあります。やはり人生には時があります。時をわきまえないで、たとえば2歳の子供に政治について説いたり、3歳の子供にメメント・モリを語るとしたら、それはもはや暴力でしかありません。

 キリストはいつも時をわきまえておられます。語るべき時は徹底して語り、聴くべき時には徹底して耳を傾け、癒すべき時にはすべての人を癒し、食事の時には存分に楽しみ、祈りの時は朝早くから静かな場所で徹底して祈っておられます。弟子たちの能力に応じて、語るべきことを語り、また控えるべきことは控えておられます。

 キリストと共に歩む者として、時をもっと強く意識して歩みたいものです。すべての事にはふさわしい時があることを謙虚にわきまえたいと思います。この世の中はわからないことだらけです。しかし、わからないからといって、怒ってみたり、嘆いてみたり、思いわずらってみたり、暴力を振るったり、愚痴を言っても、なにもはじまりません。人をうらんだり、過去をくやんでもまったく意味はありません。そもそも、そんな余計なことをしている暇はわたしたちにはありません。

 まず主の前に静まりましょう。そして自分自身に問いかけます、「自分は今、死をきちんと見すえているか? 明日、召されるかもしれないことを、忘れてはいないか? 次はないかもしれないことを、ちゃんとわきまえているか? 余計なことをしている暇はないことを本当にわかっているか?」

 その上で、さらに神さまの前で、自分に問いかけます、「今、この自分に出来ることは何か?」 



2014年7月6日

「死は、御国への入り口」

 先週、第1回目の笑天会を開きました。今後、回数を重ねていくなかで、さらに具体的に御国への入り口である死に備えたいと思います。

 高齢化社会の真っ只中の日本でも、最近あちこちで《終活》が活発に行われるようになりました。終活とは自分の葬儀やお墓、遺言書などを元気なうちに準備しておくための活動です。終活セミナーなどという催しも今後さらに増えると思われます。高齢化社会に突入している今の日本のひとつの社会現象といってもいいでしょう。

 終活セミナーでは、葬儀会社から葬儀のプランの説明を受けたり、不動産業者からお墓の紹介を受けたり、法律に詳しいスタッフから財産分与のための遺言書の書き方を教わったり・・・いろいろと興味深いプログラムがあるようです。しかしながら、こうした終活セミナーには肝心なことがすっぽりと抜けています。

 そもそも死とは何か? 自分は死んだらどうなるのか?・・・まさに根源的な問いかけに対する答えがまったくないまま、葬儀をどうするか、お墓をどうするか、財産分与をどうするかなどと考えるのは滑稽ですらあります。終活という社会現象を大きなビジネスチャンスととらえる関連企業に、多くの高齢者たちがうまく踊らされているという感も否定できません。

 死とは何か? 死とは御国への入口です。死んだらどうなるのか? キリストのあわれみによって、死をつらぬく先の御国へ入れられます。キリストをただ信じるだけで、御国へ入れられる確約が与えられます。聖書はそのことをはっきりと伝えています。聖書をとおして、わたしたちははじめて安心して死をみすえ、死に備えることができます。

 ここで死に備えるとは葬儀のことだけではありません。笑天会でもお話ししたように、自分の終末期にどう対処するのか・・・胃ろうなどに代表される延命治療を受けるのか、受けないのか、等々、葬儀のこと以外にも、考えておくべき大切なことがいくつかあります。

 かけがえのない高価で尊いいのちを与えられ、わたしたちは生きています。この地上にあっては一度きりの生涯です。後戻りは出来ません。今日という日は次はありません。一日一日が勝負です。まさにメメント・モリ、次はないかもしれない。明日は御国に召されているかもしれない。そうした気持ちで、一日一日を生きていく。それこそがまさに終活であり、神とともに歩む人間の本分だとわたしは思います。今後の笑天会にぜひご期待ください。



2014年6月29日

「キリストを思いつつ」

【新約聖書】ヨハネによる福音書15章18~19節

 死をつらぬく先に燦然と輝く天の御国を見失ってしまうと、死は恐怖でしかありません。御国を知らないなら、古来日本人が抱いているように、死は不吉なものであり、忌みきらわれるものでしかありません。キリストを信じている者たちは、約束された永遠の御国を大胆に仰ぎつつ、死を迎えます。《いつ死んでも御国》という安心感があります。死への恐れが消えることはないとしても、御国が約束されているという安心感が魂の深みにはあります。まさにこれが信仰によって与えられる最大の平安です。

 メメント・モリとは、たんに死をおぼえることではありません。天の御国に入れられるための通行許可証をキリストからいただいた上で、安心して自分の死をみすえ、死にそなえることです。これがメメント・モリの真意です。御国が約束されているという安心感につつまれて、この世にあってはわたしたちは旅人として、《次はないかもしれない》と思いつつ、歩みをかさねていきます。キリストの共に歩む生涯とは、このような生涯のことです。

 《あなたがたはこの世のものではない。わたしがあなたがたをこの世から選び出した》。とても意味深いキリストのことばです。この世のものではない、とはどんな意味でしょうか。もちろん、キリストを信じたら世捨て人になってしまうとか、この世の現実から離れて隠遁生活するようになるとか、現実逃避をするとか、そんな意味ではけっしてありません。

 ここでキリストが言われているのは、わたしたちの意識の問題です。この身はたしかに世の真っ只中にあります。悩みのうちにあります。しかし、主なる神さまに祈りつつ歩んでいるわたしたちの意識はすでに天の御国に置かれています。《あなたがたはこの世のものではない》とは、わたしたちの意識はこの世に捕らわれてはいない、ということです。キリストを信じる者の意識は、この世から解放され、御国にある。聖なる安心感につつまれている、という意味です。

 キリスト者といえども、いとも簡単に世事に捕らわれ、欲におぼれ、自分を見失ってしまいます。メメント・モリによって、わたしたちの意識はこの世の余計な思いわずらいから解放され、自由となります。これはまさにキリストを信じる信仰によって与えられる意識の解放と自由です。



2014年6月22日

「キリストの友として」

【新約聖書】ヨハネによる福音書15章12~17節
 
 古来、哲学者たちや学者たちは思考をかさねてきました。《人間(自分)とは何か? 人間(自分)はどう生きるのか?》についてです。しかしこれに対する答えは実に単純で明快です。以前もお伝えしましたが、福音書を記したヨハネは老境に達してからも語ることはただひとつのことでした。それは《キリストが愛しておられるように、互いに愛し合いなさい。それがキリストの言われた全てである》。

 人間(自分)とは何か。その答えは《人間(自分)とはキリストに愛されている、かけがえのない高価な存在である》です。人間(自分)はどう生きるのか。その答えは《キリストが愛しておられるように、互いに愛し合って生きる》です。愛するとは大切にするということです。キリストが大切にしてくださったように、わたしたちも互いに大切にし合う・・・ところが残念ながら、現実はこのキリストの言葉からかなり離れています。自分自身の歩みを振り返ってもそうです。キリストを前にして、正直なところ、穴があったら入りたい。皆さんはいかがですか?

 そんな弱く、愚かなわたしたちですが、キリストはそのようなわたしたちであることを最初からご承知の上です。《わたしがあなたがたを選び、立てた。それは、あなたがたが行って、実をむすぶためである》と言われます。立てたとは、倒れている者を立てるということです。つまり、わたしたちは倒れているところから、何度でも、キリストに抱き起こされ、そして出て行きます。誰かのために、そして何かのために、こんな弱く小さな自分でも出来ることがあるからです。

 自分は何がしたいのか?・・・ではありません。《自分に何が出来るのか?》と問わなければ真実は見えてきません。かりに自分がしたいことがあるにせよ、大切なことはそのために《今の自分に何が出来るのか?》です。大げさに考える必要はありません。自分に出来ることを、それがどんなに小さなことであろうと、出て行って果たせばいい。キリストは言われました、《そうした小さなひとつひとつの愛の行為が、いつまでも残る実となるのだ》と。かりに、出て行った先で倒れても、あるいは失敗しても大丈夫です。キリストは何度でも抱き起こしてくださいますから。余計な心配などせず、どんどん出て行けばいいのです。



2014年6月15日

「喜びに満たされる」

【新約聖書】ヨハネによる福音書15章7~11節

 昨年大阪市北区で母子の遺体が発見されました。28歳の女性と3歳の息子で死因は餓死でした。口座に残されていたお金は十数円、電気、ガスは止められ、部屋にあった食料は食塩のみ。「最後におなかいっぱい食べさせられなくて、ごめんね」という母親のメモが残されていました。数年前にはマンションで2児(3歳の女児と1歳9ヶ月男児)が母親の育児放棄によって餓死しました。「おにぎりを食べたい」と日記に書き残し餓死した北九州市の52歳の男性もいます。3度も生活保護の相談に訪れ、そのまま追い返されて餓死した札幌市の42歳と40歳の姉妹もいます。飽食の日本といわれながら、一方では餓死によって亡くなる人が年間2000人といわれ、5時間にひとりが亡くなっています。つらく、悲しい現実です。日本の闇の部分といってもいいでしょう。

 主の祈りのなかに《われらの日用の糧を今日も与えたまえ》という祈りがあります。一生、困らないだけの糧を与えたまえ、ではありません。《今日も与えたまえ》です。毎日毎日、来る日も来る日も、毎食ごとに、《今日も与えたまえ》と祈ります。きっとそれは、一食、一食、食物が与えられた恵みを忘れないためにでしょう。

 食物のことばかりではありません。社会が平和であること、健康であること、家族や近所の方の笑顔、知り合いと交わす楽しい会話、そして日曜日には教会で神さまの前に静まり讃美歌を歌い、聖書を開き、神の言葉を聴き、一緒に祈ること・・・ついなんでもないことのように思ってしまうこれらひとつひとつの出来事が、じつはものすごく貴重な恵みであることがわかってくると、キリストが言われた《わたしの喜びがあなたがたのうちに宿り、あなたがたの喜びが満ちあふれる》という世界が見えてきます。

 キリストを信じたら、天から喜びが降ってくるのではありません。すでに神さまはどの人にも恵みを注いでおられます。しかし、神さまの恵みの前に、きちんと立ち止まって、ひとつひとつの恵みを喜ぶのか、それともそんなことは当たり前だと思って素通りしてしまうのか、それはその人次第です。キリストを信じて歩むようになると、少しずつ、立ち止まるようになります。なんでもないような当たり前だと思っていた出来事が、じつはかけがえのない喜びに満ちあふれた出来事であることに次第に目が開かれていきます。

 今生きていること、食する物があること、身を置く場所があること、語り合える家族や友がいること・・・大小、数え上げたらきりがないほどのたくさんの恵みにわたしたちはつつまれています。けっして当たり前だと思ってはいけません。メメント・モリ・・・次はないかもしれないのですから。 



2014年6月1日

「信仰の心柱」

【新約聖書】ルカによる福音書6章46~49節

 ポイントは「私の言葉を行いなさい」です。すなわちイエス様は何を指して、「行いなさい」とおっしゃったのか?という事なのですが、これを本節で言われている非常に厳しいイエス様の教えを、そのまま実行しなさい、というふうに受け取ってしまうと、信仰生活は非常に苦しいものとなってしまいます。すなわちここでイエス様は、それまでユダヤ人達が一所懸命守ろうと努力して生きた来た、それでも守り切る事が出来なかった律法以上の厳しい事をおっしゃっているのです。

 例えば、「あなたの敵を愛しなさい」。これ一つをみても、人間の感情で行う事はまったく不可能です。さらにマタイ福音書を見れば、もっと厳しい事が書いてあります。 「目が躓かせるならえぐり出しなさい」「手が躓かせるなら切り落としなさい」。こんな事出来ますか?

 しかし、キリスト教の歴史の中で、これが事実、実行された事が報告されています。どうしてそんな事になってしまったのか?それは、イエス様のおことば、そのままを土台として信仰を建て上げてしまったからなのです。では、なぜイエス様は、実行出来ないような厳しい事をあえておっしゃったのか?それは、その時点では、まだ福音が完成していなかったからです。ですから、もはや福音の完成した時代に生きる私たちは、では何の上に、信仰を建て上げるのですか?

 それは福音の上でなければならないのです。では福音とはどういう事ですか?それはイエス様が十字架に架かり実現して下さった、罪の赦しなのです。ですから、私たちが聖書を読むときには、どんな時にも「福音のめがね」すなわち、「罪の赦し」というめがねを掛けて読む必要があります。すると「私の言う事を行いなさい」というイエス様のお言葉は、どういう事になるでしょうか?それは、戒めをすべて守り行いなさい、ではなくて福音に聞き従いなさい、という事ではないでしょうか?

 すなわち私たちは、どこまで行っても戒めを守り通す事は出来ない。罪を犯さずにもおれない、そんなお互いなのです。しかしそんな私たちに備えられ、与えられた救いの出来事に、常に目を留めていなさい、という事。そして、それを土台として、家、すなわち信仰を建て上げなさいという事。そしてどんな時にも、その土台から離れてはいけないという事。それがイエス様の言葉に聞くという事なのです。もし、そこから離れ、「ねばならない信仰」に陥る事は、再び旧約律法の世界に逆戻りする事であり、それは、イエス様の十字架を無にしてしまうことにもなるのです。



2014年5月25日

「農夫の愛」

【新約聖書】ヨハネによる福音書15章1~5節

 わたしの今までの生涯で公私ともにもっとも親しくしていた宣教師はノーベルト・カシュナー宣教師です。京都で一緒に開拓伝道もしました。いつも教団のこれからのことを語り合い、祈り合っていました。カシュナー宣教師とは、彼が1985年に家族とともに来日した当初からのつきあいでした。わたしがまだ伝道師であったときは豊浜へも何回も来てもらって、洗礼式や聖餐式もしていただきました。

 そのカシュナー宣教師は5年前、2009年5月に天に召されました。53歳でした。衝撃でした。臨終の言葉は「イエス様から離れないで」という家族への言葉でした。この言葉を発して後、意識不明となり、そのまま召されました。最後の最後まで主イエスを愛する宣教師であったことを思います。告別式で長男のヨハネス君が「お父さんがどうしてこんなにも早く天に召されたのか、今はとてもわからないけど、いつの日かわかると思います」と語った言葉はとても印象的で、わたしも同じ思いを抱きました。あれから5年、いまだにそれはわかりません。でもやがて御国でカシュナー宣教師と再会できるのを楽しみにしています。

 【わたしにつながっている枝で、実を結ばないものは、父がすべて取り除く】とイエス様は言っておられます。とても不安になる言葉ではないでしょうか。イエス様を信じていても、失敗したり実を結んでいないとすぐに切り捨てられてしまう・・・もしそうなら、とても恐ろしく、緊張感ばかりに包まれた生活になってしまいます。このイエス様の言葉に、わたしは長い間、納得がいきませんでした。

 日本語で「取り除く」と訳されている言葉は、ギリシャ語では「アイロー」という言葉です。新約聖書では何回も登場する言葉です。「引き取る。背負う。支える。集める。持ち上げる。運ぶ。」という日本語の意味になります。つまり「取り除く」というのは、切り捨ててしまうという意味では決してなく、「取り上げて、支える」という意味です。なにかの事情で泥だらけになってしまったぶどうの枝は、そのままでは実を結びません。ぶどう園の農夫は、そのような泥だらけのぶどうの枝を「取り上げて」、汚れをきれいに洗い流し、ぶどう棚にしっかりと結び、「支え」ます。そのように手入れされた枝は、やがて再び、元気を回復して、実を結ぶようになります。

 イエス様につながる者も同じです。世のいろいろな悩みによって、疲れ、倒れても、心配は無用です。大丈夫です。農夫である神さまご自身が「取り上げて」、再び立ち上がらせてくださいます。あるいは、良い実を結んでやろう!などと意気込むこともありません。イエス様から離れないで、つなかってさえいればそれでいい。そのような人は、自然と実を結ぶようになります。かけがえのない高価で尊い自分の実を結ぶようになります。



2014年5月18日

「恵みの顕れる時」

【新約聖書】マタイによる福音書28章1~10節

 復活の朝、マグダラのマリヤとほかのマリヤが十字架に架かられたイエス様のご遺体をきちんと葬って差し上げようと思い、イエス様の墓にやって来ました。そして聖書に書かれてある通り、彼女たちは、復活されたイエス様に、全世界で初めてお会いするという恵みに浴する事になります。

 ここで、考えたい事があります。それは、どうして二人だけだったのか?という事です。仮にも、一昨日まで自分たちの師とも先生とも仰いでいた方が、お亡くなりになったのです。だのになぜ、誰も一緒に行こうとはしなかったのでしょうか?墓の前には大きな石の扉があり、男手がなければ中に入る事は出来ないという事は分かっていたはずなのです。だから当然二人のマリヤは一緒に行ってくれる人を探した筈ではないでしょうか?しかし、誰も行かなかった。なぜか?

 それはみんな怖かったからです。十字架に掛けられた犯罪者と同じに見なされ、捕まる事を恐れたのです。しかし二人のマリヤは、それでも行きました。そして大いなる恵みを見ました。が、ここで、覚えて頂きたい大切な事は、その恵みは、二人のマリヤがイエス様をきちんと葬むりに行ったという行為への報いではないという事です。そうではなくて、彼女たちは、純粋にイエス様の葬りをしたいという思いだけで行った。すると、そこに恵みが用意されていたという事なのです。

 ですから、もし誰であっても一緒に行っていれば同じ恵みを受けたのです。そして誰でも行こうと思えば行けた。・・・愛があれば行けた・・のではないでしょうか?そして、更に考えれば、イエス様はこの時、すべての弟子達を招いておられたのではないでしょうか?

 すなわち、イエス様の葬りが十分に為されていないという事は弟子達はみな知っていたはず。だから誰もが行った方が良いかなあ・・とは思ったはずなのです。だからその思いとはイエス様からの招きだったという事が言えるのではないでしょうか?でも行かなかった。そこに恵みを受ける者と取りこぼしてしまう者との差が出てしまったのです。

 しかし、ここで覚えたい事は、その時恵みを取りこぼしてしまった者にも、その後イエス様は同じ恵みを用意して下さいました。すなわちイエス様はその後、弟子達の前にも復活のお姿を現されましたよね。そしてイエス様は今も、いたる所に恵みを用意して待っておられます。このイエス様の招きのみ声に耳を澄ませていたい。忠実に反応する者でありたいと願います。



2014年5月11日

「信じて、一歩を踏み出す」

【新約聖書】ヨハネによる福音書14章25~31節

 先週はヨハネの福音書最後の21章から、新たに旅立っていく弟子たちの姿を見ました。土壇場でキリストを見捨ててしまった弟子たちでした。しかし問題は過去の自分ではなく、今の自分であることを知った弟子たちは、全世界へ旅立っていくこととなりました。

 さてわたしたちは、復活のキリストを見据えつつ、ふたたびヨハネによる福音書の14章に戻ります。最後の晩餐が終わり、まもなくキリストは捕らえられます。そうした差し迫った状況のなかで、キリストは愛する弟子たちに語っておられます。《聖霊はあなたがたにすべてのことを教え、思い起こさせるであろう》。人生の節目にはきっと誰もが今までたどってきた過去の旅路を思い起こします。楽しかったこと、うれしかったこと、つらかったこと、悲しかったこと、いろいろあります。でも、正直に過去を振りかえるとき、多くの人がいだく思いは「愚かで、いたらなかった自分をゆるして欲しい」という思いではないでしょうか。過去はどうしようもありませんが、先週おぼえたように、わたしたちの過去にはキリストの十字架が立てられています。世がけっして与えることのできない平安とは、ひとつはキリストにあるゆるしです。過去を振りかえるとき、そこに神のゆるしを実証するキリストの十字架が立てられているのを見ます。自分の歩んできた過去にキリストの十字架を見る、それが信仰者です。

 《この世の君が来る》。この世の君とは、人生の歩みのなかでわたしたちに喜怒哀楽をもたらす、この世のいろいろな物事や人々のことです。そうしたこの世の君のなかで、最大、最強の力をふるっている《この世の君》は何だと思いますか? それは間違いなく、死です。死の力は別格です。死を前にして、この世のすべては無力です。

 ここでキリストが《この世の君が来る》と言われたとき、それは死のことを言われています。そしてさらにキリストは言われます、《この世の君(死)はわたしに対して、なんの力もない》。死をつらぬいておられるキリストならではの言葉です。



2014年5月4日

「今、ここから」

【新約聖書】ヨハネによる福音書21章15~19節

 死から復活された主イエスと出会い、弟子たちは全世界へ福音を伝えるために立ち上がりました・・・と言いたいところですが、彼らは主イエスを土壇場で裏切り、見捨ててしまったことを引きずっていました。無理もありません。

 復活の主からふたたび祝福を受け、主のやさしい笑顔に包まれた弟子たちでした。それゆえに彼らはこのようなお方を土壇場で裏切ってしまった自分自身をなかなか赦せませんでした。わたしたちも何かの事情で誰かに迷惑をかけたとき、相手からはゆるしてもらっても、なかなか自分自身をゆるせないことがあります。

 このときの弟子たちもそうでした。主イエスご自身はゆるしてくださっていても、なかなか自分自身をゆるすことができない。そこで主イエスは弟子の代表格であるペテロにひとつの問いかけをなさいました。「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。三度、同じ問いかけをされます。「わたしを愛するか」とは、より厳密に言えば「今、わたしを愛しているか」ということです。昨日でも、おとといでもなく、また明日でもない。まさに今のこの瞬間、あなたはわたしを愛しているか、という問いかけです。

 もし「あなたはわたしを愛したか」と過去形で主イエスが問われたら、主を土壇場で裏切ってしまった弟子たちは絶句する他ありません。過去の事実はもう変えることはできませんから。しかし主イエスが期待しておられるのは過去のペテロではなく、また未来のペテロでもなく、今この時のペテロでした。三度もたずねられてペテロも悟ります。主イエスが期待してくださっているのは、今この時の自分なのだと。そして彼はこたえました、「主よ、わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です」。

 いつも主なる神さまは、過去のあなたにはなく、また未来のあなたにでもなく、今この時のあなたに神のまなざしを注がれ、そしてやさしく問われます、「今、あなたはわたしを愛するか」。いつもそうです。忘れてはなりません。



2014年4月27日

「見ないで信じる」

【新約聖書】ヨハネによる福音書20章24~30節

 理由はわかりませんが、イースターの当日、トマスだけが復活の主と会うことができませんでした。食料を買いだしに行っていたのか、あるいは町の様子を調べていたのか。よりによって自分だけが外出していた間に、復活されたキリストは弟子たちが隠れていた部屋へ姿を現されたのです。トマスが帰宅すると、「わたしたちは主にお目にかかった」と誰もが目を輝かせています。でも誰がなんと言おうとトマスには納得できません。信じることができません。「わたしはこの目で見るまでは決して信じない」と言い放ちます。

 わたしはトマスがとても好きです。疑い深いトマスなどと言われますが、トマスはとても正直で、信じたふりなどできない人物だったと思います。次の日曜日、復活の主はふたたび弟子たちのいる部屋へ入ってこられました。トマスに会うために入ってこられたといってもいいと思います。

 「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい・・・信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とキリストはトマスにやさしく、愛のまなざしを注ぎ、そう言われました。そしてトマスの口からあの有名な信仰告白が生まれます。「わが主よ、わが神よ」。短い、すばらしい信仰告白です。

 さらにキリストは言われます。そして福音書はこのキリストの言葉をもって本論をまとめています。つまりそれほど大切な真理が込められているキリストの言葉であるということです。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は、さいわいである」。このキリストの言葉はトマスにだけ語られたものではありません。その後、弟子たちをとおしてキリストを信じるようになるすべての者たちへ、そして現代のわたしたちひとりひとりへ告げられている言葉です。

 肉眼で見えるものがすべてではありません。墓は見えても、御国は見えません。死は見えても、死をつらぬく永遠のいのちは肉眼では見えません。悩みは見えても、悩みをつらぬく希望は見えません。愚かな自分は見えても、神の目に映る高価で尊い自分は見えません。そうです。大切なもの、肝心なことはすべて肉眼では見えません。御国も、永遠のいのちも、希望も、光も、高価で尊い自分も、見ないで信じるものです。

 見ないで信じる者はさいわいである。深い言葉です。死をつらぬかれたキリストがおられる。肉眼では主の姿も見ることはできません。しかし見ないで信じる者はさいわいです。



2014年4月20日

「希望の朝を迎える」

【新約聖書】ヨハネによる福音書20章1~18節

 希望とは何でしょうか。一般的には希望とはまだ先があるということです。絶望とは何でしょう。絶望とはもう先がないということです。しかしよく考えてみましょう。この世にあってはしょせんは誰もが死を迎えます。死を前にした途端、希望が見えなくなります。絶望せざるをえません。死の前にはわたしたちは手も足も出ません。結論からいえば、死を前にしてわたしたちには希望はない。絶望しかない。一般的には、そう言っても過言ではないでしょう。

 あらためて希望とは何でしょうか。希望とは、死をつらぬかれたキリストがおられる、これこそわたしたちにとっての正真正銘の希望です。キリストの復活は、まさに死をつらぬく希望です。今年の教会のテーマはメメント・モリ(あなたの死をおぼえよ)です。ただし、キリストを信じる者はけっして自分の死を見ながら歩むのではありません。キリストを信じる者にとってのメメント・モリとは、死をつらぬいておられるキリストを見ながら歩むことです。死をつらぬいた先に永遠の御国を仰ぎながら、限りのあるこの世の歩みを「次はないかもしれない」という思いをもって歩み抜くことです。

 ゴルゴダの丘で十字架にかけられたキリストは、たしかに息を引き取られました。そして墓に葬られました。弟子たちはじめ誰の目にもすべてが終わったとしか思えませんでした。最後の晩餐で、あれほど愛をつくしてキリストが語っておられた言葉も、またキリストが行われたわざも、キリストの死を前にして何もかもが弟子たちの頭から吹っ飛んでしまいました。

 日曜日の朝、墓参りにやってきたのはマグダラのマリヤです。かつてキリストに病を癒された女性です。墓にはキリストの遺体はありませんでした。途方に暮れるマリヤは墓の外に立ち墓の中を見ながら泣いています。このシーンはとても象徴的です。彼女が見つめているのは墓の中です。暗やみです。死です。人は死の前にはどうしようもありません。ただ泣き崩れるだけです。この時のマリヤのように。

 墓を見つめるマリヤの背後から、復活のキリストは彼女に声をおかけになります。「マリヤよ」。マリヤはふり返って、キリストを見ます。それまで墓を見ていたマリヤは、ふり返って、復活のキリストを見ます。

 聖書はわたしたちに問いかけます。あなたは墓を見ながら歩むのか、それとも復活のキリストを見ながら歩むのか。死に向かって歩むのか、それとも死をつらぬく永遠の御国に向かって歩むのか。悩みを見るのか、それとも悩みの先に希望を見るのか。やみに生きるのか、それともやみをつらぬく永遠の命に生きるのか。どうしようもない自分を見るのか、それともかけがえのない高価で尊い自分を見るのか。

 希望とはなにか。希望とは、死をつらぬいておられるキリストがおられることです。今年のイースターも、皆さんと共にお祝いできますことを心からうれしく思います。



2014年4月13日

「わたしはあなたを見捨てない」

【新約聖書】ヨハネによる福音書14章18~24節

 欲にかられて、わたしたち人間は他人を傷つけ、ときには殺してまで、自分の欲望を満たそうとします。すこし想像してみましょう。世界で核戦争が起こり、自分だけが生き残ったとします。この地球上に自分の他は誰もいません。この世の財産も、土地も、建物も、すべて自分のものです。ただし、喜びや悲しみを分かち合える人も、喧嘩の相手も誰もいません。いわば究極の孤独です。究極の孤児です。想像しただけで身の毛がよだちませんか。

 孤独を愛するなどと言われますが、それはわずらわしい人間関係にじゃまされたくない、それよりはむしろ、ひとりのほうが気楽だというくらいの意味でしょう。いくら孤独が好きだからといっても、世の中に自分ひとりしかいないという究極の孤独を誰が望むでしょうか。誰がそれを幸せと思うでしょうか。

 死ぬとは、表現を換えると、この世のあらゆるものから引き離されることです。この世のすべてから否が応でも見捨てられてしまうことです。死は究極の孤独です。死を前に、わたしたちは誰もがまったくの孤児となります。だから人は死を恐れるのかもしれません。どれほど自分を愛し、大切にしてくれている人であろうとも、死の前では手も足も出ません。なすすべがありません。ただ見守るほかにありません。結局のところ、死を前にして、人は人を見捨てざるを得ません。

 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。この言葉にはとても深い意味がこめられています。それは、たとえ死でさえもキリストとわたしたちを引き離すことはできないということです。死をつらぬいておられるキリストであるからこそ言える言葉です。ですから、キリストを信じるわたしたちには、もはや死がもたらす孤独はありません。死がもたらす孤児はありません。キリストは死においてさえも、わたしたちに寄り添うことができるお方です。それが「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」の真意です。

 なんという平安、なんという安心感でしょうか。わたしたちが信じている主イエスキリストというお方は、そのようなお方です。



2014年4月6日

「神と出会う」

【新約聖書】ヨハネによる福音書14章7~11節 

 弟子のピリポが「父なる神さまをこの目で見たいのですが・・・」とキリストに願いました。ピリポだけでなく、すべての弟子たちもそう思っていたことでしょう。また現代のわたしたちもこの時のピリポと同じ願いをいだくかもしれません。キリストはやさしくお答えになりました。「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は父を見たのである」。

 聖書はイスラエルの思想や宗教を伝えるものではありません。律法と呼ばれる道徳や人生訓を伝える書物でもありません。もし聖書を読むときに、まるで中東の思想や人生訓として読んでいるのであれば、キリストがピリポに指摘されたと同じことを、わたしたちも指摘されることとなります。「こんなに長く聖書を読んでいるのに、聖書がわかっていないのか。聖書を聴く者は神の言葉を聴くのである」。

 聖書が神の言葉であるとは、聖書をとおして真実の神と出会うことができるということです。聖書はたくさんの励ましの言葉や人生訓としてすばらしい言葉に満ちています。でも、わたしたちは、聖書が励ましやなぐさめの言葉に満ちているから信じているのではありません。励ましやなぐさめに満ちた言葉なら、この世には他にもあふれています。

 聖書の言葉は、今、ここで、神の言葉として聴く者の魂へ響きます。主なる神ご自身がご自身の言葉として、聖書によって語りかけておられます。ヨハネの福音書をとおして、まさに、今、礼拝のなかで、わたしたちはキリストと出会っています。キリストの語りかけを聴いています。主なる神と出会っています。

 聖書をとおして神と出会うという緊迫感、恐れ多さ、力強さ、それこそが信仰です。そうであってはじめて聖書は信仰の書となります。生ける神の言葉となります。



2014年3月30日

「永遠の住まい」

【新約聖書】ヨハネによる福音書14章1~6節

 キリストを信じて歩む者のさいわいは何でしょうか。たくさんありますが、もっとも大いなるさいわいは、この世で自分の生涯が終わるときに訪れます。いよいよ生涯を閉じるとき、死をつらぬく永遠のいのちへと導いてくださるキリストが眼前に立ってくださる。死をつらぬいて、そのむこうに輝く永遠の天の御国を仰ぎつつ、キリストに手をひかれて平安のうちに御国へと旅立っていく。この大いなるさいわいが、キリストを信じる者には約束されています。

 死をつらぬいた先に自分のために備えられた場所がある。なんとも楽しみなことです。そしてキリストは言われました、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。要するに、キリストを信じるだけで、確実に、父なる神のみもとへ行くことができる。なんとも有り難いことです。 トマスは「主よ、わたしたちにはよくわかりません」といいました。正直な感想だと思います。でも、わたしたちはよくわからなくてもいいし、おそらく説明を受けても理解できないと思います。だから主イエスは「わたしが道である」とだけ言われました。わたしを信じてさえいたら、ちゃんと連れていってあげるよ、とおっしゃいました。

 道は最後まで通じていなければ道とはいえません。道とは、こちらとあちらを結ぶものです。途中で途切れていたら道ではありません。真理であるとは間違いないという意味です。あらためて思うのは、「わたしは真理である」とはすごい言葉であるということです。とてもわたしたち人間が言える言葉ではありません。

 「わたしは命である」も同じです。このキリストの言葉には「わたしは命を与える者である」という意味が込められています。人の命は、与えられるものであり、そして時が来れば取られるものです。現代医学は人の命を多少延ばすことはできるかもしれませんが、命をつくり出すことはできません。「わたしは命である」とは、まさにキリストだけが言える言葉です。

 主イエスキリストこそ、信じるものにはもれなく永遠のいのちを与えることのできる間違いない方であり、このお方を信じてさえいたら、ちゃんと御国へと連れて行ってもらえます。心配はなにもいりません。御国を楽しみに思い描きながら、残された地上での生涯をひたすらに歩んでまいりましょう。



2014年3月23日

「主よ、どこへ」

【新約聖書】ヨハネによる福音書13章36~38節

 クォ・ヴァディス(主よ、どこへおいでになるのですか?)は、ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチが、西暦1世紀のローマ帝国を舞台として描いた歴史小説です。映画にもなっていますから、教会の映画会で見てもいいと思っています。クォ・ヴァディスはラテン語で、その出典が本日の36節のペテロの言葉です。この小説は人間の歴史において結局のところ勝利するのはどちらの道か・・・暴力の道か、それともキリストの道か、をテーマにしています。言葉をかえると、最後に勝利するのは力か、それとも愛か。それぞれが自分自身の生涯を振りかえる中で、じっくりと考えてみたいところです。

 本日のキリストとペテロのやりとりの中で、ペテロは「わたしはあなたのためには命も捨てます」と豪語しています。キリストはそのペテロの一途な姿勢を喜ばれたかもしれません。しかし自分の弱さにまったく気づいていない未熟なペテロに主は言われました、「鶏が鳴く前にあなたはわたしを三度知らないと言う」。この時のペテロには、キリストの言われることすべてが謎めいていて、まったく理解できなかったでしょう。たしかにこの時点では、ペテロはうそ偽りなく、ほんとうに命を捨てる覚悟であったと思います。しかしキリストが指摘されたとおり、数時間後には彼はものの見事に主を見捨ててしまいます。

 後になってから、死から復活されたキリストと出会い、キリストが歩まれた道は愛の道であり、たとい死んでも生きるような道であり、本当の意味での勝利への道であることがペテロにもわかります。でもそれは今のペテロにはわかりません。

 「クォ・ヴァディス 主よ、どこへおいでになるのですか」。復活のキリストと出会った後は、ペテロは生涯に渡って、主にそう問いかけながら歩んだことでしょう。弱く未熟な自分を忘れないために、またキリストが歩まれた道を自分も最後まで歩みぬくために。伝説では、ペテロはローマで十字架に逆さにはり付けられて、殉教したといわれます。

 わたしたちもひとりひとり、「クォ・ヴァディス 主よ、どこへおいでになるのですか」と心のうちで祈りつつ、ひとあしひとあし、歩みたいものです。キリストの後ろ姿を見失って、つい力に頼ろうとするわたしたちです。でも、暴力や権力で得られる勝利など、ほんのつかの間の勝利でしかありません。人間の歴史がそれを物語っています。願わくは御国に入れられるその日まで、キリストの後ろ姿を仰ぎつつ、歩みたいものです。 



2014年3月16日

「互いに愛し合う」

【新約聖書】ヨハネによる福音書13章31~35節

 福音書を書いたヨハネの晩年の様子を伝えるひとつの伝承あります。エペソという町の教会で、いつも彼は「互いに愛し合いなさい」とだけ語っていたそうです。たまりかねたある若者がヨハネに「先生、それはもうわかりました。もっと別のお話を聴きたいのですが・・・」と詰めよったそうです。それに対してヨハネは次のように答えました、「主が愛しておられるように、幼子たちよ、互いに愛し合いなさい。それがキリストの言われたすべてである」。

 本日の箇所はヨハネが最後まで語り続けたキリストのことばが登場します。「わたしは新しいいましめをあなたがたに与える。わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」。わたしは以前、このキリストのことばを聞いて「このいましめのどこが新しいのか?」と思ったものでした。なぜなら旧約聖書には「神を愛し、自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」といういましめがすでにあるからです。キリストが言われるまでもなく、互いに愛し合うことの尊さは遠い昔から語られていました。

 ここで聞き逃してならないのは「わたしがあなたがたを愛したように」ということばです。このキリストのことばがあることによって、このいましめは、単なる道徳訓から、わたしたちの救いと希望のことばに生まれかわります。

 自分という人間には意味があるのか? 自分に価値はあるのか? 自分はかけがえのない存在なのか? 答えはすべてYes(イエス)です。その根拠は、キリストがわたしを愛しておられるからです。神と出会うとは、神に愛されている自分と出会うことです。どれほど愚かで、弱く、罪深くとも、キリストは愛し尽くしてくださる。イスカリオテのユダも、また土壇場でキリストを見捨ててしまうペテロも、ヨハネも、キリストは最後までお見捨てにはならなかった。愛し抜かれました。誰もがキリストに愛されているかけがえのない高価で尊い人間です。「わたしが愛したように」というキリストのことばには、それほどの深い意味が込められています。そうした意味を十分に踏まえた上でキリストは言われました、「互いに愛し合いなさい」と。

 わたしたちは、自分がどれほど神さまに愛されている存在であるのか、自分がどれほどかけがえのない者であるのか、高価で尊い存在であるのか、まず知らなければなりません。そこが自分という人間の原点であり、また出発点でもあります。ここから互いに愛し合うという世界がすこしずつ開かれていくのだろうと思います。なぜなら、人はまず愛されてこそ、愛するものとなるからです。



2014年3月9日

「イスカリオテのユダ」

【新約聖書】ヨハネによる福音書13章21~30節

 皆さんはイスカリオテのユダと聞いて、何を連想しますか。悪の権化とか裏切り者の代名詞でしょうか。たしかにユダはキリストを裏切りましたが、キリストを裏切ったのはユダだけではありません。ペテロもヨハネなど弟子のすべてが最後の土壇場でキリストを見捨てて逃げてしまいました。またそもそもキリストを捕らえ処刑しようとしたのはパリサイ人などの権力者たちです。ローマから出向していた総督ピラトも結局のところは保身からキリストの処刑をゆるしてしまいます。ですからユダがキリストを裏切らなくとも、間違いなく、キリストは捕らえられ、処刑されたはずです。

 そもそもユダはなぜキリストを裏切ったのか。それはキリストに期待していた彼の野望が砕かれたからです。ユダの野望とはローマ帝国から独立してイスラエル王国を樹立することです。この地上にキリストを王とする王国を築くことでした。しかしそもそもキリストが世に来られたのは、人の罪をゆるし、死をつらぬく永遠のいのちを与えるためです。王国樹立という野望にとりつかれたユダにとっては、身をかがめて弟子の足を洗われるキリストなど、この世の王としての威厳も力もまったくない、ただの弱々しい教師としか見えなかったでしょう。

 そうしたユダをキリストは最後の最後まで愛し抜かれます。ユダが裏切ると承知の上で、彼の足を洗い、彼とともに食事をし、彼が裏切ることを他の弟子たちには明言されません。もしユダの裏切りがはっきりしたら、ペテロやヨハネなどが黙っていないでしょう。ひょっとしたらユダは他の弟子たちに殺されかねません。キリストは最後までユダをかばい、悔い改めを彼に促しておられるということです。それでもなお、ユダはキリストを裏切ってしまいましたが、キリストはユダを最後まで愛されました。

 ユダをとおして、二つの真実が見えます。ひとつは、キリストはわたしたちを愛し抜いてくださること。わたしたちがどのような過去を歩んできたとしても、たとえ過去にキリストを裏切ったとしても、キリストの愛はかわるものではない。そしてもうひとつの真実は、人は欲望にかられると神の愛がまったく見えなくなってしまうということです。わたしたち人間は欲望ゆえにキリストの愛にどこまでも背を向けてしまうということです。

 神の愛と人の罪、この二つがイスカリオテのユダを通して見える二つの真実です。



2014年3月2日

「キリストのあとから」

【新約聖書】ヨハネによる福音書13章12~20節

 先週から最後の晩餐の場面に入っています。まもなく主イエスは捕らえられて、十字架を背負われます。残されたわずかな時間を愛する弟子たちとだけ過ごされました。晩餐の後、主イエスは身をかがめて弟子たちひとりひとりの足をお洗いになりました。先週申し上げたように、しもべが自分の主人の足を洗うのがふつうです。ところが主であるキリストが身をかがめて弟子たちの足を洗われました。後にキリストを裏切ることとなるイスカリオテ・ユダの足も洗われました。

 主イエスはずっと前から、この最後の晩餐で弟子たちの足を洗うことを考えておられたとわたしは思います。どうしたら弟子たちにあますところなく神の愛を伝えることができるか? そのために主イエスは随分前から弟子たちのために祈り、お考えになった上で、最後の晩餐にのぞまれたと思います。つまり、弟子の足を洗うとは、けっしてその場の思いつきではなかったということです。

 「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示した」と語っておられます。だからといって、現代のわたしたちも互いに足を洗い合うことはしません。なぜなら、わたしたちが互いに足を洗い合っても、それはパフォーマンスにしかなりません。足を洗うとは、主がご自身の愛を弟子たちに伝えるために選ばれた手段に過ぎません。足を洗うという行為が、その時、もっとも弟子たちに神の愛を伝えるための行為としてふさわしかったから主がそうなされたということです。このときの主イエスを真似て、わたしたちもただ足を洗い合えばいいというわけではありません。

 先週申し上げたように愛は名詞ではなく動詞です。愛はたんなる言葉ではなく、具体的な行動です。しかし、こちらがよかれと思って相手に何かしても、相手にとっては迷惑でしかない場合も多々あります。愛する気持ちを相手に伝えるためにふさわしい行動は何か、まずは祈り、考えなければならないということです。きっと主イエスご自身も事前に十分に祈り、お考えになった上で、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗うという行動をとられたと思うからです。

 相手のためとはいっても、祈りのない軽率な行動は、ひとりよがりに過ぎません。もはやそれは愛ではなく、相手にとっては大きなお世話でしかありません。まずは祈ること、そしてその人のために今の自分にいったい何ができるのか、十分に考えることです。その上で、実際に主イエスが弟子たちの足を洗われたように、わたしたちも今の自分にできることを精一杯果たしてまいりたいものです。メメント・モリ(次はない)を思いつつ。



2014年2月23日

「キリストの愛」

【新約聖書】ヨハネによる福音書13章1~11節

 いよいよヨハネの福音書も13章から後半となります。13章は最後の晩餐の場面から始まっています。死をつらぬく永遠の命について、今までキリストは言葉と不思議なわざをとおして人々に語ってこられました。この13章からは、キリストご自身がまさに全身全霊をもって永遠の命の存在を伝えておられます。

 【イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知り・・・】とあります。行くとは、「突き抜ける・つらぬく」などとも意訳できる言葉です。この世を去るとは死ぬことですが、しかし主イエスにとってそれは「死を突き抜ける・死をつらぬく」ことでもあります。いよいよ死の壁をつらぬく時が来たことを主イエスは悟られたということです。主イエスを信じる者たちにとっても、死ぬとは死を突き抜けることであり、死をつらぬいた先に輝く御国へ入れられることでもあります。死とは御国に生きることであることを肝に銘じておきましょう。

 死を間近にして、キリストは残されたわずかな時間をどのように過ごされたのでしょうか。とても興味深いところです。聖書は伝えています、「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」。「世にいる自分の者たち」とは直接的には十二弟子を指しますが、十二弟子だけのことではなく、キリストを信じるすべての者たちのことです。現代に生きるわたしたちひとりひとりも「世にいる自分の者たち」です。キリストはわたしたちを愛し通してくださる。徹底して最後の最後まで愛し尽くしてくださる。永遠の命にいたるまでキリストは愛し抜いてくださる。そして聖書は伝えています、「このキリストにこそ、愚かなわたしたち人間の生きていける唯一の希望がある」と。

 キリストの愛は、弟子たちの足を洗うという具体的な行為となりました。愛は口先ではいくらでも語れます。しかし愛は具体的な行為となってはじめて本物となります。当時、足を洗うとは、いわば召使いが自分の主人のために行う行為です。逆に、主人が召使いの足を洗うことなど断じてありません。ですから弟子のペテロが「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と驚いたのも無理はありません。きっと弟子たちの誰もが驚いたことでしょう。神の御子が、人のよごれた足を洗われました。自らひざまずき、弟子たちひとりひとりの足をていねいに洗い流されました。このときの体験を彼らは生涯、忘れることはなかったでしょう。今週のキーワードは「キリストの愛」です。



2014年2月16日

「御国を思う」

【新約聖書】ヨハネによる福音書12章44~50節

 主イエスは本日の箇所で大声で叫んでおられます。わたしたちを救うために来たと叫んでおられます。救いとはなんでしょうか。救いとは、永遠の命であると叫んでおられます。永遠の命とは、死をつらぬき、輝いている命のことです。永遠の都、天の御国とも聖書は呼んでいます。もしキリストがおられなかったならば、またもし聖書がなかったならば、わたしたち人間には決してわかり得ない世界、それが永遠の命の世界です。天の御国です。主イエスの地上での生涯はすべて、この永遠の命の世界の存在を伝えるものでした。

 まずわたしたちは、死をつらぬく永遠の命の世界へ思いを深めなければなりません。御国を慕い求める信仰を養わなければなりません。そもそも信仰とは、死をつらぬいた先に燦然と輝く永遠の命を慕い求めることです。

 キリストを信じるだけで、すでに永遠の命にあずかっています。御国の世継ぎとなっています。安心してください。すでに救われているとはそういう意味です。

 御国を慕いつつ、メメント・モリを思います。その上で、この世にあるかぎり、精一杯生きてまいりましょう。キリストのために、誰かのために、そして何かのために生きてまいりましょう。キーワードは「御国を思う」です。



2014年2月9日

「人の弱さをつつむ神の愛」

【新約聖書】ヨハネによる福音書12章37~43節

 先週の日曜日、第一回目の映画会を開きました。上映したのは黒澤明監督の「生きる」です。わたし自身はこの映画を見るのは二回目でしたが、以前に見たとき以上に感動しました。余命半年の主人公が発する言葉が、演技とは思えないほどに深く迫ってきました。「わたしはこのままでは死んでも死にきれない」「どうしてあなたはそんなに輝いているのか」「わたしには人を憎んでいる暇などない」など、まさにメメント・モリを思わせるするどい言葉です。まだご覧になっていない方は是非ともご覧ください。そもそもこの映画のタイトルがどうして「生きる」なのか、人が生きるとはどのようなことなのか、そのようなことを考えつつご覧になったらと思います。まさに必見の映画です。

 本日の箇所で、主イエスは群衆から「身をお隠しになった」とあります。これまでいろいろな場面で奇跡的なわざを群衆の前で現され、まことのメシア、救い主であることを実証してこられたキリストでした。群衆の中からキリストを信じる者も多く出てきました。弟子たちも、最初はこうした名も無い群衆の一人でした。
 しかし一方で、キリストをどうしても信じることができない人々も多くいました。彼らは世間体もあり、パリサイ人たちに目をつけられ、村八分にされるのを恐れ、このまま群衆の一員として無難に生きていくほうが得だと思った人々です。たしかにそのような気持ちはよくわかります。

 わたしたちも地域の一員であることから考えると聖書に登場する群衆ともいえます。世間体を気にしつつ、今までの地域の習わしや因習などに左右されつつ歩んでいるところがあります。でもキリストを信じると、一人の人間としての意識が強くなります。神の目にかけがえのない高価で尊い一人の人間としての意識です。映画「生きる」の主人公は、市役所で働くいわば群衆の一人として、目立たず、慣例第一に生きていました。それが死を前にして、渡辺勘治という一人の人間としての自分を強く意識するようになります。

 主なる神の前に、かけがえのない一人の人間として、誰にもこびらず、誇りをもってひたすら生きていく。キリストを信じて歩むとは、群衆としてではなく、まず一人の人間として自分を生きることに他なりません。



2014年1月26日

「一粒の麦」

【新約聖書】ヨハネによる福音書12章20~26節

 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである」。ヨハネの福音書を代表する主の言葉です。一般的にもよく知られており、広く引用もされています。豊島牧師が牧会しておられる大阪の堺育麦キリスト教会は、この主の言葉から命名された教会です。

 「自分の命を愛する者は、それを失い、自分の命を憎む者は永遠の命に至る」とあります。ここで、愛するとは「それを選ぶ」ということです。憎むとは「それを選ばない」ということです。たとえば目の前に「ラーメン」と「うどん」があります。ラーメンを選ぶなら、ラーメンを愛するということです。うどんを選ばないなら、うどんを憎むということです。ですからこの主の言葉は次のように置き換えることができます、「まず自分の命を選ぶ者は、それを失い、まず自分の命を選ばない者は、永遠の命に至る」。たとえば、自分のことしか頭になく、保身のためばかりにあくせくする人は、周囲からも信頼されず、自分の命を縮めるものです。逆に、自分のことを度外視して事を運ぶ人は、周囲からも信頼を受け、命を得るものです。現実は、まさに主の言われたとおりです。

 繰り返しになりますが、自分の命を憎むとは、自分に憎しみの感情をいだくという意味ではありません。まず自分を選ばないという意味です。すこし難しくいうと、自分が主語ではなく、いわば自分は目的語になるような生き方のことです。

 敬虔なキリスト教徒でもあったアメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンの母親は、彼が幼い頃から「世界は(主語)、あなたを(目的語)、待っている」と語り続けたそうです。けっして、「あなたは(主語)、世界を(目的語)、支配しなさい」ではありません。誰かが(主語)、わたしを(目的語)、待っている。何かが(主語)、わたしを(目的語)、必要としている。キリストが(主語)、わたしを(目的語)、求めておられる。このように、そもそもわたしたちの人生は、主なる神さまの前に、目的語である自分をひたすら生きることだと思います。

 世界がわたしを待っている、キリストがわたしを必要としておられる・・・これはけっして大げさな表現ではありません。天に召されるまで、キリストのために、誰かのために、何かのために、ひたすら自分を生きてまいりましょう。自分にできることがどんなに小さなことに思えても、とりあえず、できるかぎりを尽くしてみます。とりあえず、でいいのです。軌道修正はいくらでもできるのですから。そもそも生きるとはそういうことなのですから。

 気負わず、与えられたところを淡々と歩んでまいりましょう。こうしたそぼくな歩みこそが、キリストに自分をおまかせしている歩みであり、永遠の命に至る生き方であり、一粒の麦が地に落ちて、多くの実を結ぶような生き方だと思います。

 今週のひと言キーワードは「とりあえず」です。



2014年1月19日

「あとになってわかる真実」

【新約聖書】ヨハネによる福音書12章12~19節

 ヨハネの福音書は死をつらぬく永遠のいのちをテーマにして描かれている書巻です。この永遠のいのちは、死を見すえるところから信仰によって見えてくる真実です。自分の死を遠いかなたの出来事と思っているうちは、永遠のいのちについて、本当のところは何一つわかりません。関心もありません。しかし、年齢を重ね、自分の死を少しずつ実感するようになってはじめて、永遠のいのちの世界へと信仰の目が次第に開かれていきます。

 本日の場面は、主イエスがろばの背に乗って、エルサレムへ向かわれる場面です。すでにマタイの福音書の同じ場面を先の待降節に開きました。じつはこの場面について、他の福音書では書かれていない、このヨハネの福音書だけが伝える真実があります。それは「弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられたとき(死から復活されたとき)、彼らは思い起こした」という記述です。この記述の意味は、ろばの背に乗られた主イエスは間違いなく旧約聖書に預言されていた本物の救い主であると、後になってから、弟子たちは事の真実を理解したということです。

 後になってはじめて見えてくる真実、つまり人生を振り返ってはじめて見えてくる神の守りと導きがあります。そうであるなら、今は見えていなくても、今の自分に注がれている主の守りと導きといったものが必ずあるはずです。でも今はそれがあまりよくわからない。後になって、自分がたどってきた歩みを振り返り、主の愛と不思議な守りが見えてくる。まさに弟子たちもそうであったということです。

 今年、わたしたちはキリストの次の言葉に生きていきます。「あなたがたはこの世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。このキリストの言葉には続きがあります。それは、キリストを信じているわたしたちひとりひとりもすでに世に勝っているという真実です。キリストを信じる者はキリストの勝利にあずかっているということです。ですから、悩みのうちにあるとき、そぼくに次のように思いましょう、「大丈夫。キリストにあって、わたしもすでに世に勝っている」。

 耐えられない悩みはありません。ですからキリストはいつも言われます、「しかし勇気を出しなさい。あなたもすでに世に勝っているのだから」と。



2014年1月12日

「今の自分にできること」

【新約聖書】ヨハネによる福音書12章1~11節

 ヨハネの福音書のテーマは永遠のいのちです。死をつらぬく永遠のいのちがある。キリストを信じる信仰によって与えられる永遠のいのちを、いろいろな出来事をとおしてこの福音書は伝えています。同時に、ヨハネの福音書はわたしたちの死を真正面からあつかっています。メメント・モリ(あなたの死をおぼえよ)をしっかりと見すえてはじめて、死をつらぬく永遠のいのちが見えてくるからです。

 本日のマリヤの行為も、メメント・モリを見すえた行為です。彼女はナルドの香油をキリストの足に注ぎました。今の価値で200~300万円に相当するほどの高価な香油をすべて注いでしまいました。「どうしてお金に換えて貧しい人たちに施さなかったのか?」と弟子のユダは彼女の行為を非難しますが、マリヤにとっては金額など関係ありません。ただ自分に出来ることをしたまでのことです。このユダの言葉に惑わされて、「マリヤはすごい! 自分にはとうてい出来ない!」などと勘違いしてはなりません。たとえばマリヤが注いだ香油が一滴か二滴であったとしても、それがマリヤの手持ちのすべての香油であったなら、やはり彼女の行為は深い意味を持つわけです。

 主イエスをまじえて、いつものように夕食を共にしていた彼女は、「このお方とゆっくりと夕食を共にするのはこれが最後かもしれない」と思ったのではないでしょうか。まさにメメント・モリ(次はないかもしれない)です。

 事実、パリサイ人や祭司長たちは主イエスを捕らえようと躍起になっていました(11章57節参照)。主イエスが今、エルサレム近くのベタニア村におられるということは、たとえて言えば、幕末の京都に坂本龍馬がいるようなものです。いつ、捕らえられ、処刑されてもおかしくない状況でした。

 主イエスはマリヤの行為について「わたしの葬りの用意をしてくれたのだ」と言われました。主イエスが捕らえられ、十字架上で処刑される日は目前に迫っていました。受難を前にされた主イエスの心を、誰よりもマリヤはくみ取ろうとしました。そして、このお方のために今、自分に何ができるか、彼女は必死で考えたと思います。その結果がナルドの香油をすべてキリストに注ぐという行為となりました。この行為は主の葬りのためでもありますが、同時に主イエスを救い主と信じるマリヤの心からの信仰告白でもあります。



2014年1月5日

「新年も神と共に」

【新約聖書】マタイによる福音書2章1~12節

 マタイの福音書2章に登場する東方の博士たちはバビロンという町から千キロもの旅をかさねてエルサレムまでやってきました。博士たちと訳されていますが、星占いの専門家といったところです。異邦人でもあります。純血を重んじるイスラエルの人々にとって、占星術を行う異邦人は軽蔑すべき人々でした。そのような異邦人が、世界で最初にメシアを礼拝するという大いなる神の祝福にあずかったことをマタイの福音書は伝えているわけです。これは、誕生されたメシアがイスラエルの人々の救い主だけでなく、異邦人を含めた全世界の救い主であることを物語っています。

 つくづく思うのは、博士たちの長旅は、わたしたちの人生の旅路ととてもよく似ているということです。そもそも人生は長旅であること、悩みや不安に満ちているということ、目的地だと思って到着したら実はそうではなくて途方に暮れてしまうことがあること、そもそも何のために旅を続けているのか、旅の途中でわからなくなってしまうことも多々あること・・・両者はとてもよく似ています。

 博士たちは星を見て、旅を始めました。しかし、いつも星が頭上に輝いていたわけではありません。わたしたちの現実もそうです。いつもはっきりと希望や光が見えるわけではありません。また、いつも調子が良いわけではなく、いつも元気はつらつというわけにはいきません。

 博士たちは長い旅の途中で、くじけてしまいそうになるたびに思い起こしたと思います。それは故郷で見たあの星の輝きです。星の輝きを思い起こしつつ、彼らは旅を続けてきたと思います。わたしたちも同じです。今年一年いろいろな悩みに出遭うたびに、そしてくじけそうになるたびに、主の言葉を思い起こします。「あなたがたはこの世ではなやみがある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。キリストの言葉を思い起こし、勇気を得て、博士たちのように今年も旅を進めていきます。主イエスを背に乗せたあのろばのように、ひとあしひとあし、今年も歩んでまいります。

 「見よ、博士らが東方で見た星が、彼らより先に進んで幼子のいる所まで行き、その上にとどまった。博士らは非常な喜びにあふれた」と聖書は伝えています。彼らの旅の終わりは非常な喜びで包まれました。これこそ神と共に歩む者に約束された大いなる喜びです。神の喜びです。メメント・モリを深く思いつつ、倒れても、そのたびに主の言葉を思い起こして、今年も歩んでまいりましょう。



2013年12月29日

「老いの恵み」

【新約聖書】ルカによる福音書2章36~38節

 間もなくわたしたちは新しい年を迎えます。数え年では一年、年を取るということです。一般的には死に近づいたということですが、神と共に歩む者にとっては御国が近づいたということです。

 年の最後の礼拝ではルカの福音書2章に登場する女預言者アンナの箇所を開きます。アンナという名前は「恵まれた女」という意味です。ただし、年若くして夫と別れ、その後84歳になるまでずっとやもめ暮らしであったと聖書は伝えています。もし子供がいたら、自分の子供を看取ったかもしれません。この年齢まで女ひとりで生きていくのは並大抵の苦労ではなかったはずです。「恵まれた女」という名前とは裏腹の人生をアンナは歩んできたように思われます。

 84歳という年齢は当時としては異例とも言える高齢です。その年齢になるまで彼女は人生を生き抜いてきました。いったい、彼女はどのように生きてきたのでしょうか。「アンナは宮を離れず、神に仕えていた」とあります。ひと言でいえば、アンナは神と共に年を重ねてきたということです。

 悩みも、悲しみも、苦しみも、すべてを神とともに生きてきた、それがアンナです。84歳になったアンナには、悩みや悲しみの過去は山ほどあったと思います。しかしアンナは過去に縛られてはいません。過去を見てはいません。アンナが見ているのは「今」です。彼女が生きているのはいつも「今、この時」です。神と共に歩むとは、過去ではなく、「今」を歩むことです。そんなアンナだからこそ、今、マリヤとヨセフと一緒に自分の目の前に近寄ってきた赤ちゃんの中に、神のメシア、救い主の姿を見届けることができたのだと思います。

 年を取るとは、間違いなく老いることです。肉体的には衰えるということです。死が近づくということです。メメント・モリです。だからこそ、今が輝いてきます。過去をくやんだり、嘆いたりしている暇などないことに気づくのも老いの恵みです。年を重ねるごとに、キリストの愛がより深く迫ってきます。若い頃には見えなかった神の恵みがあちこちに見えるようになります。

 神と共に年を重ね、神と共に老いるとは、神の恵みの世界が次第に見えるようになることです。神と共に年を重ね、神と共に老いるとき、老いは恵みとなります。



2013年12月22日

「クリスマス」

【新約聖書】ルカによる福音書2章1~20節

 ローマ皇帝アウグストが人口調査の勅令を発します。この勅令によって、誰もが生まれ故郷に帰らなくてはならなくなりました。臨月を迎えているマリヤもナザレの町から150キロ隔てたベツレヘムに移動することとなります。電車も車のない時代、身重の女性が150キロもの距離を移動するのは相当過酷な旅であったに違いありません。

 ベツレヘムに着いたマリヤとヨセフには宿泊する宿屋がありませんでした。帰省した人々でどこも宿屋は満室だったということです。この場面はクリスマス劇の定番です。劇では、宿屋がなくて困っているマリヤとヨセフに、ある親切な宿屋の主人が家畜小屋を提供します。わたしはずっと思っていました。これのどこが親切なのか、と。臨月を迎えている女性に、臭くて暗くてきたない家畜小屋を提供するとは、親切どころか、それはいじめであり、虐待ではないか。この場面に人間の薄情さを感じるのは、けっしてわたしだけではないと思います。

 天使からキリストの誕生の知らせを真っ先に受けたのは野宿をしていた羊飼いたちでした。当時羊飼いという仕事は、闇の仕事として町の人々からは敬遠されていました。マリヤと同じように、羊飼いたちもまた闇に追いやられた人々でした。

 キリスト誕生の背景には、こうした深い闇が拡がっていたことを聖書は伝えています。そしてそうした闇のきわみが飼い葉桶です。飼い葉桶は、およそ人の赤ちゃんが横たわる場所ではありません。飼い葉桶という、まさに闇のまっただ中にわれらの救い主は誕生なさいました。文字通り、闇の中に神ご自身が光を投ぜられました。クリスマスとは、深い闇の中に神の光が投げ込まれた出来事です。

 「どんな時にも人生には意味がある」。アウシュビッツ強制収容所から奇跡的に生還したフランクルの言葉です。これは言い換えると「どんな闇の中にも光は輝いている」ということです。どんないじめに遭っても、どんな仕打ちを受けても、どんな悲しみの中でも、どんな痛みの中にも、光は輝いている。光はすでにあなたの足下で輝いている。

 生きるとは、神が投ぜられた光を発見することです。足下で、背後で、眼前で、すでに輝いておられるキリストと出会うことです。すでに光はあなたの闇の中にも輝いています。どんなに闇が深く、けわしくとも、光は輝いています。アーメン。



2013年12月15日

「マリヤの信仰」

【新約聖書】ルカによる福音書1章26~38節

 トナカイが引くそりに乗ってサンタクロースは空から煙突を通ってやって来る・・・幼い頃聞かされた物語です。こうしたサンタクロースの物語は、神の恵みがわたしたちの意表を突いて、意外な方法でやって来るというメッセージを含んでいると思います。

 神の恵みが意表を突いて注がれると、わたしたちにはそれが恵みであるとわからないことがあります。マリヤの場合がそうでした。「恵まれた女よ。おめでとう。主があなたとともにおられます」。この天使の言葉は、誰が聞いても恵みの言葉です。ところがマリヤは「この言葉にひどく胸騒ぎがした」とあります。驚き、恐れたということです。思ってもみない恵みを受けて、彼女は恐れ、戸惑います。聖母と呼ばれるマリヤですが、彼女もわたしたちと同じ、ごく普通の人だったことがわかります。

 救い主の母親になると告げられて、マリヤはいっそう不安になります。「どうしてそんなことがあり得ましょうか?」と叫びます。たしかにマリヤが救い主の母として選ばれた理由はわかりません。まさに神のみぞご存じです。でもマリヤのすごいところは、彼女は「どうして?」と問うことをきっぱりとやめてしまうところです。その代わりにマリヤは言いました、「わたしは主のはしため(しもべ)です。お言葉どおりこの身になりますように」。彼女は自分の目の前の出来事をそのままに受け入れます。神の言葉を受け入れて、神の言葉に生きてみようとします。

 神の言葉が真実であることは、わたしたちが実際に生きてみて、後になってわかることです。神の恵みはいつもわたしたちの思いよりも先行しています。にぶいわたしたちは、後になって、神の恵みを理解し感謝することとなります。マリヤもそうでした。

 大切なことは、先行する神の言葉を信じて、まずは歩んでみることです。まずは生きてみることです。神の言葉の意味を十分に分かった上で歩むのではありません。分かるのは後になってからです。神の言葉が先で、わたしたちの理解は後です。その逆ではありません。マリヤは不安をかかえつつも、意味がよくわからなくても、天使の告げる神の言葉に自分の全存在をかけました。神の言葉に自分の身をゆだねました。聖母マリヤの誕生です。



2013年12月8日

「まず、荒野へ」

【新約聖書】マルコによる福音書1章1~8節

 突然、何の前触れもなく、荒野に投げ込まれることがあります。病気という荒野、愛する者との死別という荒野、老いという荒野、悩みという荒野・・・荒野に事欠かないのが現実です。人生は荒野であるといっても過言ではありません。わたしたちの人生の舞台はけっしてオアシスではありません。荒野です。人生は荒野の連続です。

 聖書はこうした人生の荒野を舞台にしています。バプテスマのヨハネもまず荒野で神の言葉を叫びました。神の都エルサレムでもなく、またエリコの町でもなく、まず荒野でヨハネは呼ばわりました。

 「荒野で呼ばわる者の声がする」。イザヤ書が告げる預言の通りに荒野に現れたバプテスマのヨハネは人々に叫びました、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる」。ここでヨハネが人々に伝えているのは、「荒野で苦しみもがいている者たちよ。主を待ち望め。正真正銘の救い主が間もなくお越しになる」ということです。

 どんな時にも人生には意味がある。先週紹介したアウシュビッツ収容所を奇跡的に生き抜いたフランクルの言葉です。どんな時にも・・・荒野に投げ込まれた時にも・・・人生には意味がある。事実、主を待ち望む信仰がもっとも養われるのは荒野に投げ込まれたときです。より真剣に神の言葉を慕い求め、より懸命に祈るのは、やはりわたしたちが荒野で苦しみもがいているときだと思います。

 荒野でしか聴き届けることができない神の言葉があり、荒野でしか祈れない祈りがあります。ですから荒野にあってはひたすら主を待ち望みます。ひたすら主に祈ります。

 待降節第二週のキーワードは荒野です。今週、祈りのうちに、人生の荒野の意味をそれぞれに問いかけたいと思います。



2013年12月1日

「ろばのように」

【新約聖書】マタイによる福音書21章1~11節

 ビクトール・フランクルの「夜と霧」という本があります。ユダヤ人であったフランクルがナチス政権下で当時絶滅収容所と呼ばれていたアウシュビッツ収容所に強制収容された体験を記したものです。明日の命も保証されない収容所で、フランクルは極限下に置かれた人間のなかに何ものにも冒されない崇高な姿を見たと語っています。人間の魂の輝きとも言えるかもしれません。そして彼は次のように語っています、「どんな時にも人生には意味がある。どんな時もあなたを待っている誰かがいる。あなたを待っている何かがある。そしてその『誰か』や『何か』のためにあなたにも出来ることがある」

 強制収容所のような状況は現代でも見られます。たとえばわたしたちは様々な重荷・・・悩み、悲しみ、病、弱さ、老い・・・を背負って生きています。否応なく、重荷は一方的にやってきます。そうした重荷につながれて、ときにわたしたちは希望を失い、身動きがつけなくなります。まさに強制収容所に入れられたようになります。またその姿は、くびきを負うろばのようでもあります。主イエスがエルサレム入城という晴れの舞台にろばの背に乗られたのは、旧約聖書が預言していたからでもありますが、そもそもろばという動物が、わたしたち人間にとても似ていたからだと思います。

 【ろばを解いて、わたしのところへ引いてきなさい】と主イエスは弟子たちに命じられました。そしてさらに主の言葉が続きます、【主がお入り用なのです】。「主がお入り用なのです」とは「主が必要としておられます」という意味です。ろばはたしかに馬ほどかっこよくありませんし、力強くもありません。でもキリストを背に乗せたのはろばでした。

 とても地味ですが、ひとあしひとあし、ありのままの姿でキリストを背に乗せたろばは、神の都エルサレムまで歩きました。このときのろばのように、わたしたちもひとあしひとあし、キリストを背に乗せて、御国に入れられるまで歩みたいものです。急ぐこともあせることもありません。自分の背にキリストの愛を感じて、御国を目指して歩んでまいりましょう。



2013年11月24日

「出てきなさい」

【新約聖書】ヨハネによる福音書11章38~44節

 病気で一度は死んだラザロですが、キリストによって再び生きる者となりました。ということは、彼は生涯で二度死んだことになります。最初の死は、おそらくキリストを待ち望みつつ、不安のうちに息を引き取ったと思います。しかし二度目の死ではラザロはキリストを信じ、希望に満ちあふれて御国へ旅立ったと思います。

 ラザロは死後、洞穴に手足を布で包まれた状態で安置されました。肉体と精神活動はすでに終わっています。肉体は腐敗も進んでいます。これがわたしたち人間の死というものでしょう。キリストはそのようなラザロに向かって「出てきなさい」と大声で叫ばれました。死に向かって叫ばれたのです。すこやかに眠れ、ではありません。「出てきなさい」です。死に向かって「出てきなさい」などと言えるのは、古今東西、キリストのみです。まさにキリストは死をつらぬいておられる方であり、キリストの言葉は死をつらぬく永遠の命の言葉です。

 「すると死人は手足を布でまかれ、顔を顔おおいで包まれたまま、出てきた」とあります。墓のなかでラザロの魂はキリストの言葉を聞き届けました。キリストの言葉によってラザロの魂は新たな力を受け、あるがままの肉体と精神を従えて、墓から出てきました。

 肉体と精神が滅びても魂は生きています。ラザロの魂はキリストの救いの言葉を聞き届けました。老いるとは、肉体と精神が確実に衰えることですが、同時にそれは魂が露わになり、キリストの言葉がより鮮明に、より力強く、迫ってくることでもあります。さらに言うなら、キリストを信じる者にとっては、生涯最後に迎える肉体の死こそ、キリストがもっとも近くに、救い主として迫って来てくださる時でもあります。ラザロが死んでから、キリストがラザロに迫り、彼の墓の前で大声で叫ばれたことが、そのことを証ししています。ここにキリストを信じる者だけに与えられる死をつらぬく希望があります。



2013年11月17日

「イエスは涙を流された」

【新約聖書】ヨハネによる福音書11章17~37節 

 キリストが涙を流される場面です。エルサレムから3キロばかり離れたベタニアという村での出来事です。ラザロという男が病気で息を引き取ります。彼が死んで四日後にキリストはその村にお越しになります。村はずれで、まず姉のマルタがキリストと会い、ラザロのことを伝えます。彼女にキリストは福音の核心ともいえる言葉を語られます。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者はいつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。そしてマルタは答えました、「主よ、信じます。あなたがたこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。じつにすばらしい信仰告白です。

 妹のマリヤもラザロの死を嘆き、キリストに悲しみを訴えます。村人たちも泣いています。それをご覧になったキリストは「激しく感動し、また心を騒がせ」とあります。そしてラザロが葬られた墓の前で「イエスは涙を流された」のです。

 キリストはラザロの死を最初からご存じでした。前回にお話ししたように「ラザロは眠っている。わたしは彼を起こしに行く」と言われたキリストです。つまり最初からキリストはラザロを死から蘇生させるつもりで、この村へお越しになりました。ラザロが死からよみがえることを最初からご存じであるなら、どうしてキリストは涙を流されたのでしょうか。「何も心配はいらない。泣かなくともよい。ラザロは生き返るのだから」と言われるのが当然の場面ではないでしょうか。

 キリストは死をつらぬいておられます。しかしこのお方は、悲しみゆえに身動きがつけなくなってしまう弱いわたしたちを素通りしてしまうお方ではありません。立ち止まってくださる方です。泣きじゃくる子供の前に、泣き止むまで親が静かに寄り添うように、悲しみに打ちひしがれるわたしたちに寄り添ってくださるお方です。永遠を見通しつつも、今のこの瞬間に立ち止まってくださるお方です。

 キリストの別名はインマニュエル、その意味は「神が共におられる」です。悲しみや悩みですぐに身動きつけなくなってしまうわたしたちに、キリストはいつも静かに寄り添われます。その証しが「イエスは涙を流された」です。

 今週のキーワードは「イエスは涙を流された」です。この言葉を黙想しつつ、キリストはいつも身近に寄り添い、共にいてくださることをおぼえたいと思います。



2013年11月10日

「信じるようになるために」

【新約聖書】ヨハネによる福音書11章1~16節
 
 先日の会議の合間に川柳が話題となりました。シルバー川柳は豊浜ではおなじみですが、サラリーマン川柳というのも以前から評判です。
「ダルビッシュ 一球だけで わが月給」
「あれもやれ 残業するな これもやれ」
「バイキング うまかったより 元とった」などなど、なかなかサラリーマンの悲哀とユーモアが川柳となっています。教会でもユーモア川柳を募集して教会のホームページで紹介するのもいいですね。日常のそぼくな体験をユーモアを交えて川柳にしてみるもオモシロいものです。

 第二次世界大戦時ドイツのナチス政権は、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所で想像を絶する数のユダヤ人を虐殺しました。これは幼い姉と弟がこの収容所へ連れていかれたときのエピソードです。連行される途中で、弟が自分のはいていた靴の片方を無くしてしまい、姉はひどく弟をしかり、なじったそうです。状況が状況ですから姉もふつうの心理状態ではなかったのでしょう。ところが弟は収容所に入れられた日の次の日に死んでしまいました。姉は生き残ったのですが、生涯、自分の弟のことを忘れることはなく、死ぬまで次のことを肝に銘じて歩んだそうです。「もしそれが最期の言葉となって困るような言葉は、けっして言わない」。メメント・モリ(あなたの死をおぼえよ)の生き方を具体的にあらわすエピソードだと思います。

 ヨハネの福音書のテーマは永遠の命です。永遠の命とは死をつらぬく命です。死は、ぜったいにわたしたち人間にはつらぬくことの出来ない壁です。この死の壁をつらぬいているのが永遠の命であり、キリストです。山ほどのキリストにまつわる出来事の中から、この永遠の命を伝えるにふさわしい出来事のみを取り上げ、ヨハネは福音書にまとめました。ヨハネの福音書を読むときには、死をつらぬく永遠の命をいつも念頭に置いて読んでみてください。

 本日の出来事もそうです。主の愛しておられるラザロが死にます。でもキリストにとっては死はひとときの眠りでしかありません。わたしたちの死は、キリストによって再び目覚めさせていただく眠りのことです。「ラザロは眠っている。わたしは彼を起こしに行く」と言われたキリストの言葉の意味はまさにそうです。

 先を読むとわかりますが、キリストによってラザロは死から蘇生します。この驚くべき奇跡を間近で見た多くの人々は、キリストは死をつらぬいておられる真実の救い主であると知って、キリストを信じるようになります。ただし、この時蘇生したラザロもやがて息をひきとり、生涯を終えます。地上でいつまでも生きることが永遠の命ではありません。肝心なことは、福音書が伝えるこのようなエピソードをとおして、キリストこそが死をつらいておられる真実のメシアであり、救い主であるとわたしたちが信じるようになることです。死をつらぬく永遠の命があることをわたしたちが信じるようになることです。今週のキーワードは「永遠の命」です。



2013年11月3日

「死をつらぬく永遠の命」

【新約聖書】ヨハネによる福音書3章16~21節
 
 「あわぬはず じいさん それはわたしの歯」。総入れ歯のご夫婦による川柳です。シルバー川柳として最近書店などで出版されています。老いの現実をほほえましい川柳で言い表したものです。「誕生日 ローソクふいて 立ちくらみ」。これなども老いの現実を見事に表現していると思います。

 老いるとは要するに自分の死をより実感するようになることです。体力も、記憶力も、自分の意のままにはならなくなる・・・それが老いでしょう。体の疲れにしても、若いときはすこし休めば直っていたものが、年を取るとなかなかそうはいかなくなります。「食事会 薬でしめて お開きに」という川柳もなかなか名作です。

 自分の死は誰にも代わってもらうことができません。死とはそういうものです。そして死に時は必ずやってきます。でも、それがいつやってくるのかはわかりません。この当たり前のことが若いうちはなかなかピンときません。しかし老いることによって、いやでも自分の死をいろいろな場面で実感するようになります。たとえば自分と同世代の人が亡くなるとか、兄弟や友人が亡くなるとか、あるいは病気を患うとか、老いるほどに死を実感することとなります。

 メメント・モリとは「死をおぼえていなさい」という意味のラテン語です。この言葉は「次はないかもしれない」と意訳することもできます。今日は元気で挨拶をかわすことができても、ひょっとしたら明日はできないかもしれません。今晩、自分が死ぬかもしれないし、あるいは相手が事故か何かで息を引き取るかもしれないからです。思えば、わたしたち人間はいつもそのような現実に置かれています。今年の召天者記念礼拝ではお写真を見ている側のひとりであっても、来年はひょっとしたらお写真の側のひとりになっているかもしれません。それが現実です。

 メメント・モリ、「次はないかもしれない」と思うことによってはじめて、今のこの時が輝いてきます。なぜなら、今のこの時を逃してしまったら、次はもうないかもしれないのですから。またメメント・モリを思うことによって、聖書が告げている永遠の命の世界がより強く迫ってきます。永遠の命とは死をつらぬく命のことであり、死に対する唯一の希望として聖書が告げている命のことです。

 キリストは約束しておられます。「わたし(キリスト)を信じる者はひとりも滅びないで、永遠の命を得る」と。永遠の命がどのような命なのか、今、生きているわたしたちにはよくわかりません。しかし聖書は、死をつらぬく永遠の命があることを明言しています。キリストを信じるだけで永遠の救いを受け、永遠の命の世界へ入れていただけると聖書は約束しています。これを福音(よろこびの知らせ)といいます。
 
 今のこの時が輝いてくるのも、また永遠の命の世界へ魂が開かれるのも、メメント・モリによってです。次はないかもしれないと思うところから、わたしたちの心と魂は神の前に謙虚になり、真実に耳を傾けるようになります。



2013年10月27日

「最後の頼みの綱」

【新約聖書】マタイによる福音書15章21~28節

 1517年10月31日、ルターはヴィッテンベルクの城のような教会の扉に、95箇条からなる意見書を貼り付けました。週報くらいの大きさの用紙(B4サイズくらい)に当時のカトリック教会に対する意見をしるしたものでした。意見書の内容はほんの2週間ほどでヨーロッパ中に広まり、それによっていわうる宗教改革が始まることとなります。当初ルター自身もそこまで大きな事態へ発展するとは想像すらしていなかったといわれます。まさに主なる神ご自身による宗教改革と言われるゆえんです。

 宗教改革の嵐は次第に激しさを増し、ルターは身の危険すら感じることとなります。宗教改革はルターにとってはつねに死と隣り合わせの出来事でした。「明日死ぬとわかっていても、今日リンゴの木を植える」。これはルター自身の言葉ではありませんが、この言葉はいつも死を意識するなかで、キリストを信じ、今日一日を精一杯に歩もうとするルターの信仰を的確に表しています。

 今日の箇所で、決死の覚悟で主イエスに詰めよるひとりの母親が登場します。イスラエル人から見れば彼女は異邦人であり、また異教徒でした。主なる神さまの祝福からはとても遠いと考えられていた人です。そのような彼女でしたが、無視されても、よそ者扱いされても、小犬扱いされても、あきらめませんでした。「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」と主イエスに必死に訴えます。この彼女の言葉に主イエスが感動されます。「女よ、あなたの信仰は見あげたものである」。福音書では他に類を見ないキリストのほめ言葉です。

 娘を思う母親のこの必死さはどこからきているのでょうか。きっとこの母親はキリストに出会う前、娘の病気を癒してくれそうな医者などをあちこちたずね歩いたと思います。ところが娘はまったく回復せず、精魂尽き果ててしまう寸前でこの母親はキリストと出会ったのだと思います。つまりこの母親にとってはキリストこそが最後の頼み綱であったのでしょう。もしキリストに断られたら、自分の娘は死ぬほかにない。このお方(キリスト)こそが最後の頼みの綱であり、もう次に行くべきところはない。母親の行動こそが、そうした必死の思いを物語っています。

 わたしたちが生きていく上で頼みの綱としているものには、いろいろあります。家族や友人、教会での交わり、お金や住まい、仕事などもそうかもしれません。人によって異なります。お金こそが頼みの綱だという人もいるでしょう。あるいは自分の子供を頼みの綱としている人も多いかもしれません。

 生きる上で、それぞれなりに、いろいろなものを頼みの綱としてわたしたちは歩んでいます。ただし、わたしたちの人生を突き詰めて考えるなら、行く末には必ず死があることを忘れてはなりません。メメント・モリです。そうであるなら、結局のところ、わたしたちにとっての最後の頼みの綱は、死を突き抜けておられる永遠の主なるキリストの他にはありません。いろいろなものを頼みの綱として生きてはいるものの、最後の最後、やはり頼みの綱はキリストです。このことをきちんと見すえて歩むことがキリストを信じる信仰の歩みです。



2013年10月20日

「キリストの約束」

【新約聖書】ヨハネによる福音書10章22~31節

 【わたしはあなたに(信じる者に)永遠の命を与える】。なんと力強い、希望に満ちたキリストの約束でしょうか。かさねてキリストは【だからあなたはいつまでも滅びることはない】とおっしゃっています。最近ずっとメメント・モリ(あなたの死をおぼえよ)について考えています。メメント・モリとは、別の表現をするなら、「突き詰めて考えてみよ。行く末について究めてみよ」とも言えると思います。

 わたしたちの生涯を突き詰めて考えてみるなら、必ず終わりに死があります。死にようは様々ではあっても、死ぬという一点においては同じです。そしてもし死がすべてをのみつくしてしまう究極の終わりであるなら、もし死が完全な終わりであり、滅びであるとしたら、わたしたちには希望はありません。老いるとは、ただ死という滅びへの一方通行の歩みに過ぎません。死に向かって、ただおびえるほかにありません。

 ところが聖書は告げています。キリストははっきりと語っておられます。【わたしは信じる者に永遠の命を与える。だからあなたはいつまでも滅びることはない】。キリストのこの約束は死をつらぬいています。もし究めるというのであれば、死をつらぬいているこのキリストの言葉をこそ究めないとなりません。なぜなら、死は通過駅に過ぎず、途中だからです。死の向こう、まだその先があるからです。

 キリストが約束しておられる死をつらぬいた先の世界は、どんな世界なのでしょうか。御国とはどんなところでしょうか。永遠の命とはどんな命なのでしょうか。そんなことを考えると、魂がわくわくしてきませんか。

 メメント・モリ(あなたの死をおぼえよ)とは、キリストを信じる者たちにとっては、死をつらぬいた先の永遠の御国を思い描くことです。魂がわくわくするまで思い描くことです。信仰を養うとは、そのようなことです。



2013年10月13日

「立ち止まる愛」

【新約聖書】マルコによる福音書10章46~52節
 
 「わたしに何をしてほしいのか」。主イエスはやさしく、目の不自由な物乞いバルテマイに語りかけておられます。バルテマイは道ばたにすわっていました。好きですわっていたのではありません。そもそも道ばたはすわる場所ではありません。彼は貧しく、また目が不自由であったために、歩き回って物乞いをすることはできませんでした。だから彼は一日中、道ばたにすわりこんでいる他ありませんでした。

 主イエスのことを聞いたバルテマイは、主にあわれみを請います。大声で叫びます。何とか主イエスの気をひこうとします。ところが「多くの人々は彼をしかって黙らせようとした」とあります。多くの人々とは弟子たちのことです。弟子たちはバルテマイの前をそのまま通り過ぎようとします。いちいち立ち止まっていたら前に進めません。物乞いの話に耳を傾けていたら日が暮れてしまいます。弟子たちの行動も十分にわかります。

 元気な者たちは足早に人生の道を歩いて行きます。病や深刻な悩みによって歩みが止まっている人が身近にいても、つい通り過ごしてしまいます。いちいち立ち止まって話を聞いていたら、先へ進めないと思うからでしょうか。あるいはいちいち立ち止まるのは面倒だと思うからでしょうか。子どもが親に立ち止まってほしいと願っても、忙しい親は子どもの前を通り過ごしてしまいます。老いた親が話を聞いてほしいと願っても、つい先を急ぐあまり、親の前を通り過ごしてしまいます。元気な者たちにとって立ち止まるとは、なんと難しいことでしょうか。

 「イエスは立ち止まって『彼を呼べ』と命じられた」とあります。主イエスは立ち止まっておられます。ここに主の愛を感じます。主は立ち止まって「わたしに何をしてほしいのか」とやさしく声をかけておられます。主イエスとはそのようなお方です。

 わたしたちは安心して倒れることができます。安心して道ばたにすわりこむことができます。安心して老いることができます。安心して病気になることができます。主イエスがいつも立ち止まってくださるからです。いつも寄り添ってくださるからです。



 2013年10月6日

(ひと言キーワード)「キリストの羊」

【新約聖書】ヨハネによる福音書10章7~18節

「あなたはかけがえのない大切な方です」。国を問わず、年齢を問わず、もちろん性別も問わず、誰もがそう言って欲しい。今、ここにいる自分を認めて欲しい、愛されたい・・・そうした思いは人間に共通した願いであると断言してもいいでしょう。

 主なる神は天地創造の折から、変わらずわたしたちに語り続けておられます。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしは愛している」。ふと静まったとき、この主の言葉が体中に響き渡る。ふと忙しい手を休めたときに、この主の言葉を思い起こす。いつもこの主の言葉を口ずさみ、寝てもさめてもこの主の言葉に身をゆだねて、生きていく。これがキリストという羊飼いについていく羊の生き方です。

 本日の箇所でキリストは「自分の羊のためなら、羊飼いはいのちを捨てる」と語っておられます。言葉で語るだけでなく、キリストは身をもって実際にそうされました。ここで羊のためにいのちを捨てるとは、どういうことでしょうか。それは何があっても羊飼いは羊を見捨てないということです。羊飼いにとって、自分の羊はわが子も同然、かけがえのない存在だからです。羊飼いの目には、羊は高価で尊い存在であるからです。

 何度も申しますが、聖書は祝福の書であり、救いの書です。道徳の書ではありません。聖書はわたしたちの羊飼いであるキリストの愛を伝える書です。羊は、キリストという羊飼いに出会って、自分のほんとうの価値を知ります。かけがえのない高価で尊い存在としての自分が見えてきます。どんなに弱く、愚かで、罪深くても、キリストは「わたしの羊よ」といつも呼びかけてくださいます。羊をけっして見放さず、見捨てず、御国に入れられるまで、いや御国に入れられた後も永遠にわたって、守り、導いてくださいます。

 キリストはそのような羊飼いであり、わたしたちはそのような羊飼いについていく羊です。今週のキーワードは「キリストの羊」です。



2013年9月29日

(ひと言キーワード)「キリストの声」

【新約聖書】ヨハネによる福音書10章1~6節

 聖書は道徳の書ではありません。聖書は神の祝福の書です。ですから聖書のどこを開いて読んでも、自分を愛してくださっている神の祝福の言葉が聞こえてきたら、それは正しい聖書の読み方をしているということになります。

 宗教改革で有名なマルチン・ルターにとっても、最初の頃は聖書は道徳の書であり、自分を裁いてやまない神の言葉に日々恐怖を抱いていました。ところがある時に聖書は道徳の書ではなく、神の大いなる祝福の書であることに目が開かれます。聖書は、愚かで罪人でしかない自分を愛してやまれぬ神の恵みを伝える書であると知ったルターは、一気に宗教改革へと歩みを進めることとなります。

 【羊は羊飼いの声を知っているので、彼について行く】。キリストはここで羊飼いにたとえられています。そしてわたしたち皆、羊です。前にも申し上げましたが、わたしたちの日常では、いろいろな声が飛び交っています。羊飼いの声だけが聞こえるのではありません。むしろ、否定的な声、破壊的な声のほうが大きく、あちこちに飛び交い、肝心のキリストの声がかき消されています。

 羊飼いの声ではなく、世のいろいろな声に惑わされると、わたしたちは行き場を失い、人生をさまようこととなります。あげくの果てに、自分はかけがえのない存在なのか、それとも自分はどうでもいい存在なのか、わからなくなってしまいます。世の否定的な声に惑わされてしまうからです。

 【わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している】(イザヤ書43章4節)。羊飼いであるキリストは、いつもわたしたちにそう呼びかけ、導いておられます。さて、今のあなたにはこのキリストの声が聞こえていますか?

 【羊は羊飼いの声を知っているので、彼について行く】とありますが、ここで【ついて行く】とは、キリストの声を聴いて、ゆだねて、生きていくことです。ついて行くとは、ただ聴くだけではありません。聴いて、その声に自分の全存在をゆだねて、生きることです。

 今週のキーワードは「キリストの声」です。わたしたちをいつくしんでやまれぬキリストの声をきちんと聴きつつ、神の愛に身をゆだね、今週も歩みをかさねてまいりましょう。



2013年9月22日

(ひと言キーワード)「主がさせてくださる」

【新約聖書】使徒行伝9章36~43節

 ペテロの祈りによって死んでいたタビタは生き返りました。これは、タビタにとって喜ばしい事だったでしょうか?それを考えるには、まず、タビタはなぜ生き返る事が出来たのか?という事から考える必要があります。で、改めて、タビタはなぜ生き返る事が出来たのか?と、考える時に、私たちはペテロの祈りはもちろんですが、それと共に「この女は、多くの良いわざと施しをしていた」との記述に、なんとなく思いが向いてしまうのではないでしょうか。

 タビタは生前の行いが良かったからだ・・・。なぜ、そう考えてしまうかというと、私たちはそれほどに行いが好きなのです。良い事をすれば報われるのは当然という思いがどうしても抜けないのです。しかし、それは私たちの信仰ではありません。人は、行いによって義とはされないし、祝福は善行の結果ではないからです。また、例えそうとしても、もう一度生き返る事がタビタにとって祝福であったとは言えません。なぜなら、タビタは生前、多くの人々から愛されていました。それは、彼女が、確かな信仰に立って、地上の歩みを全うしたであろう事を思わせます。だから、もう一度、地上に生き直す事は、彼女にとってどうだったでしょうか・・。

 では、なぜ神は彼女を生き返らせたのか?それは、やもめたちはみな泣きながら・・・ この悲しみなのです。すなわち、以前にお話ししました。イエス様は、人の悲しみを見る時に、断腸の思いをもって悲しまれ、哀れまれるのです。だから、この人々の悲しみを、なんとかしてあげずにはいられない、その哀れみの御心が、この蘇りとなり、そこに神の栄光が顕されたのです。

 思えば、神様が天地を造り、人を創造されたのも、そうです。人を愛し、人を哀れみ、人を救い、そこに神様の栄光が顕される為なのです。すなわちそれは、神様は人を、愛し、哀れまれる存在として創造されたという事にもなるのです。であれば、この私たちが、どれほど不従順、どれほど不信仰であろうとも、神はなおさら愛し哀れんで下さる筈ではないでしょうか? 更に、人がそのような存在であるならば、では、どのような人であっても、不必要な人は誰もいない、という事でもあります。

 どれほど足りなさを覚えようとも、誰もが、皆、その足りなさを通して、神の栄光が顕されるからです。そして、大切な事。ペテロが「タビタ・クミ」と言いました。これは、「主がさせて下さる」という言葉です。すなわち、私達にあっても、自分が自分の力で神様の栄光を顕すのではない。主ご自身が、この足りない私を通して、用いて、神様の栄光を顕して下さるという事なのです。「タビタクミ」すべて、主がさせて下さるのです。



2013年9月15日

(ひと言キーワード)「見えていますか?」

【新約聖書】ヨハネによる福音書9章35~41節

 メメント・モリは「次はないかもしれない」という気持ちで歩むことですが、言葉を換えると「余計なことをしている暇はない」と意訳してもいいと思います。福音書には余計なことばかり語る人々が登場します。たとえばパリサイ人たちです。生まれつき盲人の男の目が開かれて、彼は見えるようになりました。ふつうなら「そりゃ、よかった!感謝じゃないか!」と一緒に喜ぶべきところです。ところがパリサイ人たちは男の目が癒されたのが安息日であったことがゆるせません。律法違反であると、この男を強く責めます。男の両親も尋問します。あげくの果てにこの男を追い出してしまいます。いわゆる村八分にしてしまうのです。

 パリサイ人たちに断罪され、村八分にされた男は、そこに何を見たのでしょう? きっと彼が見たのは「愛されていない自分」だと思います。目が見えるようになったのに、誰も一緒に喜んでくれない。両親さえも喜んでくれない。パリサイ人たちに責められ、罪人扱いされる。世間のつめたさを見たと思います。

 「イエスは彼に会って言われた、『あなたはわたしを信じるか』」。主イエスは村八分にされた男にふたたび会いに来られました。男は目の前のお方がキリストであると知って、すぐに答えます、「主よ、信じます」。男はここで何を見たのでしょうか? 彼は「愛されている自分」を見たと思います。村八分にされた自分のことを深く愛してくださっているキリストを前にして、キリストに深く愛されている自分を見たに違いありません。

 見えるようになるとは、主なる神に愛されている自分が見えるようになるということです。キリストを信じるとはそういうことです。信仰によって、かけがえのない高価で尊い自分が見えてくる。愛されている自分が見えてきます。

 とかくこの世は否定的な事柄にあふれています。ともすると自分は「かけがえのない存在なのか?」それとも「自分はどうでもいい存在なのか?」、まったく見えなくなってしまいます。信仰によって心の目が開くと、かけがえのない高価で尊い自分が見えてくるようになります。今週のキーワードは「見えていますか」です。 



2013年9月1日

(ひと言キーワード)「がけっぷち」

【新約聖書】ルカによる福音書20章9~19節

 ぶどう園の主人は、収穫の分け前を求めて、農夫たちのところにしもべを送ります。農夫たちは欲にかられて、主人のところから送られてきたしもべを袋だたきにしてしまいました。主人は次々としもべを送りますが、農夫たちはすべて袋だたきにし、傷をおわせ、侮辱をくわえ、手ぶらで主人のもとへ返してしまいます。人間の欲とは恐ろしいものです。さらに農夫たちは、主人が最後に送ってきた「あと取り息子」をなんと殺してしまうのです。当時、畑の主人が死んでしまって、あと取り息子がいない場合には、所有者のいない畑は、その畑を管理する農夫たちのものとなりました。こうして殺人まで犯して、農夫たちは畑を自分たちのものにしようとしました。

 わたしたち人間の世界のあちこちに拡がる闇は、結局のところ、他人を傷つけ、押しのけ、さらには殺してまで、自分の欲を満たそうとするところから生まれ、拡がったものです。本来は自分のものではない畑を、殺人を犯してまで自分のものにしようとした農夫たちの姿は、けっして他人事ではありません。私たちの誰もが、程度の差こそあれ、人を傷つけ、他人に迷惑をかけてまで、自分の欲を満たそうとしたことは今までに何度もあったでしょう。

 さて農夫たちはこの後、どうなったのでしょうか。ぶどう園の主人によって処刑されたのでしょうか。譬え話では、実際にこの先、農夫たちが処刑されたかどうかは記されていません。ただ、農夫たちが崖っぷちに立たされていることはたしかです。

 譬え話に登場するあと取り息子とは、明らかに主イエスご自身のことです。主イエスは、愛する弟子たちを含めて、文字通りすべての人に見捨てられ、十字架上で処刑されます。譬え話に登場するあと取り息子と同じです。では、愛する御子を殺されてしまった主なる神は、人間への報復をお考えになったのでしょうか。いいえ。処刑された御子イエスを三日後によみがえらせた主なる神は、報復ではなく、悔い改めの機会を与えられました。わたしたち欲深い人間に、再び、生きる道を与えてくださいました。

 主なる神は、報復するのが当たり前のところを、愛をもって悔い改めを求められます。主の愛は常識はずれの愛です。あり得ない愛です。そうした常識はずれの神の愛があるからこそ、わたしたちの今があります。将来があります。今週のキーワードは「がけっぷち」です。がけっぷちにあるわたしたちは、神のあわれみによって、なんとか生きていられる・・・このことを心に刻みたいと思います。



2013年8月18日

(ひと言キーワード)「じっくり行こう」

【新約聖書】ルカによる福音書4章1~13節

 最近ではファーストフード店があちこちに見られます。ハンバーガーを注文して、60秒以内で商品を受け取るというのも話題になりました。冷凍食品も随分と品揃えが豊富になっています。レンジで数分温めるだけ、忙しいときなどはとても重宝します。

 ただ気がかりなのは、わたしたちの生き方、考え方の中にまで、こうしたファーストフードやインスタント食品が入り込んでしまっているのではないか、ということです。いろいろな悩みをかかえつつ歩んでいるわたしたちですが、3分で悩みが解決!というわけにはいきません。落ち着いてじっくりと構えたらいいのに、解決を急ぐあまりに思いわずらいがふくらんだり、事態をより悪化させてしまうことも多々あります。

 【もしあなたが神の子であるなら、この石にパンになれと命じてごらんなさい】。断食直後のことですから、主イエスは想像を絶する空腹状態だったと思います。「石をパンにかえる」というのは悪魔の常套手段です。今すぐに自分の欲望を満たせということです。「今すぐに」・・・悪魔はそのようにわたしたちをせき立てます。【この世の権威と栄華をみんなあげよう】【神に奇跡を求めよ】・・・いずれも、今すぐに欲望を満たしたらどうだ?とせき立てる悪魔のおなじみのささやきです。

 主イエスは悪魔の誘惑を見事にしりぞけられました。しかしわたしたちはなかなかこのようにはいきません。解決を急ぐあまりに混乱したり、事態の真相が見えなくなったり、権威や富にこころがつい奪われたり・・・悪魔の誘惑をしりぞけるどころか、見事に悪魔に取り込まれてしまいます。世界中で今なお戦争が絶えず、わたしたちの日常でも、喧嘩やいがみ合いが茶飯事なのが何よりの証しです。

 結局のところわたしたちは必ず最期を迎えます。時が来れば死にます。メメント・モリです。キリストを信じると、そのような言わば「冷めた目」が与えられます。石をパンに変えようとすることに、また余計な権威や富を必死で求めたり、ひたすら神の奇跡を求めることに、いったいどれほどの意味があるのか、信仰によって与えられる「冷めた目」がわたしたちに問いかけてくるようになります。

 一度きりの生涯です。自分のペースで、じっくりと歩みたいものです。今週のキーワードは「じっくりと」です。



2013年8月11日

(ひと言キーワード)「祝福をのがすな!」

【新約聖書】ルカによる福音書6章17~26節

 すでに天に召された作家三浦綾子さんのご主人、三浦光世さんにはひとつ下に妹さんがおられます。お二人のお父さんは光世さんが3歳のときになくなられ、残されたお母さんと光世さん兄弟は、貧しいなか、必死になって生きてこられました。その妹さんが、ある日、義理のお姉さんである綾子さんに子供の頃の話をされるなかで、次のようにぽつりと語られたそうです。「お義姉さん、わたしね、石にかじりついても、ひねくれまいとして生きて来たのよ」。綾子さんは彼女のこの一言に深く感動され、しばらくこの言葉が胸の中で響き渡っていたそうです。

 わたしたちに悩みはつきません。誰にも悩みはあります。小さな悩みから、大きな悩みまで、いろいろです。はた目には何の悩みもないように見える人にも、そう見えるだけで、悩みをかかえています。「あなたがたは世にあっては悩みがある」と主イエスがいわれたとおりです。貧しさ、飢え、悲しみ、誤解、争い・・・悩みには事欠かないのがわたしたちの現実です。

 【貧しい人たちは幸いだ。いま泣いている人たちは幸いだ。神の国はあなたがたのものである】。つらいのに、どうして幸いなのか。悲しいのに、どうして幸いなのか。貧しいことが、どうして幸いなのか。どこかの政治家のように庶民の悩みや苦しみとはほとんど無縁の人が語っているなら、ただ聞き流すだけです。しかしこれは主イエスの言葉です。およそ苦しみという苦しみ、痛みという痛みを身をもって体験された神の御子イエス・キリストの言葉です。ですから、けっしてそのまま聞き流すことはできません。

 この言葉は悩みをかかえるわたしたちへの祝福の言葉です。そしてわたしたちは石にかじりついても、この主イエスの言葉を信じて生きて行きたい。あれやこれやと理屈をこねてもはじまりません。過去や自分を悔いてもはじまりません。他人を責めてもみじめになるだけです。状況のせいにしても仕方がありません。

 悩みをただ悩むだけではつまりません。一度きりの生涯です。かけがえのない生涯です。悩む者は幸いである、とキリストが告げておられるのですから、このキリストの言葉に自分をかけてみませんか。悩みをとおして注がれる神の祝福を自分のものにしてみませんか。石にかじりついても、キリストの祝福を追い求めて、一度きりの人生を、御国に召されるまでかけぬけてみませんか。



2013年8月4日

(ひと言キーワード)「神のさばき」

【新約聖書】ヨハネによる福音書8章1~11節

 姦淫の現行犯で捕らえられた女は、当時の法によれば石打ちによる死刑と決まっていました。律法学者とは、その名のとおり法の番人です。彼らが死刑と判決した以上、議論の余地はまったくありません。ところが律法学者たちが死刑と決まっている女を、あえて主イエスの前に連れてきたのは、主イエスを陥れるのが目的でした。
「あなたはどう思いますか」。女を連れてきた律法学者たちはキリストにそうたずねました。もし主イエスが「彼女をゆるしてやれ」と言われたら、「それは明らかに律法の定めとは違う。律法違反だ」となり、主イエスを追い詰めることができます。あるいは「法に従って裁きなさい」と言われたら、「な~んだ。それではわれわれと同じではないか。どこが救い主なんだ?」となります。いずれの答えでも主イエスを陥れることができます。

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。誰ひとり想像すらしなかった驚くべき言葉がキリストの口から発せられました。このキリストの言葉を聞いた律法学者たちはその場を立ち去ってしまいます。さらに驚きなのは女に言われたキリストの次の言葉です。「わたしもあなたを罰しない」。

 わたしたちは世に生きているかぎり、自分が身を置いている社会あるいは国家の法によって守られ、また法を犯せば、法に従って裁かれます。ところがそうした人間社会の法の裁きとは全く関係なく、また全く異なった次元で、わたしたちは皆、聖なる神の裁きを受けなければなりません。聖書はそのことを告げています。死刑が確定している女に対して下されたキリストの裁きこそが、人間社会の法とは全く異なる次元からの神の裁きであったことを、わたしたちは承知しなければなりません。

 人間には一度死ぬことと死んだのちに神の裁きにあうことが定まっていると聖書ははっきりと告げています。この世の法の裁きとは全く関係なく、聖なる神の裁きというものがある。律法学者であろうが、パリサイ人であろうが、あるいは法を犯すことは何一つしなかった人であろうとも、こうした聖なる神の裁きを受けなければなりません。この聖なる神の裁きから逃れる道はただ一つ、キリストを自分の救い主として信じること、それが聖書の告げる救いということです。 「わたしもあなたを罰しない」。キリストを信じるだけで、誰でもこのキリストの言葉を受けることができます。これがゴスペル(良き知らせ)、福音です。今週のキーワードは「神のさばき」です。



2013年7月28日

(ひと言キーワード)「キリストのみ」

【新約聖書】ヨハネによる福音書7章45~53節

 当時のローマ帝国は征服した地域を治めるにあたって、出来るかぎりの自治を認めていました。ローマ皇帝を崇め、決められた税金さえ納めるのなら、それでよしとしていました。イスラエルには治安維持のためにローマの軍隊が置かれましたが、実際にイスラエルの民衆に強い影響力をもっていたのはパリサイ人と呼ばれるエリート階級の人々です。彼らはイスラエル議会を構成する宗教指導者であり、裁判官であり、警察官であり、いわばすべての権力を持っていた人々でした。様々な掟をつくって民衆を支配していました。彼らにとっては掟こそがすべてでした。掟とは、現在でいえば学校の校則みたいなものです。パリサイ人自身も掟を固く守り、また民衆にも強要しました。掟に反する者は罪人扱いされ、町や村から追い出されてしまうほど、きびしいものでした。

 そのような社会にキリストがお越しになりました。キリストはなんのためらいもなく、安息日に病人を癒されます。掟では、安息日には一切の医療行為は禁じられていました。掟にしばられず、キリストは数々の奇跡的なわざをなされ、語られる言葉には説得力もありました。パリサイ人の下役たちでさえ、キリストの言葉に魅了されました。パリサイ人たちにとってはキリストの出現は驚きであり、驚異であり、またキリストゆえに彼らの面目は丸つぶれでした。やがてキリストに殺意を抱くようになり、彼らの殺意は現実のものとなります。

 パリサイ人たちにとってそうであったように、救われるために懸命に精神修養や修行に励んできた者たちにとっては、ただキリストを信じるだけでいいといわれることは、驚きであり、恐怖でもあります。なぜなら、いままで自分が一生懸命に励んできたことは何の意味があったのか?ということになりますから。キリストの出現によって、パリサイ人たちがあわてふためき、保身のためになんとかキリストを排除しようとしたのも分かる気もします。

 キリストの愛はわたしたちにとっては驚きです。でも真実です。何をしなくともキリストを信じるだけで救われる・・・これは驚きです。しかし真実です。いかなる精神修養に励もうが、しょせんは聖なる神の前にあっては人間は五十歩百歩、そうした精神修養によって自分がきよくなったと思い込んでいるだけです。

 キリストを信じるだけでいい。キリストの祝福をおさなごのように受けるだけでいい。わたしたちの魂が救われるために、わたしたちに出来るただ一つのことは、キリストを信じるのみです。

 今週のキーワードは「キリストのみ」です。



2013年7月21日

(ひと言キーワード)「魂の渇き」

【新約聖書】ヨハネによる福音書7章37~44節

 神学校時代にイスラエル研修に参加したとき、現地の先生がまず最初に注意されたことは、「のどが渇かなくても、10分から15分おきに水を飲んでください。そうしないと熱中症になります。そして夜は十分に睡眠を取ってください。睡眠不足も熱中症の原因となります」でした。イスラエルの夏は気温が高く、湿度がとても低いので、汗をかいてもすぐに蒸発し、肌はサラサラです。汗をかいているつもりがなくても、実際にはたくさん汗をかいていることになり、早め早めに水分を補給しないと、のどが渇いたと自覚したときにはすでに相当の水分が体から出てしまっているとのことでした。暑い夏が来ると思い出します。

 【誰でも渇くものはわたしのところにきて飲むがよい】。キリストがここで言われる渇きとは、のどの渇きのことではありません。わたしたちの魂の渇きのことです。のどの渇きは水を飲むことで癒されます。また心の渇きなら、休養をとるとか、友人と語り合うとか、趣味に没頭することで癒されます。でも魂の渇きはそのようなことでは満たされません。渇いた魂が癒されるためには、まず主なる神の前に静まり、祈るほかにありません。主の前にひとり静まり、「主よ、わたしの魂は渇いています。どうか、わたしを満たしてください」と祈り、生ける主の息吹にふれるほかにありません。

 そもそも魂の渇きといっても、ピンと来ない人も多いものです。五体満足で健康に恵まれ、悩みもあまりなく、心も満たされていると、人は魂の渇きには無頓着になります。しかしひとつの問いかけによって、隠れていた魂を呼び起こすことができます。魂の渇きを自覚することができるようになります。

 「自分は今のままでいいのか? このままでいいのか?」。静かに自分自身に問いかけてみます。これは日頃、奥深く隠れている魂を呼び起こす問いかけです。そう問いかけて後、「自分はこれでいい。今のままでいい」と主の平安でつつまれるのであれば、とても感謝です。しかし「魂が何かを叫んでいる。渇いた魂が何かを訴えている」という迫りを感じるのであれば、真正面から渇いた魂とじっくりと向き合うことです。祈りのうちにキリストに生ける水を求めることです。魂の渇きは何か大切なことを訴えているからです。

 一度きりの生涯です。「自分は今のままでいいのか? このままでいいのか?」、それぞれが問いかけてみましょう。今週のキーワードは「魂の渇き」です。



2013年7月14日

(ひと言キーワード)「信じる」

【新約聖書】ヨハネによる福音書7章32~36節

 メメント・モリとは直訳したら「死をおぼえていましょう」という意味です。このメメント・モリの言わんとするところを「次はないかもしれない」という表現に置き換えたほうがわたしはわかりやすいと思います。礼拝も「次はないかもしれない」。今日いつものように出会う人と言葉をかわすのも「次はないかもしれない」。毎日のありふれた会話も今回が最後かもしれない。そのように思うだけで、この瞬間を出来るだけ大切にしたい気持ちになります。

 本日の箇所はエルサレムの神殿の広場でキリストが叫んでおられる場面です。叫んでおられる内容は要するに「わたしを信じなさい」です。しかし当時の人々、とくに聖書のことを熟知していたパリサイ人と呼ばれる指導者層の人々はキリストを殺そうとしました。罪状は「あなたは自分を本物のキリスト(救い主)だとウソをついて、人々を惑わしている」です。

 もしキリストが詐欺師だったとしたら? わたしは学生の頃にこの問いかけを、とことん思索したことがあります。もしそうなら、キリストは詐欺師として十字架を背負われ、はりつけにされたことになります。死から復活されたこともウソです。弟子たちすべてが口裏を合わせて「キリストは復活された」とウソをついたことになります。弟子たちは世界へ旅立ち、ローマ帝国の迫害のなかで身の危険をおぼえながら、人々に「キリストは復活された」というウソの証言をして回ったことになります。そして彼らのすべてが、自分たちの言っていることはウソだと承知の上で、ウソのために殉教したことになります。

 キリストが詐欺師なら、詐欺師について語る新約聖書もすべてウソとなる。パウロもウソのために命をかけ、ローマ帝国に幽閉され、死んだことになる。強大なローマ帝国は、やがて詐欺師を信じるクリスチャンたちに包まれることになる。その後の欧州の歴史はキリスト教の歴史といってもいいのですが、欧州の歴史はまさにひとりの偉大な詐欺師から始まるウソを信じた者たちの歴史となる。アウグスティヌスも、パスカルも、マルチン・ルターも、カルバンも、ジョージ・ワシントンも、そして今や世界の3人にひとりがキリストという詐欺師にだまされていることになります。さて皆さんは、以上のことを踏まえ、なお「キリストは詐欺師だった」と思いますか。わたしにはとうてい思えません。キリストは詐欺師だったと考えるには、とても無理があると思いませんか。

 さてメメント・モリ(次はないかもしれない)のための最低限の備えは、正真正銘の救い主であるキリストを信じておくことです。聖書は、キリストを信じるだけで救われると告げているのですから。この世にあっては、それぞれが好きなように生きていい。ただキリストを信じておくことです。でないと、死んだ後にたいへんなことになります。



2013年7月7日

(ひと言キーワード)「痛み」

【新約聖書】ヨハネによる福音書7章10~24節

【うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい】。なんとも耳に痛いことばです。キリストのことを知れば知るほど、このお方はご覧になっているところが違うなあとつくづくと思います。本日でも、キリストの視点とパリサイ人たちの視点とは明らかに違うことがわかります。

【この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう?】と、キリストの話を聞いたユダヤ人たちは驚いています。ここでいう学問とは、今でいうところの学歴です。「ちゃんとした律法学者の下で長年勉強して学歴を積んだわけでもないのに、どうしてこれほどの深い知識があるのか?」という驚きです。今でもそうですが、学歴のある人が必ずしも人間として深みをたたえているわけではありません。むしろ学歴そのものが壁となり、学歴ゆえに高慢にもなり、肝心なことが見えなくなってしまうことも多々あります。当時のパリサイ人たちがそうであったかもしれません。彼らは律法の知識にたけており、とてもまじめな人たちでした。ただし、まじめ過ぎました。まじめ過ぎて、掟(規則)を重んじるあまり、人の痛みが見えなくなっていました。

 結局のところ、キリストとパリサイ人が決定的に違うところは、キリストは人の痛みにどこまでも寄り添おうとされる一方で、パリサイ人は掟(規則)にどこまでも寄り添おうとするところです。キリストはいつもまずわたしたちの痛みをご覧になり、痛みに寄り添ってくださる。しかしパリサイ人たちは違う。残念ながら彼らは人の痛みをわかろうとはしない。彼らにとっては掟こそがすべてだからです。

 「正しいさばきをするがよい」とキリストは言われましたが、正しいさばきが実現するには、まず人の痛みが見えなければなりません。人をうわべだけで見て、その人の痛みが見えない限り、正しい判断などできるものではありません。今週のキーワードは「痛み」です。とかく痛みは見えないものです。見えないから、通り過ごしていることが多いと思います。



2013年6月30日

(ひと言キーワード)「時がある」

【新約聖書】ヨハネによる福音書7章1~9節

 【わたしの時はまだきていない】。主イエスの身近の者たちが「こんな田舎でこそこそしていないで、大都会でもっと自分をアピールしたらどうか?」と詰め寄ったことに対して、主がそうお答えになりました。「わたしの時」とは、具体的には受難のことを示しています。すべての人に見捨てられ、十字架におかかりになる時を指しています。主イエスはつねに十字架の死を見すえて歩んでおられました。死を見すえて歩むところに、神の「時」への強い意識が生まれるように思います。

 さて、わたしたちは日常、どれほど神の「時」を意識して歩んでいるでしょうか。そもそも聖書が告げる「時」とは、神さまが与えてくださる最善の時、絶好の時というニュアンスがあります。「時」を強く意識して歩んでおられる主イエスに対して、わたしたちは神の「時」には無頓着で、自分の好きな時に、好きなことをして生きているのが実情かもしれません。【しかしあなたがたの時はいつも備わっている】とは、神の「時」などには無頓着で、いつも好きな時に好きなように歩んでいるわたしたちをご覧になった主イエスが、皮肉をこめて語られたものと思われます。

 自分の人生を振り返って「時」を逸したとか、「時」を無駄にしたと思うことはありませんか。神の「時」は、その人その人に与えられるものですが、何回もかさねて与えられるものではありません。生涯で一度きりの「時」が大半だと思います。少なくともそのように心得ておくほうがいいと思います。

 大いなる祝福として神が与えてくださる「時」を、いかにしてわたしたちは見逃さず、まさに「時」を得て、歩むことができるのでしょうか。主イエスの歩みに大きなヒントがあります。主はいつも十字架の死を見すえて歩まれました。死を見すえて生きる、ここに神の「時」を深く意識した歩みが実現するのではないでしょうか。

 「今、この時が最後かもしれない。次の時はないかもしれない」という死を見すえた緊張感が、神の「時」を逃さない歩みに通じます。今週の説教キーワードは「時がある」です。実際の歩みのなかで、神の「時」を深く意識しつつ、歩んでみたいと思います。



2013年6月23日

(ひと言キーワード)「帰る」

【新約聖書】ヨハネによる福音書6章66~71節

 本日の箇所で聖書は驚くべきことを語っています。「イスカリオテのユダはイエスを裏切ろうとしていた」。この時点では、ユダ本人でさえも愛する主を自分が裏切るなどとは思ってもいなかったでしょう。しかし主イエスはすでにご存じでした。それだけではありません。事態はもっと深刻でした。ユダだけでなく、この時にすばらしい告白をしたペテロでさえも、土壇場で主イエスを裏切り、見捨ててしまいます。主イエスご自身はそのことをすでにご存じでした。ここに主の深い痛みを思います。やがて自分を裏切り、逃げ去ってしまう弟子たちであることを最初からご存じの上で、主は彼らを弟子とし、愛しておられます。

 わたしたちはキリストを信じるきることなどできません。信じ通すことなどできません。気がつけば主のことを忘れてしまっています。また疑います。信仰を捨ててしまうことだってあります。どれほど偉そうに見える牧師であろうが、宣教師であろうが、人間であるかぎり似たようなものです。五十歩百歩です。しかし主は最初からそのようなわたしたちの弱さをすべてご承知です。

 ユダもペテロもキリストを見捨てました。弱い人間でした。しかしユダとペテロには決定的な違いがあります。それはユダはキリストのもとへ再び帰ってくることはありませんでしたが、ペテロは再びキリストのもとへ帰ってきたということです。

 わたしたちは人間です。弱く、愚かで、神を忘れ、神に背を向け、いつも自分勝手な存在です。これはどうしようもありません。どんなにがんばってみても、神のようになれるものではありません。そもそも、キリストはわたしたちが聖人君子のようになることなど求めてはおられません。クリスチャンだって、しょせんは人間です。ユダやペテロのように、キリストを見捨ててしまうこともあります。信じられなくなるがあります。誰にでもあります。

 キリストを裏切った後、ユダは帰ってはきませんでしたが、ペテロは再び帰ってきました。けっして忘れてはなりません。キリストはいつもわたしたちが帰ってくるのを待っておられます。あの放蕩息子の父親のように。キリストのもとへ帰るか、帰らないか。信仰とは、何度も、何度でも、キリストのもとへ帰ることです。恥を忍んで帰ることです。帰ってくる者を、キリストはいつも愛し、ゆるし、祝福でつつんでくださいます。
 今週のキーワードは「帰る」です。



2013年6月9日

(ひと言キーワード)「食べる」

【新約聖書】ヨハネによる福音書6章52~65節

 本日の箇所で、食べること(飲むことも含めて)に関連した表現が12回も登場しています。そもそも食べるとは、わたしたちにとって生きることであり、食べているということはわたしたちが生きている証しでもあります。現代は口から食べることが出来なくなっても点滴などの方法で体内に栄養を取り入れる手段がありますが、昔は口から食べることが出来なくなるとは死を意味していました。食べることは、まさに生きていく上で本質的なことであるとあらためて思います。 

 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命がある」と語っておられます。もちろんこれは主イエス独特の表現ですが、当時これを聞いた多くの人々は混乱しました。なぜならユダヤ人たちとって、血を飲むことは律法で固く禁じられていましたし、肉を生のままで食すること律法違反でした。かりに比喩であろうと、主イエスがこのように語られたとき、ユダヤ人たちはものすごい嫌悪感を抱いたに違いありません。「これはひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」と彼らは叫びましたが、これも当時の事情を考えると無理もないことでした。
 
 主イエスがここで言われたのは、実際の肉や血のことではありません。「言葉」を食材に見立てて語っておられます。言葉は聞くだけでは、まだ自分の身にはなっていません。実際の食べ物と同じで、いくら美味しそうな食べ物が目の前にあっても、自分の口に入れて食べてみない限りは自分の身にはなりません。言葉もただ聞くだけでは、「そんなものかなあ」で終わってしまいます。

 言葉は味わい、食べてこそ、自分の身になります。言葉を食べるとは、言葉に生きることです。言葉に自分の全存在をかけることです。結局のところ、主イエスを信じるとは、主の言葉を信じることであり、その意味で主イエスは「わたしの肉(言葉)を食べ、わたしの血(言葉)を飲むこと」と語っておられるのです。
 
 繰り返しますが、主を信じるとは主の言葉を食べることであり、主の言葉に自分の全存在をかけて生きることです。今週のキーワードは(主の言葉を)「食べる」です。主の言葉をただ聞くだけではなく、味わい、食べたいものです。